レイネアへ着任して三日目。
リナは、着任後初めて基地の外へ出た。
もっとも、休暇ではない。
ユリウスに連れられて、基地の近くにある補給施設へ向かうだけの外出だった。
通信機器の予備部品を受け取るついでに、基地周辺の主要道路を覚えることも兼ねている。
乗っているのは軍用の小型車両。運転はユリウスが担当している。
途中、道路の脇にある建物の前で、子供たちが集まっているのが見えた。
学校だろうか。
入口に立つ大人が、子供たちの鞄を確認している。
「……学校、普通にやってるんですね」
リナが呟いた。
「ええ。比較的安全とされる区域では、学校も授業を再開しています」
「でも、危なくないんですか?」
「危険がないとは言えません。ただ、いつ終わるか分からない戦争のために、何年も教育を止めるわけにもいかないのでしょう」
リナは窓の外を見つめた。
車両は交差点で停止する。
道路の反対側では、軍服姿の男が小さな女の子に何かを渡していた。
パンの包みだった。
女の子は嬉しそうに受け取り、母親らしき女性のところへ走っていく。
その背後には、古い建物の壁に大きな砲撃痕が残っていた。
「ユリウスさん」
「はい」
「戦争って、いつ終わるんでしょうか」
ユリウスはすぐには答えなかった。
信号が青になり、車両が動き出す。
「それが分かれば、私ももう少し安心して眠れるのですが」
「……ですよね」
「少なくとも、我々だけで決められることではありません」
それから、ユリウスは少しだけ口調を柔らかくした。
「ですが、今日のような日を続けるために、我々ができることはあります」
リナは頷いた。
その言葉が、少しだけ胸に残った。
*
午後、司令部の作戦室。
アレックスは壁面に映された地図を見ていた。
レイネア北西部。
工業区画を中心として、複数の交通路が交差する地域だ。
かつては機械工場と物流倉庫が集まる工業地帯だったが、戦争の長期化に伴い、一部は軍の補給拠点として利用されている。
地図の北側には、敵対国家との係争地域が広がっていた。
「今朝の報告では、向こうの偵察活動が増えています」
司令部の参謀が説明した。
「北西区画への浸透経路を探っている可能性があります」
「目標は補給施設ですか」
アレックスが尋ねた。
「その可能性が高い。鉄道の貨物分岐点を押さえられれば、港から内陸へ向かう物資の移送に支障が出ます」
参謀は地図の一部を拡大した。
「ただし、共和国軍の現地警備隊が対応中です。現段階で駐留機動部隊の出動予定はありません」
「了解しました」
「第四小隊は、これより即応待機に移行してください」
「了解しました」
会議が終わり、アレックスは作戦室を出た。
廊下では、数人の軍人が小声で話していた。
「また北西か」
「あそこは何回取り返せばいいんだろうな」
「上が決めることだろ」
アレックスは、その会話を横目に通り過ぎた。
貨物分岐点。
避難経路。
周辺の住宅地区。
その三つが、地図の上でほとんど重なっている。
万一、敵がそこまで侵入した場合。
どの施設を守り、どこを放棄するか。
判断に使える時間は、そう長くないだろう。
*
十九時四十二分。
基地内の出動警報が鳴った。
最初は、短い電子音が三回。
続いて、施設内の照明が黄色へ変わる。
『第4独立機動兵器小隊、出撃準備態勢へ移行。繰り返す、第四小隊は出撃準備態勢へ移行』
リナはベッドから顔を上げた。
「えっ……?」
端末には、優先度の高い作戦通知が表示されている。
共和国北西部。
共同管理区域。
敵対国家の武装部隊による侵入を確認。
周辺施設に民間人残留の可能性あり。
リナの心臓が、一気に速くなった。
訓練ではない。
今度こそ、本当に。
もう一度、放送が響く。
『第四小隊、全操縦士は格納庫へ集合。機体起動準備を開始せよ』
リナは立ち上がった。
パイロットスーツを手に取る。
指先が、少し震えていた。
それを無理やり押さえつけるように、袖へ腕を通す。
「大丈夫……」
誰もいない部屋で、呟いた。
「大丈夫だから」
けれど、その言葉は少しも心を落ち着かせてくれなかった。
*
格納庫では、既に整備班が走り回っていた。
金属音。
動力系の起動音。
弾薬を運ぶ搬送車の警告音。
普段と同じ場所なのに、まるで別の施設のようだった。
「リナ!」
ミレイユが手を振った。
「こっち!」
「は、はい!」
「落ち着いて。まだ出撃命令じゃないから」
「で、でも……」
「まず装備確認。あんたの機体、ちゃんと準備してあるから」
言いながら、ミレイユは自分の機体へ向かっていく。
ノアは既に機体の足元で整備兵と話し込み、ユリウスは通信端末を耳に当てていた。
その声が、騒音の合間から聞こえてくる。
「敵機の正確な数は?」
『現在確認できているのは四機。追加の熱源が二つ。識別できていません』
「共和国軍の部隊は?」
『現地警備隊が後退中。通信状態は不安定です』
「了解。位置情報をこちらへ転送してください」
ユリウスは端末を操作し、アレックスへ報告を始めた。
「北西工業区画に敵機が侵入。現地警備隊と交戦しています。出撃許可待ちですが、状況は悪化しています」
アレックスは情報を確認している。
リナは少し離れた場所で、その光景を見ていた。
誰も騒がない。
誰も大声で怒鳴らない。
ただ、自分の仕事をしている。
さっきまで冗談を言い合っていた人たちが、今はまったく違う顔をしていた。
「隊長、敵が貨物分岐点へ向かっているなら、先に西側へ回れます」
ミレイユが言った。
「俺も同感だ。倉庫通りを押さえりゃ射線が取れる」
ノアが続ける。
「ただ、南側の道路にはまだ避難車両がいる可能性があります」
ユリウスが地図を拡大した。
「道路を横断する形で火力を使えば、民間車両を巻き込む危険があります」
アレックスは少し考えた。
「ユリウス、共和国軍の現地指揮所へつないでくれ。避難車列の現在位置を確認したい」
「了解」
ユリウスは通信回線を切り替え、現地指揮所への接続を試みた。
短いやり取りの後、再びアレックスへ向き直る。
「現地指揮所からです。南側道路に避難車列が残っているとのことですが、現在位置は確認できていません。最後の報告は十数分前だそうです」
「了解。車列の位置が判明するまで、南側道路へ射線を通すな。まずは敵の進路を押さえることを優先する」
「了解しました」
アレックスは地図に視線を戻した。
「ノア、出撃後はリナと組んでくれ。西側の監視を頼む」
「ああ」
「ミレイユは先行。ただし、単独で交戦を始めるなよ」
「……了解」
ミレイユは、ほんの少し残念そうだった。
アレックスはリナへ視線を向けた。
「セルヴァ」
「は、はい!」
「初めての実戦になる。まずは指示された位置を維持して、通信を切るな」
「了解しました!」
「判断に迷ったらすぐに報告しろ。独断で隊形を離れるな。何か起きたら、まず状況を知らせてくれ」
「はい!」
リナは自分の機体を見上げた。
五メートルの鉄の巨人。
その胸部には、既に操縦席へ続く昇降用の足場が設置されていた。
自分の足で、その階段を上る。
一段。
二段。
三段。
途中で、思わず振り返った。
格納庫の向こうには、夜の街が広がっている。
港の灯り。
住宅街の明かり。
遠くに見える、商業施設の看板。
どこにでもある、人の暮らす街。
その窓の向こうでは、きっと今も普段どおりの夜が続いているのだろう。
そこに住む人たちは、今も食事をしているのかもしれない。
テレビを見ているのかもしれない。
明日の予定を話しているのかもしれない。
リナは前を向いた。
操縦席へ身体を滑り込ませる。
ハーネスを締める。
操縦系統を起動する。
正面のモニターが、順番に明るくなった。
視界の中央に、小さな文字が表示される。
――PILOT AUTHENTICATION COMPLETE.
――LINA SELVA.
――HERON-5.
――SQUAD LINK:5/5 CONNECTED.
五機。
全員、通信接続済み。
リナは息を吸った。
無線から、ミレイユの声が聞こえてくる。
『ヘロン5、こちらヘロン2。聞こえる?』
「はい、聞こえます!」
『よし。じゃ、よろしくね』
続いてノア。
『五番機、変に気張るなよ。無理に前に出る必要はねえからな』
ユリウスが割り込む。
『こちらヘロン4。隊内通信良好。全機、作戦データの受信を確認してください』
画面に新しい情報が映し出される。
北西工業区画の地図。
敵機の推定位置。
民間施設の配置。
そして、今回の作戦目標。
――敵部隊の進行阻止、および残留民間人の避難支援。
リナは、その文章を見つめた。
誰かを倒すための作戦。
ではなく。
誰かが逃げるための時間を作る作戦。
今朝、車窓から見た街並みが頭に浮かんだ。
あの街に暮らす人たちの顔を、リナはほとんど知らない。
それでも、彼らがまだそこにいることだけは知っている。
『ヘロン1へ。司令部より出撃許可が下りました』
ユリウスの声。
『全機、作戦開始可能です』
格納庫の正面ゲートがゆっくりと開いていく。
夜風が、整備灯の下へ流れ込んだ。
五機の機体が起動する。
重い駆動音が重なり、格納庫の床が低く震えた。
リナは操縦桿を握り直した。
胸が苦しいほど、心臓が鳴っていた。
それでも。
「ヘロン5、リナ・セルヴァ……」
震える声を、なんとか押さえる。
「出撃準備、完了しました」
通信回線の向こうから、アレックスの声が返ってきた。
『了解。ヘロン各機、出るぞ』
五機の人型兵器は、夜のレイネアへと歩き始めた。
*
同じ夜。
北西工業区画の一角で、敵国軍の若い通信兵が、車両の窓から街の灯りを見ていた。
停車した輸送車の車内には、疲れ切った兵士たちが座っている。
そのほとんどが、何時間もまともに眠っていなかった。
『第三小隊、応答しろ』
無線が鳴る。
「こちら第三小隊」
『南側道路の警備隊が後退した。予定通り、貨物分岐点を確保する』
「了解しました」
『可能な限り施設を破壊せずに押さえろ。あそこは我々にも必要だ』
通信兵は復唱した。
運転席の男が、低く笑った。
「何日持つんだろうな」
「何がです?」
「貨物分岐点だよ。前に取ったときは二日で取り返された」
「……今度は違うんじゃないですか」
「だといいけどな」
男は窓の外を見た。
道路の向こうには、まだ営業している小さな食料品店があった。
看板の明かりが、夜の舗道に落ちている。
「せめて、今夜のうちに帰りてえな」
通信兵は答えなかった。
車両の後方で、戦闘用人型機の駆動音が響いた。