夜の工業地帯は、思っていたよりも暗かった。
街灯の半分は消え、工場の建物は黒い塊のように並んでいる。
遠くで何かが爆発した。
遅れて、低い音が届く。
リナは反射的に肩をすくめた。
『ヘロン5、速度を落とせ』
ノアの声だった。
「りょ、了解!」
『俺より前に出るな。ここから先は射線が通る』
リナはスラスター出力を下げた。
機体が減速し、地面を滑って停止する。
普段の訓練では、停止位置が多少ずれても叱られるだけだった。
今は、数メートル先に何がいるかも分からない。
『ヘロン4、現地警備隊の位置は?』
アレックスが尋ねる。
『工業区画南端へ後退中です。避難車両三台が南側道路から東側の検問線を目指しています』
『敵は?』
『確認済み四機。さらに二機の可能性あり。北側の建物に遮られており、識別できていません』
『了解。南側道路への射撃制限は継続する。避難車両の位置を確認するまでは、あの道路へ射線を通すな』
『了解しました』
『ヘロン2、先行して北側を確認。ヘロン3と5は西側を警戒。ヘロン4は東側の避難経路を見てくれ。俺は中央を押さえる』
『了解!』
ミレイユの機体が前へ出た。
スラスターが短く噴射し、五メートルの機体が道路を滑るように加速する。
交差点へ到達する直前、姿勢を変え、倉庫の陰へ飛び込んだ。
直後、激しい発砲音。
『接敵! 前方二機!』
リナは画面を見た。
敵機を示す赤い表示が二つ、素早く移動している。
『一機はライフル、もう一機は……あ、こいつ近接装備じゃん』
ミレイユの声が少し弾んだ。
再び銃声。
『向こうが撃ってきた! 反撃するよ!』
『了解。位置は維持しろ。深追いするな』
『分かってる!』
短い間隔で、散弾銃の発砲音が響いた。
ミレイユの機体が倉庫の角から身を乗り出し、接近してきた敵機に散弾を浴びせている。
敵機が後退する。
『隊長、追っていい?』
『まだだ。位置を維持しろ』
『……了解!』
リナは、いつの間にか息を止めていることに気づいた。
ゆっくり息を吐く。
手元の表示を確認する。
右腕ライフル、正常。
左腕ショットガン、正常。
弾薬残量、異常なし。
機体損傷、なし。
リナの機体は、基本装備を中心とした標準的な構成だった。
近距離用のショットガンも備えているが、この距離で敵を正確に狙うなら、使うべきはライフルだ。
装備にも、機体にも、異常はない。
なのに、指先だけが落ち着かなかった。
『ヘロン5』
ノアが呼んだ。
「はい!」
『俺が右を見る。お前は左の通路だ。奥に何か見えたら、撃つ前に報告しろ』
「了解しました!」
リナは機体を動かした。
建物の角まで移動する。
左側の通路を確認する。
何もいない。
奥に停められた貨物車両。
道路脇の空き箱。
散乱した金属片。
訓練で見たような標的は、どこにもなかった。
「ヘロン5、左側、異常ありません」
『了解。引き続き監視』
しばらく、何も起こらなかった。
十秒。
二十秒。
遠くでは発砲音が続いている。
ミレイユが交戦している。
自分は、ただ待っている。
こんなことでいいのだろうか。
何かしなければいけないのではないか。
リナがそう思ったとき。
通路の奥で、何かが動いた。
「あっ……!」
灰色の機影。
敵機だ。
建物の陰から、ゆっくりと姿を現す。
右腕にはライフル。
こちらには、まだ気づいていないようだった。
リナは照準を合わせた。
敵機まで、およそ六十メートル。
訓練なら、外す距離ではない。
指が射撃トリガーへかかる。
けれど。
あの中には、人が乗っている。
そう考えた瞬間、指が動かなくなった。
『ヘロン5、状況報告』
ノアの声。
「……敵機、確認しました」
『位置は?』
「左側通路、奥……距離、およそ六十メートルです」
『武装は?』
「ライフルです」
『こっちを見てるか?』
「……いえ、まだ」
『了解。監視を続けろ。勝手に撃つなよ』
ノアは、それ以上何も言わなかった。
リナは照準を維持した。
敵機が一歩、前へ出る。
その足元に、何か小さな影が見えた。
人だった。
作業服を着た男が、建物の入口から飛び出してくる。
敵機の足元を通り、道路を横切ろうとしていた。
「民間人!」
リナは叫んだ。
「敵機の足元、民間人がいます!」
『確認した。撃つな!』
ノアの声。
その瞬間、敵機の頭部がこちらを向いた。
ライフルが持ち上がる。
リナは反射的に機体を後退させた。
発砲音。
建物の角が砕け散った。
「っ!」
機体の警告音が鳴る。
装甲への破片衝突。
軽微な損傷。
それでも、リナは一瞬、何をすればいいのか分からなくなった。
『ヘロン5! 遮蔽へ戻れ!』
ノアが叫んだ。
リナは操縦桿を倒した。
機体が急加速し、建物の陰へ滑り込む。
次の銃撃が、さっきまでいた場所を通り抜けた。
『セルヴァ、聞こえるか!』
「は、はい!」
『損傷は?』
「軽微です! 行動可能です!」
『よし。敵から目を離すな。俺が援護する』
ノアの機体が移動した。
大型の機関砲を構え、敵機の進路を押さえる位置につく。
だが、すぐには発砲しなかった。
『民間人はまだいるか?』
リナは映像を拡大した。
先ほどの男は、建物の入口から奥へ走り込んでいた。
「建物へ退避しました! 道路上には見えません!」
『了解。こっちからも確認した。敵機を下がらせる』
ノアの機関砲が火を噴いた。
短い連射。
敵機の上半身付近を狙った弾丸が装甲を叩き、火花を散らす。
敵機が慌てて後退する。
ノアは民間人の退避した建物へ射線が重ならない位置から、敵機の進路だけを押さえていた。
『ヘロン5、左側から動けるか?』
リナは画面を見た。
敵機はノアの射撃を避けるため、建物の陰へ移動しようとしている。
先ほどの民間人は、もう道路上にいない。
「……動けます!」
『敵の右脚を狙え。無理に追うな』
「了解!」
リナは機体を前へ出した。
ノアの位置を確認する。
標的の背後に民間人はいない。
射線も重ならない。
右腕のライフルを構えた。
敵機がこちらに気づいた。
ライフルを向けようとする。
訓練なら、もう撃っている。
撃て。
撃たなければ、向こうが撃つ。
リナは射撃トリガーを引いた。
銃声。
反動。
敵機の右膝付近に火花が散る。
弾丸が関節部の装甲を削り、内部の駆動機構が露出した。
リナは続けて引き金を引いた。
二発目が同じ箇所を捉える。
関節から火花と白い煙が噴き出し、敵機の姿勢が大きく崩れた。
機体は建物の壁へ衝突し、そのまま膝をついた。
衝突の拍子に右腕が壁へ叩きつけられ、保持していたライフルが地面へ落ちる。
リナは照準を維持した。
もう一発。
撃てば、確実に動きを止められる。
けれど。
『ヘロン5、射撃停止』
アレックスの声だった。
『敵機は武装を落としている。攻撃動作も止まった。撃つな。監視を維持しろ』
「……了解しました」
敵機の胸部装甲が開いた。
中から、人影が這い出してくる。
操縦士だった。
片腕を押さえながら、地面へ降りようとしている。
うまく立てないのか、その場に膝をついた。
自分と、同じくらいの年齢に見えた。
リナは、その姿をしばらく見ていた。
『ヘロン5、こちらヘロン1。聞こえるか』
「……はい」
『共和国軍に敵操縦士の位置を伝えた。収容は向こうに任せる。お前はヘロン3と合流しろ』
「了解しました」
機体を動かす。
倒れた敵機が、モニターの端へ流れていく。
リナは、振り返らなかった。
*
『敵二機、北側へ後退!』
ミレイユの声が響いた。
『こっちは追えるよ!』
『追撃中止。東側の避難車列を優先する』
アレックスが指示した。
『ヘロン4、状況は?』
『避難車両三台中、二台が東側の検問線を通過。最後の一台が道路上で停止しています』
『故障か?』
『不明です。共和国軍の護衛車両が接近中ですが、敵の射線に入る可能性があります』
アレックスは地図を確認した。
北側で後退した敵二機は、貨物分岐点へ向かう経路上にいる。
敵にそこを取られれば、共和国軍の後退経路にも影響する。
追撃する理由は、十分にあった。
右肩の誘導ミサイルを使えば、後退する敵機を遠距離から攻撃することもできる。
だが、その先には倉庫群があり、南側には避難経路がある。
周辺の民間人の位置が完全には把握できていない状況で、誘導弾を撃ち込むわけにはいかなかった。
アレックスはミサイルの使用を見送った。
『ヘロン2、北側の道路を監視。敵が戻ってきたら足を止めろ』
『了解!』
『ヘロン3、5を連れて東側へ。避難車両を確認』
『了解した』
『ヘロン4は共和国軍と連絡を維持。俺は中央の敵を抑える』
命令が飛ぶ。
各機が動き始める。
リナはノアの後ろについて、工業区画の東側へ向かった。
道路の先で、車両が一台停止していた。
小型の民間輸送車。
前部から煙が上がっている。
その近くで、数人の人間が慌ただしく動いていた。
『あれか』
ノアが呟いた。
『ヘロン5、周囲を警戒しろ。俺が確認する』
「了解!」
ノアの機体が車両へ近づく。
人々が一斉に顔を上げた。
そのうち一人が、両手を振って何かを叫んでいる。
外部音声が拾った。
『運転手が挟まってる! 動かせないんだ!』
ノアが低く舌打ちした。
『ヘロン4、救助が必要だ。共和国軍の歩兵をこっちへ回せるか?』
『照会します』
リナは周囲を見渡した。
道路の先は暗い。
建物が連なり、視界が悪い。
遠くで発砲音が響く。
アレックスたちはまだ戦っている。
『ヘロン5』
「はい!」
『東側を見てろ。絶対に目を離すな』
ノアの声が、今までより低かった。
『俺は車両の方を見る』
「了解しました!」
リナはライフルを構えた。
暗い道路を見つめる。
数秒後、センサーに反応が出た。
今度は、ノアに呼ばれる前に通信を開いた。
「ヘロン5、敵性熱源確認! 東側道路、敵機一、接近中!」
『了解。距離を取れ。射線を確保する』
ノアの機体が、車両と敵機の間へ移動した。
敵機が姿を現す。
リナは照準を合わせた。
左腕には近距離用のショットガンもある。
だが、避難車両のすぐ近くで散弾を使えば、標的以外へ被害を及ぼす危険がある。
リナは右腕のライフルを選んだ。
ただし、すぐには撃たない。
味方の位置。
民間車両。
射線。
全部を確認する。
「ヘロン5、右側から援護します!」
『了解。民間車両への射線を外せ』
「了解!」
リナは機体を移動させた。
短いブーストで道路脇へ回り込み、機体を停止させる。
敵機の背後には工業区画の防護土堤がある。
避難車両のいる方向へ射線は通らない。
ノアの機体とも重ならない。
今度は、撃てる。
「ヘロン5、射撃します!」
発砲。
敵機の肩装甲に命中。
敵機がよろめき、ライフルをこちらへ向け直す。
その間にノアが位置を変えた。
民間車両を背後に置かない角度から、機関砲を短く連射する。
敵機の周囲で火花が弾けた。
敵機は慌てて建物の陰へ後退する。
『敵は下がった。ヘロン5、追うなよ』
ノアが言った。
『こっちも救助が先だ』
「了解!」
リナは照準を維持したまま、敵機が消えた通路を監視した。
やがて共和国軍の歩兵が到着し、車両から負傷した運転手を救出した。
リナは機体の中から、その様子を見守っていた。
運転手は担架へ乗せられ、護衛車両に運び込まれた。
走行不能になった輸送車は、その場に残すことになった。
乗っていた人々は共和国軍の車両へ移り、検問線へ向けて退避していく。
その中に、一人の少女がいた。
泣いている。
母親らしき女性が、何度も頭を撫でている。
リナは、何も言えなかった。
ただ、機体のセンサーを周囲へ向け続けた。
今度こそ、見落とさないように。
*
午後十時十八分。
第四小隊は、作戦区域から撤収した。
共和国軍の増援部隊が貨物分岐点へ到達し、施設の確保を確認。
敵部隊は北西へ後退。
確認された敵機四機のうち、一機は行動不能。残る三機は撤退した。
当初検出された未識別熱源二つについては、最後まで正体を特定できなかった。
避難車両三台のうち、二台は自走して検問線を通過。
残る一台は放棄されたが、乗員は共和国軍によって救出された。
戦術的には、任務達成だった。
帰投中の無線は静かだった。
ユリウスは司令部との通信に集中している。
アレックスは各機の状態を確認していた。
『ヘロン5、機体に異常はないか』
「はい。軽微な損傷だけです」
『了解。帰ったら整備班に確認してもらおう』
「……はい」
少し迷ってから、リナは口を開いた。
「隊長」
『どうした』
「私……ちゃんと、できていたでしょうか」
通信の向こうで、少し間があった。
『前半は報告が遅れたな。敵機を発見してから、こっちが確認するまで時間がかかってる』
「……はい」
『それに、最初に撃たれたときは遮蔽へ戻るのも遅れた。ああいう場面じゃ、少しの遅れが命取りになる』
「……はい」
『だが、東側では改善してた。民間車両を巻き込まずに敵を止められたのは良かった』
リナは、右手の操縦桿を握り直した。
褒められたことよりも、敵機を最初に発見したときの沈黙が頭に残っていた。
照準の向こうに、人がいた。
あの操縦席にも、自分と同じように誰かが座っていた。
分かっていたことのはずだった。
訓練でも、教科書でも、何度も教わってきた。
それなのに。
実際に引き金を引くまで、自分は何を考えていたのだろう。
『まだ直せるところはある。明日、一緒に記録を見よう』
「……了解しました」
アレックスの声は、それ以上何も付け加えなかった。
リナは正面モニターを見つめた。
画面には、夜のレイネアが映っている。
港の灯り。
道路の街灯。
住宅街の窓から漏れる、小さな光。
出撃したときと、同じ景色だった。
けれど、リナにはもう、まったく同じものには見えなかった。