戻ってきた返事は、リナが期待していたものとは違った。
『あそこにいるのだけだと思うなよ。こっちは、機体を下げるたびに次が出てきた』
先ほど分岐を通った、友軍機の操縦士だった。
ユリウスがつないだ通信を聞きながら、リナは作業道の奥を見張った。岩の陰から、敵はまだ出てこない。
『戦車も何両も来てる。谷沿いの道路を押してきて、その横を歩兵が上がってくるんだ。砲撃をしのげば済むと思ってたら、陣地の脇まで来てやがった』
『どこまで見た?』
アレックスが聞いた。
地図に、相手が最後にいた陣地と、敵の進んできた道が示される。分岐よりずっと北だった。そこから味方が下がってきた道を、リナは目でたどった。
『この辺りだ。数は出せん。SMWも戦車も、見えてた連中だけじゃないはずだ』
『歩兵は山側にも回っているのか』
『ああ。道路だけ見てると横からも来る。そっちも気をつけろ』
リナは、作業道を挟む斜面へ視線を上げた。
岩も、低い木も、さっきと同じだった。その間を人が通れるかどうか、今度はそこが気になった。
『航空機は?』
『俺たちは見てない。そもそも上のことまで見てる余裕はなかったがな』
『分かった。助かったよ。あとはこっちで引き受ける』
『こっちこそ。置いてきた車列を頼む』
通信の向こうで別の声が呼び、男は短く答えて切った。
しばらく、誰も口を開かなかった。
『航空機は控えてるんでしょうか。こっちの対空部隊を警戒して』
ユリウスの言葉に、アレックスが応じた。
『かもしれないな。だが、こっちが航空支援を出したらどうなるかは分からん。来ないと決めてかかるな』
『了解。報告を方面軍へ回します』
『隊長。これ、俺たちだけで道を押さえてる場合か?』
『だから車列を急がせる。ヘロン3、南へ下がるときに使える場所を見ておいてくれ。ヘロン2と5は、山側の歩兵にも注意』
『了解。リナ、岩の上も見て。あたしは入口を押さえとく』
『了解です。』
返事をしてから、リナはライフルを少し上げた。
早く帰りたいと思っていた。
けれど、帰る道を使うために、まずここにいなければならない。
*
最初のトラックが曲がり角から出てきたとき、リナは思わず前へ身を寄せた。
泥にまみれたタイヤが、削れた路面をゆっくり越えてくる。その後ろにも、明かりを落とした車が続いていた。
止まらないで。
先頭が分岐へ入るまで、そう思って見ていた。
『ヘロン5、作業道は?』
隊長の声に、慌てて正面へ目を戻す。
『動きはありません』
言いながら、さっきまで見ていなかったことが気になった。
岩の両側をもう一度確かめる。ミレイユ機の銃口は、入口へ向いたままだった。
車列が抜けたあと、工兵の車が下がってきた。土嚢の兵士たちも荷台へ乗り込み、最後の一人が扉を叩く。
エンジン音が遠ざかると、分岐は急に広くなった。
誰も走っていない道路を、今度は第四小隊だけが見張った。
やがて、ユリウスから連絡が入った。
『後退部隊と車列、前方拠点への収容を確認。工兵も到着しています。残留の報告はありません』
リナは肩を下げかけた。
続けて入った呼び出しに、ユリウスが応じる。方面軍からだった。短いやり取りのあと、アレックスへ命令が伝えられた。
『ヘロンは分岐を離脱し、前方拠点へ帰投。補給と点検を済ませ、次の指示まで待機です』
『了解。輸送班が待っている方だな』
『はい。受け入れ側にも連絡します』
『やっとかよ』
『ノア、まだ着いてないって』
『分かってる。先に言っただけだ』
リナも、ほんの少し口元を緩めた。
あの作業灯の下まで戻ればいい。来るときに通った道だ。
『ヘロン4、先に南へ。ヘロン2と5は平場を出ろ。俺とヘロン3が見ている』
ユリウス機が動き出す。
リナはライフルを下げずに、ミレイユが振り返るのを待った。
『リナ、あたしから――』
道路で何かが弾けた。
白い光が走り、土嚢の端が吹き飛ぶ。続いて北の角で発砲が重なった。
アレックス機が上体を低くし、道路脇へ滑り込む。
『北から撃ってる!』
ノアの支援火器が応じた。
リナの肩が座席へ押しつけられる。機体を下げたのは自分なのに、何が起きたのか、音の方が一拍遅れて分かった。
『帰るって言ってんのに!』
ミレイユの声が鋭くなる。
『ヘロン2と5は、そのまま南へ抜けろ。ヘロン3、撃ちすぎるな。俺が出る』
アレックスが道路の北へ銃口を向けた。
ミレイユ機が道路へ下りる。リナもその後ろに続き、排水溝をまたいだ。着地の衝撃が脚から伝わってくる。
前方にユリウス機。その手前の曲がり角で、ミレイユが機体を返した。
『リナ、あたしの後ろまで来て! 山側を見てて!』
『了解っ!』
リナはその脇を抜け、少し南で振り向いた。来た方向が正面に戻る。
ミレイユは道路の山側に寄り、分岐を見ていた。リナはそこより後ろから、道路沿いの斜面へライフルを向ける。
『下がる道、見てるよ。隊長たち来て!』
ノアが射撃を止め、こちらへ下がってきた。
その後ろを、アレックス機が追う。二機が角を越えてから、ミレイユも後ずさった。
誰かが撃ち、誰かが動く。さっきまで通していた車列の最後尾に、今は自分たちがいた。
*
北の道路で、また銃火が瞬いた。
ミレイユが撃ち返す。その間にも、山側の木々の間を、小さな影が動いていた。
『斜面にも歩兵! リナ、そっちを見て!』
リナは銃口を山側へ向けた。
分岐の方から、人影が木の陰を渡ってくる。道路を下がる自分たちを追うように、斜面を伝っていた。
その一人が、木の根元で膝をついた。
肩に担いだ筒が見える。
『ミレイユさん、上! 発射器!』
ミレイユ機が道路側へ身を引いた。
筒の先が、その動きを追う。
リナからは、まだミレイユ機の肩が重なっていた。
このままでは撃てない。
谷側へ一歩ずれ、銃口を上げる。射線からミレイユ機が外れた。
リナは引き金を引いた。
着弾とともに、兵士の姿が土煙に消えた。
筒が斜面を転がって落ちる。
煙が薄れ、木の根元に残ったものが見えた。
リナは息を止めた。
さっきまで、動いていた。
ミレイユを狙っていた。だから撃った。
自分が撃った。
『リナ、下がって!』
返事をしようとして、口だけが動いた。
画面から目を離せなかった。
『リナ! 止まるな!』
ミレイユが北へ撃ち返している。
下がるはずの機体が、自分を待って止まっていた。
『あたしを見て! 南へ下がるんだよ!』
『……りょ、了解っ!』
リナは後方の映像を確かめ、機体を動かした。
木の根元が画面から外れる。
それでも、見えたものは頭から消えなかった。
『ヘロン1へ、ヘロン2とヘロン5は後退する! 次の角で援護して!』
『了解。ヘロン3、二機を通してから撃て』
『任せろ』
リナは後方の映像で角を確かめた。
ミレイユより先へ下がる。曲がった先にノア機が待っていた。
『そのまま抜けろ!』
リナとミレイユが射線から外れると、ノアが北へ撃った。
アレックスはさらに南の曲がり角から山側を警戒し、ユリウスが前方拠点へ受け入れを求めていた。
止まらずに動けた。
けれど、さっきの手が、目の前の画面にまだ残っているようだった。
『リナ。返事して。ついてこられる?』
『……はい』
『次は、呼んだらすぐ返事。聞こえてるか分かんないから』
『はい。すみません』
『謝るのはあと。足元、見て』
リナは映像を確かめた。
道はまだ続いていた。
*
前方拠点からの援護射撃が聞こえたときも、リナはまだ北を見ていた。
道路脇の陣地から、分岐へ続く尾根を撃っている。ユリウスの誘導に従って、その射線を避け、五機は集積場へ入った。
後方で銃声が続いた。ここまで来れば聞こえなくなると思っていた音だった。
作業灯の下には、先ほど通したトラックが並んでいた。
兵士が荷台から降り、別の兵士が担架を運んでいる。第四小隊の輸送車は斜面沿いに残っていたが、積み込みを促す人はいなかった。
『ヘロン、五機とも帰投。点検を頼む』
アレックスが告げた。
リナは指示された場所で機体を止め、ライフルを安全な向きへ下げた。
操作は終えられた。終えてから、手をどこに置けばいいのか分からなくなった。
ハッチを開くと、冷たい空気が顔に触れた。
外へ出たところで、膝がわずかに揺れる。手すりを握り直してから足場へ下りた。
ミレイユが下で待っていた。
「リナ、こっち。通り道、空けよ」
「はい」
整備兵が二人の横を駆けていく。
リナはミレイユについて、仮設の待機室へ入った。長椅子には誰かが脱いだ上着が置かれ、床に泥の足跡が重なっていた。
壁際へ座ると、ミレイユが水を渡してくれた。
「飲める?」
「……はい」
ふたを開けたが、口へ持っていく前に止まった。
「ミレイユさん」
「ん?」
「あの人、あたしが」
続きを言おうとすると、喉の奥が詰まる。
ミレイユは隣に腰を下ろした。すぐには何も言わなかった。
「……見てたよ」
リナは容器を両手で挟んだ。
見ていたのなら、何を言えばいいのだろう。
撃たなければミレイユが撃たれていた。それは、引き金を引く前から分かっていた。
だから撃った。
分かっていたのに。
「止まって、すみませんでした」
「うん。あそこでは止まってほしくなかった」
ミレイユの声は低かった。
「でも、今は座ってていいから」
リナは頷いた。
水を一口飲む。冷たいはずなのに、味も温度もよく分からなかった。
外で重い足音がした。反射的に肩をすくめると、ミレイユが扉の方を見た。
整備のために、機体を動かしているだけだった。
「まだ乗るんですか」
聞いてから、何を聞いているのか自分でも分かった。
「あたしも、次はまだ聞いてない」
ミレイユは扉から目を戻した。
「来たら呼ぶ。勝手に行かないから」
リナはようやく、水の容器を膝へ下ろした。
*
アレックスとユリウスが待機室へ入ってきたのは、そのあとだった。
ノアも一緒だった。入口で靴底の泥を落としかけ、諦めて空いている椅子へ座る。
「俺のは補給が先だ。あと、左脚を見てもらってる」
「動きが悪いのか?」
「さっきから引っかかる。整備に言った。撃たれたせいかは、まだ分からん」
「分かった。終わるまで休んでくれ」
アレックスはリナを見た。
「セルヴァ。怪我はないか」
「ありません」
「……気分が悪くなったら言ってくれ。軍医もいる」
「……了解しました」
普段のように答えたつもりだったが、隊長は少しだけ目を留めた。
それ以上は聞かず、ユリウスと部屋の隅の机へ移る。
リナには、その地図を覗く余裕がなかった。
机へ置かれた端末の明かりと、二人の声だけが届いた。
「方面軍から追加は?」
「回廊の別の区間でも、地上部隊と接触しています。ただ、報告に時刻のずれがあります。同じ部隊を重ねて数えている可能性も」
「それでも、ここ一か所をつついて引く動きじゃないな」
「私もそう思います」
紙を広げる音がした。
「敵の航空戦力は、まだ分からないか」
「今のところ。こちらの対空部隊が抑えているのか、投入を待っているのかも判断できません」
アレックスの返事は、すぐにはなかった。
リナは容器の縁を指でなぞった。
「向こうが本気で回廊を取りに来てるなら、ここも今夜だけの待機場所じゃ済まなくなる」
「前へ戻す場合も、ここの防衛に回す場合も、五機そろって動けるようにしたいですね」
「ああ。ノアの点検結果が出たら、俺にも回してくれ。補給の順番は俺から掛け合う」
「寝られるうちに、交代で寝かせませんか」
「そうしたいんだがな」
椅子が小さく鳴った。
「次がいつ来るかだけでも、はっきりしてくれれば」
それは命令ではなく、ぼやきだった。
ユリウスも、すぐには答えなかった。
リナは顔を上げた。
隊長もまだ、手袋を外していなかった。
隣でミレイユが背もたれへ身体を預ける。その肩へ触れそうになって、リナは少しだけ座り直した。
外では、また車が動き始めていた。
帰ってきた。
けれど、ここから先を誰も決められずにいた。