第10話:特異点は地下文書に唾を吐き、次なる退屈を愛でる
コミダ・プエルトの南西倉庫街地下、そのさらに最深部に隠されていた『旧世界文書庫』は、国家の要人が血眼になって秘匿し続けてきた最高機密の宝庫であるはずだった。
だが、その重厚な魔導耐性を持つ石扉は、桜雅が放った微小な重力子のつまみ弾き一つで、音もなく粉微塵のチリへと還元されていた。
「……あー、なんだこれ。カビ臭い上に、文字がやたらとネチっこいな」
桜雅は石畳に散らばる古びた羊皮紙の束を、スニーカーのつま先で無造作に蹴散らす。
足元から伝わるのは、コンクリートの密度をも狂わせる重力の余韻だ。
≫《警告。局所的な時空歪曲率が許容値を超過しています。この区画の地殻構造そのものが、あと数秒で塑性変形を起こし、自重により崩落します。オウガさん、趣味の悪いつまみ食いはその辺で終了してください。次なるデータ解析の負荷が私の演算領域を圧迫しています》
「うるさい。勝手に脳内で反響するな、頭痛が痛いだろ」
≫《「頭痛が痛い」とは重複表現であり、日本語の構造的バグです。あなたの低俗な語彙力を補正するため、私の重力波で前頭葉のシナプスを一時的に再配線しましょうか?》
「やめろ、脳みそがスパゲッティ化するのはごめんだ」
淡々と冷徹な毒を吐き続けるアオイの念話を片耳でいなしながら、桜雅は倉庫の奥へと歩を進める。
その背後では、能天気なギャル系ボイスが軽い調子で割り込んできた。
≫《ていうかさー、ここマジで空気悪くない? カビと歴史の重みで、あーしの可愛いツインテールも縮れそうなんですけど! ねえオウガ、こんな暗い地下室引きこもってないで、さっき回収したハイガルーダの羽むしり行こ? ミツキが「焼き鳥のタレの配合を間違えたら殺す」とか言って包丁研ぎまくっててマジ鬼気迫る感じだからさ!》
「……あいつ、この前仕込んだ松前漬けの熟成具合にやたらと神経質になってるからな。機嫌をそこねると夕飯の肉の脂身が減らされる。それは死活問題だ」
≫《あら、私の料理に文句でもあるのかしら、オウガ様?》
今度は低く、しかしどこか甘やかなツンデレの念話が脳内にねじ込まれる。
≫《わたくしがどれほど心を込めて、あの巨大鶏肉どもの下処理を完璧にこなしていると思っているのですか。……べ、別に、あなたが「美味しい」と一言言ってくれるから頑張っているわけではありませんからね! ただ、この理不尽な世界の片隅で、せめて食うものくらいまともであってほしいという、最低限の倫理観のあらわれです。勘違いしないでください》
「誰も勘違いしてねぇよ。……つーか、お前ら脳内で勝手に会話してろ。俺はただ、この退屈な世界が少しでも面白くなればそれでいいんだからさ」
桜雅が気だるげに首を鳴らした瞬間、アオイの解析速度が跳ね上がった。
部屋の中心に置かれた黒曜石の書机。そこに置かれた一冊の分厚い革表紙の記録ノートが放つ波長は、ただの古い紙の匂いではない。それは親宇宙のブラックホール中心から漏れ出た、異世界のシステムそのものを蝕むバグの波長そのものだった。
世界のバグと、歪んだ構造
≫《……観測。前方三メートル、空間の位相に致命的なズレを検知。この世界の神が構築した初期パラメータの書き損じ、いわゆる神のクソコードの断片がここに対置されています》
「は? なんだそれ。面倒くさい話ならお断りだぞ」
≫《拒否権はありません。そのデータの最深部には、この世界の人間たちが魔力と呼んで崇めているエネルギーの根本的なバグ……黒い瞳の女を強制的に魔力炉の代わりにするという、悪趣味なシステム制約のソースコードが記述されています》
その言葉に、桜雅の足がピタリと止まる。
石畳の微小な揺らぎが収まり、ポケットに突っ込んでいた両手がスッと抜かれた。
気だるげだった細い目が、わずかに、しかし鋭く細められる。
この世界において黒い瞳の女が差別され、西の荒野の魔力枯渇を防ぐための消耗品(奴隷)として扱われてきた理由は、神々が定めた美徳や秩序などではなく、単なるシステムの欠陥隠しに過ぎなかった。この世界自体が、親宇宙のブラックホールから零れ落ちた排熱エネルギーのカスを寄せ集めて作られた低質なサンドボックスであり、その冷却フィルターとして黒目の人間が生体磁場を搾取されていたのだ。
さらに、その膨大な搾取データを詳細に読み解いていくと、単なるエネルギーの肩代わりにとどまらず、王国の特権階級がその余剰魔力を私腹を肥やすための魔導具の駆動源や、不老不死に近い延命治療に不正流用している実態まで次々と浮かび上がってきた。人間の尊厳を踏みにじり、システムのエラーを隠蔽するためだけに何千、何万という命が歯車としてすり潰されてきたというわけだ。
「……おい、アオイ」
≫《何ですか?》
「そのクソみたいなシステム、俺の重力波で全部デリートできなんのか?」
≫《物理法則の暴力を行使すれば、この大陸全体の物理基盤ごと粉砕し、更地にすることは理論的に可能です。ただし、それに伴う因果律の崩壊により、現在私たちが保護している1,511名の少女たちの存在定義まで確率の海に消え去るリスクが78.4%存在します》
「……めんどくせぇな」
桜雅は舌打ちをひとつ。
だが、その表情に恐怖や躊躇の色はない。あるのは、理不尽な構造に対する純粋な不機嫌さと、それを力づくでねじ伏せるための冷たい確信だけだ。
「消し飛ばせねぇなら、書き換えればいいんだろ。この宇宙のルールごと、俺の都合のいいようにさ」
≫《――フッ。流石は私の選んだ、史上最悪にして最高の特異点。その傲慢、宇宙の熱力学第二法則にかけて称賛してあげましょう》
≫《やば、オウガのそういう中二病全開なところ、あーし結構嫌いじゃないかも! ねえ、このデータ書き換えたら、異空間学校の給食にプリンとか常設できるようにならない!?》
≫《そんな私欲のために世界の根幹をいじったら、それこそ因果の逆流で私たちの存在が消滅する可能性も……でも、まあ、オウga様の言う筋を通すための改変であれば、わたくしが少しだけ協力してあげなくもないですがっ!》
三者三様の喧しい念話を脳内BGMにしながら、桜雅はゆっくりと右手を掲げた。
手のひらの中心に、周囲の光を完全にねじ曲げる微小なブラックホールが静かにその輪郭を現す。
「おい、神様よ」
桜雅は天井を見上げ、誰もいない空間に向けて冷ややかに吐き捨てた。
仙台弁の軽薄な神がこの場にいないことは分かっているが、それでも言わずにはいられなかった。
「お前の作ったこの狭苦しい世界、メンテナンスが行き届いてねえみたいだからよ。――俺が少し、綺麗に掃除してやるよ」
指先を軽く一瞥する。
次の瞬間、桜雅は足先で軽やかに石畳を突いた。
「――ズズウン……ッ!!!」
爆音すら置き去りにした超高密度の重力波が、地下から地上へ向かって垂直に突き抜けた。
コミダ・プエルトの街全体を覆っていた対魔結界『アトラス・グリッド』など、存在しなかったかのように一瞬でパウダー状に粉砕される。エストゥピド商会の巨大な地下アジト、悪徳商人たちが蓄財していた不正の証拠書類や地下金庫の山、そして黒目少女を贄にするための魔導装置や建造物が――質量を持ったまま文字通りスパゲッティ化現象の如く縦方向へ引き伸ばされ、原形をとどめぬただの砂埃へと変換された。
大地が陥没し、コンクリートや石材がまるで豆腐のように潰れ、地表の景観が一瞬にしてただの更地へと書き換わる。
街の住民たちが阿鼻叫喚の声を上げる暇すらなかった重力波による大気の急激な伸縮が起きた直後、周囲の音が一瞬ですべて消失し、数秒遅れて凄まじい衝撃波と高気圧の風が吹き抜ける。地下文書庫の天井は完全に崩落し、積み上げられていた古い機密文書の山も、歴史の重みごと一瞬で圧縮されて塵と化した。
すべてが塵と化した静寂のなか、桜雅はホコリを払うように肩を揺すった。
「ふう……。少しは運動になったか」
≫《お疲れ様です、オウガさん。周囲の構造改革(物理的破壊)により、この都市圏における不条理な因果律の偏りは一時的に解消されました。……もっとも、行政機能は100%破綻しましたが》
「知ったことか。どうせロクでもねえ連中しかいなかったんだろ」
桜雅が鼻を鳴らすと、脳内でアイリがケラケラと笑い声を上げる。
≫《いやぁ、相変わらずやりすぎっしょ! 街の真ん中がきれいさっぱり更地になって、国家警察の偉い人たちや街の住民達も全員気絶して白目剥いてるよ? あ, でもこれでまた救うべき女の子たちのキャパがさらに増えちゃったよー》
≫《……まったく、あなたはいつもそうですわ。でも、悪党どもがギャフンと言わされたのは、少しだけスカッとしましたけれど……っ!》
ミツキのツンとした声を聞き流しながら、桜雅は空を見上げる。
綺麗に晴れ渡った異世界の空には、先ほどまでの威圧的な結界が消え去り、ただどこまでも広がる青空が広がっていた。
だが、その平穏は長くは続かない。
桜雅が崩れかけた地下通路を後にしようとした瞬間、アオイの機械的な声色が一層鋭くトーンを落とした。
≫《――警告。空間位相の広域スキャンにより、遠方からの莫大な魔力反応と高精度な観測波をキャッチ。座標は北東方向、アウレリア正統王国の首都圏および中枢都市群です》
「……んだよ、またガヤが湧いたのか?」
≫《ガヤではありません。この世界のシステムを統べるアウレリア正統王国の中枢機関――時空・情報・星の特異属性を独占する最高学術区画が、先ほどのあなたの重力波による出力エラーを観測しました》
アオイが半透明のステータス画面を桜雅の視界の端に展開する。
そこに映し出されたのは、首都アルタ・レガリアをはじめとする王国の同心円状の都市群と、各学院の格式を示す複雑な序列データだった。中央の首都から地方の末端都市にいたるまで、都市の格と学院の序列がそのまま身分制度として硬直化した、あまりにも美しくない歪な構造がそこにはあった。
≫《彼らは失われた上位魔法を権威の支えとし、都市と学院の格で人間の価値を完全に固定化しています。私たちがコミダ・プエルトで行った不条理の破壊は、彼らにとって世界の秩序を揺るがす最大のバグ――すなわち、排除すべき異端の脅威として認識されました》
その解説を聞きながら、桜雅はスニーカーのつま先で転がっていた石ころを軽く蹴飛ばした。
足元から微小な重力子が弾け、石ころは音もなく粉微塵に消え去る。
「……身分違いだの、学院の格だの、血統の管理だの。どいつもこいつも、回りくどい言い訳を並べ立てやがって」
桜雅の細い目が、冷たく、そして激しく淀んだ不機嫌さを帯びる。
理不尽な奴隷制度や悪徳商会を潰したところで、この世界の根底にある王国全体の歪んだ構造そのものが変わっていなければ、結局は同じことの繰り返しでしかない。曲がったこと、筋の通らないことが大嫌いな桜雅の逆鱗に、王国の格式高いシステムが静かに、しかし確実に触れ始めていた。
≫《おや? オウガのその顔、久々に本気でイラついている時の表情ですね。フッ、最高です。あの高慢ちきな王国の連中が、あなたの重力波でスパゲッティ化して泣き叫ぶ姿を想像すると、私の演算コアも少し熱を帯びてきましたよ》
≫《ちょっとアオイ、煽らないの! でもさー、王国ってことは、もっとお上品でお高くとまったお偉いさんたちがゴロゴロいるんでしょ? そこをオウガがグチャグチャにしちゃうの、なんかちょっとワクワクするかも!》
≫《……まったく、あなたたちは。でも、王国の連中が奴隷制度や不条理な身分固定を正当化しているのなら……わたくしたちが、その腐った骨組みごと叩き直してやるのも、悪くはないかもしれませんね》
三者三様の喧しい念話を脳内BGMにしながら、桜雅は鼻を鳴らし、肩を大きく回した。
「……退屈しのぎにはちょうどいい。1,500人超えの女の子たちを養うための資金も、そろそろ王国の上層部からゴッソリ巻き上げてやるとするか」
桜雅はポケットに両手を突っ込み、足元に重力制御のベクトルを走らせる。
その背後では、亜空間学校で平和な日常を取り戻しつつある少女たちの笑い声が、幻のように響いているような気がした。
不機嫌な特異点は、次なる獲物――アウレリア正統王国という名の巨大な構造改革を求め、気だるげに、しかし圧倒的な質量を纏いながら、北東の首都圏へとその歩みを進めていくのだった。