第15話:不機嫌な特異点と、終わらない補習の昼下がり
アイリが生成した無限の異空間――その広大な平原に構築された平成初期の公立学校を模したマイクロ・コスモス。その中庭には、どこか懐かしい赤煉瓦の校舎と、乾いた砂のグラウンドがどこまでも広がっていた。
かつてアウレリア正統王国の極点から労働底辺圏に至るまで、魔力炉の消耗品として理不尽にすり潰されかけていた総勢2,279名の少女たちは、今や全員が純白の体操着や制服に身を包み、校舎の窓から顔を覗かせていた。
「――よって、万有引力定数をG、二つの物体の質量をM1、M2、距離をrとした場合、空間の歪みによって生じる局所的な重力ポテンシャルエネルギーは、V = -(G × M1 × M2)/ r として定義されます。理解できましたか、皆さん」
黒板の前でチョークを正確無比な軌道で走らせているのは、アオイだった。その冷徹で理路整然とした講義に対し、最前列の席に座る少女たちはガタガタと震えながら必死にノートへとペンを走らせている。彼女たちは、かつて言葉すら奪われていたとは思えないほどの異常なスピードで、文部科学省の学習指導要領に基づく現代科学の基礎を脳みそに叩き込まれていた。
≫《オウガさん。昨日の中央広場における首都機能の初期化および政治構造のリストラ、お疲れ様でした。こちらは現在、保護した生徒たちのカロリー摂取量は1日あたり平均2,400キロカロリーを維持しており、発育状態は極めて良好です》
脳内に直接響いてくるアオイの冷静な分析ボイスを聞き流しながら、桜雅は校舎の裏手に置かれた古びたベンチに深く腰掛け、気だるげにタバコ――ではなく、アイリが完璧に再現した駄菓子屋のパイン飴を口の中で転がしていた。
「……俺が勝手に人間を更地にしただけだってのに、よく言うぜ。あんな連中、どいつもこいつも筋が通ってねぇから消しただけだ」
≫《おやぁ? オウガのくせに、すっかり保護者気取りじゃん! ねぇねぇ、次はいつ外の世界に遊びに行くの? あーし、そろそろ新しい地球の買い食いアイテムを仕入れたいんだけど!》
アイリの能天気な声が、脳の右側からカーニバルのようなテンションで割り込んでくる。その直後、脳の左側から冷ややかなため息が聞こえた。
≫《……まったく。人使いが荒いにもほどがありますわ、オウガ様。先ほどまで元労働底辺圏の農地改革と水利システムの再構築を手伝わされていたわたくしの身にもなってください。それに、あの甘ったるい飴ばかり食べていると虫歯になりますよ。口を開けなさい、ちゃんと歯磨きをさせますから》
ミツキのツンデレ混じりの説教が響く中、桜雅は面倒くさそうに頭を掻きむしった。
王国を滅ぼし、理不尽な身分制度を物理法則の暴力で木端微塵に粉砕し、新国家『アウレリア連邦国』の骨組みを作ってから数日。平穏と言えば平穏だが、どこか退屈な時間が戻ってきていた。
「……で、次はなんだ。またどこかの街が『筋違いのバグ』でも起こしたか?」
桜雅がぼそりと呟いた瞬間、校舎の2階の窓から、ひとりの少女がひょっこりと顔を出した。それは、コミダ・デリシオサの港で最初に救い出した黒目の少女――今やクラスの学級委員長ポジションにすっかり収まっている少女だった。
「せんせー! 牧センセー! 国語の補習テストでアイリ先生が『重力で答案用紙を圧縮して0.1ミリの点にして提出しろ』って言うんです! これじゃ文字が読めません!」
「はぁ? なんだそりゃ」
桜雅がやれやれと肩をすくめ、足先の重力子を軽く共鳴させて立ち上がろうとしたその時、足元の石畳がカチリと音を立てて微かに歪んだ。
≫《警告。微小な空間特異点の揺らぎを検知。……どうやら、新しく再編した連邦国の議会で、早くも『昔の特権を取り戻せ』と騒ぎ出す老害議員どもが発生したようです。座標は、旧・首都アルタ・レガリアの残骸跡地》
アオイの機械的な声が、最高潮に冷ややかなトーンへと切り替わる。
アイリが「うわっ、もう虫が湧いたんだ!? つーか、またあーしの重力爆弾でぺちゃんこにする?」とキャッキャと騒ぎ出し、ミツキが「まったく、懲りない人たちですこと……今度こそ、骨の髄まで地球の厳しさを叩き込んでやりましょう、オウガ様」と物騒に息巻く。
だが、その時――突如として背後の空間がグニャリと歪んだ。
重力レンズ効果による光の屈折が起き、空間の裂け目からひょっこりと姿を現したのは、あの厄介事を持ち込んできた張本人――「親宇宙の神」だった。
「いやぁ〜、参った参った! まさか本当にアウレリア王国を根底から丸ごとスクラップにしちまうとはねぇ!」
軽薄な笑みを浮かべ、仙台なまりのイントネーションで喋り出す神に対し、桜雅は面倒臭そうに目を細め、足元の重力子をキュッと微調整した。
直後、神の下唇めがけて――見えない重力の圧が容赦なく叩きつけられる。
「ぐふっ!? な、なんだげ!? いきなり土下座の体勢を強制すんなや!」
「お前な……。勝手にこの宇宙のバグだの何だの押し付けて、面倒事を全部俺に丸投げしといて、どの面下げて出てきやがる。お前のその軽薄な下唇、そろそろ足指で綺麗にホールドして引きちぎってやろうか」
「ま、待て待てオウガ君! 暴力は反対だべ! ――で、でもよ、お陰さまでこの宇宙の歪みはすっきりと解消されて、新しい『アウレリア連邦国』とかいう民主的なシステムが動き出してるべ? 住民たちも、初めて味わう平穏に涙流して喜んだり、校庭で元気に走り回ってるんだからさぁ!」
神の言う通り、かつて王国の底辺で過酷な搾取に耐えていた人々や、アイリの異空間学校で基礎教育を受け直した少女たちは、それぞれの足で新しい生活や社会の再建へと歩み出し始めていた。理不尽な格差のピラミッドは崩壊し、暴力的なまでの重力によって、この世界には強制的な「筋の通った平等」が敷かれたのだ。
桜雅は冷ややかに鼻を鳴らす。
「……勝手にやってろ。俺がやったのは、目障りなクソ野郎どもと不条理な仕組みを片っ端から踏み潰しただけだ。お前らの都合のいい救世主になる気はねぇよ」
≫《ふふ、流石はオウガさんですね。その一貫してひねくれた倫理観、嫌いではありません》
≫《最高にクールじゃん、オウガ! さて、次はどこの美味しい食材を狩りに行こっか?》
≫《オウガ様、あまり我が儘ばかり言っていると、夕食のメニューをすべて野菜炒めだけにしますからね!》
「おう!俺は肉野菜炒めは好物だぜ。肉の代わりに焼き豚でも良いしよ。木耳とニラは入れてくれよな。味は塩胡椒と日本酒だけで良いぞ」
三匹の異形たちの賑やかなガヤが、脳内で心地よいBGMのように響く。
桜雅は口の中で転がしていたパイン飴をカリリと噛み砕くと、ポケットに両手を突っ込んだまま、気だるげに不敵な笑みを浮かべた。
「……いいぜ。どれだけルールを書き換えても、バグりたがる馬鹿はどこにでもいるもんだ」
足元の重力が一瞬にして逆転し、周囲の空間がぐにゃりと歪む。
不機嫌な特異点は、再び退屈を叩き潰すため、面倒くさそうに、旧・首都アルタ・レガリアの残骸跡地に向かった。
旧・首都アルタ・レガリアの残骸跡地。
かつてアウレリア正統王国の最高中枢であり、極点特権圏の象徴として誇り高くそびえ立っていたその場所は、今や桜雅の放った重力波によってただの広大なクレーターと灰色の瓦礫の山に変貌していた。
その中心部、かつての王宮の玉座があった石畳の上に、みすぼらしい高級衣裳を纏った一団が立っていた。
彼らは、新しく誕生した『アウレリア連邦国』の暫定議会において、自分たちの特権や既得権益が失われたことに発狂し、気宇壮大に気炎を上げていた者たち――いわゆる「プロ市民崩れ」の老害議員どもであった。
「な、なんだこの有様は! 我々伝統ある大貴族階級の不可侵な人権と社会的格付けを無視し、この聖地を更地にするなど万死に値する暴挙だぞ!」
先頭に立っていた白髪の男――元最高顧問のガストンは、拡声の魔導具を握り締め、周囲に集まった一般市民や報道官(魔導記録士)たちに向けて、唾を撒き散らしながら大音量で喚き散らしていた。
「いいか、よく聞け愚民ども! 『真の民主主義』とはな、これまで社会を支えて導いてやった我々上位階級の権益が完璧に保護されて初めて成立するものなのだ! 我々のような指導層が優雅に暮らし、お前たち下々の者どもを適切に搾取して管理してやるからこそ、この世界の調和は保たれていた! それを『平等』などという薄汚い言葉でうやむやにし、我々の専属奴隷や特権を奪うなど、明白な『差別』であり『マイノリティ(特権階級)に対する人権侵害』だ!」
「そうだそうだ! 我々の豊かで優雅な生活を脅かす『平等』など、悪魔の暴力に過ぎん!」
「我々には『歴史的に保障された贅沢をする権利』がある! 下層民どもが汗水垂らして働いた利益を我々に差し出すのは、お前たちの市民としての当然の『義務』だぞ!」
「奴隷の解放など言語道断! 我々の所有物を勝手に奪っておいて『人道』を語るな! 我々から奪った奴隷の補償金として、旧王国国家予算の50年分を今すぐ支払え!」
次々と繰り出される、歪みきった自分本位の屁理屈。
彼らに言わせれば、「自分たちが特別扱いされて甘い汁を吸い続けること」こそが民主主義であり、それを阻むあらゆる出来事は「不当な弾圧」であり「ヘイトスピーチ」なのだ。
「市民諸君、騙されるな! 奴隷どもを解放したところで、あいつら黒目の女どもに我々のような高尚な文化や消費が理解できると思うか!? できない! 人間の形をした単なる魔力炉に過ぎん! 彼女たちを解放することは、かえって彼女たちから『ご主人様に奉仕する幸福』を奪う残酷な虐待行為なのだ! 我々は彼女たちのために、あえて買い取って保護してやって we(指導)していたのだぞ! 感謝こそされ、責められる筋合いなど一切ない!」
「そうだ! 弱者を守るのが民主主義なら、今もっとも虐げられている我々特権階級の誇りと財産を第一に保護しろ!」
「我々の心が傷ついた! 精神的慰謝料として、連邦国の全税収の8割を我々の年金として永久に徴収することを要求する!」
「要求が通らなければ、我々はハンガーストライキ(※朝食抜き)を決行し、世界中にこの国の悪逆無道な人権弾圧を告発してやるからな! 我々の主張を聞かないのは多様性の否定だ! 民主主義の敗北だ!」
開いた口が塞がらないほどの厚顔無恥と、自分勝手さを「正義」の言葉で塗りたくる不快極まりない大合唱。周囲を取り囲んだ元・労働底辺圏の市民たちは、怒りを通り越して凄まじい虫唾を走らせ、冷ややかな視線を送っていた。
その様子を、数歩離れた瓦礫の陰から、桜雅は気だるげに眺めていた。
ポケットに両手を突っ込み、足先で微小な重力子を遊ばせながら、フッと低く鼻で笑う。
≫《オウガさん、測定完了しました。あの者たちの脳内における自己愛と被害者意識の質量は、ブラックホールの中心核すら凌駕しています。……まあ要するに、吐き気を催すレベルの『言葉の通じない有害害虫』ですね》
≫《うわっ、引くわー! 自分勝手すぎて逆に才能感じちゃうレベルじゃん! 『あーしたちの贅沢を奪うのは差別〜』とか、マジで脳みそのネジが重力波で弾け飛んでんじゃないの?》
≫《……あそこまで見事な盗人猛々しさを見せられると、怒りを通り越して呆れてしまいますわね。我が物顔で他人の人生を貪っておきながら、奪われた途端に被害者面……。オウガ様、わたくし、あのような者たちに一滴の情けもかける必要はないと判断いたします》
脳内で響く三匹の異形の冷ややかに澄み渡った毒舌をBGMに、桜雅は静かに連中の方へ歩を進めた。
ガストンたちは、冷ややかな視線を浴びせられながらも、遠巻きに現れた少年の姿に気づくと、待ってましたとばかりにさらに調子に乗って声を張り上げた。
「お、おい、そこの不敬なガキ! お前だな、我々の正当な利権を脅かしたテロリストは! 我々の崇高な『被害者の叫び』に恐れをなしたか! さあ、今すぐ膝をついて我々の靴を舐め、失われた特権の再発行と謝償金を差し出せ! さもなくば、我々の崇高な人権ネットワークによって、お前を未来永劫『悪魔の差別主義者』として歴史に刻んで――」
そこまで喋った瞬間、ガストンの足元が、ガクンと不自然に沈み込んだ。
「……は?」
声が途切れる。
次の瞬間、ガストンをはじめとするプロ市民の一団の周囲数十メートルにわたって、重力ポテンシャルの数値が文字通り「数百万倍」に跳ね上がった。
ゴウン、と空間の底が抜けるような異音が響く。
コンクリートの残骸や堅固な石畳が、豆腐のように一瞬で圧縮され、粉々の微粒子となって四方に飛散した。
「ぐ、ぐえっ……!?」
重力の急激な変異により、ガストンたちの背骨がメキメキと音を立てて強烈に圧迫される。
血液が一気に下半身へ逆流し、顔面が真っ青からドス黒い紫に変色していく。空間が局所的に歪む「重力レンズ効果」のせいで、彼らの肉体や周囲の景色が、まるで蜃気楼のようにグニャリと不気味に曲がりくねった。
「な、なんだこれ……! 息が、息ができない……っ!? 重、重力が、あ、足が、勝手に――っ!?」
ついさっきまで「人権だ」「正当な権利だ」と声高に喚いていた威勢はどこへやら。
ガストンは泡を吹いたような顔で自分の足元にしがみつき、みるみるうちに涙と鼻水を垂れ流し始めた。
「た、助けてくれ……っ! 頼む、命だけは、命だけは助けてくれ……っ! わしは被害者だ! 傷ついた弱者なんだぞ! 弱者を痛めつけるのは人道違反だああああっ! うわああああっ、足が、足が縦に伸びる――っ!?」
物理法則の暴力がもたらす極限の潮汐力――いわゆる「スパゲッティ化現象」の初期段階が、彼らの肉体に容赦なく襲いかかる。
身長170センチほどの老いた肉体が、重力の差圧によってまるでゴム紐のように引き延ばされ、骨格と筋肉がミシミシと悲鳴を上げる。
「ひ、ひぃぃっ! 許してくれ! もう二度と特権なんて言わない! 謝罪も金もいらない! お願いだからこの重力を解除してくれえぇぇっ!」
「た、助けて……! 差別だーっ! 物理法則によるヘイトスピーチだーっ!」
先ほどまでの強気で身勝手な演説はどこへやら、プロ市民たちは地面に這いつくばり、泥水と砂埃まみれになりながら、情けない悲鳴と惨めな命乞いを周囲の一般市民に向けて見っとも無く晒し続ける。しかし、誰一人として彼らに同情する者はおらず、冷ややかな目でその自業自得の末路を見下ろしていた。
桜雅は冷徹な眼差しでその光景を見据え、気だるげに息を吐き出した。
「……うるせぇんだよ。筋の通らねぇ戯言をほざく暇があるなら、自分の重心の取り方でも勉強し直してこい」
桜雅が足先の重力子をフッと軽く跳ね上げた瞬間――。
パァン、と乾いた空気の破裂音が響いた。
ガストンたちの肉体は、重力波の極限収束によって分子結合を完全に断ち切られ、体積を一瞬でゼロに圧縮されたのち、次の瞬間に微小な粉塵となって四方に四散した。
そこにあったのは、派手な演説を繰り広げた老害たちの姿ではなく、風にさらりと吹き飛ばされて消えていく、名もない灰色の塵の山だけであった。
静まり返った残骸跡地に、ただ冷たい風だけが吹き抜けていく。
≫《処理完了です。不純物の質量、完全になくなりました。……まったく、害虫の鳴き声にしては耳障りが過ぎましたね》
≫《うわっ、あっさり消えちゃった! つーか『物理法則によるヘイトスピーチ』とかウケるんだけど! あーしの重力レンズで光ごと捻り潰して正解だったね!》
≫《ふふっ、自業自得とはまさにこのことですわ。あれだけ自分勝手な理屈を捏ね回しておいて、最後は塵になるのですから……って、オウガ様、そんな顔をしてどうなさったのです?》
ミツキの呆れ混じりの声を聞きながら、桜雅は両手をポケットに突っ込んだまま、何事もなかったかのようにくるりと背中を向けた。
「……さて。無駄なゴミ掃除は終わった。……そろそろ、アイリの作った冷えた麦茶と、ミツキの焼いた鶏肉の串焼きでも食いに行くか」
足元の重力を軽やかにいなしながら、不機嫌な特異点は、退屈と静寂を取り戻した世界の中へ、気だるげに歩みを進めていくのだった。