第19話:神聖なる食肉の祭典と極上の海鮮丼
保護した少女たちが「2,500名」を超え、異空間学校(マイクロ・コスモス)の給食センターの冷凍庫に再び赤い危機が訪れていた。
平成初期の公立学校を模した校庭の隅に鎮座する、アオイ特製の完全無菌・絶対零度亜空間プレハブ。その重厚な扉を開けた瞬間、桜雅は盛大にため息をついた。
「……空っぽだな、まあ異空間学校での時間経過が早いのだから当たり前か……」
ダンボール箱の山と化していた神話級の肉塊は、育ち盛り……どころか3歳児からのスパルタ教育をやり直しているとはいえ、元1,500名超からさらに膨れ上がった生徒たちの旺盛な胃袋によって見事に消え去っていた。肺の奥を乾いた冷気が撫でるような虚しさが残る。
≫《報告。タンパク質、脂質、および炭水化物の備蓄量が危険水域を下回りました。このままでは生徒たちの発育阻害、および学習効率の低下による赤点率の上昇が予測されます。オウガさん、至急の買い出し。すなわち上位神話級モンスターの強制解体および採集が必要です。狩りが終了するまで時間経過を通常に戻しますが、それにより著しい学習への遅れが出る事を具申致します》
脳内でアオイの冷静かつ事務的な機械音声が響く。感情の起伏はないが、そのプレッシャーは容赦がない。
≫《やっほーオウガ! いいじゃんいいじゃん、みんなお肉大好きだからさ! あーし特製の超大型バーベキューコンロ、いつでもスタンバイOKだよ!》
アイリの能天気な声がそれに被さる。こいつはいつだって危機感がゼロだ。
≫《……まったく。オウガ様が甘やかすから……いえ、女性たちの栄養管理は大切ですけれど……。でも、あんまり無理をなさらないでくださいね、オウガ様》
ミツキのツンデレ混じりの優しい声が、荒ぶる桜雅の神経を少しだけ宥める。が、その直後、桜雅は気だるげに首を鳴らした。
「……面倒くせぇ。だが、肉がねぇとあのガキどもがうるせぇか」
ポケットに突っ込んでいた両手を抜き、桜雅は足首をコキリと鳴らす。
今日の献立は牛肉系最高峰『カーマデーヌ』と、鶏肉系神話級『コカトリス』。それらをまとめて狩り尽くすため、桜雅は足先の重力子を微かに共鳴させ、禁忌の樹海へ向けて転移のステップを踏み出した。
◇
アウレリア連邦国の遥か西方、一般の冒険者が一歩踏み入れば二度と生きて帰れないとされる「深淵の禁忌樹海」。
その樹齢千年は下らない巨樹の群れが鬱蒼と生い茂る深奥に、そいつらはいた。
地響きとともに現れたのは、黄金色の蹄を持ち、巨体の割に異様なまでの俊敏性を誇る牛型の神話級モンスター『カーマデーヌ』の群れ。そして頭上を覆う黒雲の如く、翼を広げれば十メートルを超える巨鳥、鶏肉系神話級『コカトリス』の影。
ガオォォォンッ!
ピィィィーーッ!
威嚇の咆哮と、周囲の石や木々を一瞬で石化させる魔力の光線が桜雅へと殺到する。だが、桜雅は眉一つ動かさない。
「うるせぇよ、雑魚が」
桜雅が右足を軽く踏み込む。
瞬間――世界が歪んだ。
重力レンズ効果により、カーマデーヌたちの周囲の空間が数千倍の超高圧でねじ曲げられる。逃げ場など存在しない。音速を超えたソニックブームが周囲の空気をごっそり引き剥がし、モンスターたちの鼓膜と脳髄を直撃した。
一切の苦痛を感じる暇すらない。数式のような完璧な重力波の圧縮によって、筋肉の繊維一本一本に至るまで均一に締め上げられ、カーマデーヌもコカトリスも、その巨体が音もなくストンと地面へ崩れ落ちた。出血すら最小限に抑えられた、極上の「即死・完全血抜き状態」である。
≫《素晴らしい精度です。カーマデーヌの肉質、サシの入り方は最高級A5ランクの和牛を優に凌駕しています。細胞の劣化、ゼロ。完璧な保存状態です》
アオイが冷徹なトーンで感嘆のデータを叩き出す。
≫《ひゃっほー! すげぇすげぇ! コカトリスの肉もムチムチで超おいしそう! あーし、特製の特大ホットプレートと、隠し味のニンニク醤油ダレを量産しといたからね!》
アイリが手際よく空間生成スキルを展開し、山のような神話級の肉塊を次々と回収していく。
≫《……オウガ様、お疲れ様です。……その、あまり無理をなさらないで……いえ、お見事です》
ミツキの少し照れたような、しかし誇らしげな声が脳内に響く。桜雅は鼻を掻きながら、フッと息を吐いた。
「……帰るぞ。今日は盛大に焼く」
◇
その日の夕方。
異空間学校の中庭は、かつてないほどの熱気と香ばしい匂いに包まれていた。
中央にドンと据えられたのは、アイリが生成した長さ数十メートルを超える特製巨大ホットプレート。その上では、A5ランクを軽く超越した『カーマデーヌ』の極厚サーロインと、『コカトリス』のジューシーなモモ肉がジュージューと小気味よい音を立てて焼かれている。
「みんなー! お肉焼けたよー! ちゃんと一列に並んでねー! 焦がしたらあーしの重力パンチが飛ぶからねー!」
アイリの号令のもと、給食のお盆を手にした2,500名の少女たちが目を輝かせて大行列を作っている。最初は黒目差別と過酷な搾取によって怯えていた彼女たちも、この異空間学校での濃密な教育と保護によってすっかり見違えるほど健康的になり、今や「肉」の二文字に全生命力を捧げている状態だった。
「あ、あの……ミツキ先生、お肉、もっと貰ってもいいですか……?」
「もう、あまり食べ過ぎるとお腹を壊しますよ。……ほら、オウガ様が仕込んだ特製の野菜松前漬けも一緒に食べなさい」
ミツキが優しく微笑みながら、がごめ昆布の粘りとスルメイカの旨味が凝縮された特製・異世界風「松前漬け」を少女たちの皿に取り分けていく。脂の乗った神話級の肉の合間に挟むと無限に食えるというその一品は、生徒たちの間で密かな大人気となっていた。
そんな賑やかな光景から少し離れた場所。
中庭の木陰のベンチに、桜雅は気だるげに腰を下ろしていた。
口元には、焼きたてのカーマデーヌのステーキを一口大に切ったものが、いつの間にか(アイリの仕業か)皿に盛られて用意され、それを食べている。
「……ふん」
桜雅は無言でフォークを手に取り、肉を口に放り込む。
噛み締めた瞬間、濃厚な旨味と上質な脂が口いっぱいに広がり、鼻から抜ける香ばしさが心地よい。理不尽な世界を更地にしてきた男にとって、この「筋の通った美味い肉」を味わう瞬間だけが、数少ない至福の暇潰しだった。
「……オウガさん、左の口元にタレがついていますよ」
アオイの冷静な指摘と同時だった。
サッと伸びてきたミツキの白いハンカチが、桜雅の口元を優しく拭う。
「……自分で拭ける」
「それなら自分で拭いてください。……まったく、子供たちの前なんですから、もう少しシャキッとしてくださいまし」
ツンとそっぽを向くミツキだが、その耳たぶはうっすらと赤い。
≫《観測。ミツキの心拍数が通常値より15パーセント上昇。ツンデレ的照れ隠しの可能性:99.9%》
アオイの無粋な(しかし的確な)実況が脳内に響き渡る。
≫《キャー! ミツキちゃん照れてるー! オウガ、もっといじっちゃいなよ!》
アイリの茶化すような笑い声がそれに続く。
「お前ら、少しは静かにしろ……」
頭の中で繰り広げられる賑やかな三匹のガヤをBGM代わりに、桜雅はフッと小さく息を吐いた。荒れ狂う宇宙の特異点も、理不尽な王国の秩序も、足先の重力波一つで粉々に打ち砕いてきた。だが、この騒がしくも温かい日常の空間だけは――もう少しだけ、壊さずに取っておいてやってもいい。
「……まあ、悪くはねぇか」
極上の肉をもう一口放り込みながら、桜雅は気だるげに空を見上げるのだった。冷徹な特異点は、今日も今日とて、退屈と肉の旨味の間にまどろんでいる。
◇
――だが、静寂(あるいは肉の喧騒)は長くは続かなかった。
放課後の静けさ――いや、全校生徒2,710名がひしめく異空間学校の喧騒から逃れるように、桜雅はコンクリートの窓枠に気怠げに足を投げ出していた。
足先は脱ぎかけのローファーをぶら下げ、不安定な高低差のなかでブラブラと揺れている。神の下唇をホールドした実績のあるその足指は、今日も今日とて退屈を持て余していた。
≫《……オウガさん。生徒数が2,710名に達したことで、異空間内のエネルギー循環効率が14.2%向上しました。ですが、あなたの運動不足によるメンタルヘルス低下値も深刻です》
機械的な声音で告げるのはアオイだ。黒い球体のまま、桜雅の側頭部をピプピプと電子音で刺激する。
≫《いーじゃんいーじゃん! みんなで制服の着こなしバトルとかやってて超カオスだし、文化祭前夜みたいなノリでアールシースルーのブラウスとか流行ってるよ? あ、オウガ的にはセーラー派? ブレザー派?》
アイリの軽薄なノリが脳の芯を揺らす。空間生成担当としての能力を全開にして、少女たちのための制服バリエーションを勝手に増やしている元凶だった。
≫《……ちょっとアイリ、変な服を量産しないでちょうだい! わたくしがちゃんと清楚なプリーツスカートを支給しているのに、なぜ胸元を改造するのですかっ。……というか、オウガ様。そんなことより、先ほどからお腹が鳴っていますよ》
ミツキのツンとした声音には、隠しきれない保護者としての慈愛と、呆れが混ざっていた。
「……うるさい。腹が減ったのは事実だ」
桜雅は低い声で呟き、窓枠から地面へと軽やかに飛び降りた。
前回のガナンシアス共和国での一件――ベルナルド商会を更地へリセットし、地下の偽造錬金炉ごとすべてを微小ブラックホールでスクラップにしてから数日。頭の中にこびりついて離れない映像があった。それは、透き通るような白身、濃厚な赤身、そして黄金色に輝く魚卵が丼いっぱいに敷き詰められた、地球の記憶が生んだ至高の芸術。
「海鮮丼を食う。異論は認めない」
≫《了解しました。ターゲット海域、コミダ・プエルト沖合。深度三百メートルの深海層に、巨大甲殻類および回遊系魔獣の群れを確認。……って、また海水を丸ごと持ち上げる気ですか?》
「効率がいいだろ。一網打尽にする」
桜雅が右手を軽く握り込むと、周囲の空間がわずかに歪んだ。重力レンズ効果によって、廊下の景色がぐにゃりと波打つ。次の瞬間、他的な身体は音もなく消え去っていた。
潮の香りが鼻腔を突く。
たどり着いたのは、ガナンシアス共和国南部に位置する貿易都市コミダ・プエルトの荒涼とした岩礁地帯だ。人けのない断崖絶壁の上で、桜雅は冷たい海風を面倒くさそうに受けながら、眼下に広がる紺碧の大海原を見下ろした。
「おい、アイリ。まな板の準備はいいか」
≫《りょーかい! 特製の特大ヒノキ製まな板と、切れ味エグい刺身包丁、あとワサビと醤油の分子構造完全再現セットを用意したよ!》
「アオイ、水圧の計算と重力波の収束レンジを固定しろ」
≫《承知しました。『局所的重力勾配・垂直浮上モード』起動。対象海域の海水および生体資源のみを、形状を維持したまま上空へリフトアップします》
桜雅が右の人差し指を軽く突き上げる。
瞬間――地球上の物理法則を完全に無視した暴力的な引力が、海面の一角を捉えた。
轟音すら遅れてやってくる。
直径百メートルに及ぶ海面が、まるで重力に逆らう巨大な柱のように、垂直にスパッと切り取られた。海底の砂利ごと浮き上がった海水は、重力制御によってこぼれることなく、空中で巨大な水槽のようにとどまる。その中では、数メートルの巨体を誇る深海マグロの亜種や、黄金色の殻を持つ巨大ウニ、さらには腕の長さが人間の背丈を超える特大のガザミ(カニ)が、バタバタと間抜けな軌道を描いて浮遊していた。
≫《うわっ、すごっ! カニが空中遊泳してる! あ、オウガ、あのデカいマグロのトロ部分、絶対脂乗ってるよ!》
≫《……相変わらず、やり方が乱暴すぎます。ですが……素材の鮮度と品質の高さは、文句のつけようがありませんね。わたくしが速やかに神経締めと下処理を行います》
ミツキのテキパキとした指示と同時に、空間の至る所で微小な重力刃が走り、浮遊する魚介類の急所を一寸の狂いもなく突いていく。血が一滴も無駄にこぼれることなく、完璧な処理が施された食材が、次々とアイリの管理する異空間倉庫へと吸い込まれていった。
「……よし。戻るぞ」
桜雅は満足げに鼻を鳴らすと、ふたたび空間を歪め、一瞬で異空間学校の特設厨房へと転移した。
夕暮れ時の異空間学校。
中庭に設置された特設の調理スペースには、救出された黒目女性たちの姿があった。はじめはおびえていた少女たちも、今ではアイリやミツキの指導のもと、手際よく包丁を動かし始めている。
「オウガ様、お疲れ様です! ……って、これ、すごいです! こんな立派なマグロ、王都の貴族でもめったに口にできません!」
元奴隷の少女の一人が、目を丸くして巨大な赤身の塊を見上げる。桜雅はぶっきらぼうに手を挙げてそれを受け流すと、窓際の特等席に陣取った。
目の前に置かれたのは、漆黒の丼鉢。
酢飯の湯気の上に、惜しげもなく敷き詰められた極上の大トロ、中トロ、赤身のグラデーション。その中心には、輝くウニの山と、宝石のように透き通るイクラの粒が鎮座している。添えられたワサビを醤油で溶き、ためらうことなく回しかけた。
≫《……おいしそう。いや、物理的数値としても、タンパク質、DHA、アミノ酸の含有量が理想値を超えています。オウガさん、一口目の咀嚼回数は三十回を推奨します》
≫《ねえねえ、一口ちょうだい! あーし、酢飯大好き!》
≫《ちょっとアイリ、自分でわさび醤油を作りなさいよ! ……でも、オウガ様、お味はいかがですか?》
三者三様の念話が脳内でガヤガヤと騒ぎ立てる中、桜雅は箸を手に取り、マグロの赤身とウニが絶妙に絡み合った一切れを口へと運んだ。
濃厚な旨味が舌の上で爆発する。
冷たい海の記憶と、脂の甘みが、ひねくれた桜雅の脳髄を心地よく痺れさせた。
「……合格だ」
ボソッと呟いたその表情には、いつもの気だるげな不機嫌さではなく、ほんのひとときの平穏と満足が浮かんでいた。
窓の外では、二千人を超える少女たちの笑い声が、夕闇に染まる異世界の空へ穏やかに吸い込まれていく。
退屈を嫌う特異点の日常は、今日も今日とて、予想外の美食とツッコミ過多な喧騒に満ちていた。