第25話:不機嫌な特異点と極上のステーキ、あるいは日常の重心
放課後のしじまを切り裂くように、マイクロ・コスモスの自動扉が盛大な音を立てて開いた。
「おい、オウガさん! まだ次の大陸に行く前にお茶の時間やろがい!」
ガサツな足音とともに現れたのは、シュヴァルツ・オストライヒ帝国の魔王――もとい、組長であるハインリヒ・フォン・プロイセンだ。その背後には、大柄な体躯をさらに威圧的に見せる黒いローブの集団……ではなく、なぜか両手いっぱいに湯気の立つ丼や巨大な鍋を抱えた魔導士団の面々がひしめき合っている。
≫《オウガさん、測定器の針が振り切れてます。あの魔王、また空間歪曲率を無視して直通ゲートを開けましたよ。完全に迷惑条例違反です》
アオイが冷静なトーンで青白い発光体を明滅させ、頭脳の奥で数値のエラーを告げる。
≫《うけるー! なんかおっちゃん、すっごい良い匂いの肉持ってきてない? あーし、それフライドポテトと一緒に食べたい!》
アイリが能天気に空間の裂け目から顔を覗かせ、物欲しげに舌なべずりをする。
「……オウガ様。またあの脳筋たちが勝手に……。わたくしが物理的に叩き潰しましょうか?」
ミツキが黒いスライムの体表を尖った棘の形に変形させ、冷ややかな殺気を放つ。しかし、その手にはちゃっかり新しく仕込んだ特製出汁の入った鍋が握られていた。
「……五月蝿い。勝手に入るな、ボケが」
ソファに深く沈み込み、極上の足癖で机の端を捉えていた牧桜雅は、気だるげに一つ息を吐いた。彼の足指は、相変わらず近くにあったペーパーウェイトを絶妙な重力制御で宙に浮かせ、くるくると遊ばせている。
「なんやその冷たい態度は! こっちはな、お前のためにわざわざ魔大陸名物『三大食肉』の最高峰を、極上のスパイスで煮込んだ特製シチュー……いや、今日は極上のフィレ肉を持ってきたんやぞ!」
ハインリヒが豪快に笑いながら、桜雅の目の前に湯気の立つ巨大な鍋と、ずっしりとした肉塊をドンと置いた。その瞬間、部屋全体の重力定数が微かに揺らぎ、床のフローリングがミシミシと悲鳴を上げる。
≫《あーっ! オルガさん、床の歪みが許容値を超えてます! これ以上やると校舎全体の亜空間座標が崩壊しますよ!》
「……おい、爺さん。お前のその無駄に高い魔力圧、重力波に変換して宇宙の塵にするぞ」
桜雅がジト目を向けた瞬間、指先から放たれた微小な重力子ビームが、ハインリヒの足元の床を直径数ミリだけ綺麗にくりぬいた。
「ひっ……!? おまっ、相変わらず容赦ないな!」
冷や汗を流しながら飛び退く魔王。その背後では、舎弟頭であるスヴャトスラフが「なまら寒くてやってらんないべさ、はんかくさいな」と北海道弁で頭を抱え、さらにその周りでは救出された黒目女性たちが微笑ましそうにその光景を見守っている。
「――で、なんだこの肉の塊は」
ハインリヒが持ち込んだ巨大な鍋から、ぶわりと立ち上る芳醇な湯気。その中心に鎮座していたのは、魔大陸の過酷な重力異常を耐え抜いた末に独自の筋繊維を発達させた、神話級(ミシック)の極上牛肉――『クレーテーの牡牛』の最高位部位だった。
「いやぁ、お前さんがいつもあの手この手で我が国を更地にしてくれるさかい、こっちも誠意を示さなあかん思ってな! 魔導士団総出で仕留めてきた極上のフィレ肉や!」
ハインリヒが胸を張る後ろで、舎弟頭のスヴャトスラフが「なまら柔らかいべさ、これ……」とヨダレを拭っている。
≫《オウガさん、解析完了しました。分子構造のキメが細かすぎて、普通に加熱すると肉汁の旨味成分が空間の圧力に負けて霧散します。これ、まともに調理できるのは物理法則をいじれる特異点か、変態的な料理人だけです》
アオイが冷静なトーンで告げると同時に、アイリがぴょんぴょん跳ねる。
≫《うけるー! おっちゃん、ナイスアシスト! あーし、ワイン持ってこよっか? 亜空間のワインセラーから、大正時代の超高級ヴィンテージ引っ張り出してあげる!》
「……バカか。高校生が酒飲めるわけねぇだろ。あと勝手に空間の扉を開けるな、亜空間の湿度が狂う」
桜雅は面倒臭そうに舌打ちをしながらも、目の前の肉塊に視線を落とした。その解剖学的な美しさに、ふっと細い指が反応する。フェチズムを刺激されるような、完璧なまでの筋肉の繊維密度。
「……ミツキ、準備しろ。半端な焼き方したら、この牛に免じてお前の頭を重力波で圧壊する」
≫《……もう、オウガ様ったらすぐ物騒なことを言います。わたくしの完璧な火入れに任せてくださいませ。その代わり、変なタレをドバドバかけたら絶交ですからね》
ミツキのツンとした念話が脳内に響き、異空間のシステムから銀色の調理器具一式が滑り出るように現れた。
桜雅はアンニュイな足取りでキッチンに歩み寄ると、その長い足先で床を軽く蹴った。瞬間、局所的な重力制御が発動し、空気中の酸素濃度と熱伝導率がミリ単位で最適化される。魔法ではなく、理(ことわり)の暴力による究極の直火焼きステージの完成だ。
「よし……始めるぞ」
桜雅が指を軽く弾くと、『クレーテーの牡牛』の肉塊が空中へふわりと浮遊する。外側は重力子圧縮によって一瞬でメイラード反応を起こさせ、旨味を極限まで閉じ込める。内側は真空状態のまま、分子の微小振動(超低周波熱)で芯までじっくりと均一に熱を通す。
じゅうぅ、と官能的な音を立てて香ばしい脂が弾け、周囲一帯にただよう芳醇なスパイスの香りが広がる。隠し味としてアイリがこっそり持ち込んだ異世界の幻のハーブと、ナノが丁寧にすり下ろした大地の結晶塩が、極上の肉汁と最高のマリアージュを奏でた。
「……できたか」
桜雅が重力を解除すると、完璧なミディアムレアに仕上がった極上のステーキが、ピカピカに磨き上げられた大皿の上に音もなく着地した。
ナイフを入れるまでもなく、フォークの重みだけでホロリとほどける繊維。あふれ出た肉汁はルビー色に輝き、周囲の重力レンズをわずかに歪ませるほどの質量感を放っている。
「……お、おいおい……なんだこの匂いは……!?」
ハインリヒが目を見張り、後ろの黒目女性たちも思わず息を呑んで見つめる。
桜雅はフォークで一口大の肉をすくい上げ、冷めた目でそれを見つめると、ゆっくりと口に運んだ。
瞬間――。
芳醇な旨味が舌の上で爆発し、まるでブラックホールの事象の地平面を抜けたかのような濃厚なコクが脳髄を駆け抜けた。硬いはずの神話級モンスターの肉が、まるで高級な絹ごし豆腐のように歯の隙間で溶けていく。
≫《……っ! 味覚センサーの限界突破を確認! アミノ酸の奔流が脳の報酬系を直接刺激しています! オウガさん、これ、美味しすぎます……!》
≫《やばっ! 肉汁が口の中で宇宙遊泳してる感じ! あーしも一口ちょうだい、マジで!》
≫《……仕方ありませんね、オウガ様、美味しいですか? ……ふん、わたくしの火入れが完璧だから当然ですけどね》
脳内での三者三様の絶叫とツッコミを軽くスルーしながら、桜雅は無言でもう一口、口に運んだ。不機嫌なはずの彼の顔に、ほんのわずかな至福の表情が浮かぶ。
「……まあ、合格だ。お前の持ってきた肉、悪くはねぇよ、組長」
「ほ、ほんまか! よっしゃあ! 苦労して魔大陸の崖を駆けずり回った甲斐があったわ!」
大喜びでガッツポーズをするハインリヒを尻目に、桜雅は冷めかけた紅茶を一口飲み、やれやれと首を振った。
――魔大陸の13王国、残りの更地化はまだまだ遠い。だが、この極上のグルメがあるうちは、もう少しこの面倒くさい日常に付き合ってやってもいいか。
不機嫌な特異点は、満足感に浸りながら、次の更地候補のリストへと気だるげに視線を投げたのだった。
異空間に広がる「平成初期の学校」を模したマイクロ・コスモス。
ここには、異世界の不条理な差別から桜雅の手によって救出された、約3,300名を超える黒目の女性たちが暮らしている。
昼下がりのやわらかな光が差し込む木造校舎の廊下では、今日も賑やかな声が響いていた。
「学園長先生! 観葉植物のお世話、終わりましたー!」
「桜雅さま! 今日の数学の課題、アオイ先生のスパルタ指導で無事に満点取れました!」
花柄のエプロンをつけた元奴隷の少女たちが、手にしたジョウロやノートを嬉しそうに掲げながら、廊下のベンチで気だるげに腰掛ける桜雅へ次々と笑顔を向ける。
「……五月蝿い。廊下は走るな、転んで顔面砕けても知らんぞ」
桜雅は片手で文庫本を開いたまま、目線すら上げずに返した。しかし、彼の足先はベンチの足元で微小な重力場を密かに展開しており、少女たちが万が一足を滑らせてもふんわりと着地できるよう、万全のフェイルセーフを張っている。
≫《オウガさん、ツンデレの不整合値が限界を突破しています。口では突っぱねながら空間の摩擦係数を12%上昇させて滑り止め加工を施すのは、ただの保護者バカです》
アオイが青い光を明滅させながら、容赦ない事実を脳内に投下する。
≫《ギャハハ! オウガってばホント分かりやすいー! あーし知ってるよ、昨日もナノちゃんが作ってくれたお弁当のタコさんウィンナー、一番最後に愛おしそうに食べてたもんねー!》
アイリが空間の隙間からひょっこり顔を出し、ゲラゲラと笑う。
≫《……あ、あれはナノが頑張って作ったからです! わたくしも手伝いましたし! オウガ様が美味しそうに食べるのは当然です!》
ミツキがスライムの体をプルプルと揺らしながら、必死に桜雅を擁護(?)する。
「……脳内ノイズがうるさい。お前ら全員、事象の地平面の彼方に放り込むぞ」
桜雅が不機嫌そうに額を指で押さえていると、廊下の向こうから「とてとて」と可愛らしい足音が近づいてきた。
「がくえんちょう……」
絶対零度のバグを纏う幼女・ナノだ。かつては孤独と冷気に震えていた彼女も、今ではすっかり打ち解け、桜雅のブレザーの裾を小さな手でギュッと掴んでいる。
「……なんだ、ナノ。またアオイの補習で知恵熱でも出たか」
「うん、ちがうの。あのね、おさいほうの時間にね、ぞうきん縫えたの。学園長に、あげる……」
ナノが差し出してきたのは、少し歪なステッチが入った真っ白な雑巾だった。隅っこには、ヘタクソだが一所懸命に刺繍された「おうが」の文字。
桜雅はその解剖学的に完璧な造形をした長指で雑巾を受け取ると、じっと見つめた。
「……縫い目が不揃いだし、糸の張力が均一じゃない。物理的に強度が弱いな」
ボソリと辛口なコメントを吐き捨てる桜雅。しかし、その手先からは一瞬だけ極小の重力圧が照射され、糸の一本一本が絶対に解けないレベルで高密度に圧着固定された。
「……まあ、机拭くくらいには使える。ありがとよ」
桜雅が雑巾をポケットに仕舞い、ナノの頭をガシガシと雑になでると、ナノはパッと顔を輝かせて「えへへ……!」と嬉しそうに微笑んだ。
周りで見守っていた黒目の生徒たちから、「きゃー!」「学園長先生、やっぱりお優しいー!」と黄色い歓声が上がる。
「ちっ……だから五月蝿いと言ってるだろ」
桜雅は足癖悪くベンチをポンと蹴り上げると、そのままふわリと宙に浮いて校舎の屋上へと逃げ出した。
青く澄み渡る偽物の空と、暖かな日差し。脳内では相変わらず三者の賑やかなツッコミが絶えないが、この不機嫌な特異点にとって、この騒がしくも温かな日常だけは、決して更地にはできない特別な空間だった。