第26話:不機嫌な特異点とはんなりした更地、あるいは極上の京風出汁
シュヴァルツ・オストライヒ帝国の重力錨(いかり)の打ち直しを終えた桜雅(おうが)たちは、魔大陸を巡る「更地化ツアー」の第二の目的地――『レーヴ・フランベール王国』へと足を踏み入れていた。
そこは本来、色鮮やかな木造とハーフティンバー様式の重厚な家々が立ち並び、伝統と風情が漂う美しき王国……のはずだった。
「……あかん、あかんわ。こんなん、物理的に絶対無理どすやん?」
優雅な刺繍が施された黒シルクのローブを羽織り、扇子でパタパタと顔を仰いでいる男――レーヴ・フランベール王国の魔王、リュシアン・ド・ヴァロワが、慇懃無礼(いんぎんぶれい)な笑顔のまま深いため息をついた。
彼の視線の先では、重力定数が通常の5分の1まで低下した影響により、王国の誇る歴史的大聖堂や石造りの回廊が、まるで綿菓子のようにふわふわと空中へ浮遊し、自重と浮力のアンバランスでミシミシと音を立てて崩壊しかけている。
「オウガさん、見てみとおくれやす。我が国の美しい街並みが、まるで浮世絵のバグみたいになってますやろ? はよ、綺麗サッパリ更地にしてくれはりません?」
「……お前、自分の国だろ。少しは悲しそうな顔をしたらどうだ」
観光バス型異空間のタラップから降り立った桜雅は、足癖悪く車輪の輪留めを足指で軽く蹴りながら、呆れたようにジト目を向けた。
≫《オウガさん、言語解析結果を更新しました。当該魔王の言語様式は、京都府京都市中京区周辺の「はんなり方言」と99.8%一致。慇懃無礼な態度と腹の底で見下す思考アルゴリズムが完全に再現されています》
アオイが冷徹な数値データを脳裏に直接打ち込んでくる。
≫《うけるー! めっちゃ「京都のぶぶ漬け」勧めそうな顔してるじゃん! オウガ、騙されちゃダメだよー! 「お茶でも飲んでいかれませんか」は「はよ帰れ」の意味だからねー!》
アイリがギャル全開のノリで脳内からヤジを飛ばす。
≫《……オウガ様。あの男、裏で何を考えているか分かりません。わたくしが重力圧でペシャンコにしておきましょうか?》
ミツキのスライム体が物物しい形状へ変形しかけるのを、桜雅は脳内の手をかざして制した。
「……ま、ええわ。どっちにしろ、この歪んだ重力場のままじゃ、住居の梁(ハリ)も持たん。お前さんの『理の書き換え』で、ドカンと一発、綺麗にしておくれやす」
リュシアンが扇子をパチンと閉じると、その優雅な動作とは裏腹に、超高密度の漆黒の重力球が彼の周囲に瞬時に数千個展開された。脳筋と好戦的気質が基本スペックの魔王らしく、威圧感と攻撃性能だけは無駄に高い。
「言葉遣いは上品だが、手癖が最悪だな、京都人」
桜雅は気だるげに鼻で笑うと、ブレザーのポケットに手を突っ込んだまま、右足の先で空間の「ある一点」をトンと叩いた。
――重力の定義とは、質量の引き合いと時空のゆがみ。だが、特異点である桜雅の足先が書き換えたのは、その局所空間における物理定数そのものだった。
ズガガガガガガッ……!!!!
空間そのものが悲鳴を上げた。
リュシアンが放とうとした数千の重力球は、桜雅が書き換えた局所重力場の超高圧によって一瞬で圧縮され、原子レベルまで粉砕。さらに、空間の収縮波が王国全域へと高速で伝播していく。
「あ、あら……? 浮いてた大聖堂が……」
リュシアンの目が見開かれる。
重力異常で空中へ爆破拡散しかけていた王国の建築物、インフラ、ガレキの一切合切が、まるで時間を逆回しするように一直線に地上へと引き戻され、超高密度の重力波によって分子単位で粉砕・消滅していく。
――ほんの3秒。
轟音が止んだ時、そこには障害物が一切存在しない、見渡す限りの完璧な「平原(更地)」が広がっていた。土壌の密度すら均一に整えられ、まるで新築住宅の分譲地のような美しさである。
「はい、更地。満足か、爺さん」
桜雅が足指をパチンと鳴らして重力圧を解除すると、リュシアンは開いた扇子で口元を覆い、ガタガタと震え出した。
「……す、凄まじいどすな……! ほんまに、何ひとつ残さず更地に仕上げはった……! これなら、新しいハーフティンバー街も建て放題どすえ……!」
「……褒めてんだか何なんだか分かんねぇな」
桜雅はやれやれと首を振ると、異空間の扉を開けた。
そこからは、ナノをはじめとする学園の生徒たちが、温かい特製の出汁スープと工具箱を持ってぞろぞろと降りてくる。
「さあ、更地化完了だ。アイリ、建材と建築システムのデータを展開しろ。一気に街を錬成するぞ」
≫《ラジャー! 建築データロード開始! はんなり更地からの劇的ビフォーアフター、行ってみよー!》
◇
見渡す限りのフラットな更地と化していた『レーヴ・フランベール王国』の中心地。
アイリの空間錬成システムが超高速で新しいハーフティンバー様式の家々を組み上げていく傍らで、桜雅は折りたたみ式のパイプ椅子に深々と腰掛け、気だるげに脚を組んでいた。
「……はぁー、ほんまに何もない真っ平らな更地になってしまいましたなぁ。清々しいくらいどすわ」
傍らで魔王リュシアンが扇子を仰ぎながら、どこか毒の抜けた顔で更地を見つめている。そんな魔王の隣に、トテトテという小さな足音が近づいてきた。
「がくえんちょう……おつかれさま……」
ナノだ。小さな手で一生懸命に抱えているのは、木製の漆塗りのお盆。そこには湯気がふわりと立ち上る土鍋と、透き通った黄金色の出汁が注がれたお碗、そして丁寧に焼かれた出汁巻き玉子が並べられていた。
「……なんだ、ナノ。また何か作ったのか」
「うん……ミツキおねえちゃんと……きょうの、おだしのおりょうり……」
ナノが誇らしげに胸を張ると、桜雅の脳内にミツキのツンとした声が割り込んでくる。
≫《……オウガ様。この国の魔導士団が持っていた高級な利尻昆布に似た魔界昆布と、特製のマグロ節を重力抽出して作りましたの。文句を言ったら、この出汁を頭から浴びせますからね》
≫《うけるー! ミツキちゃんってば、朝から出汁の温度管理に超マジだったもんねー! 0.1度刻みで重力圧調整させてさぁ!》
アイリがゲラゲラと笑い、アオイが冷静な解析データを重ねる。
≫《オウガさん、出汁のイノシン酸とグルタミン酸の相乗効果率が限界値を突破しています。旨味の数値が通常の和食の8.4倍に達しています。これ、脳がバグるレベルの絶品です》
「……脳内ノイズが騒がしい」
桜雅はため息をつくと、足先でパイプ椅子の位置をわずかに調整し、お盆を受け取った。
まずは、澄み渡る黄金色のスープ――『京風出汁のかぶら蒸し』の蓋を開ける。
ふわっと広がるのは、上品で奥深い昆布と節の香り。そこにナノが丁寧に擦り下ろした蕪(カブ)の甘みと、隠し味の柚子の香りが重なり、空間の重力定数すら和らぐような感覚に包まれる。
レンゲですくい、一口口に運ぶ。
「――っ」
桜雅の眉がピクリと跳ねた。
口に入れた瞬間、熱々の餡(あん)が舌を優しく包み込み、出汁の爆発的な旨味がじんわりと全身の細胞に染み渡っていく。とろけるようなカブの食感と、中に仕込まれた甘みのある身(ガルーダの鶏ささみ肉)のジューシーさが完璧なハーモニーを奏でていた。
「……美味しい……ですか?」
ナノが不安そうに、でも期待に満ちた目で桜雅の顔を覗き込んでくる。
桜雅は数秒ほど無言で味わうと、いつものジト目のまま、そっぽを向いてボソリと呟いた。
「……出汁の塩分濃度が0.01%高い。まあ、暑い中作業した後の水分補給には丁度いいがな」
そう言いながら、桜雅はすかさず二口目、三口目をレンゲですくい、出汁巻き玉子にも箸を伸ばす。箸を入れた瞬間にジュワッとあふれ出す出汁巻き玉子を口に含み、心の底から満足そうな息を吐き出した。
「ふふっ……学園長先生、素直じゃないんだからー!」
「ナノちゃん、大成功だね!」
周囲で見守っていた生徒たちからドッと温かな笑いが起きる。
「……おい、京都の魔王。お前のところの昆布、悪くねぇぞ」
「あら、お気に召しましたか? なら、あの更地の角に昆布の乾燥工場でも建ててくれはりませんかねぇ」
「調子に乗るな、蹴飛ばすぞ」
◇
出汁の余韻が残る更地の上で、アイリの空間錬成システムと桜雅の微細な重力制御が最後の一仕上げに入っていた。
「――全モジュールの配置完了! 構造体の分子密度固定、完了したよーっ!」
アイリの陽気な掛け声とともに、桜雅が右足の先でトントンと地面を鳴らす。
途端に、ナノメートル単位で組み上げられた数千棟の建造物が、まるで静かに芽吹く大樹のように地面から立ち上がった。
一階は気品ある木造の店舗。二階以上は白壁とダークブラウンの木組みが美しいハーフティンバー様式。屋根には防火性に優れた深い瓦が整然と並び、幾何学模様のように整えられた石畳の街路が、夕日に映えてしっとりと濡れたような光沢を放っている。
平格子、出格子をはじめ、糸屋格子、酒屋格子、麩屋格子、炭屋格子、仕舞屋格子など、商う種類ごとにデザインされた趣ある京町家風の街並みが完成された。
かつて重力異常のバグで空中に散り散りになり、自重で崩壊しかけていた『レーヴ・フランベール王国』が、伝統的な風情を完璧に残したまま、現代建築をも凌駕する耐震・耐重力構造の【新街区】として生まれ変わった瞬間だった。
「……う、嘘どすやろ……?」
扇子を半開きにしたまま、魔王リュシアンの手がカタカタと震えていた。
その背後に集まっていた数万の王国の民からも、地鳴りのような息を呑む音が漏れる。
「浮いてへん……! 建物がひとつも傾いてへんし、以前のどの時代よりも……ずっとずっと、風情があって美しく蘇っとる……!」
リュシアンは、いつもの慇懃無礼で気取った笑みを完全に失っていた。
目にはうっすらと涙を浮かべ、膝から崩れ落ちるように更地の……いや、新しく錬成された強固な石畳に手をつく。
「オウガさん……あんた、ほんまに『特異点』どころの騒ぎやありまへんわ。うちらの千年の歴史とプライドを、何ひとつ損なわずに救ってくれはった……」
民たちが一斉に歓声を上げ、石畳にひれ伏して感謝の祈りを捧げ始める。
「魔王様! 街が……俺たちの家が前より頑丈になって戻ってきたぞ!」
「あのお方だ! 重力を統べる神様だ!」
≫《オウガさん、周辺住民の感情変数が『絶望・不安』から『歓喜・崇拝』へと一括書き換えされました。なお、オウガさんに対する『信仰度(仮)』は測定不能の無限大(エラー)を記録しています》
アオイが冷静なトーンで脳内に異常値を報告する。
≫《うけるー! おっちゃんガチ泣きじゃん! 「ぶぶ漬け」とかいって意地はってたのに、めっちゃ素直になってるー!》
アイリが爆笑しながら空間の隙間で手を叩く。
≫《……ふん、当然の結果です。オウガ様が本気を出せば、世界の理ごと作り直すことなんて容易いのですから。……でも、少し誇らしいですね》
ミツキが満足そうにスライムの体をくねらせた。
「……拝むな、鬱陶しい。俺はただ、更地が見苦しかったから平らに整えて、アイリの建材を押し付けただけだ」
桜雅は心底面倒くさそうに吐き捨てると、ブレザーのポケットに手を突っ込み、クルリと背を向けた。
足癖悪く転がっていた小さな小石を足指で蹴り上げると、小石は重力レンズ効果で綺麗な放物線を描き、そのまま異空間(マイクロ・コスモス)の扉の鍵穴へと吸い込まれていく。
「がくえんちょう、おうち、すごいの出来たね……!」
ナノがパッと目を輝かせて桜雅の裾を引っ張る。
「……まあな。これで当分、この街の奴らが重力のせいで騒ぐこともねぇだろ。行くぞ、ナノ。帰って補習の続きだ」
「うん! えへへ……!」
◇
『レーヴ・フランベール王国』の新街区錬成から一夜明け――。
マイクロ・コスモスの敷地内にある木造校舎の中庭には、ずらりと並べられた長机と、そこから溢れんばかりに盛られた圧巻の「海の幸」が広がっていた。
「オウガさん、これ見てよ! うちの国の深海魔導士団が総力あげて引き揚げてきた『魔界幻影マグロ』と『神聖タラバガニ』、それから極上の『利尻風特級昆布』どすえ! 街を直してもらったお礼に、全部持ってきましたで!」
昨日泣き崩れていたはずの魔王リュシアンが、扇子をぶんぶん振り回しながら上機嫌で叫んでいる。その横では、シュヴァルツ・オストライヒ帝国の組長ハインリヒも「おう、俺のところからも特大のワイルドボアの角煮持ってきてやったぞ!」と謎の対抗心を燃やしていた。
「……五月蝿い。勝手に校庭で宴会を開くな」
桜雅は折りたたみ椅子に深々と腰掛け、解剖学的に完璧な足指で手近な空き缶を転がしながらジト目を向けていた。
≫《オウガさん、現在の中庭における生鮮食品の総重量は4.8トンを突破。特に『利尻風特級昆布』から抽出されるグルタミン酸濃度は、地球の最高級昆布の24倍に達しています》
アオイが冷静なトーンで数値を脳内に読み上げる。
≫《うけるー! めっちゃカニ大きいじゃん! あーし、カニミソたっぷりの甲羅焼き食べたい! オウガ、重力波で一瞬で甲羅割ってよー!》
アイリが空間の扉から身を乗り出し、目を輝かせる。
≫《……もう、アイリは騒がしいですね。オウガ様、わたくしがこの特級昆布と魔界マグロのアラから取った『特製極上海鮮出汁』で、大鍋の海鮮ちゃんこ仕込みましたわ。お口に合わないはずがありません》
ミツキのスライム体から湯気が立ち上り、中庭全体に芳醇な出汁の香りが広がる。
「がくえんちょう……おカニさん、剥けた……」
小さな手で真っ赤なカニの足を一生懸命むいたナノが、ちょこんと桜雅の膝の上にカニ身を差し出してきた。少し身が崩れているが、プリプリの果肉から濃厚な潮の香りが漂っている。
「……ナノ。お前、殻で指切ってねぇだろうな」
桜雅はナノの手先を素早く観察し、異常がないことを確認すると、差し出されたカニ身をぽんと口に放り込んだ。
瞬間――。
口内で弾ける極上の甘みと、特級昆布の出汁でボイルされた芳醇な旨味。身の繊維一本一本が重力定数を狂わせるほど高密度で、噛むたびに溢れ出すエキスが脳髄を直接揺さぶる。
「……っ」
「どう……? 美味しい……?」
ナノがパッと目を輝かせて見上げてくる。
桜雅はフッと目を逸らし、いつもの不機嫌な口調のまま、そっぽを向いてボソリと言い放った。
「……カニの身の引き締まり方が甘い。重力圧であと10%締めた方が旨味が凝縮する。……まあ、ナノが剥いたから食えるレベルにはなってるがな」
≫《はい、出ました! オウガさんの不整合ツンデレ発言! 実際には脳内幸福度指数が98%まで跳ね上がっています!》
≫《だよねー! オウガってば、ナノちゃんに超激甘なんだからー!》
≫《……ふふ、わたくしの作った出汁カニ雑炊も、しっかり完食していただきますからね、オウガ様》
「学園長先生、素直じゃないんだからー!」「ナノちゃん、よかったね!」
約3,300名の黒目女性たちと、2人の魔王たちがドッと爆笑し、中庭はさらなる熱気に包まれた。
◇
数千人の大宴会が嘘のように引いた夕暮れ時のマイクロ・コスモス。
中庭に残されたのは、宴のあとの静けさと、ほんのり香る炭火と出汁の残り香だけだった。
木造校舎の縁側に腰掛けた桜雅は、ブレザーのポケットに両手を突っ込んだまま、茜色に染まる偽物の空をぼんやりと見上げていた。その足先は相変わらず不機嫌そうにプラプラと揺れ、足指の微小な重力コントロールで数個の小石を器用に空中で回転させている。
「がくえんちょう……」
トテトテと足音が近づいてきて、小さな温もりが隣にちょこんとおさまる。ナノだった。
彼女の手には、少し冷めかけたほうじ茶の入った湯飲みが両手でしっかりと握られている。
「……なんだ、ナノ。もう寝る時間だろ」
「ううん……まだ、ねむくない。お茶、いれてきた……」
ナノが差し出してきた湯飲みを、桜雅はいつもの面倒臭そうなジト目を向けながら受け取った。
指先に伝わる温かさに、ほんのわずかに眉間のシワが緩む。
一口すすると、香ばしいほうじ茶の香りが鼻腔を抜け、宴会ではしゃぎ疲れた胃の腑にじんわりと染みわたった。
≫《オウガさん、体温および心拍数の変動値が正常値の範囲内で安定。リラクゼーション効果が最大値に達しています。……たまには、こういう静寂もアルゴリズム的には悪くありませんね》
アオイが青い光を優しく明滅させながら、穏やかなトーンで告げる。
≫《うけるー! めっちゃおじいちゃんみたいな感想じゃん! でも、たまには静かでいいよねー。あーしもお肌のメンテナンスしよっと》
アイリが亜空間の片隅で伸びをするような気怠い声を響かせる。
≫《……オウガ様。あまり夜更かしをさせると、ナノの成長ホルモンの分泌に響きますからね。ほどほどにしなさいよ》
ミツキの優しい声が、まるで母親のように脳内の隅っこで囁いた。
桜雅は脳内のノイズをまとめて無視すると、湯飲みを縁側に置き、ふっと息を吐いた。
「……なぁ、ナノ」
「ん……?」
「お前、ここにきてから、夜はちゃんと眠れてるのか」
かつては絶対零度のバグを纏い、冷たい闇の中で一人震えていた幼女。その小さな頭にそっと手を伸ばすと、桜雅はいつもの雑な手つきでナノの髪を軽くくしゃりと撫でた。
ナノは気持ちよさそうに目を細めると、桜雅のブレザーの袖をキュッと小さな手で握りしめた。
「うん……あったかい。がくえんちょうが、いるから……こわくないよ」
「……っ」
桜雅はわずかに言葉を詰まらせ、フッと視線をそらした。
気だるげで、ひねくれていて、筋の通らないことが大嫌いなだけの高校生――牧桜雅。そんな彼が、この異世界で背負い込んでしまった約3,300名の「理不尽から救い出した者たち」。その中心にいるこの小さな少女の温もりは、時空を歪めるブラックホールの中心よりも、よっぽど厄介で、そして温かかった。
「……当たり前だ。俺がここにいる限り、お前らの日常を壊す奴は、理の端っこから残らず更地にしてやる」
ぶっきらぼうに吐き捨てた桜雅の口元には、しかし、ほんの小さな笑みが浮かんでいた。
茜色の夕日がゆっくりと沈み、マイクロ・コスモスに夜の帳が下りていく。
不機嫌な特異点と、小さな迷い子の穏やかな時間は、静かに、そして温かく流れていくのだった。