第3話:言語の引力と、理不尽な値札
肉の準備だけは、無駄に完璧だった。豚や牛、鶏に留まらず、この広大な未開の草原には羊、鹿、熊、果ては異世界特有の大型馬肉までが転がっている。地球の家畜など比較にならないほどの巨躯と豊富な脂身を蓄え、それぞれが高密度の魔石を内包している。素材の回収効率としてはこれ以上ない。
――だが、肝心の問題が残っていた。
「……次は、言葉かよ」
吐き捨てるように呟いた俺の声は、果てしない草原の風にかき消された。心底鬱陶しい。ただそれだけで、奥歯がミシミシと軋むような嫌悪感が込み上げてくる。誰のために俺が何かをしてやるつもりなど、毛頭ない。それなのに、生きるために、あるいはこの世界で最低限の意思疎通を図るために、俺がわざわざ言葉を覚えなければならないという事実そのものが、自分自身への強い苛立ちへと変わっていく。
どうにかしてこの理不尽な状況をスルーできないものか。そんな逃げ道はないと分かっていながら、放置すればただの詰みだ。俺は溜息を呑み込み、鬱屈とした思考を断ち切るように脳内で三つの異形に呼びかけた。
≫《言語の習得は生存確率の底上げに直結します。文句を言う前に認知領域を開放してください。知性のリソースを無駄に浪費しないでください》
≫《あーし的には、言葉なんてノリとフィーリングでどうにかなるっしょ! ほら、異世界の辞書データとかウェーブ経由で脳ミソに直接流し込んじゃえば一瞬だって! やっちゃいなよ》
≫《……その適当な提案に賛同してはなりません。脳のシナプスに急激な負荷をかける言語インプットは、一時的な三半規管の狂いや脳漿の沸騰を引き起こすリスクがあります。ですが、適切に神経系を保護して差し上げますから、少しだけ覚悟を決めてくださいませ》
異形たちの脳内会話は、相変わらず的外れだったり冷徹だったりしてうるさい。しかし、その喧騒すらも、この広すぎる異世界で正気を保つための唯一の錨になっていた。
俺は硬質な土を靴のつま先で軽く抉るように蹴り飛ばし、重力制御による認知加速のスイッチを入れる。脳の処理クロックを極限まで引き上げ、異世界の言語体系を物理の波形として無理やりねじ込む――そのための準備を完了させた。
視界がわずかに歪む。
重力制御による認知加速。脳の処理クロックが強制的に跳ね上がり、周囲の時間が澱んだように遅く感じられる。耳の奥でキーンという耳鳴りが響き、三半規管が本来の重力場ではないと警報を鳴らして脳髄を揺さぶった。血の気が引き、視界の端が真っ黒に染まるブラックアウトの感覚。
≫《異世界音声波形のキャプチャ完了。構文解析、形態素分解、および意味ネットワークの構築を開始します。余計な雑念を捨てて情報を受容してください》
≫《うわ、なんか頭の中で文字がバグったみたいに乱舞してるっしょ! 脳ミソがジュージュー焼ける音が聞こえそう〜、がんばれあーし達の依り代!》
≫《……無駄口を叩いている暇があるなら神経保護の出力を上げなさいよ、馬鹿が。――意識のブラックアウトに耐えてくださいませ。理性が崩壊しないよう楔を打ち込み続けますから》
異形たちの声が重なり合い、頭蓋骨の内側で巨大なうねりとなって暴れ回る。
激痛と吐き気をねじ伏せるように、脳の引き出しへ異世界の膨大な言語データが強制的に書き込まれていく。数秒――体感では何時間にも思えた情報の奔流が、ようやくピタリと収まった。
「っ……、はぁ、はぁ……」
浅く乱れた呼吸を整えながら、俺はその場にどっかりと腰を下ろす。
口の中に鉄の味が広がった。頭が割れるように痛むが、思考の泥沼がクリアに晴れ渡り、頭の芯にはっきりと「異世界の言語」が定着しているのが分かった。言葉のパズルが勝手に脳内で組み上がり、意味として成立していく不気味な感覚だ。
≫《言語インプット、正常終了。脳のダメージは保護により許容値内です。……流石ですね、生物としての生存スペックだけは褒めておきます》
≫《やったじゃん! これで言葉の壁は完全クリアってわけだ。ねえねえ、覚えたての記念すべき第一声、なんて喋る? 「お前らの言語、クソ分かりづらいんだけど」とか?》
≫《……最初の言葉で現地の人間に喧嘩を売るような真似は絶対に止めなさい。まったく、余計な流儀をこじらせないか気が気ではありませんけれど……》
うるさい。そんなものは端から予定していない。
俺は頭痛の残るこめかみを軽く揉みほぐしつつ、立ち上がる。視線の先、草原の遠くに細い街道が見える。あそこから森に入って200キロメートルほど東に行けば、そこそこの村があり、冒険者たちで賑わっているらしい。この辺一帯の狩り拠点となっており、村では珍しい宿屋や冒険者ギルドもあるとのことだった。
200kmの森を抜けて人間の生活圏が近づくにつれ、何やら不穏なざわめきと足音が聞こえてきた。
どうやら、この荒地でも無駄にうろついている輩がいるようだ。
「――面倒くせえな」
低く呟いた言葉は、先ほど頭に叩き込まれたばかりの異世界の言語で、鮮明に響いていた。
取り敢えずアオイに異世界に合わせた服装やバッグを用意してもらい、物陰で着替える。靴が重くて嫌なので見た目を似せた靴を用意してもらった。
遠くに見えているのは、全裸の少女を引き連れた冒険者らしき人間だった。
「あれって山賊と、攫われた女じゃねぇよな?」
≫《あれは冒険者と奴隷ですね》
「どういう事だ?」
≫《この惑星では瞳の色が黒色の女は差別されて奴隷となります。奴隷は着衣が許されずこういう場所で性的処理をします。汚れても良いように危険ではない荒れ地などで処理をするようです。また冒険者は首に掛けたドッグタグ(認識票)で判断ができます》
脳内で冷静に告げられた事実が、俺のなかの「曲ったこと・筋の通らないことが大嫌い」という神経を逆撫でしていく。
この世界における経済的価値と身分制度の歪みは明白だった。
奴隷の価格は安いパン10個分――銅貨10枚(地球の約1,000円相当)。さらに、森に入る手前に奴隷を連れて奴隷商の元へ戻すと、手数料として奴隷1人につき銅貨2枚が返金されるというシステムが構築されている。
瞳の色が黒というだけの理由で、女は服すら剥ぎ取り、捨てられ、道具のように消費される。
理不尽な身分差と、それを当然の顔で踏みにじるクズの構図。
俺は小さく息を吐き出すと、気怠げにポケットへ手を突っ込み、リーティニス村へと足を踏み入れた。
リーティニス村は畑などがほとんど見当たらず、もっぱら冒険者のための拠点として機能していた。宿屋や商店はすべて冒険者向けで、酒場の喧騒が絶えない。街としての色街こそないが、その代わりに女の奴隷たちがそのはけ口として扱われており、男の奴隷の姿はほとんど見当たらなかった。
俺は適当な宿を押さえると、部屋の壁にアイリの空間を開き、まずはそこで一息ついて荷物を整理した。
「先ずは何をするべきか教えてくれ」
≫《この村には運よく冒険者ギルドがありますから、冒険者登録をお勧めします。異世界の通貨や情報の入手が容易になりますので》
≫《身分の証明にもなるし、街や都市への出入りのためにも必要だね》
≫《武器や防具、食料などの調達は不要です。わたくしにすべてお任せくださいませ》
異形たちの助言に従い、俺は到着の翌日、冒険者ギルドへと足を運んだ。
活気のあるギルド内は多くの者で賑わいを見せている。案内されたカウンターで初期登録の手続きを尋ねると、待たされることもなくスムーズに受付へ通された。
最初のドッグタグは木製。そこから鉄製、牙製、銅製、銀製、金製、ミスリル製、オリハルコン製、アダマンタイト製へとランクが上がっていく。
それに対応して、冒険者の階級もウッド級、アイロン級、ファング級、ブロンズ級、シルバー級、ゴールド級、ミスリル級、オリハルコン級、アダマンタイト級と呼ばれ、今の俺は最下層であるウッド級の冒険者というわけだ。
まずはアオイの助言を受け、不要な魔石や素材の一部を換金することにした。
一部と言っても非常に多い。買取カウンターの場所を確認し、魔石と素材をアオイに確認する。
「すまないが、今日冒険者登録をした者なんだが、買取はここでいいか?」
「はい、こちらで間違いありません。魔石と素材ですね?」
受付の青年は俺とそう変わらない年頃に見えた。真面目でキビキビとした受け答えに、不快感はない。
「モンスターの解体はこっちで済ませてある。アイテムボックスに大量にあるから場所を提供して欲しい。状態を確認して、買い取りの処理をしてくれ」
「アイテムボックスですか!!!」
「しっ!声が大きい、周りに聞こえてしまうだろ。何か遭ったらギルドに責任を取ってもらうぞ」
「あっ!すいません」
受付の青年の驚きが収まらない様子を見て、俺は小さく舌打ちをしたい衝動を抑えた。騒ぎを大きくする気はないが、この膨大な量を仕舞うためには、どうしてもある程度の空間が必要になる。
「……で、どこに出せばいい?」
「あ、あちらの裏手にある広めの地下倉庫へお願いします。確認用のテーブルがありますので、そちらへ……」
青年の案内で、俺たちはギルドの建物内にある薄暗い地下倉庫へと移動した。
周囲に他の冒険者の姿がないことを確認し、俺は倉庫の床に視線を落とす。
≫《周囲の構造物および壁面の強度をスキャン完了。アイテムボックスからの物理質量・体積の放出による局所的な破裂圧に注意してください》
≫《わぁ、いよいよお披露目だね! 一体どれくらいの素材と魔石が出てくるのか、あーし的にもワクワクしちゃうな〜》
≫《……あまりにも大量の素材を一度に出せば、倉庫の床が抜けるか、最悪の場合は空間圧縮の反動で重力崩壊を引き起こしますわ。少しずつお出しになってくださいませ》
異形たちの呆れたり囃し立てたりする声を聞き流しながら、俺は右手の指先を軽く宙に滑らせた。
アオイの管理する「亜空間」のゲートが、わずかに重力を歪ませて開く。
ズズン、と。
控えめに、しかし圧倒的な質量を持つ塊が、石の床へと放り出された。
「――っ!?」
受付の青年が、その光景を目にして文字通り腰を抜かした。
床に転がったのは、地球の家畜など到底足元にも及ばない巨躯を誇る、オークジェネラルの上質な肉塊と、その核である禍々しく黒光りする高密度魔石だ。さらにその脇へ、ワイルドブルの分厚い皮と、不気味なほどに重みを感じさせる巨大な角が次々と転がり出てくる。
どれもこれも、血抜きと処理が完璧すぎて逆に不気味なほどの代物だった。モンスター特有の生臭さではなく、肉本来が持つ上質な脂の香りと、魔力が凝縮されたオゾン臭が倉庫の中に一気に立ち込める。
「なっ……これ、全部……一人で狩ったんですか?」
青年は青い顔を引きつらせながら、床に積み上がった山を見上げた。その手は震え、ドッグタグに刻まれたばかりの「ウッド級」という文字と目の前の現実が脳内でどうにも結びつかないらしかった。
「ああ。たまたま歩いてたら、向こうから勝手に転がり込んできたんでな」
「か、勝手に……? この規模の群れを……? しかも、解体の精度が異常に高すぎます……! 一切の無駄な傷がなく、急所だけを正確に貫いて完璧に解体している……こんなの、解体だけを見ても熟練の解体師でも何日もかかる仕事です……!」
青年がパニックを起こしかけているのを見かねて、アオイの冷徹な声が脳内に響く。
≫《彼の精神負荷が限界に達しています。これ以上の過剰な情報は処理落ちを誘発するため、換金査定を早急に進めるよう促してください》
≫《あーし的には、もっとドカンと出してギルドの床をブチ抜いてほしいところだけどね! さすがに怒られっかー》
≫《……少しは黙っていなさい。オウガ様、さっさと手続きを終わらせて宿に戻りますわ》
「おい、いつまでビビッてんだ。査定はできるのか? それとも、このギルドじゃ買い切れない規模だったか?」
俺の低く冷たい声に、青年はハッと我に返り、慌ててブルブルと頭を振った。
「で、できます! 買い取りできないわけがありません……! ただ、ウッド級の冒険者が持ち込む物量としては前代未聞すぎて……! ちょ、ちょっとお待ちください、上の者を呼んできます……!」
青年は慌ただしく倉庫を飛び出し、上の階の建物へと駆けていった。
一人残された俺は、積み上げられた肉の山を眺めながら、再びポケットに手を突っ込む。
「……面倒なことになりそうだな」
≫《あなたが規格外の物量を叩き出したのが原因です。ですが、これで当面の資金と、この世界での生活基盤は完全に確保されます》
≫《おっ、偉い人の登場フラグっしょ! 美人のギルドマスターとか出てきたらちょっとアツいんだけどな〜》
≫《……現実逃避も大概にしなさい。これから面倒な身元確認や詮索が始まるのは確実です。いざとなったら重力波でこの街ごと――》
≫《おい、物騒なことをサラッと口走るな》
異形たちの軽口を脳内で一蹴しつつ、俺は腕を組む。
この理不尽な異世界での生活は、こうして、思っていたよりもずっと暴力的な速度で動き始めていた。