第5話:不機嫌な特異点と買い出しの秒読み
アイリが生成した無限の亜空間の広がりの中に、無機質でありながら懐かしいコンクリートの平屋建てが突如として並び立った。それは現代日本における公立学校の意匠を完璧に模したものであり、周囲の不毛な異世界の大地から完全に隔離された、一つの閉じた小宇宙(マイクロ・コスモス)である。
「ねえ、オウガ! どう? この完璧な壁のコンクリート。ちゃんと平成初期の補修跡まで再現したんだから誇ってよ!」
≫《空間の歪み率、許容値内。コンクリートの圧縮強度35N/mm2。無駄にリアルなテクスチャ生成、承認》
≫《……こんな広大な空間に校舎を建てて余った空間はどうするのよバカアイリ。それに、これから始まるのは教育よ? 筋の通らない現実を叩き込まれた被害者たちに、日本のゆとり教育をぶつける気?》
脳内で繰り広げられる三匹のガヤを、桜雅は右の足先で床を軽く小突くようにして無視した。靴底がコンクリートを叩く乾いた音が、静まり返った廊下に微かに響く。
窓の外に目を向ければ、異世界の青白い空が広がっている。その手前には、昨日まで「道具」として値札を貼られ、肉体を踏みにじられていた女たちがいた。
アオイの解析によれば、彼女たちの実年齢は十六歳から三十二歳に及ぶ。しかし、その内面は凄惨な搾取と情報の遮断によってすり減り、言葉すらまともに紡げない状態だった。西の荒野の魔力を枯渇させるための「消耗品」として扱われてきた彼女たちに、この世界は教育という概念を一切与えてこなかったのだ。識字率はゼロ。言語の流暢さも欠如している。
だが、問題はない。アオイが全七百名の細胞レベルの生体検査を終えて導き出した結論によれば、彼女たちの生物学的寿命は一千年に達する。
「……たった十九年だろ」
桜雅は呟いた。黒い制服のポケットに両手を突っ込み、無機質な教室の黒板を見上げる。
「三歳児として一からやり直させる。一千年生きる連中にとって、初期の十九年なんて誤差の範囲内だ」
≫《その通りです、オウガ様。肉体の修復と精神の安定には、基礎的な生活習慣の確立と、何より脳の前頭葉を刺激する体系的な学習が不可欠です。わたくしが栄養管理とカリキュラムの進捗を厳密に監視します》
≫《えー、でもいきなり幼稚園年少からってマジ? 園児服とか絶対似合うっしょ! あーしが可愛いフリル付きの特注品作ってあげよっか?》
≫《園児服からで良いんじゃねぇか?大学まで制服で帰ったら私服で出かける時は外出着で仕事の時は仕事着でメリハリは付けた方が良いと思うぞ》
≫《……バカなこと言わないの。精神的ケアが最優先よ。アオイ、クラス分けのデータはどうなっているの?》
アオイの冷徹な声が、桜雅の脳内に幾重ものステータスウィンドウを投影する。
≫《全七百名の収容およびクラス編成データを表示します。学年・年齢の既成概念を破棄し、精神年齢と肉体強度の均衡を考慮した結果、全二十四クラスによる一斉教育体制を構築しました。制服の件はオウガさんの仰る通りに致します》
クラス構成: 全24クラス
29人編成: 20クラス(計580名)
30人編成: 4クラス(計120名)
総在籍数: 700名
カリキュラムは、日本の文部科学省の学習指導要領をベースとし、この惑星の国々に沿った幼稚園(年少)から大学までの段階的再教育プログラムとして組まれている。
「今日から、お前らは全員『三歳児』だ」
教壇の端に腰掛け、桜雅は教室の最前列に並ぶ女たちを見据えた。
怯えたように視線をさまよわせ、ボロ布の代わりの粗末な貫頭衣に身を包んだ彼女たちは、まだ自分の身に何が起きたのか理解できていない。だが、その黒い瞳の奥に宿る微弱な光は、消えていなかった。
「文字を覚え、数を数え、理不尽な暴力に対する『拒絶の仕方』を学ぶ。……安心しろ、ここでは誰もお前らを壊したりしねぇよ。筋の通らねぇ真似をした奴がいたら、俺がこの手で――いや、重力波で物理法則ごとスクラップにしてやる」
その物言いは乱暴で、決して優しさなどという甘ったれたものではなかった。しかし、絶対的な強者としての重力場が、教室内の空気を心地よく安定させる。
≫《重力波の干渉、安定。空間の歪み率0.001%。被保護者の心拍数、正常値へ移行中》
≫《ふーん、オガなりに気遣ってるつもりなんだ? ……ま、悪くない選択ね》
≫《ちょっと、オウガさん! 教壇にそんな足乗せるの、教育者としてマズくないですか!?》
ミツキの慌てたような声が響くが、桜雅は気にせず、黒板のチョークを手にとって乱暴な異世界の文字で「牧」と書き殴った。
「授業を始める。まずは自分の名前の書き取りからだ。……文句のある奴は立候補しろ。重力で床にめり込ませてやる」
不条理に満ちたこの世界で、特異点が始めた学校の鐘が、静かに、しかし世界を揺るがすように鳴り響いた。
最初の一歩として、一人一人に3つの異形のアンドロイドが交代で着くことになった。アイリが若干不安だったが、いざ蓋を開けてみると結構器用にそつなくこなしており、それは嬉しい誤算だった。
逆に問題なのはアオイである。想定外にスパルタかつ機械的な指導を徹底するため、生徒たちが震え上がっている。
ミツキは3つの異形の中では一番生徒たちから懐かれており、「心外ですわ」と口では言いつつもどこか嬉しそうにデレていた。
「まあ、俺はする事も無いから、偶に様子を見に来るだけで良いか」
アイリの亜空間の中では時間の流れが加速しており、中での19年が外での19日に相当する。
ひとまずやるべきことを終えた桜雅は、3つの異形から「外の空気を吸って頭を冷やしてきなさい」と半ば追い出される形で、19日間の暇潰しを余儀なくされた。
先ずは食い扶持が増えたので三大焼肉種を狩ろうかとも考えたが、アオイから「これ以上の備蓄はデータ容量と空間密度の無駄です。もう十分すぎます」と冷淡に通達が入り、却下された。
「それじゃあ、寿司ネタを調達するか」
新たな目的を定めた桜雅は、まだ見ぬ海の幸を求めて移動を開始することにした。
ここから一番近い海は東北東へ120キロメートルの距離にあり、そこには『コミダ・デリシオサ』という交易の盛んな巨大都市があるという。
120キロメートルの距離なら、のんびり走って行っても2時間もあれば着くだろう。
そう考えて、桜雅はまったりとした観光気分で走り出した。
アイリの亜空間から外へ放り出された桜雅は、どこか拍子抜けしたような、それでいてようやく静寂が戻った安堵を胸に、荒涼とした異世界の大地を踏み締めていた。
「……さて。あの騒がしい空間から引き剥がされてみりゃ、途端に退屈なもんだな」
周囲にはただ乾いた風が吹き抜け、遠くには地平線がどこまでも続いている。
しかし、先ほどの牧歌的な風景とは打って変わり、足元の大地には地球の常識を軽く凌駕する重力子が微かに共鳴していた。桜雅が歩みを進めるたび、コンクリートのように硬化した赤土の地面が、わずかに沈み込み、彼が去った跡には直径数センチの均一な円形の凹みが残る。自らの質量制御が、無意識のうちに周囲の物理法則を歪めている証拠だった。
≫《警告。局所的な重力場の変動を検知。歩行時の出力が標準値を0.03パーセント超過しています。周囲の地殻変動に注意してください》
≫《あーあ、オウガ一人になると途端に口数が減るんだから。ねえ、亜空間の学校の様子見に来ないの? あーしが作った特製の黒板消し飛ばし装置、めっちゃウケてるよ?》
≫《……アイリ、余計なちょっかいを出さないでください。オウガ様には一人で頭を冷やす時間が必要です。……もっとも、わたくしとしては少し寂しい気もしますけれど》
脳内に響く三匹の異形たちの声は、物理的な距離を超えて相変わらず賑やかだった。
アイリは亜空間の中での授業運営に妙なやりがいを見出しているらしく、ミツキはツンデレながらも桜雅の動向を気にかけ、アオイは相変わらず冷徹に周囲の環境データを解析し続けている。
「……勝手にやってろ。ガキの面倒なんて俺の柄じゃねぇよ」
悪態をつきながらも、桜雅はポケットから手を抜き、軽くストレッチをするように肩を回した。
三大食肉モンスターの在庫はアオイから十分だと通達されている。ならば、次なる目的は一つ――寿司のネタとなる極上の食材、そしてこの世界の海が隠す未知の生態系の解体だ。
「コミダ・デリシオサ、か」
アオイのデータリンクから脳内に引き込んだ地図情報を思い出す。
東北東へ120キロメートル。徒歩や通常の馬車であれば数日を要する道のりだが、空間の歪みと重力制御を足の裏に纏う桜雅にとって、その距離はただの「散歩コース」に過ぎなかった。
桜雅は軽く膝を曲げ、地面にほんのわずかな引力を集中させた。
――瞬間。
足元の大地が凄まじい反発力と吸引力を同時に受け、爆発的な音すらない衝撃波が四方に広がる。次の瞬間、彼の姿はすでに元の場所から数十メートル前方へと弾き出されていた。
視界の景色が凄まじい速度で後方へと流れていく。
風圧が衣服を激しく打ち鳴らし、大気が摩擦熱で歪む。だが、桜雅の周囲数センチメートルだけはアオイの重力バリアによって完全に保護されており、髪の一本すら乱れることはない。
≫《移動速度、時速140キロメートルを突破。空気抵抗係数、重力レンズ効果によりゼロに収束中。……オウガさん、本当に散歩のつもりですか?》
≫《うっわ、エグいスピード! オウガ、そのまま勢いあまって海の底まで突き抜けちゃえばいいのに!》
≫《……無茶を言わないでください。ですが、この速度であれば予定時刻を大幅に短縮して到着可能です。道中の魔獣の反応もありません》
脳内のガヤをBGM代わりに向風を切り裂きながら、桜雅の口元に皮肉な笑みが浮かぶ。
理不尽な世界、黒目の奴隷、膨大な金貨、そしてわけのわからない神と異形たち。
すべてが面倒くさく、すべてが退屈の裏返しでしかなかったこの世界で、彼の足が向かう先にあるのは、果たして平穏か、それともさらなる――。
「……まあいい。退屈しのぎには、ちょうどいいスパイスだ」
地平線の向こう、微かに潮の香りが混じり始めたその時、桜雅はさらに加速し、白亜の貿易都市コミダ・デリシオサへと影を引いて消えていった。
白亜の壁に囲まれた巨大な貿易都市――コミダ・デリシオサ。
その名の通り「美味しい食料」が集まる港町の手前まで、桜雅は一気に距離を詰めていた。時速140キロメートルを超える超高速移動を終え、彼は街の巨大な石造りの門の少し手前、人目のつかない街道の脇にふっと着地する。
地響き一つ立てない完璧な着地だったが、その足裏に込められた微量の重力子は、周囲の砂塵を綺麗に円状へ押し返していた。
≫《コミダ・デリシオサへの到達を確認。都市規模は中位、人口およそ二十五万人。交易の要所であり、近海で水揚げされる特異魚介類の流通拠点です》
≫《やった! 海鮮! お寿司! わさびは無理でも、あーし特製のチート醤油なら用意してあるからね!》
≫《……魚介類といっても、この世界の海にいるのは大体牙が生えていたり毒を持っていたりする危険な奴らばかりです。オウガ様、くれぐれも油断なさらないでくださいませ》
≫《心配すんな。魚の分際で俺に噛みつける牙があるなら、まとめて事象の地平面の彼方に沈めてやるよ》
脳内でのテンポの良いやり取りを流しつつ、桜雅は黒い制服の襟を正し、何食わぬ顔で都市の門へと歩き出した。
門番の兵士たちが、黒髪で冷ややかな目を向けた桜雅を怪訝そうに検分する。しかし、桜雅が無意識に発散している重力場のプレッシャーに気圧されたのか、誰も声をかけることができず、彼はそのままあっさりと市街地へと足を踏み入れた。
石畳が敷き詰められたメルカド(市場)の周辺は、海の男たちの怒号と、異国情緒あふれる香辛料や潮の香りで満ちていた。
並ぶ露店には、地球の魚とは似ても似つかない、甲殻が鋼鉄のように硬い巨大なエビや、青く発光するタコのような軟体生物が無造作に転がっている。
「……ほう。目移りするほどでもないが、ネタとしては悪くねぇな」
桜雅が獲物を品定めするように鋭い視線を巡らせていたその時だった。
「おい、そこをどけ! 貴様、どこの商会の者だ!」
喧騒を切り裂くように、荒々しい怒声が響いた。
振り返ると、豪華な装飾が施された馬車の周囲を、武装したポリシア・ナシオナル(国家警察)の兵士たちが固めていた。その中央では、肥え太った貴族風の男が、一人の少女を地面に引きずり下ろそうと怒鳴り散らしていた。
少女の瞳は、この世界で最も忌み嫌われる「黒色」。
かつて奴隷館から救い出した者たちと同様に、西の荒野の魔力枯渇を防ぐための「消耗品」として扱われる運命にある者だった。周囲の通行人たちは、関わり合いになるまいと一斉に目を逸らし、その光景から逃れるように足を速めている。
理不尽。不条理。強者が弱者を踏みにじる、この世界のあまりにも日常的な一幕。
桜雅は足をとめ、その光景をじっと見据えた。
ポケットに突っ込んでいた右手が、わずかにピクリと動く。足指の先から、重力の特異点が微小な唸りをあげ始めた。
≫《警告。局所的な重力場の不安定化を検知。怒りによる心拍数の上昇、および空間歪み係数が上昇しています》
≫《あーあ、折角の買い出しが台無しじゃん。ねえオウガ、あの豚野郎、ちょっと重力で潰して遊んじゃう?》
≫《……お待ちください、ここで騒ぎを起こせば、せっかく築いた街とのパイプが――》
≫《――うるさい》
桜雅の低い呟きが、脳内の異形たちの声を一刀両断した。
「筋の通らねぇもんにヘラヘラ笑って迎合する気はねぇよ。……おい、そこのブタ」
桜雅が冷ややかに声を張り上げた瞬間、周囲の空間がぐにゃりと歪み、重力波の余波が石畳を豆腐のように粉々に砕いた。
白亜の街の平穏は、特異点の不機嫌な一歩によって、音もなく崩れ去ろうとしていた