第6話:不機嫌な特異点と壊れた石畳
砕けた石畳の破片が、重力波の余波を受けてふわりと宙に浮き、数センチの高さで静止した。
異世界の物理法則が、桜雅の放つ微小な特異点の引力によって一時的にねじ曲げられる。シバデン(市)のメルカド(市場)の一角が、一瞬にして音を失ったように静まり返った。
「なっ……なんだ、今の音は……!?」
豪華な馬車の前で少女の腕を掴んでいた肥え太った貴族風の男が、脂ぎった顔を引きつらせて振り返る。その視線の先に立っていたのは、黒い制服に身を包んだ、退屈そうにポケットへ両手を突っ込んだ一人の少年だった。
周囲を固めていたポリシア・ナシオナル(国家警察)の兵士たちが、一斉に腰のサーベルへと手をかける。
しかし、誰も足を踏み出せなかった。少年が発散する空気の密度が、周囲の人間の三半規管を狂わせ、立っているだけで内臓を圧迫するような重圧を放っていたからだ。
「貴様……! どこの馬の骨だ! このエストゥピド商会の会頭に向かって、その無礼な物言いはなんだ!」
震える声を押し隠すように、貴族風の男――エストゥピド商会の会頭が怒声を張り上げる。その足元には、恐怖で腰を抜かした黒髪の少女が、ボロボロの布を握りしめたまま全裸で縮こまっていた。
少女の瞳は、夜の闇よりも深い絶望の色を宿している。
この世界で「魔力枯渇の消耗品」として売買される者に残された運命など、絶望的な搾取の果ての廃棄以外に存在しない。その理不尽な構造が、桜雅の神経を逆撫でしていた。
「無礼ねぇ、ブタのお前になんで俺様が礼をしなきゃならないんだ?」
桜雅は冷めた目を向けたまま、足先で石畳の破片を軽く蹴り飛ばした。
たったそれだけの動作でありながら、質量を纏った破片は音速の壁を軽々と超え、会頭の耳元すれすれをかすめて背後の石壁に深々と突き刺さった。
ドスン、と遅れて響いた衝撃波に、会頭は文字通り腰を抜かして尻餅をつく。
≫《警告。局所的な重力加速、マッハ1.2を記録。空間歪み係数が危険域に近づいています。……オウガさん、もう少し加減を覚えたらいかがですか?》
≫《いけいけー! オウガ、もっとやれ! その豚の脂身を重力レンズで綺麗に平べったく引き延ばしてあげなよ!》
≫《……粗暴ですわね。ですが、あの者のようなクズは一度痛い目を合わせるべきですわ。わたくしが厳重に毒と麻痺のデータをバックアップしてあげますわよ》
脳内で勝手に盛り上がる三匹の異形の声を、桜雅はいつものように意識の片隅でスルーした。
「おい、ブタ。質問を変えてやるよ」
桜雅はゆっくりと歩を進める。その靴底が石畳を踏み締めるたび、ミシミシと大地が悲鳴を上げるような重力が周囲に伝播した。
「その女、いくらだ」
「……は?」
「買い取るって言ってんだよ。……もっとも、お前のようなブタに払う銭なんて持ち合わせちゃいねぇがな」
会頭の顔が怒りと恐怖で歪む。
「ふ、ふざけるな! こいつは西の荒野を渡るための極上の『燃料』だ! たとえ金貨百枚積まれようとも、我が商会の誇りにかけて――」
最後まで言葉が続くことはなかった。
桜雅が右手をわずかに挙げ、指先を軽く一瞥した瞬間、会頭の周囲の空間だけがピンポイントで圧縮された。
重力の特異点が、空気中の分子を極限まで押し潰す。視覚的には、会頭の周囲の光がぐにゃりと歪み、まるで水面を覗き込んでいるかのような「重力レンズ効果」が発生した。
「ぐっ……!? 息が……! 体が、勝手に――ッ!?」
会頭の巨体が、見えない巨大な手で押し潰されるように地面へとひれ伏していく。骨が軋む音はしない。時空の歪みそのものが、彼の質量を無理やり一点へと収束させようとしていたからだ。
周囲を取り囲んでいた国家警察の兵士たちも、足元から這い上がる圧倒的な重圧に抗えず、一斉に膝をついた。
≫《質量収束率、設定値の0.1パーセント。対象の生命維持を確認。……潰しすぎないよう注意してください》
≫《うわ、スパゲッティ化の一歩手前じゃん。あの豚、今夜は脂の乗った上質ラードになれそうだね!》
≫《……見苦しいですわね。でも、暴力こそがこの世界の唯一の共通言語だと思い知らせるには十分ですわ》
地面に平伏した会頭が、恐怖に涙と鼻水を流しながら必死に叫ぶ。
「わ、わかった……! やる! やるから、その化け物じみた力を解いてくれ……ッ!」
「話が早くて助かる。……で、その女はお前の商会のものだな?」
桜雅が足先を少しだけ持ち上げ、重力のプレッシャーを緩めると、会頭は肺に空気を貪るようにむせ返りながら、震える手で少女を指さした。
「も、もちろんそうだ……勝手に持っていけ! 金はいらん! だから、命だけは……!」
「払わんとは言ってねぇだろ。俺は筋を通すのが好きなんでね」
桜雅はポケットから、昨日ギルドで受け取ったばかりの輝く銀貨を一枚取り出し、地面に転がした。
カラン、と乾いた音が石畳に響く。銀貨一つの価値は地球の約一万円相当――目の前の粗末な人間を「買う」には法外な、しかし桜雅にとっては道端の石ころを拾うようなものだった。
「お前の命と、その女の代金だ。釣りは要らねぇ」
これだけ言い捨てると、桜雅は震える少女の腕を掴み、ふわりと持ち上げた。
少女は恐怖で身を強張らせていたが、桜雅の纏う重力場が心地よい温もりと絶対的な保護として機能していることに気づくと、おずおずとその制服の袖を小さく掴んだ。
「……行くぞ」
暴虐の嵐が去った後の静寂の中、桜雅は少女を連れ、白亜の街の雑踏へと歩き出す。
背後では、国家警察の兵士たちと会頭が、二度と立ち上がれないほどの恐怖に打ち震えたまま、ただその背中を見送るしかなかった。
≫《目的の達成を確認。……ですが、オウガさん、これで今日の食材の買い出しが完全に吹っ飛びましたよ?》
≫《あはは、大漁大漁! 魚の代わりに黒目ちゃんを一本釣りしちゃったね!》
≫《……全く、呆れた人ですわ。でもまあ、あのまま放置するよりは、わたくし達の管理下に置いた方が安全ですわね》
脳内のガヤを軽く聞き流しながら、桜雅は遠くの海から漂う潮の香りに目を細めた。
不機嫌な特異点の旅は、まだ始まったばかりだった。
「さて……どうやらこの街にもこういう連中がゴロゴロしている様だな。先ずはエストゥピド商会の本拠地に行って、在庫をまとめて解放してくるとするか……場所は分かるか?」
桜雅がそう尋ねると、少女はコクンと小さく首を縦に振った。
「指を指すだけでいい。案内しろ」
シバデン(市)の白亜の街並みにそびえる、ひときわ豪奢な石造りの建物――それがエストゥピド商会の本拠地であった。
扉の前に立つやいなや、桜雅は面倒くさそうに息を吐き、右手の指先を軽く宙に弾いた。
ドスッ……! と、現実の物理法則を置き去りにしたかのような鈍い重低音が響き渡る。
門扉や頑丈な木製の扉ではなく、建物全体を包む「空間の密度」が一点に収縮し、エストゥピド商会の重厚な正面玄関は音もなく内側へと崩壊した。石壁が豆腐のように潰れ、石灰の粉塵が盛大に舞い散る。
「なっ……なんだ! 貴様、何者だ!」
「侵入者だ! 警備を呼べ!」
慌てて飛び出してきた商会の私兵や番頭たちが、剣や槍を構えて桜雅を取り囲む。
しかし、桜雅が放つ微小な特異点の引力場に足を踏み入れた瞬間、全員の膝がガクッと折れた。数センチ浮いた石畳の破片が、彼らの頭上で不気味に静止している。立っているだけで三半規管が狂い、内臓が押し潰されるような強烈な圧迫感が全身を襲う。
≫《警告。局所的な重力加速により、周囲の石材及び建材の構造耐力が限界値を超えました。……オウガさん、少し手加減をしないと建物ごと更地になりますよ?》
≫《いけいけー! オウガ、全壊させちゃいなよ! ほら、そこの太っちょ番頭の顔面を重力レンズで縦に引き延ばしてスパゲッティにしてやろうよ!》
≫《……まったく、前祝いもなしにいきなり物件を破壊するなんて品がありませんわ。ですが、この腐った商会の連中に慈悲は不要ですわね。毒のデータ、フル開放しますのよ?》
脳内のガヤを一切無視し、桜雅は冷徹な視線を番頭へと向けた。
「商会の会頭は外で気絶させてきた。お前たちのボスから聞いたが……この地下、あるいはこの街の奥に、まだ『燃料』とやらの在庫が隠してあるそうだな」
番頭は冷汗を流し、恐怖で引きつった顔で震える。
「ひっ……! 悪魔……! お前、まさかエストゥピド商会を潰す気か……!」
「潰す? 違うな。買い取るんだよ。……支払いは全額、俺の『気まぐれ』と『暴力』でな」
桜雅が一歩踏み込むたび、地面がミシミシと悲鳴を上げる。
「で、在庫はどこだ。それと、この街で他に黒い瞳の女を扱っているクズどもの商会やアジトも全部吐け。吐かないなら、この建物の空間ごと、お前たちの存在を赤方偏移の彼方に消し去ってやろうか?」
情報の書き換えや因果律をちらつかせる脅しに、番頭は完全に心を折られた。
「わ、わかった……! 話す! 話すから、その圧力を止めてくれ……ッ!」
こうして、エストゥピド商会の地下深くから、魔力枯渇の消耗品として監禁されていた黒い瞳の少女たちが次々と引き出された。
さらに、番頭から吐かせた自白をもとに、桜雅は街中に点在する他の商会――黒目女性を売買するアジトのリストを手に入れる。
「さて、次はあっちの通りか」
桜雅は解放された少女たちを次々とアイリの異空間(亜空間)へと送り込みながら、不機嫌そうに首を鳴らした。
エストゥピド商会を皮切りに、貿易都市コミダ・デリシオサ市内で「黒い瞳の女を扱う商会」が、次々と未知の重力波によって物理的に破壊されていく。
扉が吹き飛び、屈強な奴隷商たちがなすすべもなく地面に平伏し、暴力的なまでの重力圧に涙を流してひれ伏す。
金貨や銀貨ですらなく、圧倒的な「物理法則の暴力」と冷徹な特異点の存在感の前に、街の闇のシステムは音を立てて崩壊していった。
≫《対象の収容数、合計でさらに300名を突破。亜空間内のキャパシティ、居住区の環境適応を確認中……。オウガさん、これでこの街の在庫は完全に底をつきましたよ》
≫《あはは、大収穫大収穫! 街中の黒目ちゃんを根こそぎ一本釣りだね! これで商会のおじさまたちはみんな真っ青だぁ》
≫《……暴力にまかせた強引なやり方ですけれど……行き場のない彼女たちを全員保護したことだけは、褒めてあげますわ。……少しは、筋が通っていますからね》
街全体の商会を潰し回り、総勢数百名に及ぶ黒い瞳の女性たちをすべて救い出した桜雅は、埃を払うように黒い制服の袖を整えた。
理不尽な世界に蔓延る構造を、個人の暴力と重力操作で文字通り「粉砕」した少年は、遠くの夕空を見上げながら、どこか退屈そうに小さく息を吐いたのだった。
「はぁ、また新たに再編しなくちゃな。アオイ今回は何名だったんだ?」
「……今回は、商会関連の施設より合計342名。先ほど保護した最初の少女を含め、本日の収穫は計343名となります」
アオイの冷徹かつ正確なアナウンスが、桜雅の脳内に響く。
「343人か……。アイリの亜空間、キャパシティは大丈夫なんだろうな?」
桜雅が呆れたようにため息をつきながら尋ねると、すぐさま能天気な声が割り込んできた。
≫《余裕のよっちゃんよ、オウガ! あーしが作った特製亜空間は、地球の太平洋が丸ごと入るくらいの広さがあるんだから! 黒目ちゃんたちが一万人増えようビクともしないって!》
≫《……広さの問題ではありませんわ。問題は、保護した彼女たちの精神状態と、今後の教育および生活基盤の維持ですわよ。さきほどからミツキの料理を見て怯えている子もいますのよ?》
≫《わたくし、ただ手作りのポトフを優しく差し入れただけですわ! なぜ震え上がるのか納得いきませんわね……!》
脳内で繰り広げられるいつも通りの騒がしい会話を右から左へ受け流しつつ、桜雅はシバデン(市)の白亜の街路を歩みを進めた。
背後では、暴力的な重力波によってボコボコに破壊された各商会のアジトから、失禁して気絶した奴隷商人たちが国家警察に引きずり出される阿鼻叫喚の光景が広がっているが、もはや桜雅の関心を引くものではなかった。
「ま、あいつらがちゃんと学校で一から文字と生きる術を学び直すなら、俺がしたことは無駄じゃねぇだろ。……さて、そろそろ戻るか」
桜雅が指先を軽く宙に弾き、空間の密度を緩めると、足元から広がっていた微小な重力場が消え去った。
視界がわずかに揺らぎ、次の瞬間、桜雅の意識は外の世界から、あの広大な平成初期の公立学校を模したマイクロ・コスモス――アイリの異空間へとダイブする。
異空間内の廊下に足を踏み入れた途端、外の乾いた大気とは違う、どこか懐かしい木造校舎の匂いと、大勢のざわめきが耳に飛び込んできた。
「あ、オウガ様……!」
廊下の端から小走りで駆け寄ってきたのは、ミツキだった。ここでのミツキは端正な黒髪を揺らしながら、エプロン姿で少し不満げな表情を浮かべている。
「どうした、ミツキ」
「どうしたも何もありませんわよ。食堂でスープを配給していたのですが、皆様があまりにも緊張して一言もしゃべらないのですわ。……まるで、いつ処刑されるか分からない囚人のような怯え方をして……」
ミツキの背後を覗き込むと、廊下の窓から見えるグラウンドや教室のあちこちに、貫頭衣に身を包んだ数百人の黒い瞳の少女たちの姿があった。
最初は怯えて縮こまっていた彼女たちだったが、アオイが厳格に管理する時間割のもと、あるいはアイリがふざけて飛ばす黒板消しに思わずクスリと笑うなど、少しずつ生気を取り戻しつつある。
「まあ、急に環境が変わったんだ。無理もねぇよ」
桜雅が頭をポリポリと掻きながらそう呟いた時、廊下の向こうから一人の少女がトコトコと歩いてきた。
それは、さっきコミダ・デリシオサ市のメルカドで最初に救い出した、あの黒髪の少女だった。
少女はおずおずと桜雅の制服の裾を小さくつまみ、潤んだ瞳でじっと見上げてくる。
言葉はまだ流暢ではない。アオイが脳内に物理波形として言語データを補足する調整をしている最中であるため、彼女たちは耳から入る音をまだ上手く咀嚼できずにいた。
「……なんだよ」
桜雅はわずかに顔をしかめつつも、突き放すようなことはせず、その頭にぽんと無造作に手を置いた。
その乱暴でありながら不思議と温かい重みの伝わる手つきに、少女はほっとしたように小さく息を吐き、初めてかすかな笑みを浮かべた。
≫《微笑ましい光景ですね。……ですがオウガさん、感傷に浸っている暇はありません。現在、異空間内の食料備蓄消費率が予想を上回るスピードで推移しています》
≫《えーっ、もうお肉足りなくなっちゃうの!? じゃあ、オウガまたあのデカいウシさんとかオークさんを狩りに行かなきゃじゃん!》
≫《……当然ですわ。これだけの人数のお腹を満たすのですから、明日には本格的な狩猟遠征の計画を立てる必要がありますわね》
脳内の三匹が再び現実的な課題をつきつけてくる。
「ちっ……また肉の塊を狩りに行くのかよ。……まあいい、どうせ暇つぶしだ」
桜雅は薄っすらと冷めた笑みを浮かべ、窓の外に広がる無限の空を見据えた。
理不尽な世界を暴力でぶち壊し、行き場のない命を自らの懐へと強引に囲い込んだ少年――「不機嫌な特異点」の気まぐれな日常は、まだ始まったばかりの騒がしい授業のチャイムとともに、次なる狂騒へと加速していくのだった。