第7話:特異点は松前漬けの熟成を待ち、海を荒らす
白亜の貿易都市「コミダ・デリシオサ」での騒動から数日。
街の目抜き通りにある高級なカサ・ビラ(家屋)の二階、海風が心地よく吹き込む部屋の窓辺で、牧桜雅は気だるげに肘をついていた。
目の前に広がる青い海からは、潮の香りと共に、何やら地響きのような不穏な低周波が伝わってきている。
「……で、食料庫の備蓄がまた底をつきかけてるってか」
桜雅が低い独り言をこぼすと同時に、脳内の回線が微かにスパークした。
≫《報告。アイリが生成した亜空間学校の生徒数、累計1,043名に到達。成長期における基礎代謝のカロリー消費量は地球人の約4.3倍。現在の在庫では、あと72時間でタンパク質が枯渇します》
≫《あーし的にはもっとこう、ハンバーガーとかポテトの山を作ってあげたいんだけどさぁ! 生徒ちゃんたち、最近やっと文字を覚えて「あいうえお」って泣きながら書いてるから、肉食って元気出してもらいたいわけ!》
≫《……生徒の皆様はわたくしの作るスープを美味しそうに召し上がってくださいます。お肉が足りなくなるなど言語道断です、オウガ様、今すぐ海を干上がらせる勢いで獲物を狩ってくださいまし!》
アオイの冷徹な計算、アイリの相変わらずの能天気さ、そしてミツキの妙に母性を発揮したツンデレの督促が、脳内で重層的に響き渡る。
桜雅はげんなりと息を吐き、足先をブラブラと揺らした。
「海か。魚介類ってのは血抜きが面倒くさいんだよな……。だが、あの街の市場に並んでたパヌリヤポニとかいう大きな海老の味は悪くなかったか」
≫《予言します。通常の漁法では海岸線一帯が消滅します。加減をしてください》
≫《いぇーい! 全身ブラックホール武装で、深海の主をスパゲッティにしてやろうぜ!》
≫《馬鹿なことを言わないでアイリ! オウガ様、くれぐれも周囲の生態系を更地にしない程度の優しさをお忘れなく……って、もう靴を履いていますね》
桜雅は面倒くさそうに立ち上がると、窓枠に足を掛けた。
下層から吹き上げる潮風に、彼の足元で微小な重力子がきらめき、空間を歪ませる。
ギギ、と石造りの窓枠が局所的な圧力で悲鳴を上げ、粉々に砕け散った。
桜雅はその場から姿を消し、光速の何分の一かという超音速の軌跡を残して、コミダ・デリシオサの港湾部へと射出された。
数秒後。
白亜の街の住民たちは、突如として天から降ってきた「高周波のソニックブーム」と、港の沖合数百メートルで発生した――不自然すぎる「海水の完全な垂直浮上」を目撃することになる。
海面が割れ、重力レンズの効果で周囲の景色がグニャリと曲がりくねる。
海底の泥ごと引き剥がされた超巨大な甲殻類や、異世界の深海魚たちが、重力制御の不可視の檻に捕らえられ、次々と空中へ引きずり出されていく。
「おい、アオイ。このタコ、何本足だ? グロテスクすぎて食用に見えねぇんだけど」
≫《解析完了。触手数32本、神経毒の致死量は成人男性の致死量の500倍。――ですが、アイリの亜空間熱処理炉を通せば、絶品のタコ焼きになります》
≫《やった! あーし、たこ焼き大好き! オウガ、もっといける! その辺のクラーケンも丸焼きにしようぜ!》
≫《……怪我人が出ないか心配ですけれど、オウガ様の華麗な足さばきを見れば、心配無用ですね》
港の防波堤に着地した桜雅は、暴れ狂う巨大な深海生物の群れを一瞥し、面倒くさそうに片足を上げた。
彼の足先が重力の極点を生み出し、空間の密度が跳ね上がる。
ドン、と空気が圧縮される乾いた破裂音。
それだけで、暴れていた巨獣たちの体積と質量が一瞬で均等に押し潰され、完璧な下処理を終えた食材の山へと姿を変えた。
「――で、結局こうなるわけだ」
カサ・ビラの調理場。
桜雅はエプロンこそつけていないものの、目の前に山積みにされた異世界の海産物を前に、妙なこだわりを発揮していた。
アオイの解析によると、この海の生態系には地球の函館周辺に自生する「がごめ昆布」と同等の驚異的な粘りと旨味を持つ海藻が存在し、さらにニシンやスルメイカに酷似した魚介も網にかかったらしい。
「がごめ昆布、にんじん、切り干し大根、スルメイカ、タコの刺身、それに身欠き鰊と数の子。俺が求める松前漬けには、これらがすべて揃っていなければ意味がない。どれか一つでも欠けることは……俺の美学が許さない」
≫《こだわりが強すぎて怖いのですが。しかし、栄養学的観点からは完璧なミネラル・タンパク質の補給源です》
≫《オウガ、早く作ってよ! あーし、あのネバネバをご飯にかけてかき込みたい!》
≫《……食材の下処理の手際だけは、相変わらず職人技ですね。少し見直しましたわ》
脳内のガヤを一切無視し、桜雅は手際よく準備を進めていく。
特製・異世界風松前漬けの調理手順
漬け汁の準備: 鍋に合わせ調味料(醤油:大さじ5、みりん:大さじ4、酒:大さじ4、水:大さじ3、砂糖:大さじ1〜2、輪切り唐辛子:1本分)を入れて火にかけ、沸騰したら火を止めて完全に冷ます。(醤油、みりん、日本酒、砂糖、ラップ、あきたこまちはアオイ監修ミツキ製)
がごめ昆布とスルメの親和: ボウルにがごめ昆布とスルメイカを入れ、冷ました漬け汁の半量〜2/3量を注いでよく混ぜ合わせ、あらかじめ強烈な粘り気を引き出しておく。
全食材の投入: 細い千切りにしたにんじん、水戻しして水気を絞った切り干し大根、塩抜きして薄皮を取り除いた数の子、身欠き鰊、そしてタコの刺身と残りの漬け汁をすべてボウルに放り込む。
熟成と保存: 底からしっかりと混ぜ合わせ、がごめ昆布のネバネバを全体に行き渡らせる。表面にぴったりとラップを密着させ、蓋をして冷蔵室へ。(※生タコの刺身が入っているため、通常の松前漬けよりも傷みやすい。4〜5日前後で食べ切るのが鉄則だ)
「よし、仕込みは終わった。あとは数日後の熟成を待つだけだな」
桜雅が満足げに息をつくと、異空間の学校の生徒たちを思いやってか、ミツキがふっと優しい声を漏らした。
≫《余りそうな場合は、この松前漬けをベースにした炊き込みご飯にするのも良さそうですね……オウガ様、生徒たちのために、明日もまた少しだけ海を荒らしに行っていただけますか?》
「……仕方ねぇな。退屈しのぎの散歩のついでだ」
極上の松前漬けを仕込んだ翌日、桜雅が異世界の海をちょっと(物理法則の暴力で)荒らし。
アオイから提示された「1,043名の育ち盛り」という燃料投下の要求を満たすため、彼は再び退屈しのぎと称して空間を跳躍した。
目指すは、街から遠く離れた原生林のさらに奥地。
普段の浅い層のモンスターなど、今の亜空間学校の胃袋を満たすには小石のようなものだ。今日狙うのは、生態系のピラミッドのさらに頂点に君臨する、神話級の巨大肉塊どもだった。
薄暗い巨木の立ち並ぶ深奥。
地面に降り立った桜雅の足先が微かに弾むと、周囲の空気が重力波にねじ伏せられ、パキパキと音を立てて圧縮される。
≫《警告。前方五キロメートル、樹冠の高度を無視する巨大な熱源反応をキャッチ。対象、豚肉系最高峰『エリュマントスの猪』および鶏肉系神話級『ロック鳥』の生息圏に侵入しました》
≫《うわっ、デカッ! 山が動いてるみたいじゃん! あーし、あそこの鶏肉を丸ごとローストチキンにしてクリスマスパーティーやりたい!》
≫《……アイリ、今は修行でもお祭りでもありません。オウガ様、くれぐれも周囲の魔力濃度をバグらせて、大陸そのものを沈めないでくださいまし》
脳内で騒がしく飛び交う三匹のガヤを、桜雅は鼻で笑って受け流す。
「分かってる。一々面倒くせぇ真似をさせるなよ……一瞬で終わらせてやる」
生い茂る木々の隙間から、太陽の光を完全に遮るほどの巨体がその姿を現した。
大地を揺るがす猪の突進と、天を覆う巨大な翼を持つ鳥の影。常人であれば絶望するその光景の前に、不機嫌な特異点は冷徹な視線を据えたまま、静かに片足を振り上げるのだった。
重力波にねじ伏せられた深奥の森で、桜雅は冷徹な眼差しを巨獣たちの群れに向けた。
「さて、無限の胃袋どもを黙らせる時間だ」
桜雅が振り上げた片足の先から、目に見えないほどの極小の重力特異点が解き放たれる。
瞬間、周囲の空間がぐにゃりと歪み、光すらもその質量に引かれてねじ曲がる「重力レンズ」の現象が起きる。
――ズドン、と。
大地そのものが呼吸を止めたかのような、絶対的な圧力の波が四方に爆発した。
突進してきた神話級・豚肉系の頂点『エリュマントスの猪』は、自らの質量と加速エネルギーがそのまま逆方向に跳ね返されたかのように、地面の泥ごとぺちゃんこに押し潰される。
さらに、上空から急降下して襲いかかろうとした鶏肉系最高峰『ロック鳥』も、翼を広げる間もなく重力の不可視の鎖に絡め取られ、音もなく地面へと墜落した。
血を流す暇すらない。肉の細胞組織が破壊される前に重力の檻で完璧に圧縮・固定され、一滴の無駄もない極上の「食材の塊」へとその姿を変えていく。
≫《解析完了。エリュマントスの猪、およびロック鳥の捕獲を確認。鮮度、脂の乗り具合、肉質の弾力、すべて最高値です。これで1,043名のタンパク質問題は今後一ヶ月間、完全に解消されます》
≫《すっごーい! これでもうクリスマスも、お正月も、毎日がバーベキュー大会じゃん! オウガ、最高!》
≫《……相変わらず、加減というものを知らない暴力的な狩りですこと。ですが……まあ、生徒たちの嬉しそうな顔を思えば、今回は目を瞑ってあげますわ》
脳内で勝手に盛り上がる三匹の異形を無視して、桜雅はふぅ、と息を吐いた。
「これで当分、あのガキ共の『肉が足りない』って泣き言も聞かずにすむか」
数日前に仕込んだ極上の「松前漬け」の熟成具合に思いを馳せながら、桜雅は異空間の扉を開ける。
そこには、文字の勉強に悪戦苦闘しながらも、アイリやミツキに教わりながら笑顔を取り戻しつつある少女たちの活気ある教室の光景が広がっていた。
理不尽な世界に投げ出され、退屈しのぎに始めた「世界を買い占める遊び」は、気付けば予想外に賑やかな日常へと変貌を遂げている。
桜雅は気だるげにポケットに手を突っ込むと、重力で歪む足元を鳴らしながら、静かにその場を後にした。
「――さあ、次は何を壊して、何を買ってやろうか」
不機嫌な特異点は、今日も今日とて気ままな最高に愉快な日常を過ごす。
カサ・ビラの自室に戻った桜雅は、深いソファに全体重を預けるようにドカリと腰を下ろした。
窓から吹き込む海風が、戦闘のあとに残った微かな重力波の余熱を心地よく冷ましていく。
ふと、異空間冷蔵室を覗き床に目をやると、昨日仕込んだばかりの「特製・異世界風松前漬け」の入った巨大なガラスの樽が静かに並べられていた。
ガラス越しに見える昆布とスルメの繊維は、すでに極上の粘り気――アオイの解析によれば、分子結合レベルで旨味成分が完璧に融合しつつある状態――を帯びている。
「……あと二日か」
独りごちる桜雅の脳内で、待ちきれないと言わばかりに回線が再びピキッと跳ねた。
≫《データベース照会。松前漬けの熟成期間において、温度変化および重力波による微細振動が発酵プロセスを加速させています。計算上、予定より24時間早い段階で、人類の味覚中枢を破壊するほどの旨味に到達します》
≫《やったー! じゃあ明日の晩ご飯にはもう食べられるってことじゃん! あーし、炊き立てのあきたこまちを山盛り一升分くらい用意しとくから!》
≫《……まったく、すぐに糖質と脂質に走るんですから。ですが、オウガ様が仕込んだのですから、味見くらいは……いえ、わたくしが毒見をしてさしあげますわ》
ツンデレ全開でちゃっかり自分の分を確保しにかかるミツキの念話に、桜雅はれっきとした面倒くさそうな顔を浮かべる。
他人を信用せず、理不尽を嫌う冷徹な特異点でありながら、この脳内の喧しい三匹と、亜空間で文字を覚え始めた一千人余りの少女たちの存在だけは、なぜか生活の一部として馴染みすぎていた。
外の世界では、相変わらず為政者たちが私欲に走り、不条理な格差と差別がうごめいている。
だが、そんなものは桜雅の足先が生み出す微小な重力子ひとつで、いつでも綺麗さっぱり更地にできるのだ。
「めんどくさい世界だぜ、まったく」
桜雅は気だるげに目を閉じ、頭の中で弾ける異形たちの賑やかな口論を子守唄がわりに聞き流す。
壊して、買い占めて、腹を壊すほどに美味いものを食う。
退屈を嫌う特異点の日常は、今日も今日とて、最高に愉快で不機嫌なまま続いていく――。