第8話:不機嫌な特異点と壊れたガレオン船
港町の潮風は、どこか油断した匂いがした。
白亜の貿易都市「コミダ・デリシオサ」。その一角、海にせり出した石造りの倉庫街の陰で、牧桜雅(18歳)は壁に背中を預け、気だるげに欠伸を噛み殺していた。
足先――正確には、革靴のつま先のわずか数ミリィ空間には、ミリグラム単位に制御された極小の重力特異点が微かに唸りを上げている。歩くたびに石畳の表面が豆腐のように潰れ、パリパリと心地よい悲鳴を上げるのが、今の唯一の退屈しのぎだった。
≫《オウガさん、心拍数と運動エネルギーのロスが無駄に優雅です。ですが、カロリー収支的にはそろそろ次のタンパク質補給ポイントです。昨日の夜に仕込んだ『松前漬け』の漬かり具合、いかがでしょうか》
脳内に響くアオイの冷徹かつ事務的な声。
その直後、けたたましい金属音と陽気な笑い声がアイリのテンションで割り込んでくる。
≫《ねえオウガ! 見て見て、あそこの港のオッサン、荷揚げ用の木箱落として盛大にすっ転んだよ! 頭から魚の山にダイブしてて最高にアホの絵面! あーし、今すぐ重力波でその木箱もう一回直撃させたいんだけどダメ?》
≫《バカ言ってるんじゃないわよ、アイリ。そんな下らないことで無駄に重力制御の出力を割く必要はありません。……それに、オウガ様が今気にかけていらっしゃるのは、昨日仕込んだ昆布とイカの旨味の浸透度です。下品な悪ふざけに付き合っている暇はありませんわ》
ツンデレ全開でピシャリと跳ね飛ばすミツキの声が、妙に脳内で鮮明に響く。
桜雅は面倒臭そうに鼻を鳴らし、ポケットに突っ込んでいた両手を軽く外に抜いた。
「……うるせえ。どいつもこいつと脳内でガヤガヤと。松前漬けの熟成に関してはな、アオイの言う通り、アミノ酸の結合と塩分の浸透圧が絶妙のバランスに達するまであと十二時間はかかる。俺の舌を舐めんな」
声に出して呟いたわけではない。すべて、脳内の波形によるダイレクトな返答だ。
周囲を行き交う異世界の商人や労働者たちは、ふと立ち止まり、なぜか背筋に冷たいものを感じて首をかしげた。桜雅の周囲一メートルだけ、大気の密度と重力勾配が微妙に歪み、陽炎のようなレンズ効果がチラついていたからだ。
この世界の人間には、桜雅の足元でうごめく「物理法則の暴力」の片鱗すら見えない。
見えるのは、ただのひねくれた黒髪の若造が、一人で不機嫌そうに佇んでいる姿だけだ。
だが、その「退屈な日常」は、一隻の不気味な黒塗りの大型ガレオン船が港に入ってきたことで、音もなく破られた。
船首には、この世界の西の荒野を支配する特権階級――魔力枯渇の恐怖におびえ、黒い瞳の女性たちを「消耗品の魔力炉」として買い漁ることで私腹を肥やす、某大商会の紋章が掲げられていた。
≫《オウガさん。危険度:中、対象の船倉内部に、約150名の生体反応。すべて、過去に救出した少女たちと同等の属性(黒目)です。……どうやら、まだこの街の裏ルートには、闇の在庫が残っていたようですね》
アオイの無機質な解析が脳内でリニアに展開される。
アイリのテンションが、一瞬で危険な冷たさに切り替わった。
≫《うわ、マジか。せっかくこっちは学校作って三歳児からの義務教育カリキュラム組んでるってのに、泥棒猫ならぬ泥棒商会がまだ在庫抱えてやがったのかよ。オウガ、これもう『物理法則の更正』入れるしかなくない?》
≫《……わたくしとしても、今度ばかりは異議はありません。あんな汚らわしい連中に、人間の尊厳を踏みにじらせておく理由はどこにもありませんわ。オウガ様、お仕置きの時間です》
ミツキの言葉に、桜雅の黒い瞳が冷ややかな光を帯びた。
彼は面倒臭そうにため息をつきながら、片足を一歩、石畳の上に踏み出した。
その瞬間、港一帯の重力がわずかに逆転した。
ガレオン船の甲板にいた衛兵たちが、理由も分からず真上に浮き上がり、次いで凄まじい潮汐力(スパゲッティ化現象の微小な予兆)によって、持っていた武器ごとバラバラの方向に引き延ばされる。
「あの船の船底に、まだ売り飛ばされる寸前の黒目の娘たちが150人以上詰め込まれてるらしい。……全く、どいつもこいつも脳みそまで筋肉で出来やがって」
桜雅は冷ややかにそう吐き捨てると、ポケットから手を抜き、首をコキと鳴らした。
「あの船は釘の1本まで解体して、船員は全裸大股開きで晒し者にするか……女は居ないだろうから構わないよな。チンコも肛門もキンタマも地上に3日ぐらい晒そうか」
黒塗りの大型ガレオン船が、岸壁からわずか数十メートルの海上にとどまった瞬間、その運命は物理法則によって一方的に決定された。
桜雅が冷ややかに視線を据えただけで、空気中の重力勾配が不自然に引き締まる。
≫《オウガさん、対象の構造物に対する応力計算を完了しました。木造船体の結合ピン、鉄の留め具、マストのテンション、すべての共振周波数を重力波でハッキングします。……分子結合を切り離す準備、完了です。なお、船底の約150名の黒目女性については、解体波形の到達直前にアイリの空間転移でこちらの異空間学校へと回収します》
アオイの冷静なアナウンスに呼応するように、アイリがけたたましく笑う。
≫《オッケー、任せて! 船がバラバラになるコンマ数秒前に、全員そっくりそのまま、あーしの異空間に引っこ抜いて保護しといたから! これで安心して丸裸のゴミ掃除ができるね!》
≫《……品性のかけらもありませんけれど、あんな汚らわしい商会の船を原型をとどめないほど微塵切りにするのは、教育上もよろしいかと思いますわ。……お手柔らかになんてしなくていいですからね、オウガ様!》
ミツキのツンとしたエールを背に受け、桜雅は片手を軽く振った。
その挙動とともに、空間の歪みが波及する。
轟音すら不要だった。音の伝達速度を置き去りにするほどの超高密度重力波が、ガレオン船の船首から船尾へと一気に駆け抜けた。
「――解体開始だ」
桜雅の呟きを合図に、物理法則の暴力が顕現する。
ガレオン船を形作っていた頑丈なオーク材の竜骨が、まるで乾燥したスナック菓子のようにパキリと乾いた音を立てて破断した。船体をガッチリと固定していた数千本の鍛造鉄の釘やボルトは、潮汐力(スパゲッティ化現象)の微小な引っ張りによって引き延ばされ、一瞬にして金属粉の霧へと変貌する。
木造の壁は縦方向と横方向に同時かつ均等に引き伸ばされ、原型の面影を完全に失いながら無数の破片へと霧散していった。厚さ数十センチもある頑丈な外板は、中心に向かう圧倒的な圧縮力によって豆腐のように潰れ、パズルのピースよりも細かく粉々に砕け散る。
マストは飴細工のようにぐにゃりとねじれ、帆布を引き裂きながら四方八方に吹き飛んだ。船内に積まれていた樽や荷物、そして富を誇示するために飾られていた商会の紋章旗に至るまで、原子と分子の結合を無視した重力の干渉によって、あとかたもなくバラバラの「ただの物質の粒」に還元されていく。
たった一秒前まで威容を誇っていた巨大なガレオン船は、爆発する暇すら与えられず、数十万の木片、数万の金属粉、そして舞い散る海の飛沫へと完璧に分解された。
そして――船内を固めていた乗組員や衛兵たち。
彼らは自らが「バラバラの物質」へと分解されていくその刹那、恐怖を認知する脳の神経回路すら追いつかないまま、誰一人として原因を理解することなく、ただの無力な質量となって重力波のただ中に投げ出されるのだった。
海面に残されたのは、綺麗に解体され尽くした無数の木クズと、文字通り「全裸大股開き」の状態でぷかぷかと空中に、あるいは海面に浮かび上がる間抜けな男たちの群れだけだった。
≫《解析終了。乗員220名の全裸固定、完了しています。チンコ、肛門、キンタマ、すべて完全に太陽光と潮風の特等席へ晒し者状態です。……オウガさん、これで今日の退屈しのぎの第一幕はクリアですね。救出した少女たちも、全員無事に学校側の施設へ収容しました》
アオイの無機質な報告を聞きながら、桜雅は冷めた目でその惨状を見下ろした。
「……さて。じゃあ、次のゴミ拾いをはじめるとするか」
不機嫌な特異点は、荒れた潮風を背に受けて、淡々と次のターゲットへと歩みを進めるのだった。
「このまま此処で待っていてもしゃあねぇし、俺の性格にも合わねぇな。アオイ、さっきのガレオン船が出港して来た街は分かるか?」
≫《アオイの航法演算、完全に完了しています。対象の大型ガレオン船が出港した港湾、およびその背後にある主要な拠点は、ここからさらに海岸線を南西へ45キロメートル下ったところにある直轄港湾都市『コミダ・プエルト』ですね》
≫《おっ、いいじゃん! 奴隷船を送り込んできた大商会の本拠地もまさにそこだし、今度はどんなクズどもが待ってるのか楽しみで仕方ないんだけど! オウガ、速攻で乗り込んで根こそぎ物理法則で更地にしちゃおうよ!》
≫《……乱暴ですけれど、あんな下劣な商売をしている連中に慈悲をかける必要はありませんわ。オウガ様、次の目的地までの道すがら、また邪魔な輩がいたらまとめて重力波の餌食にしてしまいなさい》
脳内でそれぞれの意見をまくし立てる三匹の異形に応じるように、桜雅は足元の重力勾配をわずかに前方向へと傾けた。
「……コミダ・プエルトか。丁度いい、歩いて行くには少し退屈だし、足のウォーミングアップがてら一気に跳ぶか」
冷ややかに呟くと、桜雅の足先から放たれた微小な重力子が周囲の大気を震わせ、風を軽やかに置き去りにしながら、彼は荒野と海岸線を繋ぐ街道へと凄まじい加速で踏み出していった。
荒野と海岸線を繋ぐ街道は、潮の香りと乾いた砂ぼこりが入り交じる退屈な一本道だった。
足先の微小な重力子が周囲の大気を完璧に制御し、発生するはずの凄まじい衝撃波や風圧をすべて相殺する。アオイが展開する重力バリアのおかげで、桜雅の周囲一メートルは完全な無風――まるで室内を歩いているかのような滑らかな浮遊感のまま、彼は地面を蹴り続けていた。
「おいアオイ、目的地まであとどれくらいだ」
≫《現在位置、海岸線沿いの第4セクターを通過中。目的地である直轄港湾都市『コミダ・プエルト』まで、残りの距離はあと12キロメートルです。オウガさんの現在の移動速度であれば、あと約五分で到達可能です》
アオイの冷静なアナウンスに、アイリの軽やかな声がすぐさま重なる。
≫《ねえねえ、聞いてよオウガ! あーしのデータベースによると、この『コミダ・プエルト』って街、例のエストゥピド商会の本拠地ってだけじゃなくて、この辺りじゃ一番デカい奴隷市場があるんだって! つまり、まだ隠し在庫のクズどもがうじゃうじゃいるってことじゃん!》
≫《……情報の出所がどこですの、アイリ。ですが、あのおぞましい商会の手口からして、港の倉庫街の地下や裏通りに、まだ救いを求めている黒目の女性たちが囲われている可能性は十分に高いですわね》
ミツキのツンとした声音には、どこか冷ややかな怒りの色合いが混じっていた。
桜雅は鼻を鳴らし、わずかに歩調を緩める。視線の先、地平線の向こう側に、白い城壁に囲まれた港湾都市のシルエットが浮かび上がってきた。
「……隠し在庫か。面倒臭い話だな。せっかく昨日今日でまとめて更地にしてやったってのに、根っこから引っこ抜かないと次から次へと湧いてきやがる」
冷ややかに吐き捨てながら、桜雅はコミダ・プエルトの外壁へと近づいた。
街の規模は、先日訪れた「コミダ・デリシオサ」に匹敵するか、あるいはそれ以上だ。巨大な石造りの防壁と、数え切れないほどのクレーンやマストが立ち並ぶ港湾部は、一見すると活気のある貿易都市の顔をしている。
この世界のクレーンは、主に巨大な木製の大車輪(トレッドウィール)に人間が入って歩き、その回転力で重い石材などを持ち上げる人力式の機械だ。大聖堂や教会、城塞の建設、および港湾での荷揚げ作業で広く使われている。
だが、その華やかな表通りの裏側で、富める者たちが魔力枯渇の恐怖を理由に、弱者から生気を吸い上げる搾取の構造が構築されていることを、桜雅の脳内センサーは正確に捉えていた。
≫《オウガさん、警告。市街地南西の巨大倉庫群、地下三階層に大規模な生体反応を確認。約300名の黒目女性、および武装した商会私兵およそ120名が配置されています。……どうやら、ここが本命のようですね》
「300人か。……まったく、どいつもこいつも人を何だと思ってやがる」
桜雅の足先で、ミリグラム単位の重力特異点がキィィィンと高周波の唸りを上げた。
一歩、地面を踏みしめるたびに、石畳の道路が微かに沈み込み、蜘蛛の巣状の亀裂が放射状に広がっていく。
「おい、アイリ。今回の侵入ルートと回収の準備は出来てるんだろうな」
≫《任せて! 倉庫の構造なんてアオイが一瞬でハッキング済みだし、中の人命救助は、あーしの空間転移でコンマ数秒でマルチタスク処理してあげるから! 準備万端だよ、オウガ!》
≫《……今回は私からもお願いします、オウガ様。あんな外道ども、一人残らず重力波の底に叩き落として、二度と這い上がれないようにしてやりなさい》
ミツキの容赦ない言葉に、桜雅は不敵な笑みを浮かべた。
「ああ、決まりだ。――じゃあ、正面玄関から派手に出迎えてやるとするか」
桜雅が足元に発生させた重力レンズを解放した瞬間、コミダ・プエルトの南西倉庫街に、音のない衝撃波が叩きつけられた。