聖剣使いイリス   作:使い手なない

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第2話「はじめての依頼」

 

 シデリア王国、地方都市リーヴェル。

 

 冒険者ギルドの扉が開いた。

 

「こんにちは!」

 

 元気な挨拶とともに入ってきたのは、一人の小さな少女だった。

 

 艶やかな黒髪を左右で小さく結んだハーフツインテール。

 

 澄んだ青色と、陽光のような金色。

 

 左右で異なる瞳を持つ少女、イリス・アストレア。

 

 十歳にして冒険者登録を果たしたばかりの、白級冒険者である。

 

 あの日から、三日が経っていた。

 

「……おい、あの子」

 

「ああ、例の十歳の新人か」

 

「本当に登録できたんだな……」

 

 周囲の冒険者たちが、ひそひそと声を交わす。

 

 イリスはそんな視線に気づきながらも、特に気にする様子はなかった。

 

 それよりも、今は大切なことがある。

 

(……今日から、私もお仕事ができます!)

 

 胸の内で、そっと拳を握る。

 

 冒険者になっただけでは、お金は稼げない。

 

 依頼を受け、仕事をこなし、報酬を得る。

 

 それを繰り返して、少しずつお金を貯めていかなければならない。

 

 すべては、大好きなお婆ちゃんの治療費のため。

 

 イリスは小さく頷くと、依頼掲示板へ向かった。

 

 ◇◆◇

 

「……薬草採取、街道の清掃、荷物運び……」

 

 掲示板に並んだ依頼書を、一枚ずつ確認していく。

 

 白級冒険者が受けられる依頼は、比較的危険の少ないものが中心だった。

 

 もちろん、魔物が出現する可能性のある仕事も存在する。

 

 だが、初めての依頼で無理をするつもりはない。

 

(お婆ちゃんとも、約束しましたから)

 

 イリスは少し考えた末、一枚の依頼書を手に取った。

 

 リーヴェル近郊の森で採れる、薬草の採取依頼。

 

 指定された薬草を一定量集め、ギルドへ納品する仕事だ。

 

「これにしましょう」

 

 依頼書を持って受付へ向かう。

 

「あら、イリスちゃん!」

 

 受付嬢が笑顔を浮かべた。

 

「こんにちは。今日はどうしたの?」

 

「初めての依頼を受けに来ました!」

 

「あらあら、そうだったわね」

 

 イリスが差し出した依頼書を確認する。

 

「薬草採取ね。うん、これなら初めてのお仕事にもいいと思うわ」

 

「ありがとうございます」

 

「ただし、森の奥には入らないこと。近郊の森でも、魔物が出ることはあるからね」

 

「はい。気をつけます」

 

 イリスは真剣に頷いた。

 

 受付嬢は少し安心したように微笑む。

 

「それじゃあ、冒険者証を見せてもらえる?」

 

「はい!」

 

 イリスは胸元から冒険者証を取り出した。

 

 白級。

 

 最も低い等級。

 

 けれど、今の彼女にとっては誇らしい証だった。

 

 受付嬢が手続きを済ませる。

 

「はい、これで受注完了よ。日が暮れる前には帰ってきてね」

 

「分かりました!」

 

 イリスは丁寧に頭を下げた。

 

「それでは、行ってきます!」

 

 小さな背中を見送りながら、受付嬢は苦笑する。

 

「……本当に、しっかりした子ねえ」

 

 ◇◆◇

 

 リーヴェルの町から少し離れた場所に、緑豊かな森が広がっていた。

 

 木々の間から差し込む陽光。

 

 風に揺れる葉。

 

 遠くから聞こえる小鳥のさえずり。

 

 イリスは小さな採取籠を手に、森の中を歩いていた。

 

「ええと……この辺りでしょうか」

 

 足元の草をかき分け、目的の薬草を探す。

 

 ローザから教わった知識を思い出しながら、葉の形や茎の色を確かめていく。

 

「あっ」

 

 木の根元に、小さな緑色の葉が集まっていた。

 

「ありました!」

 

 イリスは嬉しそうにしゃがみ込む。

 

 葉の形。

 

 茎の色。

 

 独特の香り。

 

 間違いない。

 

 依頼書に書かれていた薬草だった。

 

「よかった……!」

 

 根を傷つけないように気をつけながら、必要な分だけ採取する。

 

 そして、丁寧に籠へ収めた。

 

(お婆ちゃんに教えてもらっていて、よかったです)

 

 ローザは優秀な魔法使いであると同時に、かつて世界各地を旅した冒険者でもある。

 

 薬草の見分け方。

 

 魔物の生態。

 

 危険な場所の見極め方。

 

 幼い頃から、さまざまなことを教えてくれた。

 

 その知識が、今こうして役に立っている。

 

「……ふふっ」

 

 イリスは小さく微笑んだ。

 

 そのとき。

 

 頭上から伸びた枝が、黒髪の結び目に触れそうになった。

 

「……っ!」

 

 イリスは素早く身を引いた。

 

 そして、慌てて髪を確認する。

 

(危ないところでした……!)

 

 朝、時間をかけて整えたハーフツインテール。

 

 せっかく綺麗に結んだのに、枝に引っかかって乱れてしまっては大変だ。

 

 指先で髪を整え、左右の結び目を確認する。

 

(……うん。大丈夫ですね)

 

 満足げに頷く。

 

 もっとも、そんなことを考えているとは、森の小鳥たちも知らないだろう。

 

 ◇◆◇

 

 薬草採取は順調だった。

 

 籠の中には、依頼された量の薬草が少しずつ集まっている。

 

「あと少しですね」

 

 イリスは依頼書を確認した。

 

 必要な量まで、もう少し。

 

 この調子なら、昼過ぎには町へ戻れるだろう。

 

 そう考えた、そのときだった。

 

 ――ガサッ。

 

「……?」

 

 近くの茂みが揺れた。

 

 イリスは足を止める。

 

 風ではない。

 

 何かが、草を踏み分けた音。

 

 少女の表情から、穏やかな笑みが消えた。

 

(……何か、います)

 

 採取籠を足元に置く。

 

 周囲を見渡し、音のした方向へ視線を向ける。

 

 再び、茂みが揺れた。

 

 そして。

 

「グルルルル……」

 

 低い唸り声とともに、一匹の獣が姿を現した。

 

 灰緑色の毛並み。

 

 普通の狼よりも大きな身体。

 

 鋭い牙と、獲物を見据える黄色い瞳。

 

(……フォレストウルフ)

 

 イリスは息を呑んだ。

 

 森に生息する低級魔物。

 

 一般的なゴブリンよりも素早く、鋭い牙による噛みつきが危険な魔物だ。

 

 ローザから、その特徴は教わっている。

 

 けれど。

 

(……本物を見るのは、初めてです)

 

 心臓が、どくんと大きく鳴った。

 

 目の前の魔物は、明らかにこちらを獲物として見ていた。

 

 訓練とは違う。

 

 ガレスとの模擬戦とも違う。

 

 相手は、こちらを傷つけることに躊躇しない。

 

 イリスはゆっくりと息を吸った。

 

「……光剣」

 

 右手に、淡い光が集まる。

 

 白い刀身。

 

 輪郭に混じる、わずかな黄金色の輝き。

 

 一振りの光剣が、少女の手に収まった。

 

 フォレストウルフが低く唸る。

 

 イリスは剣を構えた。

 

 その瞬間。

 

 ふと、懐かしい声が脳裏によみがえった。

 

 ◇◆◇

 

 ――数年前。

 

 まだローザが元気だった頃。

 

 家の裏手にある小さな庭で、幼いイリスが剣を構えていた。

 

 向かい合うのは、長い金髪を後ろでまとめたローザ。

 

 その手には、一本の木剣が握られている。

 

「さあ、イリス。もう一度やってみましょうか」

 

「はい、お婆ちゃん!」

 

 イリスは元気よく返事をした。

 

 小さな手には、淡く輝く光剣。

 

 まだ形も不安定で、今よりずっと短い刀身だった。

 

「えいっ!」

 

 イリスが踏み込む。

 

 ローザは木剣を軽く動かし、その一撃を受け流した。

 

「わっ!」

 

 体勢を崩したイリスが、慌てて足を踏み直す。

 

「もう一回です!」

 

「ふふっ。いいわよ」

 

 再び踏み込む。

 

 けれど、結果は同じだった。

 

「むぅ……」

 

 イリスは頬を膨らませた。

 

「お婆ちゃん、全然当たりません!」

 

「そうねえ」

 

 ローザは楽しそうに微笑んだ。

 

「でも、さっきより足の運びはよくなったわ」

 

「本当ですか?」

 

「ええ。ただし、ひとつ大切なことを忘れているわね」

 

「大切なこと?」

 

 ローザは木剣を下ろした。

 

「イリス。剣を振るうとき、どこを見ているかしら?」

 

「……剣です!」

 

「そうね。でも、相手の武器ばかり見ていてはいけないの」

 

「え?」

 

「身体全体を見るのよ」

 

 ローザはゆっくりと構え直した。

 

「足の向き。肩の動き。重心の移り方。そういうところには、次の動きが表れるものなの」

 

「……なるほど」

 

「もちろん、見えたからといって、必ず避けられるわけではないわ。相手が速ければ、考えている間に攻撃されてしまうもの」

 

 ローザは優しく続けた。

 

「だから、何度も練習して、少しずつ身体に覚えさせるの」

 

「はい!」

 

 イリスは大きく頷いた。

 

「私、頑張ります!」

 

「ふふっ。いい子ね」

 

 ローザは少女の頭を撫でた。

 

「でも、忘れないで。強くなることよりも大切なのは、無事に帰ってくることよ」

 

「……はい!」

 

 イリスは満面の笑みで答えた。

 

 ◇◆◇

 

「グルアッ!」

 

 鋭い唸り声が、イリスを現実へ引き戻した。

 

 フォレストウルフが地面を蹴る。

 

「っ!」

 

 イリスは咄嗟に横へ跳んだ。

 

 足元で風が弾ける。

 

 風魔法による瞬間加速。

 

 しかし、加速が強すぎた。

 

「わっ……!」

 

 予想以上に身体が流れ、着地した足が地面を滑る。

 

 どうにか踏みとどまった直後、フォレストウルフが再びこちらを向いた。

 

(……落ち着いて!)

 

 イリスは光剣を握り直す。

 

 胸の鼓動が速い。

 

 手のひらに、じわりと汗が滲んでいた。

 

(こんなに緊張するなんて……)

 

 何度も訓練してきた。

 

 ガレスとの模擬戦だって経験した。

 

 それなのに、目の前の魔物は恐ろしく感じられた。

 

 フォレストウルフが低く身を沈める。

 

 イリスは剣を構え直した。

 

(……お婆ちゃん)

 

 ローザの言葉を思い出す。

 

 相手の武器だけではなく、身体全体を見る。

 

 目の前の魔物には、剣も槍もない。

 

 けれど、牙がある。

 

 爪がある。

 

 そして、四本の脚がある。

 

(……前脚)

 

 イリスは視線を動かした。

 

 フォレストウルフの前脚が、わずかに曲がる。

 

 肩が沈む。

 

 後脚に力が入る。

 

(来る……!)

 

 次の瞬間。

 

「ガウッ!」

 

 魔物が跳びかかった。

 

 イリスは今度こそ、必要な分だけ風を使った。

 

 身体を半歩、斜めへ滑らせる。

 

 鋭い牙が、すぐ横を通り過ぎた。

 

「はあっ!」

 

 光剣を振るう。

 

 白い斬撃が、フォレストウルフの脇腹を捉えた。

 

「ギャンッ!」

 

 魔物が悲鳴を上げる。

 

 しかし、倒れない。

 

 傷を負いながらも地面に着地し、すぐさま振り返った。

 

(……浅い!)

 

 イリスは唇を結んだ。

 

 初めて、生き物を斬った。

 

 剣を通して伝わった感触が、手に残っている。

 

 けれど、立ち止まるわけにはいかない。

 

 フォレストウルフはまだ動いている。

 

 少女は距離を取り、再び構えた。

 

 魔物が唸る。

 

 傷口から血が滴り落ちる。

 

 そして、もう一度飛びかかってきた。

 

(……今度こそ!)

 

 イリスは相手の動きを見た。

 

 前脚。

 

 肩。

 

 重心。

 

 そして、跳躍の方向。

 

 風魔法を足元へ集中させる。

 

 ほんの一瞬だけ加速。

 

 魔物の正面から外れ、すれ違うように踏み込んだ。

 

「――はあっ!」

 

 光剣が閃いた。

 

 今度の一撃は、深く届いた。

 

 フォレストウルフの身体が地面へ落ちる。

 

 数度、脚を動かした後。

 

 動かなくなった。

 

「…………」

 

 イリスは剣を構えたまま、しばらく動かなかった。

 

 魔物が起き上がらないことを確かめる。

 

 周囲に、ほかの気配がないことも確認する。

 

 それから、ようやく息を吐いた。

 

「……終わった、のでしょうか」

 

 光剣が淡い粒子となって消える。

 

 イリスは自分の右手を見つめた。

 

 指先が、少し震えていた。

 

(……私が、倒したんですね)

 

 初めての魔物討伐。

 

 勝てた。

 

 けれど、嬉しさよりも先に、胸の奥に重たいものが残っていた。

 

 目の前には、もう動かないフォレストウルフが横たわっている。

 

 自分が、その命を奪った。

 

「…………」

 

 イリスは静かに目を伏せた。

 

 魔物は危険な存在だ。

 

 放っておけば、人を襲うこともある。

 

 そして、今回は自分が襲われた。

 

 戦わなければ、怪我をしていたかもしれない。

 

 それでも。

 

(……これが、冒険者なんですね)

 

 知識としては分かっていた。

 

 けれど、実際に経験するのは、まったく違った。

 

 イリスは小さく息を吸った。

 

「……帰りましょう」

 

 もう一度、周囲を確認する。

 

 それから採取籠を拾い上げた。

 

 薬草は、依頼された量に達している。

 

 これ以上、森に留まる必要はなかった。

 

 魔物の素材を持ち帰ることも考えたが、初めての解体作業を森の中で行うのは危険だ。

 

 イリスは目印になる木の特徴と場所を覚え、ギルドで報告することにした。

 

 そして、町へ向かって歩き始める。

 

 途中で、自分の服の袖が少し裂けていることに気づいた。

 

「……あっ」

 

 どうやら最初の攻撃を避けたとき、近くの枝に引っかけてしまったらしい。

 

 イリスは悲しそうに袖を見つめる。

 

「……お気に入りだったのに」

 

 小さく呟く。

 

 けれど、すぐに首を振った。

 

「……でも、怪我をしなくてよかったです」

 

 服は直せる。

 

 命は、そうはいかない。

 

 イリスは袖を軽く押さえ、歩き出した。

 

 ◇◆◇

 

「おかえりなさい、イリスちゃん!」

 

 冒険者ギルドへ戻ると、受付嬢が笑顔で迎えてくれた。

 

「ただいま戻りました」

 

「どうだった? 初めての依頼は」

 

「薬草は、ちゃんと採れました!」

 

 イリスは籠を差し出した。

 

 受付嬢が中身を確認する。

 

「まあ、綺麗に採れているわね。傷も少ないし、状態もいいわ」

 

「ありがとうございます!」

 

「これなら問題なく納品できるわよ」

 

 イリスの顔が明るくなる。

 

 けれど、すぐに表情を引き締めた。

 

「あの……それと、報告したいことがあるんです」

 

「報告?」

 

「はい。森で、フォレストウルフに遭遇しました」

 

 受付嬢の手が止まった。

 

「……え?」

 

「襲われたので、戦いました」

 

「ちょ、ちょっと待って! 怪我は!?」

 

「大丈夫です。怪我はしていません」

 

 イリスは慌てて両手を振った。

 

「服は少し破れてしまいましたけど……」

 

「服より身体よ!」

 

 受付嬢は思わず声を上げた。

 

 周囲の冒険者たちが振り返る。

 

「それで、魔物はどうしたの?」

 

「……倒しました」

 

「倒した!?」

 

「はい。一匹だけですけど……」

 

 受付嬢はしばらく言葉を失った。

 

 そのとき。

 

「ガッハッハッハ!!」

 

 聞き覚えのある豪快な笑い声が響いた。

 

「なんだなんだ! ずいぶん賑やかじゃねえか!」

 

 奥から現れたのは、ギルド支部長のガレスだった。

 

「おお、イリス! 初仕事はどうだった!」

 

「こんにちは、ガレスさん」

 

「おう! ……ん?」

 

 ガレスの視線が、イリスの破れた袖に向いた。

 

 笑みが少し薄れる。

 

「何があった?」

 

 イリスは森での出来事を説明した。

 

 薬草採取中にフォレストウルフと遭遇したこと。

 

 初めての実戦で緊張したこと。

 

 風魔法の加速を誤り、危うく体勢を崩しかけたこと。

 

 そして、ローザの教えを思い出し、どうにか討伐できたこと。

 

 ガレスは最後まで黙って聞いていた。

 

「……なるほどな」

 

 やがて、太い腕を組む。

 

「よく無事に帰ってきた」

 

「……はい」

 

「だが、最初の加速は危なかったな」

 

「……はい」

 

 イリスは少し肩を落とした。

 

「焦ってしまいました」

 

「それを自分で分かってるなら、次に生かせ」

 

 ガレスは大きな手を伸ばし、イリスの頭を軽く撫でた。

 

「初めての実戦で、何もかも上手くいく奴なんざ滅多にいねえ」

 

「……そうなんですか?」

 

「ああ。大事なのは、失敗した理由を考えることだ」

 

 ガレスはにやりと笑った。

 

「それと、魔物を倒したからって、油断して森に居座らなかったのは正解だ」

 

「ありがとうございます」

 

「ガッハッハ! いい経験になったじゃねえか!」

 

 イリスは小さく微笑んだ。

 

 その後、ギルドはフォレストウルフの出現場所を記録し、確認のため冒険者を派遣することになった。

 

 イリスは薬草採取の報酬を受け取った。

 

 手のひらに乗せられた、数枚の硬貨。

 

「…………」

 

 イリスはそれをじっと見つめた。

 

 自分の力で、初めて稼いだお金。

 

 決して大きな金額ではない。

 

 けれど。

 

(……私、本当に冒険者になったんですね)

 

 胸の奥が、じんわりと温かくなった。

 

「ありがとうございます!」

 

 イリスは深々と頭を下げた。

 

 ◇◆◇

 

 帰り道。

 

 イリスは小さな菓子店の前で足を止めた。

 

 店先には、焼きたてのお菓子が並んでいる。

 

「……あっ」

 

 その中に、見覚えのあるものがあった。

 

 ローザが好きな、蜂蜜入りの焼き菓子。

 

 イリスは財布の中を確認した。

 

 今日受け取ったばかりの報酬。

 

 その一部を使えば、二人分のお菓子を買うことができる。

 

(……でも、治療費を貯めないと)

 

 少しだけ迷う。

 

 けれど。

 

(……今日くらいは、いいですよね)

 

 イリスは小さく微笑んだ。

 

「すみません。これを二つください!」

 

 ◇◆◇

 

「ただいま帰りました!」

 

 家の扉を開ける。

 

「あら、おかえりなさい、イリス」

 

 窓際の椅子に座っていたローザが、優しく微笑んだ。

 

「初めてのお仕事、どうだった?」

 

「えへへ……!」

 

 イリスは嬉しそうに駆け寄った。

 

「無事に終わりました!」

 

「まあ、それはよかったわ」

 

「それから、見てください!」

 

 少女は小さな包みを取り出した。

 

「お婆ちゃんの好きなお菓子です!」

 

「あら……!」

 

 ローザの瞳が丸くなる。

 

「もしかして、今日の報酬で?」

 

「はい!」

 

 イリスは得意げに頷いた。

 

「初めてのお給料なので、お婆ちゃんと一緒に食べたくて!」

 

「……そう」

 

 ローザは優しく微笑んだ。

 

「ありがとう、イリス」

 

「えへへ……!」

 

 けれど、次の瞬間。

 

 ローザの視線が、イリスの袖に向いた。

 

「……イリス?」

 

「はい?」

 

「その服、どうしたの?」

 

「……あっ」

 

 イリスは固まった。

 

 破れた袖。

 

 すっかり忘れていた。

 

「ええと……」

 

 ローザは何も言わず、優しく見つめている。

 

 イリスは少しだけ視線を落とした。

 

「……実は、森で魔物に遭遇したんです」

 

 そして、今日の出来事を話した。

 

 フォレストウルフとの戦い。

 

 初めて感じた恐怖。

 

 焦って魔法の加速を誤ったこと。

 

 ローザから教わったことを思い出して、どうにか勝てたこと。

 

 すべてを聞き終えたローザは、静かに息を吐いた。

 

「……そうだったのね」

 

「……はい」

 

 イリスは小さく頷く。

 

「お婆ちゃん。私、少し怖かったです」

 

 その声は、いつもより小さかった。

 

「訓練とは、全然違いました」

 

 ローザはそっと両腕を広げた。

 

「おいで、イリス」

 

「……お婆ちゃん」

 

 イリスはその胸へ飛び込んだ。

 

 ローザが優しく抱きしめる。

 

「怖かったわね」

 

「……はい」

 

「でも、ちゃんと帰ってきてくれた」

 

 ローザは少女の黒髪を撫でた。

 

「それが、何より嬉しいわ」

 

 イリスは目を閉じた。

 

 温かな腕。

 

 懐かしい香り。

 

 大好きなお婆ちゃん。

 

「……私、もっと強くなりたいです」

 

「そうね」

 

「次は、もっと落ち着いて戦えるようになりたいです」

 

「ええ。少しずつ、強くなっていきましょうね」

 

 ローザは優しく微笑んだ。

 

「でも、急がなくてもいいのよ」

 

「……はい」

 

 しばらくして、イリスは顔を上げた。

 

「……ところで、お婆ちゃん」

 

「なあに?」

 

「今日の私、頑張りましたよね?」

 

「ええ。とっても頑張ったわ」

 

「……もっと褒めてください」

 

「ふふっ」

 

 ローザが笑う。

 

「そうねえ。勇気があって、賢くて、頑張り屋さんで……」

 

「えへへ……!」

 

「それに、今日もとっても可愛いわ」

 

 イリスの顔が、ぱっと明るくなった。

 

「本当ですか!?」

 

「もちろんよ。少し髪が乱れているけれど、それでも世界で一番可愛いわ」

 

「……!」

 

 イリスは嬉しそうに頬を緩ませた。

 

「私もそう思っていました!」

 

「あらあら」

 

 二人の笑い声が、小さな家に響いた。

 

 やがて、テーブルには蜂蜜入りの焼き菓子が並べられた。

 

 イリスはローザの隣に座り、今日の出来事をもう一度楽しそうに話し始める。

 

 初めての依頼。

 

 初めての魔物討伐。

 

 初めての報酬。

 

 嬉しかったことも、怖かったことも、全部。

 

 ローザは時折頷きながら、優しく耳を傾けていた。

 

 窓の外では、夕暮れの光がリーヴェルの町を染めている。

 

 イリスは小さな焼き菓子を口に運んだ。

 

「……美味しいですね!」

 

「ええ、とっても」

 

 ローザが微笑む。

 

 その笑顔を見て、イリスも嬉しそうに笑った。

 

 まだ十歳。

 

 冒険者としては、歩き始めたばかり。

 

 今日の戦いで、自分の未熟さも知った。

 

 それでも、確かに一歩前へ進んだ。

 

 大切な人を守れるように。

 

 もっと強くなれるように。

 

 そして、いつか。

 

 お婆ちゃんの病気を治せるように。

 

 イリス・アストレアの冒険者としての日々は、まだ始まったばかりだった。




【あとがき/ちょっとした世界観設定】

今回は、本作の冒険者ランクについてご紹介します!

冒険者ランクは、全部で8段階あります。

白級 → 緑級 → 青級 → 赤級 → 銀級 → 金級 → 白金級 → 虹級

右に行くほど上位のランクとなります。

ちなみに、現在のイリスは最下位の白級。

ローザとガレスは、かつて金級冒険者として活躍していました。

そして、最高位の虹級は、一つの国家に数人しか存在しない特別なランクです。

まだまだ駆け出しのイリスですが、これからの成長を温かく見守っていただければ嬉しいです!
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