多少の脚色を加えましたが、ほぼ史実通りです。
これはAIに書いてもらったものを、私が加筆修正・検証したもので、今まで創ってきた私の傑作をすべて食わせたので、間違いなく『最強』でしょう。
それではどうぞ、是非その目にて、本物語をゆる〜くお楽しみください!
『——本日、ソヴィエト連邦共産党中央委員会総会において、ニキータ・フルシチョフ第一書記の解任が全会一致で可決された。理由は高齢、ならびに健康上の問題による辞任である。なお、後任の第一書記には、レオニード・イリイチ・ブレジネフ同志が選出されたことを、ここに発表する』
1964年、10月14日。
モスクワ、クレムリン宮殿。
分厚い絨毯が敷かれた最高指導者の執務室にて。
男は一人、巨大な鏡の前に立っていた。
「……ふむ。悪くない」
男が撫でているのは、頭髪ではない。
目の上に鎮座する、黒々とした二本の毛虫。
いや、失敬。
世界史上、最も雄弁にして最も濃密なパーツ。
——『眉毛』である。
「角度よし。毛並みよし。今日も私の眉毛は、労働者階級の団結くらい強固だなっ!」
男の名は、レオニード・ブレジネフ。
齢、五十七。
本日より、地球の陸地の六分の一を支配する超大国、ソヴィエト社会主義共和国連邦のトップに立った男だ。
……え? 誰だそいつって?
スターリンなら知ってる?
ゴルバチョフなら授業で習った?
おいおい、待ってくれよ同志諸君!
スターリンみたいに何百万人もの国民をシベリア送りにしたわけじゃない!
フルシチョフみたいに国連で靴を脱いで机をバンバン叩いたわけでもない!
ゴルバチョフみたいにうっかり国を崩壊させてピザのCMに出たわけでもない!
だからこそ、影が薄いだって⁉︎
ふざけるな! いい加減にしろ!(迫真)
私がトップにいた十八年間こそ、ソ連が一番強くて、一番豊かで、一番『ぬくぬく』していた黄金時代なんだぞ⁉︎ (のちに『停滞の時代』と歴史の教科書でボロクソに書かれるのは、ご愛嬌)
コンコン。
執務室の重厚な扉がノックされた。
ブレジネフは慌てて手鏡をポケットに隠し、威厳たっぷりに咳払いをしてから革張りの椅子に深く腰掛けた。
「入れ」
「失礼します、レオニード・イリイチ」
入ってきたのは、二人の男だった。
一人は、いつもレモンでも齧ったかのように渋い顔をしている実務の鬼、アレクセイ・コスイギン(新首相)。
もう一人は、銀縁眼鏡の奥の瞳が爬虫類のように冷たい理論の番人、ミハイル・スースロフ(イデオロギー担当書記)。
「フルシチョフの荷物の運び出しが完了しました。彼は最後に『年金生活を送るよ』とだけ言い残して、別荘(ダーチャ)へ去りましたよ」
コスイギンが淡々と報告する。
ブレジネフは大きく頷いた。
「うむ、ご苦労。血を流さずに政権交代ができたんだ、これこそ文明的な社会主義というやつだ」
そう、今回のクーデターは無血だった。
スターリン時代なら、負けた政敵は即座に地下室へ連行され、後頭部に鉛玉をぶち込まれていたところだ。(あわわ大粛清……!)
だが、時代は変わったのだ。
(いやぁ、本当に怖かった……! 昨日の夜なんて、フルシチョフにバレて逆に銃殺されるんじゃないかって、胃薬を三箱も飲んじまった……!)
実はこの男、クーデター直前に恐怖のあまりガタガタ震えて泣き言を漏らし、周囲から「しっかりしろ!」と尻を叩かれていたのだが、今はそんな素振りは一ミリも見せない。
終わった後に一番偉そうな顔をする。
これぞ、政治家の基本スキルである。
「さて、ブレジネフ同志」
スースロフが眼鏡の位置をクイッと直しながら、氷のような声で言った。
「我々があなたを第一書記に推したのは、あくまで『集団指導体制』の調整役としてです。フルシチョフのような独裁や、思いつきの改革は二度とご免ですからね」
「もちろんだとも、ミハイル! 私はみんなの意見を聞くのが三度の飯より大好きだからな!」
ブレジネフは満面の笑みでサムズアップした。
その裏で、スースロフとコスイギンは密かに視線を交わす。
((まあ、この男なら頭もそこそこだし、毒にも薬にもならないから操りやすいだろう。精々、三年か四年の『つなぎ』だな))
二人の脳内が、完全にシンクロした。
歴史の皮肉とは、こういう瞬間に生まれる。
なぜなら、この「毒にも薬にもならないつなぎの男」は、ここから十八年間も権力の頂点に居座り続け、スースロフもコスイギンも、他のライバルたちも全員まとめて政治的に(あるいは寿命で)見送ることになるのだから!
「よし、二人が帰ったら早速お仕事だ!」
扉が閉まるのを待って、ブレジネフは机の下から一冊の分厚いカタログを取り出した。
国家予算の資料ではない。
核ミサイルの配備図でもない。
——『高級外車カタログ・1964年最新版』。
「ふふふ……書記長になったんだ、ロールス・ロイスくらい乗ってもバチは当たらんよなぁ?」
共産主義の頂点に立った男が最初にした仕事。
それは、資本主義の結晶である社会主義とは真逆の、欧米のクルマの物色だった——。
□■□■□
ここで少し、時計の針を巻き戻そう。
そもそも、レオニード・ブレジネフとは何者か?
なぜ、こんな一見するとタダのおっさんが、恐ろしい怪物たちの巣窟であるクレムリンで生き残り、頂点に立てたのか?
理由は単純だ。
彼が、『世界一のイエスマン』にして、『世界一の調整役』だったからである。
1906年、ウクライナのカミャンスケ(旧・ドニエプロジェルジンスク)にて誕生。
労働者の息子として生まれ、冶金技師として工場で働いたのち、共産党の階段を登り始めた。
時は、ヨシフ・スターリンの大粛清時代。
昨日まで隣で笑っていた上司が、今日には「人民の敵」として消される、文字通りのデスゲーム。
有能すぎる者は、嫉妬されて消された。
無能すぎる者は、サボタージュとして消された。
自己主張が強い者は、反逆者として消された。
では、ブレジネフはどうしたか?
「同志スターリン! あなたの指導は太陽のように輝いています!」
「同志フルシチョフ! あなたの農業改革は宇宙の真理です!」
そう、ひたすらニコニコして、上司の言うことに全力で頷き、空いたポスト(前の人が粛清されて空いた席)にスッと滑り込み続けたのである!
自己主張はゼロ。
敵を作らない愛嬌は百点満点。
そして、第二次世界大戦(大祖国戦争)が勃発すると、彼は政治将校として前線にも赴いた。
黒海沿岸の激戦地、「マラーヤ・ゼムリャ」。
ちなみに当時、彼はただの一政治将校(大佐〜少将クラス)だったのだが、のちに書記長になると、この戦いがまるで「ブレジネフが一人でナチス・ドイツを倒した天下分け目の大決戦」みたいに教科書で魔改造されることになる。
人間、偉くなると過去の思い出が美化する生き物なのだ……まあ、多少はね?
だが、そんな彼にも一つだけ本物の戦果がある。
1943年、ウクライナ戦線。
泥まみれの塹壕の中、彼は一人の上司と出会う。
のちにスターリンの後を継ぐ男、ニキータ・フルシチョフである。
「ブレジネフ! 前線の兵士たちの士気は⁉︎」
「バッチリです同志フルシチョフ! あなたの激励のおかげで、兵士たちはドイツ軍の戦車を素手で引き裂く勢いですよ!」
「がはは! お前は本当に気持ちのいい奴だな! やつらには手榴弾でも咥えさせて踊らせよう‼︎」
太鼓持ちの才能、ここに極まれり!
フルシチョフに偉く気に入られたブレジネフは、戦後、モルドバやカザフスタンのトップへと順調に出世していく。
特にカザフスタンでの「処女地開拓運動」では、フルシチョフの無茶振り(ステップ地帯を片っ端から畑にしろという命令)に「喜んで!」と応え、ついでにそこを宇宙開発の拠点「バイコヌール宇宙基地」にする手伝いまでやってのけた。
ガガーリンが「地球は青かった」と言えたのも、実はブレジネフが裏で書類にハンコを押し続けたおかげ……かもしれない。
そうしてフルシチョフのナンバー2にまで登り詰めた彼は、1964年。
フルシチョフの無茶苦茶な改革にブチ切れた党幹部たちから「おい、お前が次のトップをやれ」と神輿に担ぎ上げられたのだ。
恩人を裏切ることに、良心の呵責はなかったの?
彼はクーデターの当日、フルシチョフに向かって涙を流しながらこう言ったという。
『ニキータ・セルゲーエヴィチ、これも党のためなんだ……!』
泣きながら恩人の背中にナイフを突き立てる。
これぞ、クレムリン流の『恩返し』であった。
□■□■□
時は進み、1968年、夏。
ブレジネフ政権発足から四年が経過していた。
この頃には、当初「三年で使い捨てる」はずだったコスイギンやスースロフの目論見は、完全に外れていた。
ブレジネフは、自分が一番得意な「人事権」と「お友達ネットワーク(ドニエプル・マフィア)」を駆使し、党の重要ポストを自分の息のかかったイエスマンたちで固めていたのだ。
彼が打ち出したスローガンは、『幹部の安定』。
要するにどういうことか?
「俺に逆らわなければ、絶対にクビにしないし、特権も年金も保証してやるよ」という、役人たちにとって夢のような終身雇用契約である!
スターリンには殺される恐怖があった。
フルシチョフには左遷される恐怖があった。
だが、ブレジネフは違った。
彼は、ソ連の官僚たちに『ぬるま湯』をプレゼントしたのだ。
人々は彼を愛した(主に特権階級が)。
しかし、国際政治の冷酷な波は、そんな彼のぬるま湯を容赦なく揺らしに来る。
——チェコスロバキア、『プラハの春』。
東欧の衛星国であるチェコスロバキアで、アレクサンデル・ドプチェク第一書記が「人間の顔をした社会主義」を掲げ、言論の自由化や民主化を進め始めたのである。
クレムリンの会議室は、怒号に包まれていた。
「このままではチェコが西側に寝返るぞ!」
「検閲の廃止など、共産主義への反逆だ!」
「ワルシャワ条約機構の結束が崩れる!」
軍部のトップや強硬派の幹部たちが、机を叩いて喚き散らす。
議長席のブレジネフは、困り果てたように太い眉毛をハの字に曲げていた。
(うーむ、困ったなぁ。ドプチェクくんとは何度も電話してるし、個人的に嫌いじゃないんだよなぁ。できれば仲良く解決したいんだが……)
ブレジネフは基本は「いい人」でありたかった。
血生臭いことは嫌いだ。
休日は森でイノシシ狩りをして、大好きな外車をぶっ飛ばし、美味しいウォッカを飲んで寝たい。
彼は受話器を取り、プラハのドプチェクに直接電話をかけた。
「もしもし、サーシャ(ドゥプチェクの愛称)? 私だよ、リョーニャ(ブレジネフの愛称)だよ」
『ああ、レオニード・イリイチ。お電話いただきありがとうございます』
「あのさぁ、サーシャ。ちょっと改革のスピード、落としてくれない? うちの連中がカンカンでさぁ、私の立場がないんだよぉ……」
『しかし同志、これはチェコスロバキア国民の総意なのです。我々はソ連を裏切るつもりはありません、ただ少しだけ自由を——』
「うーん、それがダメなんだってば。ねえ、私の顔を立てると思ってさ、検閲くらい復活させようよ? ね? お願いっ!」
超大国のトップとは思えない、まるで親戚のおじさんのような泣き落とし。
さらに彼は、直接チェコとの国境近くの街まで出向き、ドプチェクと会談した。
会談の席で、ブレジネフはドプチェクの顔を両手でガシッと掴み、熱い抱擁を交わした。
そして、唇と唇を重ねる——。
——ズチュウウウウウッ‼︎
出たああああ!
社会主義国の伝統芸、『兄弟のキス(ブラーツキー・ポツェルイ)』!
ロシアや東欧では、親愛の情を示すために男同士で頬や唇にキスをする習慣があるのだが、ブレジネフのそれは文字通り「別格」だった。
相手の後頭部をロックし、吸引力の変わらないただ一つの掃除機のごとく、濃厚かつ情熱的に唇を奪うのだ。
人呼んで、『トリプル・ブレジネフ(左右の頬+唇への三連撃)』!
「サーシャ! お前は私の弟! 愛してるぞ!」
「んぐっ……⁉︎ ど、同志ブレジネフ、息が⁉︎」
涙を浮かべて愛を囁くブレジネフ。
それでもチェコの自由化の波は止まらなかった。
1968年、8月20日の夜。
クレムリンの執務室。
ブレジネフの前に、一枚の書類が置かれていた。
『ドナウ作戦』の発動命令書。
すなわち、ソ連軍を中心とするワルシャワ条約機構軍五〇万人と、戦車五千台をチェコスロバキアに突入させ、武力で民主化を踏み潰す命令だ。
部屋の照明は暗く、ブレジネフの濃い眉毛が目の下に深い影を落としていた。
さっきまでの人懐っこい「親戚のおじさん」の顔は、もうそこにはない。
「……サーシャ。私は何度も言ったんだぞ」
彼は静かに万年筆を手に取った。
もしここでチェコの離反を許せば、ポーランドも、ハンガリーも、東ドイツも後に続くだろう。
そうなれば、大祖国戦争で二千七百万人のソ連国民の血を流して築き上げた「東欧の緩衝地帯」があっという間に連鎖するよう崩壊する。
そして何より——弱腰を見せれば、自分自身がクレムリンの権力闘争で引きずり下ろされる。
自分の椅子と、帝国の維持。
天秤にかけるまでもなかった。
カリカリ、と。
静かな部屋に、万年筆が紙を擦る音だけが響く。
「社会主義の利益は、一国の主権に優先する」
のちに西側から『制限主権論(ブレジネフ・ドクトリン)』と呼ばれ、世界中から恐怖と非難を浴びることになる冷徹な論理。
翌朝、プラハの美しい石畳は、ソ連軍のT-54戦車のキャタピラによって無惨に蹂躙された。
連行されてきたドプチェクを前にして、ブレジネフは悲しそうに眉をひそめてこう言ったという。
「サーシャ……君が私の言うことを聞かないから、こんなことになってしまったんじゃないか」
泣きながら抱きしめ、キスをした相手の国に、五千台の戦車を送り込む。
善人と怪物が同居する場所。
それこそが、ソヴィエト連邦の書記長だ——。
□■□■□
さて、そんな血も凍るような国際政治の裏で。
1970年代に入ると、ブレジネフの権力は完全に絶頂期を迎えた。
なぜなら、神風が吹いたからである。
1973年、『オイルショック』!
中東戦争の影響で、世界の原油価格が四倍以上に爆上がりしたのだ。
そして、ソ連という国は——世界最大級の『産油国』であり『天然ガス大国』だった!
シベリアの凍土を掘れば掘るほど、黒い黄金(石油)がドバドバと湧き出てくる。
それをパイプラインで西ヨーロッパに流すだけで、労せずして莫大な外貨(オイルマネー)がチャリンチャリンと、クレムリンの金庫に転がり込んでくるようになったのだ!
「ふはははは! 見ろコスイギン! 何もしなくても金が入ってくるぞ⁉︎」
「……レオニード・イリイチ。この外貨を使って、遅れている国内の軽工業やI、農業インフラの構造改革を行わなければ、いずれ資源価格が下がった時に国が破綻してしまいます」
「うるさいなぁ、細かいことはいいんだよ! 国民には安いパンとウォッカを配って、余った金でアメリカに負けないくらい核ミサイルと戦車をいっぱい作ろうればいんでしょ?」
コスイギンの正論パンチは、ブレジネフの分厚い眉毛に吸収されて消えた。
国内の工場は非効率なまま放置し、食糧が足りなければオイルマネーでアメリカやカナダから小麦を大量に輸入すればいい。
改革なんて面倒くさいことはしない。
だって、今、お金があるんだから!
この「資源バブルによる見せかけの繁栄」の中、ソ連の軍事力はついにアメリカ合衆国と肩を並べ、核弾頭の保有数ではアメリカを追い抜いた。
そして、力を背景にした緊張緩和——『デタント』の時代が幕を開ける。
1972年5月、モスクワ。
そして翌1973年6月、ワシントンD.C.およびカリフォルニアにて。
米ソのトップによる、歴史的な会談が行われた。
相手は、生粋の反共主義者にして冷徹なリアリスト、アメリカ合衆国第37代大統領リチャード・ニクソンである。
「ミスター・プレジデント! ようこそっ!」
「ありがとう、書記長。実りある会談にしよう」
表向きは、戦略兵器制限交渉(SALT I)や、核戦争防止協定といった、人類の存亡を懸けた超・真面目な交渉の場である。
世界中のメディアが固唾を呑んで見守っていた。
しかし、会談の合間。
ブレジネフはニクソンの袖をクイクイと引っ張り、子供のように目を輝かせて小声で囁いた。
「ねえねえリチャード。私、アメリカの車が大好きなんだよね。特にあの『リンカーン・コンチネンタル』ってやつ!あれ、カッコいいよねぇ〜(チラッ、チラッ)」
「……は?」
ニクソンは一瞬、通訳の誤訳かと思った。
社会主義の総本山のトップが、資本主義の象徴であるアメリカ大統領に、高級車をねだっている?
だが、ニクソンは超一流の政治家だった。
相手の弱み(というか趣味)を見抜くや否や、すぐさまフォード社に特注させ、ダークブルーに輝く最新型の『リンカーン・コンチネンタル』を用意させたのである!
キャンプ・デービッド(大統領山荘)にて。
車のキーを渡されたブレジネフの反応たるや、凄まじかった。
「うおおおおお⁉︎ マジでくれるのかリチャード! 最高だ! お前は私の最高のダチだ‼︎」
「は、はは……気に入ってもらえて、私としてもそれは何よりです、書記長」
「よし、今からドライブに行こう! ほら、リチャードも助手席に乗れ!」
「えっ、今からですか⁉︎」
ニクソンが止める間もなく、ブレジネフは運転席に飛び乗り、ニクソンを助手席に押し込んだ。
シークレットサービスたちが「大統領⁉︎ おやめください!」と青ざめて追いかけるのを完全にぶっちぎり——。
ブロロロロロロロォォォォッ‼︎
ブレジネフはアクセルを床までベタ踏みした!
「ひゃっほおおおおお! さすがV8エンジンだ、パワーが違うぜぇ!」
「書記長⁉︎ こ、ここは山道です! 制限速度を遥かに超えて——うわあああああ⁉︎」
時速八〇キロを超える猛スピードで、キャンプ・デービッドの細い山道と急カーブをドリフト寸前でぶっ飛ばすソ連書記長!
助手席でシートベルトを死ぬ気で握りしめ、顔面蒼白になって悲鳴を上げるアメリカ大統領!
もしここでタイヤが滑って谷底に落ちていたら、米ソのトップ二人が同時に交通事故死し、第三次世界大戦が勃発していたかもしれないという、冷戦史上最大の危機(物理)であった!
キキィィィッ! と派手なブレーキ音を立てて車を止めたブレジネフは、爽やかな笑顔で言った。
「いやぁ、素晴らしい車だ! ありがとーう!」
「……ど、どういたしまして……(寿命が五年は縮んだぞこの野郎……)」
ちなみにブレジネフの「外車コレクション」はこれにとどまらない。
西ドイツのブラント首相からはメルセデス・ベンツを、イタリアの共産党からはマセラティを、イギリスからはロールス・ロイスを、各国から次々とプレゼント(という名の献上)させ、クレムリンの地下ガレージを自分専用の高級外車ショールームにしていたのだ。
労働者の国のリーダー、なんと完全にただの成金車オタクである!
□■□■□
しかし、人間誰しも老いには勝てない。
1970年代も半ばを過ぎると、さすがのブレジネフの肉体にも、深刻なガタが来始めた。
長年のヘビースモーカー生活。
過度なストレスを紛らわすための睡眠薬と鎮静剤の乱用(しかもそれをウォッカで流し込むという無茶苦茶な飲み方!)。
1974年から1976年にかけて、彼は相次いで重い脳卒中や心臓発作に襲われた。
特に1976年1月には、一時的に『臨床死(心停止)』の状態にまで陥り、医師団の必死の蘇生措置でなんとか現世に引き戻されたほどだった。
その結果、どうなったか?
「……あー、しんあーなる、どおし、しょくん」
呂律が、まったく回らなくなったのである。
入れ歯が合っていないのか、脳の神経が麻痺しているのか、彼の演説は常に「もごもご」とした聞き取り不能な呪文へと変貌した。
思考力も著しく低下し、会議は一日一時間程度しか集中することができない。
誰かが書いてくれた原稿を、ただ上から下へとなぞって読むだけの『自動朗読マシーン』と化してしまったのだ。
当然、本人も自分の限界には気づいていた。
「……なぁ、みんな。私もう疲れたよ。書記長を辞めて、静かに年金生活を送りたいんだが……」
彼は政治局の会議にて、何度か真剣に「辞任」を申し出ていた。
普通なら、周囲は「お疲れ様でした!」と拍手で送り出し、若く健康な次の指導者を選ぶはずだ。
——だが、クレムリンの老人たちは、それを絶対に許さなかった!
「「「「ダメ! 絶対に辞めないで‼︎」」」」
国防相のウスチノフ(68歳)。
外相のグロムイコ(67歳)。
KGB議長のアンドロポフ(62歳)。
側近のチェルネンコ(65歳)。
平均年齢が七〇歳に迫ろうかという『老人政治(ジェロントクラシー)』の重鎮たちが、血相を変えてブレジネフの両肩を押さえつけ、椅子に座らせ直したのである!
一体それはなぜか?
理由は、あまりにも人間的で、愚かだった。
もし今、ブレジネフが辞めて新しい若リーダーが誕生したら、自分たちがこれまで築き上げてきた「特権」や「地位」、そして「ぬるま湯の利権」が全部ひっくり返されてしまうかもしれない!
それに比べれば、何も決められず、ただ原稿を読んでハンコを押してくれるだけの「ボケかけたブレジネフ神輿」を担ぎ続けている方が、自分たちにとっては百倍都合が良かったのだ!
「レオニード・イリイチ! あなたがいなければソ連は終わりです!」
「そうですとも! あなたはかのレーニンに次ぐ偉大なる指導者なのですから!」
「えぇ……そうかなぁ? そんなに私、必要?」
おだてられると弱いブレジネフ。
「では、元気を出していただくために——今年もあなたに『勲章』を授与しましょう!」
「……マジで⁉︎」
ピカーン!
ブレジネフの濁っていた瞳が、少年のようにキラキラと輝いた!
そう、後半生のブレジネフを動かしていた最大の原動力たるもの。
それは、高級車でもウォッカでもなく——『勲章(メダル)集め』だったのである!
彼の勲章マニアぶりは、もはやギネスブック級の狂気だった。
「誕生日だから、ソ連邦英雄の金星章!」
「戦争の思い出話を書いて、レーニン文学賞!」
「なんかよく分からんけど平和に貢献したから、レーニン平和賞!」
本来なら、戦場で命を懸けて特攻した英雄や、歴史的な大発見をした科学者にしか与えられないはずの最高栄誉『ソ連邦英雄』を、彼はなんと『四回』も受賞した!
第二次世界大戦を勝利に導いた伝説の名将・ジューコフ元帥と並ぶ、史上最多タイ記録である。
しかもそのほとんどが、「自分の誕生日に、自分で自分の表彰状にサインして、自分で受け取る」という究極の自作自演(セルフプロデュース)!
さらには、前線でただの政治将校だったにもかかわらず、軍の最高位である『ソ連邦元帥』の称号まで自分に与え、ついにはスターリンしか持っていなかった最高軍事勲章『勝利勲章』(ダイヤモンドとルビーが散りばめられた超豪華版)まで自分の胸に飾ってしまったのだ!
(※この勝利勲章だけは、あまりにも規約違反すぎたため、彼の死後にゴルバチョフによって「さすがにナシ!」と剥奪されているのでご安心を)
結果として、彼が生涯に獲得した国内外の勲章・メダルの総数は——なんと『百個以上』!
パレードの日に彼が着る軍服の胸元は、まるで中世の重装歩兵のチェインメイルのようにメダルで埋め尽くされ、歩くたびに「ジャラジャラ、ガシャガシャ」と凄まじい金属音を響かせた。
これを見て、口さがないモスクワ市民たちは、ウォッカを飲みながらこんな『アネクドート(政治風刺小話)』を囁き合ったという。
『おい、昨日モスクワでマグニチュード7の大地震があったらしいぞ!』
『なんだって⁉︎ 原因は何だ⁉︎』
『ブレジネフ書記長の軍服が、クローゼットの中で床に落ちたらしい!』
またある時は、こんなジョークも流行った。
『ブレジネフ書記長が胸拡手術を受けるそうだ』
『心臓の病気かい?』
『いいや、これ以上勲章をつけるスペースがなくなったからさ!』
国民から完全にオモチャにされている!
だが、逮捕される者はほとんどいなかった。
それこそが、ブレジネフ時代の「奇妙な優しさ」でもあったのだ。
□■□■□
1979年。
ブレジネフの老いと、ソ連という国家の「錆びつき」は、誰の目にも明らかになりつつあった。
その年の6月、オーストリアのウィーン。
第二次戦略兵器制限交渉(SALT II)の調印式。
相手は、アメリカのジミー・カーター大統領。
よろよろと歩くブレジネフを、カーターが優しく支える。
調印が無事に終わり、世界が平和への一歩に拍手を送った、その瞬間。
ブレジネフの本能が、またしても暴走した!
「ジミィィィ……! 平和だぁ……!」
「えっ、あ、ちょ、ミスター・ブレジネフ⁉︎」
ガシィッ!
ブレジネフがカーターの両肩を鷲掴みにし、逃げ場のないゼロ距離へと引き寄せた!
——ズチュウウウウウッ!
西側のリーダーであり、敬虔なキリスト教徒であるアメリカ大統領の唇に、共産主義の親玉の濃厚なディープキスが炸裂したのだ!
フラッシュが焚かれ、世界中の新聞の一面に、目を白黒させて固まるカーターと、恍惚の表情で吸い付くブレジネフの写真がデカデカ掲載された。
そして同年10月、東ベルリン。
東ドイツ建国三〇周年記念式典にて、東ドイツの最高指導者エーリッヒ・ホーネッカーと交わしたキスに至っては、あまりにも情熱的かつ粘着質だったため、のちにベルリンの壁が崩壊した際、壁の表面に『神よ、この死に至る愛の中で私が生き延びるのを助けたまえ』というタイトルで巨大なグラフィティアートとして描かれ、21世紀の今日に至るまで世界中の観光客のフォトスポットになっている!
歴史に名を残す方法は、政策だけではない。
唇一つで世界遺産級のインパクトを残した男、それこそがブレジネフである!
だが、笑っていられる時間は、その年の瀬に終わりを告げた——。
1979年、12月。
モスクワ、クレムリンの奥深く。
ブレジネフの私室に、三人の男が集まっていた。
KGB議長、ユーリ・アンドロポフ。
国防相、ドミトリー・ウスチノフ。
外相、アンドレイ・グロムイコ。
すでにブレジネフには、複雑な国際情勢を分析する力は残っていなかった。
政治局の全体会議すら開かれず、この密室の老人たちだけで、ソ連の命運を決める最悪の決断が下されようとしていた。
「レオニード・イリイチ。アフガニスタンのアミン政権が、アメリカのCIAと内通している兆候があります。このままでは、我が国の南の国境にアメリカのミサイルが配備されますぞ」
アンドロポフが静かに、だが強い口調で迫る。
ウスチノフがそれに続いた。
「特殊部隊を送り込み、数週間で片がつきます。チェコスロバキアの時と同じですよ」
ブレジネフは、震える手で湯呑みを持ち、ぼんやりと書類を見つめていた。
目が、よく見えない。
頭も、霧がかかったように重たい。
「……本当に、すぐ終わるのか?」
「ええ、間違いありません。新年を迎える頃には、すべて片付いています」
思考するのが、億劫だった。
みんながそう言うなら、そうなのだろう。
逆らって議論する体力など、今の彼には一滴も残っていなかった。
「……わかった。お前たちに、任せる」
震える手で書かれた、這ったようなサイン。
——『ソ連軍・アフガニスタン侵攻』。
数週間で終わるはずだったその戦争は、十年間続く底なしの泥沼となった。
一万五千人以上のソ連の若者が異国の山岳地帯で命を落とし、莫大な戦費が国家財政を食い潰し、翌年のモスクワ・オリンピックは西側諸国からボイコットされ、デタントは完全に崩壊した。
ソ連という巨大帝国が崩壊へと向かう、決定的な引き金の大きな一つ。
それは、老いさらばえた書記長が、ただ「考えるのが面倒だったから」押した、一つのハンコから始まったのだった。
□■□■□
1980年代に入ると、ソ連は文字通りの『ブラックジョーク国家』と化した。
テレビをつければ、毎日毎日、ブレジネフ書記長の動静がトップニュースで流れる。
しかし、画面に映る彼は、側近に両脇を抱えられなければ階段も登れず、原稿のページをめくる指すら震えていた。
ある日の党大会でのことである。
演壇に立ったブレジネフは、分厚い老眼鏡をかけ、震える声で原稿を読み始めた。
「……しんあーなる、どうし、しょくん。……◯△×□……」
何を言っているのか、ここにいる会場の誰一人として聞き取れない。
だが、聞き取れなくても問題はない。
なぜなら、会場にいる代議員たちの仕事は、書記長が一文読み終えるごとに、タイミングよく「パチパチパチ!」と拍手を送ることだけだからだ。
そして、有名なハプニング(実話ベースの伝説)が起きる。
ブレジネフが原稿のページをめくった時、うっかり二枚まとめてめくってしまったのだ。
さらには、自分がさっき読んだページに気づかず戻ってしまい、まったく同じ段落を二回連続で読み上げ始めたのである!
会場の空気が凍りついた。
しかし、誰も「書記長、そこさっき読みましたよ!」とは突っ込めない。
もしそんなことを言って書記長のメンツを潰したら、自分の出世が吹き飛ぶからだ!
結果、どうなったか?
数千人のエリート代議員たちは、一回目とまったく同じ文章に対し、一回目とまったく同じ熱量で、スタンディングオベーションの拍手を送り続けたのである!
また、1980年のモスクワ・オリンピック開会式では、こんな小話が世界中に広まった。
開会宣言のためにマイクの前に立ったブレジネフが、原稿を見ながらこう叫んだという。
『ヲ!ヲ!ヲ!ヲ!ヲ!』
後ろに控えていた側近が、慌てて耳打ちした。
『同志書記長! それは原稿の文字ではありません!オリンピックの五輪マークです‼︎』
……これはもう、笑ってあげるべきだ!
しかし、当のブレジネフ本人の晩年は、笑い話では済まされないほど孤独で、悲惨なものだった。
娘のガリーナは、親の七光りを振りかざしてダイヤモンドの密輸や汚職に手を染め、サーカスの若い男と不倫してスキャンダルまみれ。
さらには、ブレジネフの古い友人であったKGB第一副議長のツヴィグンが謎の自殺(あるいは暗殺か?)を遂げ、ブレジネフの精神は完全に追い詰められていった。
1982年、3月。
ウズベキスタンにある航空機工場を視察中だったブレジネフの頭上に、老朽化していた工場の足場が崩落するという大事故が発生した。
鎖骨を折り、肋骨を何本も折る重傷。
七五の老体には、あまりにも致命的なダメージ。
それ以降、彼は激しい痛みを抑えるため、さらに強い鎮痛剤に溺れるようになる。
もはや、執務室に座ることすらままならない。
それでも、周囲は彼を辞めさせなかった。
死ぬまで、彼をその椅子に縛り付け続けた。
□■□■□
1982年、11月7日。
ロシア革命記念日の軍事パレード。
その日のモスクワは、11月としては異例の凍てつくような寒波に見舞われていた。
氷点下の冷たい風が、赤の広場を吹き抜ける。
レーニン廟の屋上にあるひな壇。
そこに、分厚い毛皮のコートと帽子に身を包んだブレジネフが立っていた。
サングラスの奥の瞳は虚ろで、顔色は土気色。
それでも胸元には、重たい勲章がいくつも光る。
目の前を、世界最強を誇るソ連軍の戦車部隊と、巨大な大陸間弾道ミサイル(ICBM)が地響きを立てて行進していく。
赤旗がはためき、数万人の労働者たちが『ypaaaaaaa!(万歳)』と歓声を上げながら、彼の掲げる手に自分たちの手を振り返す。
「……同志書記長、お体が冷えます。一度中へ入られてはいかがでしょう?」
側近のチェルネンコが心配そうに声をかける。
だが、ブレジネフは首を横に振った。
「……いや。いい」
彼は、かじかむ右手を必死に持ち上げ、広場を埋め尽くす人々に向かって振り続けた。
一時間。
二時間。
極寒の吹きっさらしの中で、直立不動のまま。
(……ああ、すごいなぁ。私が守ってきた国は、こんなにも大きくて、強いんだなぁ)
薄れゆく意識で、彼は何を見ていたのだろう。
ウクライナの製鉄所で汗を流していた若き日か。
戦火の中でフルシチョフと笑い合ったあの日か。
ニクソンを隣に乗せて、アメリカの山道を猛スピードで駆け抜けたあの爽快な日か。
自分が作った「ぬるま湯」が、この巨大な帝国を内側からゆっくりと腐らせていたことに、彼は最後まで気づかなかったのかもしれない。
いや、気づいていたとしても、彼にはもう、ハンドルを切る力は残っていなかった。
彼はただ、みんなに好かれたかった。
誰も殺さず、誰からも恨まれず、胸いっぱいの勲章をジャラジャラと鳴らして、「リョーニャはいい奴だな」と褒められながら、大好きな車にいっぱい乗って走りたかっただけなのだ——。
□■□■□
パレードから三日後の、11月10日、朝。
モスクワ郊外の別荘(ダーチャ)にて。
護衛官が寝室に朝の挨拶に入った時、レオニード・ブレジネフはベッドの中で、静かに息を引き取っていた。
——享年七五。
睡眠中の心臓麻痺——苦しんだ様子は一切ない、文字通り「眠るような大往生」であった。
五日後、赤の広場で行われた国葬。
世界中の首脳たちが集まる中、彼の遺体が納められた棺が、クレムリンの壁の墓穴へとゆっくりと下ろされていく。
その時。
ソ連の国葬史上、最も有名な「オチ」がついた。
棺を支えていたロープを墓掘り人たちがうっかり滑らせ、ブレジネフの棺が——
——ドゴォォォォンッ‼︎
と、凄まじい轟音を立てて、それはもう見事に墓穴の底へと落下したのである!
生中継されていたテレビのスピーカーから、地響きのような落下音がソ連全土のお茶の間に響く。
(※公式には「弔砲(大砲)の音と重なっただけ」と説明されたが、国民の誰もが「書記長、最後に勲章の重みで底が抜けたな……」と確信したのは、もはや言うまでもない)
最後の最後まで、国民に笑い(アネクドート)を提供して去っていった男。
彼の死後、アンドロポフ、チェルネンコという二人の老書記長がわずか立て続けに病死し、ついに若き改革者・ゴルバチョフが登場する。
そして、ゴルバチョフが「こんな腐りきった停滞を改革(ペレストロイカ)するぞ!」とネジを巻き直した瞬間——長年ブレジネフのぬるま湯で錆びついていたソ連という巨大な機械は、その負荷に耐えきれず、ガラガラと音を立てて崩壊してしまったのである。
□■□■□
そして21世紀。
資本主義の荒波と、戦争と、混乱を経験したロシアの国民たちに「20世紀で一番良かった指導者は誰ですか?」とアンケートを取ると、驚くべきことに、スターリンでもレーニンでもゴルバチョフでもなく——
常にナンバーワンに輝くのは、この『レオニード・ブレジネフ』なのだという!
理由は、誰もが口を揃えてこう言う。
『だってあの頃は、未来の心配をしなくてよかったし、一番平和で、ぬくぬく暮らせたから』
天国のガレージで、今日も彼は大好きな外車をピカピカに磨きながら、あの極太の眉毛を動かしてニカッと笑っていることだろう。
「ほら見ろ! やっぱり幸せが一番だなっ‼︎」
これは、あのソ連において、誰からも殺されず、好きな車を乗り回し、百個の勲章をぶら下げて、最後は国民から「あの頃が一番良かったなあ」と懐かしがられた、一人の男の物語である——。
—END—
参考文献:
・Brezhnev: The Making of a Statesman(英訳版)
・上島武 ブレジネフ時代 2009-03-13(神奈川大学)
・Gemini,Claude
邦訳が非常に欲しい……!