嫌われ果てても   作:M1tarash1

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01.いつも通りの君

「お前さ、いい加減断ること覚えたら?」

 

昼休み。

 

購買で買った焼きそばパンをかじりながら、藤崎律は呆れたように言った。

 

「何が?」

 

向かいの席で、七瀬朔は頬杖をついたまま首を傾げる。

 

「委員会の仕事。昨日も押しつけられてただろ」

 

「ああ、あれ?」

 

朔は思い出したように声を上げた。

 

「別にいいじゃん。俺、今日暇だし」

 

「今日だけじゃねえだろ。先週も先々週もじゃん」

 

「よく覚えてんなあ」

 

「褒めてねえよ」

 

律が眉を寄せると、朔は楽しそうに笑った。

 

その笑顔は、いつも通りだった。

 

誰にでも気さくで、頼みごとをされれば嫌な顔ひとつせず引き受ける。困っている人がいれば、頼まれる前に手を貸すことだってある。

 

クラスの中で、朔を悪く言う人間はほとんどいない。

 

優しいやつ。

 

面倒見のいいやつ。

 

頼りになるやつ。

 

そんな言葉を、律は何度も耳にしてきた。

 

実際、律だって朔のそういうところは嫌いじゃない。

 

ただ、ひとつだけ気に入らないことがある。

 

朔は、誰かのためなら簡単に自分を後回しにするくせに、自分のこととなると途端にいい加減になるのだ。

 

「で、今日は何頼まれたんだよ」

 

「んー、先生に頼まれたプリントの整理と、文化祭の資料作り。あと、数学のノート貸してって言われたから、それも」

 

「最後のはお前がやる必要ねえだろ」

 

「困ってたし」

 

「お前だって困るだろ」

 

「俺は別に」

 

即答だった。

 

あまりにも自然な返事に、律は言葉を詰まらせる。

 

朔はそんな律を見て、首を傾げた。

 

「何?」

 

「……いや」

 

言いたいことはいくつもあった。

 

もっと自分を大事にしろとか。

 

たまには誰かに押しつけ返せとか。

 

お前が何でも引き受けるから、周りも甘えるんだろとか。

 

けれど、どれも口にする前に意味を失ってしまう。

 

朔は本当に、それを苦だと思っていないように見えるからだ。

 

「お前、ほんと変わんねえな」

 

「何が?」

 

「いや、何でも」

 

律がパンの最後の一口を飲み込むと、朔はまた笑った。

 

「変わんないのが俺の取り柄なんで」

 

そう言って、朔は立ち上がった。

 

「ちょっと職員室行ってくる」

 

「昼休み終わるぞ」

 

「すぐ戻るって」

 

ひらひらと手を振って、朔は教室を出ていった。

 

その背中を見送りながら、律は小さく息を吐いた。

 

ほんと、変わんねえ。

 

そう思った。

 

そして同時に、ほんの少しだけ不安になった。

 

*

 

放課後、律が教室に戻ると、朔はまだ残っていた。

 

窓際の席に座り、机いっぱいに広げたプリントを一枚ずつ整理している。教室にはもう数人しか残っていなかった。

 

「……お前、まだやってんの?」

 

声をかけると、朔は顔を上げた。

 

「あ、律。お疲れ」

 

「お疲れじゃねえよ。何時だと思ってんだ」

 

「んー、四時半?」

 

「もう五時前」

 

「うわ、マジか」

 

朔は少しだけ目を丸くしたものの、すぐに手元へ視線を戻した。

 

「あとちょっとだから」

 

「それ、昼も聞いた」

 

「今回は本当にあとちょっと」

 

「お前のあとちょっと、信用ならねえんだよな」

 

律は朔の机まで歩いていき、積み上がったプリントの半分を勝手に手に取った。

 

「ほら、貸せ」

 

「え、いいって。律、部活は?」

 

「今日は休み」

 

「でも――」

 

「いいから」

 

少し強めに言うと、朔はぱちぱちと瞬きをした。

 

それから、困ったように笑う。

 

「……ありがと」

 

その声が、いつもより少し小さかった。

 

律は何も言わず、プリントを揃え始めた。

 

二人で作業すると、思っていたより早く片づいた。

 

最後の一枚をファイルに挟み終えたとき、窓の外はすっかり夕焼け色に染まっていた。

 

「終わったー!」

 

朔が両手を上に伸ばす。

 

「やっとかよ」

 

「いやあ、律が手伝ってくれて助かったわ」

 

「最初から人に頼れ」

 

「えー、俺、頼るの苦手だし」

 

冗談めかした口調だった。

 

律はファイルを閉じる手を止めた。

 

「……そうなの?」

 

「ん?」

 

「頼るの、苦手なのか?」

 

朔は一瞬だけ黙った。

 

ほんの一瞬だった。

 

けれど律は、その短い沈黙が妙に気になった。

 

「まあ、そうかも?」

 

朔はすぐに笑った。

 

「でも、俺がやったほうが早いこともあるじゃん」

 

「それとこれとは別だろ」

 

「はいはい」

 

朔は適当に返事をすると、鞄を肩にかけた。

 

「帰ろうぜ。腹減った」

 

その声は、いつも通り明るかった。

 

律も鞄を持ち、隣に並ぶ。

 

けれど、さっきの沈黙だけが、なぜか頭から離れなかった。

 

*

 

帰り道、駅前の交差点で、二人は信号待ちをしていた。

 

夕方の街は人が多く、学生や仕事帰りの人たちが足早に通り過ぎていく。

 

ふと、朔のスマートフォンが震えた。

 

画面を見た朔の表情が、ほんの少しだけ変わった。

 

「誰?」

 

律が尋ねる。

 

「ん? ああ、クラスのやつ」

 

朔は画面を操作し、短く返信した。

 

「何かあった?」

 

「ちょっと相談。今日、話聞いてほしいんだって」

 

「……今日?」

 

「うん。まあ、別にいいけど」

 

朔は何でもないことのように言った。

 

律は思わず眉をひそめる。

 

「お前、今日も予定あんの?」

 

「ないよ」

 

「嘘つけ。さっき腹減ったって言ってただろ」

 

「それ予定じゃねえじゃん」

 

朔が笑う。

 

律は笑えなかった。

 

「別の日にしてもらえばいいだろ。明日だって学校で会うんだし」

 

「今日じゃないと嫌なんだってさ」

 

「だからって、お前が全部合わせる必要ねえだろ」

 

「まあまあ」

 

朔は軽く律の肩を叩いた。

 

「そんな怒んなって」

 

「怒ってねえよ」

 

「怒ってんじゃん」

 

朔が楽しそうに笑う。

 

その顔を見ていると、律はそれ以上何も言えなくなった。

 

信号が青に変わる。

 

人の流れに合わせて歩き出しながら、律は横目で朔を見た。

 

朔はスマートフォンをしまい、いつものように前を向いていた。

 

誰かの相談を聞くことも、頼みごとを引き受けることも、朔にとっては特別なことではない。

 

きっと今日も、相手の話を聞いて、相手が落ち着くまで付き合うのだろう。

 

自分の時間を削って。

 

自分の疲れを無視して。

 

相手が笑えるようになるまで。

 

――じゃあ、朔が苦しいときは?

 

ふと、そんな疑問が浮かんだ。

 

朔が誰かに助けを求めるところを、律は見たことがなかった。

 

少なくとも、律の知る限りでは。

 

「なあ、朔」

 

「ん?」

 

「お前さ、悩みとかねえの?」

 

朔はきょとんとした。

 

「何、急に」

 

「いや、別に。お前、いつも人の相談ばっか聞いてるから」

 

「んー……」

 

朔は少し考えるような素振りを見せた。

 

「ない、かな」

 

「即答かよ」

 

「いや、だって。あったとしても、自分で何とかするし」

 

「……そっか」

 

「何? 律はあんの?」

 

「そりゃあるだろ」

 

「へえ。意外」

 

「おい」

 

朔は声を上げて笑った。

 

律もつられて笑った。

 

いつも通りの会話。

 

いつも通りの帰り道。

 

何もおかしなことなんてない。

 

それなのに、律はどうしても、朔の「自分で何とかするし」という言葉が引っかかっていた。

 

まるで、誰かに頼るという選択肢が、最初から存在しないみたいだったから。

 

*

 

その夜。

 

朔は自分の部屋で、机に向かっていた。

 

スマートフォンには、先ほど相談に乗ったクラスメイトからのメッセージが届いている。

 

『今日は本当にありがとう。朔に話せてよかった』

 

朔は短く返信した。

 

『どういたしまして。また何かあったら言って』

 

送信して、スマートフォンを伏せる。

 

部屋は静かだった。

 

窓の外から、遠くを走る車の音が聞こえる。

 

朔は椅子の背もたれに体を預け、天井を見上げた。

 

疲れた。

 

そう思った。

 

たったそれだけのことなのに、朔はなぜか、その感情を持て余した。

 

疲れるのは当たり前だ。

 

今日だって、誰かの役に立てた。

 

相談した相手は、最後には笑っていた。

 

それなら、よかったじゃないか。

 

自分が少し疲れたくらい、何だというのだろう。

 

朔は目を閉じた。

 

すると、ふいに、忘れたはずの声が蘇った。

 

『なあ、朔』

 

懐かしい声だった。

 

何度も聞いた声。

 

何でもない話をして、くだらないことで笑って、明日も会えるのが当たり前だった頃の声。

 

『……ちょっと、疲れた』

 

朔の呼吸が止まった。

 

違う。

 

思い出すつもりなんてなかった。

 

あの日のことは、もう何度も考えた。

 

何度も後悔した。

 

何度も、あのときに戻れたらと思った。

 

だから、もういいはずだった。

 

それなのに。

 

『もう全部、どうでもいいかも』

 

あのときの自分の返事まで、鮮明に蘇る。

 

『何だよ、それ。大げさだな』

 

笑っていた。

 

いつものように。

 

深く考えもせず。

 

明日になれば、またいつも通り話せると思っていたから。

 

朔は両手で顔を覆った。

 

今さら、何を考えたって仕方がない。

 

あのときに戻ることはできない。

 

あの声を、もう一度聞くこともできない。

 

わかっている。

 

わかっているのに、頭の中の声は消えてくれなかった。

 

『お前は悪くない』

 

最後に聞いた言葉が、胸の奥に沈んでいく。

 

責めてくれればよかったのに。

 

そうすれば、まだ少しは楽だったのかもしれない。

 

お前のせいだと。

 

どうして気づかなかったんだと。

 

どうして、助けてくれなかったんだと。

 

そう言ってくれたら、いくらでも謝れた。

 

何度だって、許してくれるまで謝り続けられた。

 

けれど、親友は朔を責めなかった。

 

だから、朔は自分を許せなかった。

 

「……ごめん」

 

声に出した瞬間、部屋の静けさがいっそう深くなった。

 

返事はない。

 

当たり前だった。

 

朔はゆっくりと顔を上げ、スマートフォンに手を伸ばした。

 

画面には、律とのメッセージが残っている。

 

『明日、数学の課題やった?』

 

『やってねえ』

 

『お前マジかよ』

 

『お前にだけは言われたくねえわ』

 

どうでもいい会話。

 

いつもの二人。

 

朔は最後のメッセージを見つめ、少しだけ口元を緩めた。

 

律は、何も知らない。

 

朔が何を後悔しているのか。

 

何を忘れられないのか。

 

どうして誰かの頼みを断れないのか。

 

何も知らない。

 

それでいい。

 

知られたくなかった。

 

もし知られたら、律はきっと心配する。

 

きっと、無理するなと言う。

 

自分を責めるなと言う。

 

お前は悪くないと、そう言うのだろう。

 

でも、そんな言葉をもらう資格なんて、自分にはない。

 

朔はスマートフォンを伏せた。

 

明日も学校がある。

 

明日も誰かが困っているかもしれない。

 

そのときは、ちゃんと話を聞いてあげよう。

 

ちゃんと、助けてあげよう。

 

今度こそ。

 

誰かが発する小さな声を、見落とさないように。

 

誰かが苦しんでいることに、気づけるように。

 

たとえ、自分がどれだけ疲れていても。

 

たとえ、自分がどれだけ苦しくても。

 

そうすれば、いつか。

 

いつか、自分を許せる日が来るのだろうか。

 

答えは出なかった。

 

朔は机の明かりを消した。

 

暗闇の中で、もう一度だけ、あの日の声を思い出す。

 

『お前は悪くない』

 

「……うるさいよ」

 

誰にも届かない声で、朔は呟いた。

 

そして翌朝には、何事もなかったかのように笑うのだ。

 

いつも通りの君でいるために。

 

いつも通りの自分でいるために。

 

――誰にも、気づかれないように。

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