「お前さ、いい加減断ること覚えたら?」
昼休み。
購買で買った焼きそばパンをかじりながら、藤崎律は呆れたように言った。
「何が?」
向かいの席で、七瀬朔は頬杖をついたまま首を傾げる。
「委員会の仕事。昨日も押しつけられてただろ」
「ああ、あれ?」
朔は思い出したように声を上げた。
「別にいいじゃん。俺、今日暇だし」
「今日だけじゃねえだろ。先週も先々週もじゃん」
「よく覚えてんなあ」
「褒めてねえよ」
律が眉を寄せると、朔は楽しそうに笑った。
その笑顔は、いつも通りだった。
誰にでも気さくで、頼みごとをされれば嫌な顔ひとつせず引き受ける。困っている人がいれば、頼まれる前に手を貸すことだってある。
クラスの中で、朔を悪く言う人間はほとんどいない。
優しいやつ。
面倒見のいいやつ。
頼りになるやつ。
そんな言葉を、律は何度も耳にしてきた。
実際、律だって朔のそういうところは嫌いじゃない。
ただ、ひとつだけ気に入らないことがある。
朔は、誰かのためなら簡単に自分を後回しにするくせに、自分のこととなると途端にいい加減になるのだ。
「で、今日は何頼まれたんだよ」
「んー、先生に頼まれたプリントの整理と、文化祭の資料作り。あと、数学のノート貸してって言われたから、それも」
「最後のはお前がやる必要ねえだろ」
「困ってたし」
「お前だって困るだろ」
「俺は別に」
即答だった。
あまりにも自然な返事に、律は言葉を詰まらせる。
朔はそんな律を見て、首を傾げた。
「何?」
「……いや」
言いたいことはいくつもあった。
もっと自分を大事にしろとか。
たまには誰かに押しつけ返せとか。
お前が何でも引き受けるから、周りも甘えるんだろとか。
けれど、どれも口にする前に意味を失ってしまう。
朔は本当に、それを苦だと思っていないように見えるからだ。
「お前、ほんと変わんねえな」
「何が?」
「いや、何でも」
律がパンの最後の一口を飲み込むと、朔はまた笑った。
「変わんないのが俺の取り柄なんで」
そう言って、朔は立ち上がった。
「ちょっと職員室行ってくる」
「昼休み終わるぞ」
「すぐ戻るって」
ひらひらと手を振って、朔は教室を出ていった。
その背中を見送りながら、律は小さく息を吐いた。
ほんと、変わんねえ。
そう思った。
そして同時に、ほんの少しだけ不安になった。
*
放課後、律が教室に戻ると、朔はまだ残っていた。
窓際の席に座り、机いっぱいに広げたプリントを一枚ずつ整理している。教室にはもう数人しか残っていなかった。
「……お前、まだやってんの?」
声をかけると、朔は顔を上げた。
「あ、律。お疲れ」
「お疲れじゃねえよ。何時だと思ってんだ」
「んー、四時半?」
「もう五時前」
「うわ、マジか」
朔は少しだけ目を丸くしたものの、すぐに手元へ視線を戻した。
「あとちょっとだから」
「それ、昼も聞いた」
「今回は本当にあとちょっと」
「お前のあとちょっと、信用ならねえんだよな」
律は朔の机まで歩いていき、積み上がったプリントの半分を勝手に手に取った。
「ほら、貸せ」
「え、いいって。律、部活は?」
「今日は休み」
「でも――」
「いいから」
少し強めに言うと、朔はぱちぱちと瞬きをした。
それから、困ったように笑う。
「……ありがと」
その声が、いつもより少し小さかった。
律は何も言わず、プリントを揃え始めた。
二人で作業すると、思っていたより早く片づいた。
最後の一枚をファイルに挟み終えたとき、窓の外はすっかり夕焼け色に染まっていた。
「終わったー!」
朔が両手を上に伸ばす。
「やっとかよ」
「いやあ、律が手伝ってくれて助かったわ」
「最初から人に頼れ」
「えー、俺、頼るの苦手だし」
冗談めかした口調だった。
律はファイルを閉じる手を止めた。
「……そうなの?」
「ん?」
「頼るの、苦手なのか?」
朔は一瞬だけ黙った。
ほんの一瞬だった。
けれど律は、その短い沈黙が妙に気になった。
「まあ、そうかも?」
朔はすぐに笑った。
「でも、俺がやったほうが早いこともあるじゃん」
「それとこれとは別だろ」
「はいはい」
朔は適当に返事をすると、鞄を肩にかけた。
「帰ろうぜ。腹減った」
その声は、いつも通り明るかった。
律も鞄を持ち、隣に並ぶ。
けれど、さっきの沈黙だけが、なぜか頭から離れなかった。
*
帰り道、駅前の交差点で、二人は信号待ちをしていた。
夕方の街は人が多く、学生や仕事帰りの人たちが足早に通り過ぎていく。
ふと、朔のスマートフォンが震えた。
画面を見た朔の表情が、ほんの少しだけ変わった。
「誰?」
律が尋ねる。
「ん? ああ、クラスのやつ」
朔は画面を操作し、短く返信した。
「何かあった?」
「ちょっと相談。今日、話聞いてほしいんだって」
「……今日?」
「うん。まあ、別にいいけど」
朔は何でもないことのように言った。
律は思わず眉をひそめる。
「お前、今日も予定あんの?」
「ないよ」
「嘘つけ。さっき腹減ったって言ってただろ」
「それ予定じゃねえじゃん」
朔が笑う。
律は笑えなかった。
「別の日にしてもらえばいいだろ。明日だって学校で会うんだし」
「今日じゃないと嫌なんだってさ」
「だからって、お前が全部合わせる必要ねえだろ」
「まあまあ」
朔は軽く律の肩を叩いた。
「そんな怒んなって」
「怒ってねえよ」
「怒ってんじゃん」
朔が楽しそうに笑う。
その顔を見ていると、律はそれ以上何も言えなくなった。
信号が青に変わる。
人の流れに合わせて歩き出しながら、律は横目で朔を見た。
朔はスマートフォンをしまい、いつものように前を向いていた。
誰かの相談を聞くことも、頼みごとを引き受けることも、朔にとっては特別なことではない。
きっと今日も、相手の話を聞いて、相手が落ち着くまで付き合うのだろう。
自分の時間を削って。
自分の疲れを無視して。
相手が笑えるようになるまで。
――じゃあ、朔が苦しいときは?
ふと、そんな疑問が浮かんだ。
朔が誰かに助けを求めるところを、律は見たことがなかった。
少なくとも、律の知る限りでは。
「なあ、朔」
「ん?」
「お前さ、悩みとかねえの?」
朔はきょとんとした。
「何、急に」
「いや、別に。お前、いつも人の相談ばっか聞いてるから」
「んー……」
朔は少し考えるような素振りを見せた。
「ない、かな」
「即答かよ」
「いや、だって。あったとしても、自分で何とかするし」
「……そっか」
「何? 律はあんの?」
「そりゃあるだろ」
「へえ。意外」
「おい」
朔は声を上げて笑った。
律もつられて笑った。
いつも通りの会話。
いつも通りの帰り道。
何もおかしなことなんてない。
それなのに、律はどうしても、朔の「自分で何とかするし」という言葉が引っかかっていた。
まるで、誰かに頼るという選択肢が、最初から存在しないみたいだったから。
*
その夜。
朔は自分の部屋で、机に向かっていた。
スマートフォンには、先ほど相談に乗ったクラスメイトからのメッセージが届いている。
『今日は本当にありがとう。朔に話せてよかった』
朔は短く返信した。
『どういたしまして。また何かあったら言って』
送信して、スマートフォンを伏せる。
部屋は静かだった。
窓の外から、遠くを走る車の音が聞こえる。
朔は椅子の背もたれに体を預け、天井を見上げた。
疲れた。
そう思った。
たったそれだけのことなのに、朔はなぜか、その感情を持て余した。
疲れるのは当たり前だ。
今日だって、誰かの役に立てた。
相談した相手は、最後には笑っていた。
それなら、よかったじゃないか。
自分が少し疲れたくらい、何だというのだろう。
朔は目を閉じた。
すると、ふいに、忘れたはずの声が蘇った。
『なあ、朔』
懐かしい声だった。
何度も聞いた声。
何でもない話をして、くだらないことで笑って、明日も会えるのが当たり前だった頃の声。
『……ちょっと、疲れた』
朔の呼吸が止まった。
違う。
思い出すつもりなんてなかった。
あの日のことは、もう何度も考えた。
何度も後悔した。
何度も、あのときに戻れたらと思った。
だから、もういいはずだった。
それなのに。
『もう全部、どうでもいいかも』
あのときの自分の返事まで、鮮明に蘇る。
『何だよ、それ。大げさだな』
笑っていた。
いつものように。
深く考えもせず。
明日になれば、またいつも通り話せると思っていたから。
朔は両手で顔を覆った。
今さら、何を考えたって仕方がない。
あのときに戻ることはできない。
あの声を、もう一度聞くこともできない。
わかっている。
わかっているのに、頭の中の声は消えてくれなかった。
『お前は悪くない』
最後に聞いた言葉が、胸の奥に沈んでいく。
責めてくれればよかったのに。
そうすれば、まだ少しは楽だったのかもしれない。
お前のせいだと。
どうして気づかなかったんだと。
どうして、助けてくれなかったんだと。
そう言ってくれたら、いくらでも謝れた。
何度だって、許してくれるまで謝り続けられた。
けれど、親友は朔を責めなかった。
だから、朔は自分を許せなかった。
「……ごめん」
声に出した瞬間、部屋の静けさがいっそう深くなった。
返事はない。
当たり前だった。
朔はゆっくりと顔を上げ、スマートフォンに手を伸ばした。
画面には、律とのメッセージが残っている。
『明日、数学の課題やった?』
『やってねえ』
『お前マジかよ』
『お前にだけは言われたくねえわ』
どうでもいい会話。
いつもの二人。
朔は最後のメッセージを見つめ、少しだけ口元を緩めた。
律は、何も知らない。
朔が何を後悔しているのか。
何を忘れられないのか。
どうして誰かの頼みを断れないのか。
何も知らない。
それでいい。
知られたくなかった。
もし知られたら、律はきっと心配する。
きっと、無理するなと言う。
自分を責めるなと言う。
お前は悪くないと、そう言うのだろう。
でも、そんな言葉をもらう資格なんて、自分にはない。
朔はスマートフォンを伏せた。
明日も学校がある。
明日も誰かが困っているかもしれない。
そのときは、ちゃんと話を聞いてあげよう。
ちゃんと、助けてあげよう。
今度こそ。
誰かが発する小さな声を、見落とさないように。
誰かが苦しんでいることに、気づけるように。
たとえ、自分がどれだけ疲れていても。
たとえ、自分がどれだけ苦しくても。
そうすれば、いつか。
いつか、自分を許せる日が来るのだろうか。
答えは出なかった。
朔は机の明かりを消した。
暗闇の中で、もう一度だけ、あの日の声を思い出す。
『お前は悪くない』
「……うるさいよ」
誰にも届かない声で、朔は呟いた。
そして翌朝には、何事もなかったかのように笑うのだ。
いつも通りの君でいるために。
いつも通りの自分でいるために。
――誰にも、気づかれないように。