嫌われ果てても   作:M1tarash1

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02.気づかないフリ

「七瀬、悪いんだけどさ」

 

その言葉を聞いた瞬間、朔は反射的に顔を上げていた。

 

「ん、何?」

 

昼休みの教室。

 

弁当箱を開けたばかりの朔に声をかけてきたのは、クラスメイトの男子だった。

 

「今日の放課後、ちょっと残れる? 文化祭の資料、まだ終わってなくて」

 

「ああ、いいよ」

 

ほとんど間を置かずに答える。

 

「マジ? 助かる!」

 

男子はほっとしたように笑い、「じゃあ頼むわ」と自分の席へ戻っていった。

 

朔はその背中を見送ってから、箸を手に取った。

 

「……お前さあ」

 

隣から、呆れた声が飛んでくる。

 

「大丈夫だよ」

 

「まだ何も言ってねえだろ」

 

「顔に書いてある」

 

藤崎律は眉間にしわを寄せた。

 

「昨日も残ってただろ。今日くらい断れよ」

 

「別に、そんな時間かかんないと思うし」

 

「それ、昨日も聞いた」

 

「律、昨日からそればっかじゃん」

 

朔は笑った。

 

律は笑わなかった。

 

「お前、自分の予定とかないわけ?」

 

「あるよ」

 

「じゃあ断れよ」

 

「でも、困ってたし」

 

また、それだ。

 

律は言い返そうとして、やめた。

 

朔が誰かを助けること自体は悪いことじゃない。むしろ、そういうところが朔の長所なのだと、律もわかっている。

 

けれど、朔の場合は少し違う気がした。

 

助けたいから助けるというより、助けなければいけないと、自分に言い聞かせているように見える。

 

「……お前、ほんとに嫌じゃないの?」

 

「何が?」

 

「頼まれごとばっかされんの」

 

朔は少し考えた。

 

「別に。俺ができることなら、やったほうがいいじゃん」

 

「……ふうん」

 

律はそれ以上追及しなかった。

 

朔も、何事もなかったように弁当を食べ始める。

 

窓から差し込む日差しは明るく、教室にはいつも通りのざわめきが満ちていた。

 

何も変わらない。

 

少なくとも、周りから見れば。

 

*

 

放課後。

 

朔は教室に残り、文化祭の資料をまとめていた。

 

本来なら数人で分担するはずの作業だったが、気づけば机の上にはほとんどの資料が集まっている。

 

頼まれた分だけやるつもりだった。

 

本当に、そのつもりだったのだ。

 

けれど、作業を始めてみれば、誰かが作った資料の間違いが目についた。表記が統一されていない箇所もあった。提出用の書類には、まだ記入されていない項目が残っていた。

 

このままじゃ、あとで困るかもしれない。

 

そう思ったら、手を止められなくなった。

 

一つ直して、もう一つ直す。

 

終わったと思ったら、別の不備を見つける。

 

気づけば、窓の外はオレンジ色に染まっていた。

 

「……やば」

 

時計を見て、朔は小さく声を漏らした。

 

思っていたより時間が経っている。

 

肩が重い。目も少し疲れていた。

 

それでも、残りの資料に目を通す。

 

あと少し。

 

あと少しで終わるから。

 

そう自分に言い聞かせて、再びペンを握った。

 

「七瀬?」

 

不意に名前を呼ばれ、朔は顔を上げた。

 

教室の入り口に立っていたのは律だった。

 

「……何してんの?」

 

「見てわかんない?」

 

「わかるから聞いてんだよ」

 

律は呆れた顔で近づいてきた。

 

机の上に積み上がった資料を見て、さらに眉を寄せる。

 

「これ、全部お前がやってんの?」

 

「いや、頼まれた分だけ」

 

「頼まれた分だけで、こんな量になるか?」

 

「……ちょっと気になったとこ直してたら、こうなった」

 

「お前なあ」

 

律は深々とため息をついた。

 

「もう帰るぞ」

 

「いや、まだ終わってないし」

 

「明日やればいいだろ」

 

「でも、明日までに提出するって言ってたから」

 

「だったら頼んだやつにも手伝わせろよ」

 

「みんな忙しいんだって」

 

「お前だって忙しいだろ」

 

朔は答えなかった。

 

律の言うことは正しい。

 

自分だって、疲れている。

 

本当は、もう帰りたかった。

 

温かいご飯を食べて、風呂に入って、何も考えずに眠りたかった。

 

けれど、そんな気持ちを口にすることが、なぜかひどく難しかった。

 

「……大丈夫だから」

 

結局、出てきたのはいつもの言葉だった。

 

「あとちょっとだし」

 

律は黙って朔を見つめた。

 

その目が、嫌だった。

 

怒っているわけでも、責めているわけでもない。

 

ただ、心配している。

 

それが、どうしようもなく苦しかった。

 

「……わかった」

 

しばらくして、律が言った。

 

「じゃあ、俺も手伝う」

 

「え、いいって!」

 

「よくねえよ。お前一人にやらせて帰れるか」

 

「でも、律は関係ないじゃん」

 

口にした瞬間、しまったと思った。

 

律の手が止まる。

 

「……関係ない?」

 

「いや、そういう意味じゃなくて」

 

「じゃあ、どういう意味だよ」

 

朔は言葉に詰まった。

 

説明できるわけがなかった。

 

本当は、関係ないままでいてほしい。

 

自分が勝手にやっていることに、律を巻き込みたくない。

 

律にまで心配をかけたくない。

 

自分のために、誰かが時間を使うのが怖い。

 

そんなことを、どうやって説明すればいいのだろう。

 

「……ごめん。変な意味じゃない」

 

朔は笑ってごまかした。

 

「ありがたいけど、ほんとにもうすぐ終わるから」

 

律はしばらく朔を見ていたが、やがて小さく息を吐いた。

 

「……お前がそう言うなら、今日は帰る」

 

「うん。ごめんな」

 

「謝んなくていい」

 

律は鞄を肩にかけた。

 

「ただし、明日も同じことしてたら、今度は問答無用で帰らせるからな」

 

「はいはい」

 

朔が笑うと、律は少しだけ表情を緩めた。

 

「じゃあな」

 

「また明日」

 

律が教室を出ていく。

 

足音が遠ざかり、やがて聞こえなくなった。

 

朔はしばらく、誰もいなくなった入り口を見つめていた。

 

それから、机の上に視線を戻す。

 

まだ、終わっていない。

 

やらなければ。

 

ちゃんと、終わらせなければ。

 

朔はペンを握り直した。

 

*

 

作業を終えた頃には、外はすっかり暗くなっていた。

 

朔は職員室に資料を届け、ようやく学校を出た。

 

スマートフォンを見ると、律からメッセージが届いていた。

 

『ちゃんと終わったか?』

 

朔は少し笑って返信する。

 

『終わった。心配性かよ』

 

すぐに既読がついた。

 

『誰のせいだと思ってんだ』

 

『はいはい、ありがと』

 

送信して、スマートフォンをポケットにしまう。

 

律は優しい。

 

昔からそうだった。

 

口は悪いし、すぐに文句を言うし、何かにつけて突っかかってくる。

 

けれど、本当に困っているときには、いつもそばにいてくれた。

 

だからこそ、知られたくなかった。

 

自分が何を考えているのか。

 

何を後悔しているのか。

 

何を忘れられずにいるのか。

 

律にだけは、知られたくなかった。

 

もし知ったら、律はきっと自分を責める。

 

どうして気づかなかったんだと。

 

どうして相談してくれなかったんだと。

 

そんなふうに、自分のことまで傷つけてしまうかもしれない。

 

それだけは嫌だった。

 

朔は歩く速度を少しだけ上げた。

 

早く帰ろう。

 

何も考えなくて済む場所へ。

 

誰にも心配をかけずに済む場所へ。

 

*

 

翌日。

 

朝の教室は、いつもより少し騒がしかった。

 

昨日、文化祭の資料をまとめた男子が、クラスメイトたちに囲まれている。

 

「昨日の資料、先生に褒められたって!」

 

「マジ? よかったじゃん」

 

「七瀬が直してくれたとこも多かったんだよ。マジで助かったわ」

 

その言葉に、朔は笑って手を振った。

 

「いや、俺はちょっと手伝っただけだって」

 

「いやいや、ありがとな!」

 

男子は満足そうに笑い、自分の席へ戻っていった。

 

朔はそれを見送った。

 

よかった。

 

ちゃんと役に立てた。

 

昨日、無理してでも終わらせてよかった。

 

そう思った。

 

思ったはずなのに。

 

「……なあ、七瀬」

 

隣から声がした。

 

律だった。

 

「お前、昨日何時に寝た?」

 

「え?」

 

「帰ったあと、何時に寝たんだよ」

 

「普通に……十二時くらい?」

 

本当は、もっと遅かった。

 

帰宅してから夕食を食べ、風呂に入り、ようやくベッドに入った頃には日付が変わっていた。

 

けれど、そんなことを正直に言う必要はない。

 

「ふうん」

 

律は朔の顔をじっと見た。

 

「……寝不足?」

 

「全然」

 

「目、赤いけど」

 

「気のせいだって」

 

朔は笑った。

 

律は何か言いたそうにしていたが、結局、口を閉じた。

 

その沈黙が、朔にはありがたかった。

 

これ以上、聞かないでほしい。

 

心配しないでほしい。

 

自分のことなんか、気にしないでほしい。

 

そう思う一方で、律が何も言わなくなったことに、ほんの少しだけ寂しさを感じていた。

 

自分勝手だ。

 

朔は心の中で、自分を笑った。

 

心配されたくないくせに、心配されなくなると寂しいなんて。

 

本当に、どうしようもない。

 

*

 

その日の放課後。

 

朔は、廊下で立ち尽くしている一年生を見つけた。

 

手には、何枚ものプリントが握られている。

 

「どうしたの?」

 

声をかけると、一年生はびくりと肩を揺らした。

 

「あ、えっと……」

 

「何か困ってる?」

 

一年生は少し迷ったあと、手元のプリントを差し出した。

 

「これ、先生に提出するやつなんですけど……書き方がわからなくて」

 

「そっか。見せてみて」

 

朔はプリントを受け取り、内容を確認した。

 

提出期限は今日。

 

記入欄は多く、初めて書く人には少し難しそうだった。

 

「これなら、一緒にやればすぐ終わるよ」

 

「本当ですか?」

 

「うん。大丈夫」

 

そう答えたとき、朔の胸の奥で、何かが小さく動いた。

 

大丈夫。

 

その言葉は、何度も口にしてきた。

 

相手を安心させるために。

 

自分を納得させるために。

 

本当は大丈夫じゃないときでさえ。

 

「じゃあ、こっち来て。説明するから」

 

朔は笑って、一年生を連れて歩き出した。

 

廊下の向こうから、誰かが朔を呼ぶ声がした。

 

「七瀬ー! ちょっといい?」

 

「あ、ごめん! 今行く!」

 

反射的に返事をする。

 

足を止める。

 

振り返る。

 

その繰り返し。

 

誰かが困っている。

 

誰かが自分を必要としている。

 

だったら、応えなければ。

 

応えられるのに、応えない理由なんてない。

 

そう思うことに、もう慣れてしまっていた。

 

だから、自分の疲れには気づかないふりをした。

 

少し重くなった足も。

 

ぼんやりしてきた頭も。

 

何かを考えるたびに、胸の奥が痛むことも。

 

全部、後回しにした。

 

今はまだ、大丈夫。

 

自分が頑張れば、何とかなる。

 

そうやって今日も、朔は誰かのために笑った。

 

*

 

帰宅後、朔はベッドに腰を下ろした。

 

制服のまま、鞄も床に置いたままだった。

 

スマートフォンが震える。

 

律からだった。

 

『明日、帰り寄り道しね?』

 

短いメッセージ。

 

いつもの律らしい、何の気負いもない誘いだった。

 

朔は画面を見つめた。

 

行きたい。

 

そう思った。

 

律とくだらない話をして、寄り道して、何も考えずに笑いたい。

 

そんな時間が欲しかった。

 

けれど、明日は先生に頼まれた仕事がある。今日引き受けた一年生の書類も、念のため確認しておきたい。

 

それに、ほかにも何か頼まれるかもしれない。

 

だったら、最初から約束しないほうがいい。

 

律を待たせることもない。

 

迷惑をかけることもない。

 

朔はゆっくりと文字を打った。

 

『ごめん、明日はちょっと用事ある』

 

送信。

 

すぐに返信が来た。

 

『そっか。じゃあまた今度な』

 

それだけだった。

 

朔はスマートフォンを伏せた。

 

また今度。

 

その言葉を、頭の中で繰り返す。

 

また今度、遊ぼう。

 

また今度、話そう。

 

また今度、ゆっくりしよう。

 

そうやって先延ばしにしているうちに、いつか本当に、何もできなくなってしまうのではないか。

 

ふと、そんな考えが浮かんだ。

 

朔は首を振った。

 

違う。

 

そんなことを考える必要はない。

 

今は、やるべきことをやればいい。

 

誰かの役に立てばいい。

 

それだけでいい。

 

朔は立ち上がり、制服を脱ぐためにクローゼットを開けた。

 

奥にしまった箱が目に入る。

 

長い間、開けていない箱だった。

 

中に何が入っているのか、忘れたことはない。

 

忘れられるはずもない。

 

朔はしばらく、その箱を見つめていた。

 

けれど、手を伸ばすことはしなかった。

 

今は、まだ。

 

今はまだ、見なくてもいい。

 

そう自分に言い聞かせ、クローゼットを閉める。

 

明日も学校がある。

 

明日も、誰かが困っているかもしれない。

 

そのとき、ちゃんと気づけるように。

 

ちゃんと助けられるように。

 

今度こそ、後悔しないように。

 

朔は明日の準備を始めた。

 

その胸の奥に、少しずつ積み重なっていく疲れを、見ないふりをしながら。

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