「七瀬、悪いんだけどさ」
その言葉を聞いた瞬間、朔は反射的に顔を上げていた。
「ん、何?」
昼休みの教室。
弁当箱を開けたばかりの朔に声をかけてきたのは、クラスメイトの男子だった。
「今日の放課後、ちょっと残れる? 文化祭の資料、まだ終わってなくて」
「ああ、いいよ」
ほとんど間を置かずに答える。
「マジ? 助かる!」
男子はほっとしたように笑い、「じゃあ頼むわ」と自分の席へ戻っていった。
朔はその背中を見送ってから、箸を手に取った。
「……お前さあ」
隣から、呆れた声が飛んでくる。
「大丈夫だよ」
「まだ何も言ってねえだろ」
「顔に書いてある」
藤崎律は眉間にしわを寄せた。
「昨日も残ってただろ。今日くらい断れよ」
「別に、そんな時間かかんないと思うし」
「それ、昨日も聞いた」
「律、昨日からそればっかじゃん」
朔は笑った。
律は笑わなかった。
「お前、自分の予定とかないわけ?」
「あるよ」
「じゃあ断れよ」
「でも、困ってたし」
また、それだ。
律は言い返そうとして、やめた。
朔が誰かを助けること自体は悪いことじゃない。むしろ、そういうところが朔の長所なのだと、律もわかっている。
けれど、朔の場合は少し違う気がした。
助けたいから助けるというより、助けなければいけないと、自分に言い聞かせているように見える。
「……お前、ほんとに嫌じゃないの?」
「何が?」
「頼まれごとばっかされんの」
朔は少し考えた。
「別に。俺ができることなら、やったほうがいいじゃん」
「……ふうん」
律はそれ以上追及しなかった。
朔も、何事もなかったように弁当を食べ始める。
窓から差し込む日差しは明るく、教室にはいつも通りのざわめきが満ちていた。
何も変わらない。
少なくとも、周りから見れば。
*
放課後。
朔は教室に残り、文化祭の資料をまとめていた。
本来なら数人で分担するはずの作業だったが、気づけば机の上にはほとんどの資料が集まっている。
頼まれた分だけやるつもりだった。
本当に、そのつもりだったのだ。
けれど、作業を始めてみれば、誰かが作った資料の間違いが目についた。表記が統一されていない箇所もあった。提出用の書類には、まだ記入されていない項目が残っていた。
このままじゃ、あとで困るかもしれない。
そう思ったら、手を止められなくなった。
一つ直して、もう一つ直す。
終わったと思ったら、別の不備を見つける。
気づけば、窓の外はオレンジ色に染まっていた。
「……やば」
時計を見て、朔は小さく声を漏らした。
思っていたより時間が経っている。
肩が重い。目も少し疲れていた。
それでも、残りの資料に目を通す。
あと少し。
あと少しで終わるから。
そう自分に言い聞かせて、再びペンを握った。
「七瀬?」
不意に名前を呼ばれ、朔は顔を上げた。
教室の入り口に立っていたのは律だった。
「……何してんの?」
「見てわかんない?」
「わかるから聞いてんだよ」
律は呆れた顔で近づいてきた。
机の上に積み上がった資料を見て、さらに眉を寄せる。
「これ、全部お前がやってんの?」
「いや、頼まれた分だけ」
「頼まれた分だけで、こんな量になるか?」
「……ちょっと気になったとこ直してたら、こうなった」
「お前なあ」
律は深々とため息をついた。
「もう帰るぞ」
「いや、まだ終わってないし」
「明日やればいいだろ」
「でも、明日までに提出するって言ってたから」
「だったら頼んだやつにも手伝わせろよ」
「みんな忙しいんだって」
「お前だって忙しいだろ」
朔は答えなかった。
律の言うことは正しい。
自分だって、疲れている。
本当は、もう帰りたかった。
温かいご飯を食べて、風呂に入って、何も考えずに眠りたかった。
けれど、そんな気持ちを口にすることが、なぜかひどく難しかった。
「……大丈夫だから」
結局、出てきたのはいつもの言葉だった。
「あとちょっとだし」
律は黙って朔を見つめた。
その目が、嫌だった。
怒っているわけでも、責めているわけでもない。
ただ、心配している。
それが、どうしようもなく苦しかった。
「……わかった」
しばらくして、律が言った。
「じゃあ、俺も手伝う」
「え、いいって!」
「よくねえよ。お前一人にやらせて帰れるか」
「でも、律は関係ないじゃん」
口にした瞬間、しまったと思った。
律の手が止まる。
「……関係ない?」
「いや、そういう意味じゃなくて」
「じゃあ、どういう意味だよ」
朔は言葉に詰まった。
説明できるわけがなかった。
本当は、関係ないままでいてほしい。
自分が勝手にやっていることに、律を巻き込みたくない。
律にまで心配をかけたくない。
自分のために、誰かが時間を使うのが怖い。
そんなことを、どうやって説明すればいいのだろう。
「……ごめん。変な意味じゃない」
朔は笑ってごまかした。
「ありがたいけど、ほんとにもうすぐ終わるから」
律はしばらく朔を見ていたが、やがて小さく息を吐いた。
「……お前がそう言うなら、今日は帰る」
「うん。ごめんな」
「謝んなくていい」
律は鞄を肩にかけた。
「ただし、明日も同じことしてたら、今度は問答無用で帰らせるからな」
「はいはい」
朔が笑うと、律は少しだけ表情を緩めた。
「じゃあな」
「また明日」
律が教室を出ていく。
足音が遠ざかり、やがて聞こえなくなった。
朔はしばらく、誰もいなくなった入り口を見つめていた。
それから、机の上に視線を戻す。
まだ、終わっていない。
やらなければ。
ちゃんと、終わらせなければ。
朔はペンを握り直した。
*
作業を終えた頃には、外はすっかり暗くなっていた。
朔は職員室に資料を届け、ようやく学校を出た。
スマートフォンを見ると、律からメッセージが届いていた。
『ちゃんと終わったか?』
朔は少し笑って返信する。
『終わった。心配性かよ』
すぐに既読がついた。
『誰のせいだと思ってんだ』
『はいはい、ありがと』
送信して、スマートフォンをポケットにしまう。
律は優しい。
昔からそうだった。
口は悪いし、すぐに文句を言うし、何かにつけて突っかかってくる。
けれど、本当に困っているときには、いつもそばにいてくれた。
だからこそ、知られたくなかった。
自分が何を考えているのか。
何を後悔しているのか。
何を忘れられずにいるのか。
律にだけは、知られたくなかった。
もし知ったら、律はきっと自分を責める。
どうして気づかなかったんだと。
どうして相談してくれなかったんだと。
そんなふうに、自分のことまで傷つけてしまうかもしれない。
それだけは嫌だった。
朔は歩く速度を少しだけ上げた。
早く帰ろう。
何も考えなくて済む場所へ。
誰にも心配をかけずに済む場所へ。
*
翌日。
朝の教室は、いつもより少し騒がしかった。
昨日、文化祭の資料をまとめた男子が、クラスメイトたちに囲まれている。
「昨日の資料、先生に褒められたって!」
「マジ? よかったじゃん」
「七瀬が直してくれたとこも多かったんだよ。マジで助かったわ」
その言葉に、朔は笑って手を振った。
「いや、俺はちょっと手伝っただけだって」
「いやいや、ありがとな!」
男子は満足そうに笑い、自分の席へ戻っていった。
朔はそれを見送った。
よかった。
ちゃんと役に立てた。
昨日、無理してでも終わらせてよかった。
そう思った。
思ったはずなのに。
「……なあ、七瀬」
隣から声がした。
律だった。
「お前、昨日何時に寝た?」
「え?」
「帰ったあと、何時に寝たんだよ」
「普通に……十二時くらい?」
本当は、もっと遅かった。
帰宅してから夕食を食べ、風呂に入り、ようやくベッドに入った頃には日付が変わっていた。
けれど、そんなことを正直に言う必要はない。
「ふうん」
律は朔の顔をじっと見た。
「……寝不足?」
「全然」
「目、赤いけど」
「気のせいだって」
朔は笑った。
律は何か言いたそうにしていたが、結局、口を閉じた。
その沈黙が、朔にはありがたかった。
これ以上、聞かないでほしい。
心配しないでほしい。
自分のことなんか、気にしないでほしい。
そう思う一方で、律が何も言わなくなったことに、ほんの少しだけ寂しさを感じていた。
自分勝手だ。
朔は心の中で、自分を笑った。
心配されたくないくせに、心配されなくなると寂しいなんて。
本当に、どうしようもない。
*
その日の放課後。
朔は、廊下で立ち尽くしている一年生を見つけた。
手には、何枚ものプリントが握られている。
「どうしたの?」
声をかけると、一年生はびくりと肩を揺らした。
「あ、えっと……」
「何か困ってる?」
一年生は少し迷ったあと、手元のプリントを差し出した。
「これ、先生に提出するやつなんですけど……書き方がわからなくて」
「そっか。見せてみて」
朔はプリントを受け取り、内容を確認した。
提出期限は今日。
記入欄は多く、初めて書く人には少し難しそうだった。
「これなら、一緒にやればすぐ終わるよ」
「本当ですか?」
「うん。大丈夫」
そう答えたとき、朔の胸の奥で、何かが小さく動いた。
大丈夫。
その言葉は、何度も口にしてきた。
相手を安心させるために。
自分を納得させるために。
本当は大丈夫じゃないときでさえ。
「じゃあ、こっち来て。説明するから」
朔は笑って、一年生を連れて歩き出した。
廊下の向こうから、誰かが朔を呼ぶ声がした。
「七瀬ー! ちょっといい?」
「あ、ごめん! 今行く!」
反射的に返事をする。
足を止める。
振り返る。
その繰り返し。
誰かが困っている。
誰かが自分を必要としている。
だったら、応えなければ。
応えられるのに、応えない理由なんてない。
そう思うことに、もう慣れてしまっていた。
だから、自分の疲れには気づかないふりをした。
少し重くなった足も。
ぼんやりしてきた頭も。
何かを考えるたびに、胸の奥が痛むことも。
全部、後回しにした。
今はまだ、大丈夫。
自分が頑張れば、何とかなる。
そうやって今日も、朔は誰かのために笑った。
*
帰宅後、朔はベッドに腰を下ろした。
制服のまま、鞄も床に置いたままだった。
スマートフォンが震える。
律からだった。
『明日、帰り寄り道しね?』
短いメッセージ。
いつもの律らしい、何の気負いもない誘いだった。
朔は画面を見つめた。
行きたい。
そう思った。
律とくだらない話をして、寄り道して、何も考えずに笑いたい。
そんな時間が欲しかった。
けれど、明日は先生に頼まれた仕事がある。今日引き受けた一年生の書類も、念のため確認しておきたい。
それに、ほかにも何か頼まれるかもしれない。
だったら、最初から約束しないほうがいい。
律を待たせることもない。
迷惑をかけることもない。
朔はゆっくりと文字を打った。
『ごめん、明日はちょっと用事ある』
送信。
すぐに返信が来た。
『そっか。じゃあまた今度な』
それだけだった。
朔はスマートフォンを伏せた。
また今度。
その言葉を、頭の中で繰り返す。
また今度、遊ぼう。
また今度、話そう。
また今度、ゆっくりしよう。
そうやって先延ばしにしているうちに、いつか本当に、何もできなくなってしまうのではないか。
ふと、そんな考えが浮かんだ。
朔は首を振った。
違う。
そんなことを考える必要はない。
今は、やるべきことをやればいい。
誰かの役に立てばいい。
それだけでいい。
朔は立ち上がり、制服を脱ぐためにクローゼットを開けた。
奥にしまった箱が目に入る。
長い間、開けていない箱だった。
中に何が入っているのか、忘れたことはない。
忘れられるはずもない。
朔はしばらく、その箱を見つめていた。
けれど、手を伸ばすことはしなかった。
今は、まだ。
今はまだ、見なくてもいい。
そう自分に言い聞かせ、クローゼットを閉める。
明日も学校がある。
明日も、誰かが困っているかもしれない。
そのとき、ちゃんと気づけるように。
ちゃんと助けられるように。
今度こそ、後悔しないように。
朔は明日の準備を始めた。
その胸の奥に、少しずつ積み重なっていく疲れを、見ないふりをしながら。