嫌われ果てても   作:M1tarash1

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03.踏み込まないで

 朝から、頭が重かった。

 

 目を開けた瞬間、七瀬朔は布団の中で小さく息を吐いた。カーテンの隙間から差し込む光がやけに眩しい。昨夜は何時に眠ったのだったか。日付が変わる前だった気もするし、もっと遅かった気もする。

 

 考えるのも面倒で、朔は枕元のスマートフォンに手を伸ばした。

 

 画面には、藤崎律からのメッセージが一件。

 

『今日、放課後空いてる?』

 

 昨日、明日の誘いを断ったからだろう。律は懲りずに、また誘ってくれている。

 

 朔は少しだけ迷った。

 

 本当は、行きたかった。

 

 帰り道に寄り道して、適当な店で飲み物を買って、どうでもいい話をする。律がくだらないことで笑って、朔が呆れたふりをする。そんな時間が、嫌いじゃなかった。

 

 むしろ、最近はそういう時間が少し恋しかった。

 

 けれど。

 

『ごめん。今日もやることある』

 

 送信して、スマートフォンを伏せる。

 

 胸の奥に小さな痛みが残った。

 

 仕方ない。やることがあるのだから。

 

 自分には、のんびりしている暇なんてない。

 

     *

 

「……で、今日も残るわけ?」

 

 昼休み。

 

 弁当を食べ終えた朔に、律が呆れた声を投げた。

 

「うん。昨日の文化祭の準備、まだ終わってないから」

 

「昨日もそれやってただろ」

 

「今日で終わらせるよ」

 

「昨日も同じこと言ってなかった?」

 

「そうだっけ」

 

 朔は笑ってごまかした。

 

 律は笑わなかった。

 

「朔」

 

「ん?」

 

「お前、最近ずっとそんな感じじゃん」

 

「そんな感じって?」

 

「頼まれたら何でも引き受けて、放課後も残って、帰るのも遅くて。俺が誘っても断るし」

 

「……別に、普通だろ」

 

「普通じゃねえよ」

 

 思ったより強い声だった。

 

 周囲の何人かが、こちらをちらりと見る。

 

 律はそれに気づいて、声を落とした。

 

「……なあ。何かあった?」

 

「何もないって」

 

「じゃあ、なんでそんなに無理すんの?」

 

「無理なんかしてない」

 

「してるだろ。顔色悪いし、寝不足だし。昨日だって――」

 

「律には関係ないじゃん」

 

 口にした瞬間、しまった、と思った。

 

 律の表情が止まる。

 

 朔自身、どうしてそんな言い方をしたのかわからなかった。ただ、これ以上聞かれたくなかった。

 

 心配されると、苦しくなる。

 

 大丈夫かと尋ねられるたびに、本当は大丈夫じゃない自分が顔を出しそうになる。

 

 だから、近づかないでほしかった。

 

「……そっか」

 

 律は短く答えた。

 

「関係ないんだ」

 

「いや、今のは――」

 

「いいよ。悪かったな、余計なこと聞いて」

 

 律は弁当箱を片づけ、立ち上がった。

 

 いつもなら、ここで何か一言くらい言ってくる。

 

 『午後の授業、寝んなよ』とか、『購買行くけど何かいる?』とか。

 

 けれど今日は、何もなかった。

 

 朔は律の背中を見送った。

 

 謝ればよかった。

 

 そう思ったのに、結局、何も言えなかった。

 

     *

 

 放課後。

 

 朔は教室に残り、文化祭で使う掲示物を作っていた。

 

 作業は思ったより進まなかった。何度も文字を書き間違え、定規を落とし、普段ならすぐに終わるようなことに時間がかかる。

 

 それでも、手を止めるわけにはいかなかった。

 

 自分が引き受けたことだ。

 

 最後までやらなければ。

 

 誰かが困るくらいなら、自分が少し無理をすればいい。

 

 昔から、そうしてきた。

 

 そうしていれば、誰かを助けられる。

 

 そうしていれば、今度こそ。

 

「……朔」

 

 不意に名前を呼ばれ、朔は顔を上げた。

 

 教室の入口に、律が立っていた。

 

「まだいたのか」

 

「見ればわかるだろ」

 

「……そっか」

 

 律は教室の中に入ってきた。

 

 手には、自分の鞄を持っている。帰るところだったのだろう。

 

「手伝う」

 

「いいよ。一人でできるから」

 

「そうやって、また全部自分でやるんだな」

 

「……何?」

 

「別に。手伝うって言ってんの」

 

「だから、いいって」

 

 朔は顔を伏せ、ペンを動かした。

 

 律はしばらく黙っていた。

 

 やがて、机の向かい側に鞄を置いた。

 

「じゃあ、終わるまで待つ」

 

「は?」

 

「一人で帰ると、どうせまた遅くまで残るだろ。終わったら一緒に帰る」

 

「……なんでそこまですんの」

 

「心配だから」

 

 あまりにもまっすぐな答えだった。

 

 朔の手が止まる。

 

「……やめてよ」

 

「何を?」

 

「そういうの」

 

「どういうのだよ」

 

「心配するとか、気にするとか。俺は別に、そんなの頼んでない」

 

 律の眉が寄った。

 

「頼まれなきゃ心配しちゃ駄目なのかよ」

 

「そういうわけじゃないけど……」

 

「じゃあ何なんだよ」

 

 律の声に、苛立ちが混じった。

 

「お前がしんどそうだから声かけてんだろ。最近ずっとおかしいから、何かあったのかって聞いてんだろ。なのにお前は、何もない、関係ない、放っといてくれって。そればっかじゃん」

 

「……っ」

 

「俺、そんなに信用できない?」

 

 その言葉に、朔は息を詰めた。

 

 違う。

 

 信用していないわけじゃない。

 

 むしろ、律だから困るのだ。

 

 律は優しい。朔が何も言わなくても、変化に気づいてしまう。いつもと違うことを見つけて、放っておけない顔をする。

 

 そんな律にだけは、知られたくなかった。

 

 自分がどれほど弱いのか。

 

 どれほど身勝手な後悔を抱えているのか。

 

 そして、今でもあの日のことを忘れられずにいるのか。

 

「……信用とか、そういう話じゃない」

 

「じゃあ、ちゃんと話せよ」

 

「話したって、どうにもならないだろ!」

 

 教室に声が響いた。

 

 自分でも驚くほど大きな声だった。

 

 律が黙る。

 

 朔は唇を噛んだ。

 

「……ごめん」

 

「いや」

 

「もう、いいから。帰ってよ」

 

「朔」

 

「お願いだから、放っといて」

 

 最後の言葉は、ほとんど懇願だった。

 

 律は朔を見つめていた。

 

 怒っているようにも、傷ついているようにも見えた。

 

「……わかった」

 

 律は鞄を持ち上げた。

 

「今日は帰る」

 

 そのまま出口へ向かう。

 

 朔は何も言えなかった。

 

 扉の前で、律が一度だけ立ち止まった。

 

「でもさ」

 

 振り返らないまま、律は言った。

 

「お前が大丈夫って言うたびに、俺がそれを信じなきゃいけない理由なんてないから」

 

 扉が閉まった。

 

 教室に、静けさが戻る。

 

 朔は握りしめていたペンを机に置いた。

 

 胸の奥が痛い。

 

 自分から突き放したくせに、律がいなくなった途端、ひどく心細くなった。

 

 勝手だ。

 

 本当に、どうしようもなく勝手だ。

 

 心配されたくない。

 

 でも、見捨てられたくもない。

 

 そんな都合のいい気持ちを、律に知られるわけにはいかなかった。

 

     *

 

 結局、掲示物が完成したのは午後七時を過ぎてからだった。

 

 帰り道、朔は何度もスマートフォンを確認した。

 

 律からの連絡はない。

 

 いつもなら、帰宅した頃に何かしらメッセージが来る。内容は本当にどうでもいいことばかりだ。テレビで見た芸人が面白かったとか、明日の体育が面倒だとか。

 

 それが、今日はない。

 

 当然だ。

 

 あんなことを言ったのだから。

 

 朔は自分から謝ろうとして、メッセージ画面を開いた。

 

『昼はごめん』

 

 そこまで打って、指が止まる。

 

 何に対して謝っているのか。

 

 どうしてあんな言い方をしたのか。

 

 それを説明できないまま謝っても、何も変わらない気がした。

 

 結局、朔は文字をすべて消した。

 

 スマートフォンをポケットにしまい、歩き出す。

 

 夜風が冷たかった。

 

 家に帰れば、いつも通りに過ごす。

 

 明日になれば、きっといつも通りに戻る。

 

 そう思いたかった。

 

 けれど、律の最後の言葉が、何度も頭の中で繰り返される。

 

 ――お前が大丈夫って言うたびに、俺がそれを信じなきゃいけない理由なんてないから。

 

 朔は立ち止まった。

 

 街灯の下で、ぎゅっと拳を握る。

 

 どうして。

 

 どうして、放っておいてくれないんだ。

 

 自分がどれほど苦しいのかなんて、知らなくていい。

 

 知ったところで、律まで苦しくなるだけだ。

 

 それなのに。

 

 どうして、そんな顔をするんだ。

 

 どうして、そんなことを言うんだ。

 

 どうして――。

 

「……っ、くそ」

 

 朔は顔を覆った。

 

 泣くつもりなんてなかった。

 

 悲しいわけでもない。怒っているわけでもない。

 

 ただ、律の優しさが、どうしようもなく痛かった。

 

 もう誰かを失いたくない。

 

 だから、誰にも自分のことで苦しんでほしくない。

 

 そのためなら、嫌われたっていい。

 

 そう思っていたはずなのに。

 

 いざ本当に距離ができると、こんなにも苦しい。

 

 朔はしばらくその場に立ち尽くしたあと、何事もなかったように歩き出した。

 

 明日も学校がある。

 

 やることだって、まだ残っている。

 

 立ち止まっている暇なんてない。

 

 そうやって、また自分の気持ちに蓋をする。

 

 その蓋の向こう側で、助けてほしいという小さな声が、確かに何かを訴えていた。

 

 けれど朔は、まだそれを聞かないふりをしていた。

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