朝から、頭が重かった。
目を開けた瞬間、七瀬朔は布団の中で小さく息を吐いた。カーテンの隙間から差し込む光がやけに眩しい。昨夜は何時に眠ったのだったか。日付が変わる前だった気もするし、もっと遅かった気もする。
考えるのも面倒で、朔は枕元のスマートフォンに手を伸ばした。
画面には、藤崎律からのメッセージが一件。
『今日、放課後空いてる?』
昨日、明日の誘いを断ったからだろう。律は懲りずに、また誘ってくれている。
朔は少しだけ迷った。
本当は、行きたかった。
帰り道に寄り道して、適当な店で飲み物を買って、どうでもいい話をする。律がくだらないことで笑って、朔が呆れたふりをする。そんな時間が、嫌いじゃなかった。
むしろ、最近はそういう時間が少し恋しかった。
けれど。
『ごめん。今日もやることある』
送信して、スマートフォンを伏せる。
胸の奥に小さな痛みが残った。
仕方ない。やることがあるのだから。
自分には、のんびりしている暇なんてない。
*
「……で、今日も残るわけ?」
昼休み。
弁当を食べ終えた朔に、律が呆れた声を投げた。
「うん。昨日の文化祭の準備、まだ終わってないから」
「昨日もそれやってただろ」
「今日で終わらせるよ」
「昨日も同じこと言ってなかった?」
「そうだっけ」
朔は笑ってごまかした。
律は笑わなかった。
「朔」
「ん?」
「お前、最近ずっとそんな感じじゃん」
「そんな感じって?」
「頼まれたら何でも引き受けて、放課後も残って、帰るのも遅くて。俺が誘っても断るし」
「……別に、普通だろ」
「普通じゃねえよ」
思ったより強い声だった。
周囲の何人かが、こちらをちらりと見る。
律はそれに気づいて、声を落とした。
「……なあ。何かあった?」
「何もないって」
「じゃあ、なんでそんなに無理すんの?」
「無理なんかしてない」
「してるだろ。顔色悪いし、寝不足だし。昨日だって――」
「律には関係ないじゃん」
口にした瞬間、しまった、と思った。
律の表情が止まる。
朔自身、どうしてそんな言い方をしたのかわからなかった。ただ、これ以上聞かれたくなかった。
心配されると、苦しくなる。
大丈夫かと尋ねられるたびに、本当は大丈夫じゃない自分が顔を出しそうになる。
だから、近づかないでほしかった。
「……そっか」
律は短く答えた。
「関係ないんだ」
「いや、今のは――」
「いいよ。悪かったな、余計なこと聞いて」
律は弁当箱を片づけ、立ち上がった。
いつもなら、ここで何か一言くらい言ってくる。
『午後の授業、寝んなよ』とか、『購買行くけど何かいる?』とか。
けれど今日は、何もなかった。
朔は律の背中を見送った。
謝ればよかった。
そう思ったのに、結局、何も言えなかった。
*
放課後。
朔は教室に残り、文化祭で使う掲示物を作っていた。
作業は思ったより進まなかった。何度も文字を書き間違え、定規を落とし、普段ならすぐに終わるようなことに時間がかかる。
それでも、手を止めるわけにはいかなかった。
自分が引き受けたことだ。
最後までやらなければ。
誰かが困るくらいなら、自分が少し無理をすればいい。
昔から、そうしてきた。
そうしていれば、誰かを助けられる。
そうしていれば、今度こそ。
「……朔」
不意に名前を呼ばれ、朔は顔を上げた。
教室の入口に、律が立っていた。
「まだいたのか」
「見ればわかるだろ」
「……そっか」
律は教室の中に入ってきた。
手には、自分の鞄を持っている。帰るところだったのだろう。
「手伝う」
「いいよ。一人でできるから」
「そうやって、また全部自分でやるんだな」
「……何?」
「別に。手伝うって言ってんの」
「だから、いいって」
朔は顔を伏せ、ペンを動かした。
律はしばらく黙っていた。
やがて、机の向かい側に鞄を置いた。
「じゃあ、終わるまで待つ」
「は?」
「一人で帰ると、どうせまた遅くまで残るだろ。終わったら一緒に帰る」
「……なんでそこまですんの」
「心配だから」
あまりにもまっすぐな答えだった。
朔の手が止まる。
「……やめてよ」
「何を?」
「そういうの」
「どういうのだよ」
「心配するとか、気にするとか。俺は別に、そんなの頼んでない」
律の眉が寄った。
「頼まれなきゃ心配しちゃ駄目なのかよ」
「そういうわけじゃないけど……」
「じゃあ何なんだよ」
律の声に、苛立ちが混じった。
「お前がしんどそうだから声かけてんだろ。最近ずっとおかしいから、何かあったのかって聞いてんだろ。なのにお前は、何もない、関係ない、放っといてくれって。そればっかじゃん」
「……っ」
「俺、そんなに信用できない?」
その言葉に、朔は息を詰めた。
違う。
信用していないわけじゃない。
むしろ、律だから困るのだ。
律は優しい。朔が何も言わなくても、変化に気づいてしまう。いつもと違うことを見つけて、放っておけない顔をする。
そんな律にだけは、知られたくなかった。
自分がどれほど弱いのか。
どれほど身勝手な後悔を抱えているのか。
そして、今でもあの日のことを忘れられずにいるのか。
「……信用とか、そういう話じゃない」
「じゃあ、ちゃんと話せよ」
「話したって、どうにもならないだろ!」
教室に声が響いた。
自分でも驚くほど大きな声だった。
律が黙る。
朔は唇を噛んだ。
「……ごめん」
「いや」
「もう、いいから。帰ってよ」
「朔」
「お願いだから、放っといて」
最後の言葉は、ほとんど懇願だった。
律は朔を見つめていた。
怒っているようにも、傷ついているようにも見えた。
「……わかった」
律は鞄を持ち上げた。
「今日は帰る」
そのまま出口へ向かう。
朔は何も言えなかった。
扉の前で、律が一度だけ立ち止まった。
「でもさ」
振り返らないまま、律は言った。
「お前が大丈夫って言うたびに、俺がそれを信じなきゃいけない理由なんてないから」
扉が閉まった。
教室に、静けさが戻る。
朔は握りしめていたペンを机に置いた。
胸の奥が痛い。
自分から突き放したくせに、律がいなくなった途端、ひどく心細くなった。
勝手だ。
本当に、どうしようもなく勝手だ。
心配されたくない。
でも、見捨てられたくもない。
そんな都合のいい気持ちを、律に知られるわけにはいかなかった。
*
結局、掲示物が完成したのは午後七時を過ぎてからだった。
帰り道、朔は何度もスマートフォンを確認した。
律からの連絡はない。
いつもなら、帰宅した頃に何かしらメッセージが来る。内容は本当にどうでもいいことばかりだ。テレビで見た芸人が面白かったとか、明日の体育が面倒だとか。
それが、今日はない。
当然だ。
あんなことを言ったのだから。
朔は自分から謝ろうとして、メッセージ画面を開いた。
『昼はごめん』
そこまで打って、指が止まる。
何に対して謝っているのか。
どうしてあんな言い方をしたのか。
それを説明できないまま謝っても、何も変わらない気がした。
結局、朔は文字をすべて消した。
スマートフォンをポケットにしまい、歩き出す。
夜風が冷たかった。
家に帰れば、いつも通りに過ごす。
明日になれば、きっといつも通りに戻る。
そう思いたかった。
けれど、律の最後の言葉が、何度も頭の中で繰り返される。
――お前が大丈夫って言うたびに、俺がそれを信じなきゃいけない理由なんてないから。
朔は立ち止まった。
街灯の下で、ぎゅっと拳を握る。
どうして。
どうして、放っておいてくれないんだ。
自分がどれほど苦しいのかなんて、知らなくていい。
知ったところで、律まで苦しくなるだけだ。
それなのに。
どうして、そんな顔をするんだ。
どうして、そんなことを言うんだ。
どうして――。
「……っ、くそ」
朔は顔を覆った。
泣くつもりなんてなかった。
悲しいわけでもない。怒っているわけでもない。
ただ、律の優しさが、どうしようもなく痛かった。
もう誰かを失いたくない。
だから、誰にも自分のことで苦しんでほしくない。
そのためなら、嫌われたっていい。
そう思っていたはずなのに。
いざ本当に距離ができると、こんなにも苦しい。
朔はしばらくその場に立ち尽くしたあと、何事もなかったように歩き出した。
明日も学校がある。
やることだって、まだ残っている。
立ち止まっている暇なんてない。
そうやって、また自分の気持ちに蓋をする。
その蓋の向こう側で、助けてほしいという小さな声が、確かに何かを訴えていた。
けれど朔は、まだそれを聞かないふりをしていた。