嫌われ果てても   作:M1tarash1

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04.嫌われても、いい

 藤崎律は、いつも通りに登校してきた。

 

「おはよー」

 

 教室の扉を開けるなり、友人に声をかける。机に鞄を放り、昨日のテレビの話で盛り上がり、いつものように大きな声で笑っている。

 

 何も変わっていない。

 

 少なくとも、周囲からはそう見えた。

 

 七瀬朔は、自分の席からその様子を眺めていた。

 

 昨日のことなど、なかったみたいだった。

 

 律は友人に肩を叩かれ、笑いながら文句を言っている。少し大げさな身振りも、よく通る声も、見慣れたものだ。

 

 ただ。

 

 こちらを見ない。

 

 目が合いそうになると、何でもないように視線を逸らす。

 

 それだけだった。

 

 それだけなのに、朔は朝からずっと落ち着かなかった。

 

 昨日の自分の言葉を思い出す。

 

 ――お願いだから、放っといて。

 

 あんなことを言ったのだから、当然だ。

 

 律は朔の望みを聞いてくれただけ。

 

 だったら、これでいい。

 

 これで、いいはずなのだ。

 

「七瀬、これ昨日の続きなんだけどさ」

 

 クラスメイトが机の横にやってきた。

 

「悪いんだけど、ここの確認もお願いできる?」

 

「うん、いいよ」

 

 考えるより先に、返事が出た。

 

 受け取ったプリントに目を落とす。今日中に確認しなければならないものが、また増えた。

 

 でも、別に構わない。

 

 やることがあれば、余計なことを考えずに済む。

 

 律のことも。

 

 昨日のことも。

 

 あの日のことも。

 

 何もかも、忘れていられる。

 

     *

 

 昼休みになっても、律は話しかけてこなかった。

 

 いつもなら、朔の席までやってきて、昼食を食べながらどうでもいい話をする。朔が弁当を忘れれば勝手に自分のおかずを押しつけてくるし、購買に行けば頼んでもいないパンを買ってくる。

 

 そういう、少し迷惑で、でも嫌いじゃない時間があった。

 

 今日は、それがない。

 

 律は別の友人たちと昼食を食べていた。

 

 楽しそうだった。

 

 朔は弁当の卵焼きを口に運ぶ。

 

 味がしなかった。

 

「……朔?」

 

 隣の席のクラスメイトが、不思議そうに顔を覗き込んできた。

 

「食べないの?」

 

「食べてるよ」

 

「いや、さっきから全然減ってないけど」

 

「ちょっと食欲なくて」

 

「大丈夫? 保健室行く?」

 

「平気。ありがと」

 

 笑顔を作る。

 

 大丈夫。

 

 平気。

 

 その言葉なら、いくらでも出てくる。

 

 誰も疑わないような声で、誰も心配しないような顔で。

 

 そうやっていれば、面倒をかけずに済む。

 

 それなのに。

 

 ふと顔を上げたとき、律と目が合った。

 

 一瞬だった。

 

 律は何か言いたそうにこちらを見ていたが、すぐに視線を戻した。

 

 朔は、弁当箱の端を指でなぞった。

 

 胸の奥が、じわりと痛む。

 

 ――話しかけてくれればいいのに。

 

 そんな身勝手な考えが浮かんで、朔は自分自身に嫌気が差した。

 

 放っておいてほしいと言ったのは自分だ。

 

 律がそれを守ってくれているだけなのに。

 

 どうして、こんなに寂しいのだろう。

 

     *

 

 放課後。

 

 朔は教室に残っていた。

 

 文化祭の準備は、ようやく終わりが見えてきていた。残っていた確認作業も、今日中には片づけられそうだ。

 

 机に向かい、プリントを一枚ずつ確認する。

 

 文字がかすんだ。

 

 瞬きをする。

 

 もう一度、目をこらす。

 

 大丈夫。

 

 まだできる。

 

 そう思ったところで、スマートフォンが震えた。

 

 画面を見ると、母親からのメッセージだった。

 

『今日も遅いの? 夕飯いるなら連絡して』

 

 朔は短く返信する。

 

『いる。もう少ししたら帰る』

 

 送信して、スマートフォンを伏せた。

 

 家に帰っても、別に何かがあるわけじゃない。

 

 母親は忙しく、父親とは必要なこと以外ほとんど話さない。二人の間に漂う気まずさは、今でも変わっていなかった。

 

 以前なら、その空気を少しでも和らげようと、朔はくだらない話をしたり、どちらかの機嫌を取ったりしていた。

 

 けれど、もう疲れてしまった。

 

 何を言っても、何をしても、根本的なことは変わらない。

 

 それでも、誰かが困っていたら手を伸ばす。

 

 手を伸ばさなかったことで、取り返しのつかないことになったと思っているから。

 

 あのとき、もっと真剣に聞いていれば。

 

 あのとき、もう少しだけ踏み込んでいれば。

 

 あのとき、面倒くさがらずに向き合っていれば。

 

 何かが変わったかもしれない。

 

 答えなんて、どこにもない。

 

 それでも、朔はその問いを手放せなかった。

 

「……っ」

 

 視界が揺れた。

 

 慌てて机に手をつく。

 

 頭が痛い。

 

 昨日から、まともに眠れていない。食事だって、朝からほとんど喉を通っていなかった。

 

 それでも、あと少し。

 

 あと少しだけやれば、終わる。

 

 そう自分に言い聞かせて、朔は再びペンを握った。

 

     *

 

「七瀬、まだ残ってたの?」

 

 声をかけられ、朔は顔を上げた。

 

 文化祭の準備を担当しているクラスメイトだった。

 

「うん。確認がまだ終わってなくて」

 

「え、そこまでやってくれてんの? もう十分だよ。ありがとな」

 

「いや、俺がやるって言ったし」

 

「でも、無理しなくていいからな。残りは明日、みんなでやるよ」

 

 クラスメイトはそう言って、机の上のプリントをまとめ始めた。

 

 朔は思わず、その手を止めた。

 

「……大丈夫。俺がやるから」

 

「いや、だから」

 

「今日中に終わらせたいんだ」

 

 自分でも、少し必死な声だと思った。

 

 クラスメイトは困ったように眉を下げる。

 

「七瀬、最近ちょっと頑張りすぎじゃない?」

 

「そんなことないよ」

 

「でもさ――」

 

「いいから。俺にやらせて」

 

 教室が静かになった。

 

 朔は、自分の手が震えていることに気づいた。

 

 相手を困らせている。

 

 わかっているのに、止められなかった。

 

 誰かの役に立っていなければ。

 

 何かをしていなければ。

 

 自分には、ここにいる理由がないような気がした。

 

「……ごめん。ちょっと、言い方きつかった」

 

 朔は笑った。

 

「俺がやりたいだけだから。気にしないで」

 

 クラスメイトはしばらく朔を見ていたが、やがて小さく頷いた。

 

「……わかった。でも、無理だと思ったらちゃんと言えよ」

 

「うん。ありがと」

 

 相手が教室を出ていく。

 

 朔は、また一人になった。

 

 無理だと思ったら。

 

 ちゃんと言え。

 

 簡単に言ってくれる。

 

 無理だなんて言ったら、今まで自分がしてきたことが、全部無意味になってしまう気がした。

 

 助けられなかった人がいる。

 

 あの人は、もういない。

 

 なのに自分だけが、何事もなかったように休んで、笑って、誰かに甘えていいはずがない。

 

 そう思わなければ、立っていられなかった。

 

     *

 

 作業を終えた頃には、窓の外が暗くなっていた。

 

 朔は鞄を持ち、ゆっくりと廊下に出た。

 

 誰もいない。

 

 静かな校舎を歩いていると、急に足元が頼りなくなった。

 

 壁に手をつく。

 

 少し休めば大丈夫。

 

 いつものことだ。

 

 そう思って、顔を上げる。

 

 廊下の向こうに、人影があった。

 

 律だった。

 

 友人と話しながら歩いていた律は、朔に気づくと一瞬だけ足を止めた。

 

 目が合う。

 

 昨日と同じように、何かを言いたそうな顔だった。

 

 朔は、何も言えなかった。

 

 謝りたかった。

 

 昨日はごめん、と。

 

 心配してくれて、ありがとう、と。

 

 できることなら、前みたいに話したい、と。

 

 けれど、どれも口に出せなかった。

 

 律はわずかに唇を開き、それから何も言わずに視線を戻した。

 

 隣の友人に何かを話しかけ、再び歩き出す。

 

 その背中が、遠ざかっていく。

 

 朔はその場に立ち尽くした。

 

 自分が望んだことだ。

 

 律を突き放したのは、自分だ。

 

 なのに、どうして。

 

「……律」

 

 声にはならなかった。

 

 誰にも聞こえない、小さな呼び声。

 

 伸ばしかけた手を、朔はゆっくりと下ろした。

 

 追いかけてはいけない。

 

 謝ってはいけない。

 

 優しくされたいなんて、思ってはいけない。

 

 自分には、そんな資格はない。

 

 嫌われてもいい。

 

 そう思っていた。

 

 誰かを救えなかった自分が、誰かに救われるなんて、許されない。

 

 だから、これでいい。

 

 律が自分から離れていくなら、それでいいのだ。

 

 そのほうが、きっと。

 

 ――そのほうが、律は傷つかずに済む。

 

 朔はゆっくりと歩き出した。

 

 その足取りは、いつもよりずっと重かった。

 

     *

 

 帰宅した朔は、夕食をほとんど食べられなかった。

 

 母親に「体調悪いの?」と尋ねられたが、「ちょっと疲れただけ」と答えた。

 

 それ以上、何も聞かれなかった。

 

 自室に戻り、鞄を床に置く。

 

 制服のままベッドに腰を下ろすと、急に何もする気が起きなくなった。

 

 スマートフォンを取り出す。

 

 律とのトーク画面を開く。

 

 最後のやり取りは、昨日のままだった。

 

 自分が送った言葉に、律が返した言葉。

 

 その先は、何もない。

 

 朔は文字入力欄をタップした。

 

『昨日はごめん』

 

 今度は、消さなかった。

 

 続けて打つ。

 

『心配してくれてありがとう』

 

 そこで、指が止まった。

 

 画面を見つめる。

 

 たったそれだけの言葉なのに、送信するのが怖かった。

 

 もし、もう面倒だと思われていたら。

 

 もし、今さら何だよと思われたら。

 

 もし、律が本当に自分を見限っていたら。

 

 そんなことばかり考えてしまう。

 

 朔は結局、また文字を消した。

 

「……何やってんだ、俺」

 

 乾いた笑いが漏れた。

 

 自分から離れようとしておいて、離れられるのは嫌だなんて。

 

 本当に、どうしようもない。

 

 スマートフォンを枕元に置き、ベッドに横になる。

 

 目を閉じても、眠気は来なかった。

 

 頭の中に浮かぶのは、昔の友人の顔だった。

 

 あの日、もっと何かできたはずだ。

 

 あの日、ちゃんと向き合えていれば。

 

 そんな後悔を繰り返すたびに、朔は自分に言い聞かせる。

 

 次は、絶対に見逃さない。

 

 次は、絶対に間違えない。

 

 たとえ自分がどれだけ苦しくても。

 

 たとえ誰かに嫌われても。

 

 今度こそ、誰かを救える人間になる。

 

 そのためなら、自分がどうなったって構わない。

 

 そう思っていた。

 

 けれど、本当は。

 

 ほんの少しでいいから、誰かに気づいてほしかった。

 

 大丈夫じゃないときに、大丈夫じゃないと言えない自分に。

 

 助けてほしいと願うことさえ、自分に許せない自分に。

 

 誰か。

 

 誰でもいいから。

 

 ――いや。

 

 誰でもいいわけじゃなかった。

 

 頭に浮かんだのは、いつだって同じ顔だった。

 

 藤崎律。

 

 その名前を思い浮かべた瞬間、朔の目から一筋の涙がこぼれた。

 

 慌てて腕で拭う。

 

「……嫌われても、いいんだ」

 

 自分に言い聞かせるように、呟いた。

 

 嫌われてもいい。

 

 嫌われたって、構わない。

 

 律が自分のことで苦しむくらいなら。

 

 自分を助けようとして、傷つくくらいなら。

 

 嫌われるほうが、ずっといい。

 

 そうやって何度も繰り返して、朔は自分の本当の気持ちを押し込めた。

 

 その言葉が、いつか自分自身を追い詰めることになるとも知らずに。

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