藤崎律は、いつも通りに登校してきた。
「おはよー」
教室の扉を開けるなり、友人に声をかける。机に鞄を放り、昨日のテレビの話で盛り上がり、いつものように大きな声で笑っている。
何も変わっていない。
少なくとも、周囲からはそう見えた。
七瀬朔は、自分の席からその様子を眺めていた。
昨日のことなど、なかったみたいだった。
律は友人に肩を叩かれ、笑いながら文句を言っている。少し大げさな身振りも、よく通る声も、見慣れたものだ。
ただ。
こちらを見ない。
目が合いそうになると、何でもないように視線を逸らす。
それだけだった。
それだけなのに、朔は朝からずっと落ち着かなかった。
昨日の自分の言葉を思い出す。
――お願いだから、放っといて。
あんなことを言ったのだから、当然だ。
律は朔の望みを聞いてくれただけ。
だったら、これでいい。
これで、いいはずなのだ。
「七瀬、これ昨日の続きなんだけどさ」
クラスメイトが机の横にやってきた。
「悪いんだけど、ここの確認もお願いできる?」
「うん、いいよ」
考えるより先に、返事が出た。
受け取ったプリントに目を落とす。今日中に確認しなければならないものが、また増えた。
でも、別に構わない。
やることがあれば、余計なことを考えずに済む。
律のことも。
昨日のことも。
あの日のことも。
何もかも、忘れていられる。
*
昼休みになっても、律は話しかけてこなかった。
いつもなら、朔の席までやってきて、昼食を食べながらどうでもいい話をする。朔が弁当を忘れれば勝手に自分のおかずを押しつけてくるし、購買に行けば頼んでもいないパンを買ってくる。
そういう、少し迷惑で、でも嫌いじゃない時間があった。
今日は、それがない。
律は別の友人たちと昼食を食べていた。
楽しそうだった。
朔は弁当の卵焼きを口に運ぶ。
味がしなかった。
「……朔?」
隣の席のクラスメイトが、不思議そうに顔を覗き込んできた。
「食べないの?」
「食べてるよ」
「いや、さっきから全然減ってないけど」
「ちょっと食欲なくて」
「大丈夫? 保健室行く?」
「平気。ありがと」
笑顔を作る。
大丈夫。
平気。
その言葉なら、いくらでも出てくる。
誰も疑わないような声で、誰も心配しないような顔で。
そうやっていれば、面倒をかけずに済む。
それなのに。
ふと顔を上げたとき、律と目が合った。
一瞬だった。
律は何か言いたそうにこちらを見ていたが、すぐに視線を戻した。
朔は、弁当箱の端を指でなぞった。
胸の奥が、じわりと痛む。
――話しかけてくれればいいのに。
そんな身勝手な考えが浮かんで、朔は自分自身に嫌気が差した。
放っておいてほしいと言ったのは自分だ。
律がそれを守ってくれているだけなのに。
どうして、こんなに寂しいのだろう。
*
放課後。
朔は教室に残っていた。
文化祭の準備は、ようやく終わりが見えてきていた。残っていた確認作業も、今日中には片づけられそうだ。
机に向かい、プリントを一枚ずつ確認する。
文字がかすんだ。
瞬きをする。
もう一度、目をこらす。
大丈夫。
まだできる。
そう思ったところで、スマートフォンが震えた。
画面を見ると、母親からのメッセージだった。
『今日も遅いの? 夕飯いるなら連絡して』
朔は短く返信する。
『いる。もう少ししたら帰る』
送信して、スマートフォンを伏せた。
家に帰っても、別に何かがあるわけじゃない。
母親は忙しく、父親とは必要なこと以外ほとんど話さない。二人の間に漂う気まずさは、今でも変わっていなかった。
以前なら、その空気を少しでも和らげようと、朔はくだらない話をしたり、どちらかの機嫌を取ったりしていた。
けれど、もう疲れてしまった。
何を言っても、何をしても、根本的なことは変わらない。
それでも、誰かが困っていたら手を伸ばす。
手を伸ばさなかったことで、取り返しのつかないことになったと思っているから。
あのとき、もっと真剣に聞いていれば。
あのとき、もう少しだけ踏み込んでいれば。
あのとき、面倒くさがらずに向き合っていれば。
何かが変わったかもしれない。
答えなんて、どこにもない。
それでも、朔はその問いを手放せなかった。
「……っ」
視界が揺れた。
慌てて机に手をつく。
頭が痛い。
昨日から、まともに眠れていない。食事だって、朝からほとんど喉を通っていなかった。
それでも、あと少し。
あと少しだけやれば、終わる。
そう自分に言い聞かせて、朔は再びペンを握った。
*
「七瀬、まだ残ってたの?」
声をかけられ、朔は顔を上げた。
文化祭の準備を担当しているクラスメイトだった。
「うん。確認がまだ終わってなくて」
「え、そこまでやってくれてんの? もう十分だよ。ありがとな」
「いや、俺がやるって言ったし」
「でも、無理しなくていいからな。残りは明日、みんなでやるよ」
クラスメイトはそう言って、机の上のプリントをまとめ始めた。
朔は思わず、その手を止めた。
「……大丈夫。俺がやるから」
「いや、だから」
「今日中に終わらせたいんだ」
自分でも、少し必死な声だと思った。
クラスメイトは困ったように眉を下げる。
「七瀬、最近ちょっと頑張りすぎじゃない?」
「そんなことないよ」
「でもさ――」
「いいから。俺にやらせて」
教室が静かになった。
朔は、自分の手が震えていることに気づいた。
相手を困らせている。
わかっているのに、止められなかった。
誰かの役に立っていなければ。
何かをしていなければ。
自分には、ここにいる理由がないような気がした。
「……ごめん。ちょっと、言い方きつかった」
朔は笑った。
「俺がやりたいだけだから。気にしないで」
クラスメイトはしばらく朔を見ていたが、やがて小さく頷いた。
「……わかった。でも、無理だと思ったらちゃんと言えよ」
「うん。ありがと」
相手が教室を出ていく。
朔は、また一人になった。
無理だと思ったら。
ちゃんと言え。
簡単に言ってくれる。
無理だなんて言ったら、今まで自分がしてきたことが、全部無意味になってしまう気がした。
助けられなかった人がいる。
あの人は、もういない。
なのに自分だけが、何事もなかったように休んで、笑って、誰かに甘えていいはずがない。
そう思わなければ、立っていられなかった。
*
作業を終えた頃には、窓の外が暗くなっていた。
朔は鞄を持ち、ゆっくりと廊下に出た。
誰もいない。
静かな校舎を歩いていると、急に足元が頼りなくなった。
壁に手をつく。
少し休めば大丈夫。
いつものことだ。
そう思って、顔を上げる。
廊下の向こうに、人影があった。
律だった。
友人と話しながら歩いていた律は、朔に気づくと一瞬だけ足を止めた。
目が合う。
昨日と同じように、何かを言いたそうな顔だった。
朔は、何も言えなかった。
謝りたかった。
昨日はごめん、と。
心配してくれて、ありがとう、と。
できることなら、前みたいに話したい、と。
けれど、どれも口に出せなかった。
律はわずかに唇を開き、それから何も言わずに視線を戻した。
隣の友人に何かを話しかけ、再び歩き出す。
その背中が、遠ざかっていく。
朔はその場に立ち尽くした。
自分が望んだことだ。
律を突き放したのは、自分だ。
なのに、どうして。
「……律」
声にはならなかった。
誰にも聞こえない、小さな呼び声。
伸ばしかけた手を、朔はゆっくりと下ろした。
追いかけてはいけない。
謝ってはいけない。
優しくされたいなんて、思ってはいけない。
自分には、そんな資格はない。
嫌われてもいい。
そう思っていた。
誰かを救えなかった自分が、誰かに救われるなんて、許されない。
だから、これでいい。
律が自分から離れていくなら、それでいいのだ。
そのほうが、きっと。
――そのほうが、律は傷つかずに済む。
朔はゆっくりと歩き出した。
その足取りは、いつもよりずっと重かった。
*
帰宅した朔は、夕食をほとんど食べられなかった。
母親に「体調悪いの?」と尋ねられたが、「ちょっと疲れただけ」と答えた。
それ以上、何も聞かれなかった。
自室に戻り、鞄を床に置く。
制服のままベッドに腰を下ろすと、急に何もする気が起きなくなった。
スマートフォンを取り出す。
律とのトーク画面を開く。
最後のやり取りは、昨日のままだった。
自分が送った言葉に、律が返した言葉。
その先は、何もない。
朔は文字入力欄をタップした。
『昨日はごめん』
今度は、消さなかった。
続けて打つ。
『心配してくれてありがとう』
そこで、指が止まった。
画面を見つめる。
たったそれだけの言葉なのに、送信するのが怖かった。
もし、もう面倒だと思われていたら。
もし、今さら何だよと思われたら。
もし、律が本当に自分を見限っていたら。
そんなことばかり考えてしまう。
朔は結局、また文字を消した。
「……何やってんだ、俺」
乾いた笑いが漏れた。
自分から離れようとしておいて、離れられるのは嫌だなんて。
本当に、どうしようもない。
スマートフォンを枕元に置き、ベッドに横になる。
目を閉じても、眠気は来なかった。
頭の中に浮かぶのは、昔の友人の顔だった。
あの日、もっと何かできたはずだ。
あの日、ちゃんと向き合えていれば。
そんな後悔を繰り返すたびに、朔は自分に言い聞かせる。
次は、絶対に見逃さない。
次は、絶対に間違えない。
たとえ自分がどれだけ苦しくても。
たとえ誰かに嫌われても。
今度こそ、誰かを救える人間になる。
そのためなら、自分がどうなったって構わない。
そう思っていた。
けれど、本当は。
ほんの少しでいいから、誰かに気づいてほしかった。
大丈夫じゃないときに、大丈夫じゃないと言えない自分に。
助けてほしいと願うことさえ、自分に許せない自分に。
誰か。
誰でもいいから。
――いや。
誰でもいいわけじゃなかった。
頭に浮かんだのは、いつだって同じ顔だった。
藤崎律。
その名前を思い浮かべた瞬間、朔の目から一筋の涙がこぼれた。
慌てて腕で拭う。
「……嫌われても、いいんだ」
自分に言い聞かせるように、呟いた。
嫌われてもいい。
嫌われたって、構わない。
律が自分のことで苦しむくらいなら。
自分を助けようとして、傷つくくらいなら。
嫌われるほうが、ずっといい。
そうやって何度も繰り返して、朔は自分の本当の気持ちを押し込めた。
その言葉が、いつか自分自身を追い詰めることになるとも知らずに。