嫌われ果てても   作:M1tarash1

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05.あの日のこと

 その箱を開けたのは、何か月ぶりだっただろう。

 

 机の引き出しを整理していたとき、奥に押し込まれていた小さな箱が目に入った。

 

 薄い青色の箱だった。

 

 角は少し潰れ、蓋の端には細かな傷がついている。何の変哲もない、どこにでもある箱。けれど、朔はそれを見つめたまま、しばらく動けなかった。

 

 忘れたかった。

 

 できることなら、最初から何もなかったことにしてしまいたかった。

 

 でも、忘れられなかった。

 

 箱の中には、古い写真と、何枚かのメモ、それから小さなキーホルダーが入っていた。

 

 写真の中では、二人の少年が並んで笑っている。

 

 片方は、まだ今よりずっと幼い頃の七瀬朔。

 

 もう片方は――。

 

「……悠人」

 

 名前を口にした途端、胸の奥がひどく痛んだ。

 

 久しぶりに声に出した名前だった。

 

 忘れたことなんて、一度もない。

 

 忘れようとしたことなら、何度もあった。

 

 けれど、忘れてしまったら、本当に何もかも終わってしまう気がした。

 

 朔は写真を手に取った。

 

 悠人は、よく笑うやつだった。

 

 くだらないことで笑って、つまらないことで落ち込んで、時々どうしようもなく面倒くさいことを言い出す。

 

 それでも、朔にとっては大切な友人だった。

 

 律と過ごす時間とはまた違う、長い付き合いの中でできた居場所。

 

 少なくとも、あの頃の朔はそう思っていた。

 

     *

 

 悠人の様子がおかしくなったのは、亡くなる少し前からだった。

 

 最初は、ほんの小さな変化だった。

 

 以前なら真っ先に話しかけてきたのに、休み時間になっても机に伏せていることが増えた。

 

 メッセージの返信も遅くなった。

 

 笑っていても、どこか無理をしているように見えることがあった。

 

 それでも、朔は深く考えなかった。

 

 誰だって、疲れることくらいある。

 

 学校が面倒な日もあるし、誰とも話したくない日だってある。

 

 だから、少し休めば元に戻る。

 

 そう思っていた。

 

 ある日の放課後、二人はいつものように帰り道を歩いていた。

 

 空は曇っていて、今にも雨が降りそうだった。

 

「なあ、朔」

 

「ん?」

 

「最近、ちょっと疲れたわ」

 

 悠人は前を向いたまま言った。

 

 声はいつもより小さかった。

 

 朔は隣を歩きながら、適当に相槌を打った。

 

「へえ。寝不足?」

 

「……まあ、そんな感じ」

 

「夜更かしすんなよ。授業中寝てんじゃん」

 

「はは。お前に言われたくねえ」

 

 悠人が笑った。

 

 朔も笑った。

 

 それで話は終わった。

 

 少なくとも、朔はそう思った。

 

 その数日後。

 

 悠人は、ぽつりと言った。

 

「もう全部、どうでもいいかも」

 

 放課後の教室だった。

 

 窓際の席に座った悠人は、夕焼けを眺めながら、独り言みたいにそう呟いた。

 

 朔は鞄に教科書をしまいながら、顔を上げた。

 

「何だよ、それ。大げさだな」

 

 いつもの調子で返した。

 

「何か嫌なことでもあった?」

 

「……別に」

 

「じゃあ、気にすんなって。明日になれば何とかなるだろ」

 

 悠人は何も答えなかった。

 

 沈黙が落ちた。

 

 今思えば、あのとき、どうしてもう一度聞かなかったのだろう。

 

 何があったのか。

 

 本当はどうしたいのか。

 

 大丈夫なのか、と。

 

 どうして、あんなにも簡単に話を終わらせてしまったのだろう。

 

 けれど、その日の朔は、悠人が何を考えているのかなんてわからなかった。

 

 いや。

 

 わかろうとしなかったのかもしれない。

 

 いつもの悠人なら、次の日には笑っていると思った。

 

 今までもそうだったから。

 

 少し落ち込んでも、時間が経てば元気になっていたから。

 

 だから、今回だってきっと大丈夫。

 

 そう信じたかった。

 

 何も変わらない明日が来ると、疑いもしなかった。

 

     *

 

 悠人から最後に連絡が来たのは、その数日後だった。

 

『今、少し話せる?』

 

 スマートフォンに表示されたメッセージを、朔は覚えている。

 

 そのとき、朔は別の友人から頼まれたことを片づけていた。

 

 すぐに返事をするつもりだった。

 

 あとで。

 

 これが終わったら。

 

 少ししたら、ちゃんと返そう。

 

 そう思って、画面を閉じた。

 

 結局、返信したのは夜になってからだった。

 

『ごめん、気づかなかった。どうした?』

 

 既読はつかなかった。

 

 次の日も、その次の日も。

 

 朔は何度か連絡を送った。

 

 返事はなかった。

 

 少し心配になったけれど、何か事情があるのだろうと思った。

 

 学校で会ったら聞けばいい。

 

 そう考えていた。

 

 その日が来ることは、なかった。

 

     *

 

 知らせを受けたのは、雨の降る朝だった。

 

 いつものように学校へ行く準備をしていた朔のもとに、一本の電話がかかってきた。

 

 悠人の家族からだった。

 

 最初、何を言われているのかわからなかった。

 

 言葉は耳に入ってくるのに、意味が頭に届かない。

 

 何かの間違いだと思った。

 

 昨日まで、いや、数日前まで、悠人はそこにいた。

 

 メッセージの返事はなかったけれど、きっと何か事情があっただけだ。

 

 そうでなければ、おかしい。

 

 だって。

 

 だって、あいつは。

 

 ――明日になれば何とかなるだろ。

 

 自分がそう言ったのだ。

 

 明日になれば。

 

 何とかなる。

 

 そう言ったのに。

 

 どうして。

 

 どうして、明日が来なかったのだろう。

 

 その日のことを、朔は細かく覚えていない。

 

 誰に何を言われたのかも、学校へ行ったのかどうかも、はっきりとは思い出せなかった。

 

 ただ、雨の音だけは覚えている。

 

 絶え間なく降り続く雨。

 

 濡れた道路。

 

 傘を差しているのに、なぜか冷たかった指先。

 

 そして、何度も何度も頭の中で繰り返した言葉。

 

 ――大げさだな。

 

 あのときの自分の声が、耳から離れなかった。

 

     *

 

 悠人が亡くなる前、朔に残した言葉があった。

 

 直接会って話した最後の日。

 

 悠人はいつもより静かだった。

 

 帰り際、何か言いたそうに朔を見ていた。

 

「……朔」

 

「ん?」

 

「お前は悪くないから」

 

 唐突な言葉だった。

 

 朔は意味がわからず、笑った。

 

「何だよ、急に」

 

「いや。何となく」

 

「変なやつ」

 

 それが、最後だった。

 

 その言葉の意味を、朔はずっと考えていた。

 

 どうして、あんなことを言ったのか。

 

 どうして、自分は何も聞かなかったのか。

 

 悠人は何かを伝えようとしていたのではないか。

 

 助けを求めていたのではないか。

 

 自分にしか言えないことがあったのではないか。

 

 それなのに。

 

 自分は、何も気づかなかった。

 

 気づこうとしなかった。

 

 悠人は「お前は悪くない」と言った。

 

 けれど、その言葉があるからこそ、朔は自分を許せなくなった。

 

 本当に悪くないのなら、どうしてあのとき、もっと真剣に向き合わなかったのだろう。

 

 本当に悪くないのなら、どうして今も、こんなに苦しいのだろう。

 

 悠人が責めなかったからこそ、朔は自分で自分を責め続けた。

 

 誰かに許してもらうこともできない。

 

 誰かに罰してもらうこともできない。

 

 だったら、自分で償うしかない。

 

 そう考えるようになった。

 

 誰かが困っていたら、手を差し伸べる。

 

 誰かが助けを求めたら、どんなに忙しくても応える。

 

 自分が疲れていても、苦しくても、後回しにする。

 

 あのとき、悠人の言葉を聞き流した自分とは違う人間になるために。

 

 もう二度と、誰かの苦しみに気づかない人間にならないために。

 

 そうすれば、いつか。

 

 いつか、自分を許せる日が来るのかもしれない。

 

 そう思っていた。

 

 けれど、何人の手を取っても、何度誰かを助けても。

 

 あの日のことは、少しも消えなかった。

 

     *

 

 気づけば、朔は床に座り込んでいた。

 

 手の中には、悠人と撮った写真がある。

 

 写真の中の二人は、何も知らずに笑っていた。

 

 この先に何が起きるのかも。

 

 何を失うのかも。

 

 知らないまま、ただ笑っていた。

 

「……ごめん」

 

 朔は写真に向かって呟いた。

 

「ごめん、悠人」

 

 何度謝っても、返事はない。

 

 当然だった。

 

 返事をしてくれる人は、もういない。

 

 朔は写真を胸元に押し当てた。

 

 喉の奥が詰まって、うまく息ができなかった。

 

 泣いてはいけないと思った。

 

 自分が泣くのは、おかしい気がした。

 

 あのとき、何もできなかった自分が。

 

 悠人の言葉を聞き流した自分が。

 

 今さら悲しむ資格なんて、あるのだろうか。

 

 それでも、涙は止まらなかった。

 

 あの日から、ずっと。

 

 誰かを助けるたびに、悠人の顔が浮かんだ。

 

 誰かに頼られるたびに、今度こそ応えなければと思った。

 

 誰かが「大丈夫」と笑うたびに、本当にそうなのかと考えるようになった。

 

 それでも、自分自身が苦しいときには、何も言えなかった。

 

 自分が助けを求めることは、あの日の自分を許すことと同じような気がしたから。

 

 そんなこと、できるはずがなかった。

 

「……俺は、悪くないなんて」

 

 声が震えた。

 

「そんなわけ、ないだろ……」

 

 悠人は、最後まで朔を責めなかった。

 

 だからこそ、朔は今も、自分を責めている。

 

 誰かに嫌われてもいい。

 

 誰かに迷惑だと思われてもいい。

 

 それでも、誰かを助けられるのなら。

 

 自分がどれだけ傷ついても、今度こそ、見捨てずにいられるのなら。

 

 そうやって生きていくしかないと思っていた。

 

 箱の中には、まだいくつかの思い出が残っていた。

 

 けれど朔は、写真を一枚だけ戻すと、蓋を閉めた。

 

 箱を元の場所にしまう。

 

 涙を拭い、立ち上がる。

 

 明日も学校がある。

 

 やるべきことがある。

 

 誰かが自分を必要としてくれるなら、応えなければならない。

 

 そうしなければ、きっとまた、同じことを繰り返してしまう。

 

 朔は机の上のスマートフォンを手に取った。

 

 律とのトーク画面には、何も届いていなかった。

 

 それを確認して、少しだけ目を伏せる。

 

 謝りたい。

 

 話したい。

 

 できることなら、今まで通りに笑っていたい。

 

 けれど、もし律に自分の過去を知られたら。

 

 もし、あのとき何もできなかった自分のことを知ったら。

 

 律は、どんな顔をするだろう。

 

 失望するかもしれない。

 

 呆れるかもしれない。

 

 それなら、知られないほうがいい。

 

 嫌われたっていい。

 

 もう誰も、自分のことで傷つかなくていい。

 

 朔はスマートフォンを伏せた。

 

 部屋の中は静かだった。

 

 箱の中にしまわれた写真も、何も言わない。

 

 ただ、あの日から止まったままの時間だけが、朔の中に残っていた。

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