その箱を開けたのは、何か月ぶりだっただろう。
机の引き出しを整理していたとき、奥に押し込まれていた小さな箱が目に入った。
薄い青色の箱だった。
角は少し潰れ、蓋の端には細かな傷がついている。何の変哲もない、どこにでもある箱。けれど、朔はそれを見つめたまま、しばらく動けなかった。
忘れたかった。
できることなら、最初から何もなかったことにしてしまいたかった。
でも、忘れられなかった。
箱の中には、古い写真と、何枚かのメモ、それから小さなキーホルダーが入っていた。
写真の中では、二人の少年が並んで笑っている。
片方は、まだ今よりずっと幼い頃の七瀬朔。
もう片方は――。
「……悠人」
名前を口にした途端、胸の奥がひどく痛んだ。
久しぶりに声に出した名前だった。
忘れたことなんて、一度もない。
忘れようとしたことなら、何度もあった。
けれど、忘れてしまったら、本当に何もかも終わってしまう気がした。
朔は写真を手に取った。
悠人は、よく笑うやつだった。
くだらないことで笑って、つまらないことで落ち込んで、時々どうしようもなく面倒くさいことを言い出す。
それでも、朔にとっては大切な友人だった。
律と過ごす時間とはまた違う、長い付き合いの中でできた居場所。
少なくとも、あの頃の朔はそう思っていた。
*
悠人の様子がおかしくなったのは、亡くなる少し前からだった。
最初は、ほんの小さな変化だった。
以前なら真っ先に話しかけてきたのに、休み時間になっても机に伏せていることが増えた。
メッセージの返信も遅くなった。
笑っていても、どこか無理をしているように見えることがあった。
それでも、朔は深く考えなかった。
誰だって、疲れることくらいある。
学校が面倒な日もあるし、誰とも話したくない日だってある。
だから、少し休めば元に戻る。
そう思っていた。
ある日の放課後、二人はいつものように帰り道を歩いていた。
空は曇っていて、今にも雨が降りそうだった。
「なあ、朔」
「ん?」
「最近、ちょっと疲れたわ」
悠人は前を向いたまま言った。
声はいつもより小さかった。
朔は隣を歩きながら、適当に相槌を打った。
「へえ。寝不足?」
「……まあ、そんな感じ」
「夜更かしすんなよ。授業中寝てんじゃん」
「はは。お前に言われたくねえ」
悠人が笑った。
朔も笑った。
それで話は終わった。
少なくとも、朔はそう思った。
その数日後。
悠人は、ぽつりと言った。
「もう全部、どうでもいいかも」
放課後の教室だった。
窓際の席に座った悠人は、夕焼けを眺めながら、独り言みたいにそう呟いた。
朔は鞄に教科書をしまいながら、顔を上げた。
「何だよ、それ。大げさだな」
いつもの調子で返した。
「何か嫌なことでもあった?」
「……別に」
「じゃあ、気にすんなって。明日になれば何とかなるだろ」
悠人は何も答えなかった。
沈黙が落ちた。
今思えば、あのとき、どうしてもう一度聞かなかったのだろう。
何があったのか。
本当はどうしたいのか。
大丈夫なのか、と。
どうして、あんなにも簡単に話を終わらせてしまったのだろう。
けれど、その日の朔は、悠人が何を考えているのかなんてわからなかった。
いや。
わかろうとしなかったのかもしれない。
いつもの悠人なら、次の日には笑っていると思った。
今までもそうだったから。
少し落ち込んでも、時間が経てば元気になっていたから。
だから、今回だってきっと大丈夫。
そう信じたかった。
何も変わらない明日が来ると、疑いもしなかった。
*
悠人から最後に連絡が来たのは、その数日後だった。
『今、少し話せる?』
スマートフォンに表示されたメッセージを、朔は覚えている。
そのとき、朔は別の友人から頼まれたことを片づけていた。
すぐに返事をするつもりだった。
あとで。
これが終わったら。
少ししたら、ちゃんと返そう。
そう思って、画面を閉じた。
結局、返信したのは夜になってからだった。
『ごめん、気づかなかった。どうした?』
既読はつかなかった。
次の日も、その次の日も。
朔は何度か連絡を送った。
返事はなかった。
少し心配になったけれど、何か事情があるのだろうと思った。
学校で会ったら聞けばいい。
そう考えていた。
その日が来ることは、なかった。
*
知らせを受けたのは、雨の降る朝だった。
いつものように学校へ行く準備をしていた朔のもとに、一本の電話がかかってきた。
悠人の家族からだった。
最初、何を言われているのかわからなかった。
言葉は耳に入ってくるのに、意味が頭に届かない。
何かの間違いだと思った。
昨日まで、いや、数日前まで、悠人はそこにいた。
メッセージの返事はなかったけれど、きっと何か事情があっただけだ。
そうでなければ、おかしい。
だって。
だって、あいつは。
――明日になれば何とかなるだろ。
自分がそう言ったのだ。
明日になれば。
何とかなる。
そう言ったのに。
どうして。
どうして、明日が来なかったのだろう。
その日のことを、朔は細かく覚えていない。
誰に何を言われたのかも、学校へ行ったのかどうかも、はっきりとは思い出せなかった。
ただ、雨の音だけは覚えている。
絶え間なく降り続く雨。
濡れた道路。
傘を差しているのに、なぜか冷たかった指先。
そして、何度も何度も頭の中で繰り返した言葉。
――大げさだな。
あのときの自分の声が、耳から離れなかった。
*
悠人が亡くなる前、朔に残した言葉があった。
直接会って話した最後の日。
悠人はいつもより静かだった。
帰り際、何か言いたそうに朔を見ていた。
「……朔」
「ん?」
「お前は悪くないから」
唐突な言葉だった。
朔は意味がわからず、笑った。
「何だよ、急に」
「いや。何となく」
「変なやつ」
それが、最後だった。
その言葉の意味を、朔はずっと考えていた。
どうして、あんなことを言ったのか。
どうして、自分は何も聞かなかったのか。
悠人は何かを伝えようとしていたのではないか。
助けを求めていたのではないか。
自分にしか言えないことがあったのではないか。
それなのに。
自分は、何も気づかなかった。
気づこうとしなかった。
悠人は「お前は悪くない」と言った。
けれど、その言葉があるからこそ、朔は自分を許せなくなった。
本当に悪くないのなら、どうしてあのとき、もっと真剣に向き合わなかったのだろう。
本当に悪くないのなら、どうして今も、こんなに苦しいのだろう。
悠人が責めなかったからこそ、朔は自分で自分を責め続けた。
誰かに許してもらうこともできない。
誰かに罰してもらうこともできない。
だったら、自分で償うしかない。
そう考えるようになった。
誰かが困っていたら、手を差し伸べる。
誰かが助けを求めたら、どんなに忙しくても応える。
自分が疲れていても、苦しくても、後回しにする。
あのとき、悠人の言葉を聞き流した自分とは違う人間になるために。
もう二度と、誰かの苦しみに気づかない人間にならないために。
そうすれば、いつか。
いつか、自分を許せる日が来るのかもしれない。
そう思っていた。
けれど、何人の手を取っても、何度誰かを助けても。
あの日のことは、少しも消えなかった。
*
気づけば、朔は床に座り込んでいた。
手の中には、悠人と撮った写真がある。
写真の中の二人は、何も知らずに笑っていた。
この先に何が起きるのかも。
何を失うのかも。
知らないまま、ただ笑っていた。
「……ごめん」
朔は写真に向かって呟いた。
「ごめん、悠人」
何度謝っても、返事はない。
当然だった。
返事をしてくれる人は、もういない。
朔は写真を胸元に押し当てた。
喉の奥が詰まって、うまく息ができなかった。
泣いてはいけないと思った。
自分が泣くのは、おかしい気がした。
あのとき、何もできなかった自分が。
悠人の言葉を聞き流した自分が。
今さら悲しむ資格なんて、あるのだろうか。
それでも、涙は止まらなかった。
あの日から、ずっと。
誰かを助けるたびに、悠人の顔が浮かんだ。
誰かに頼られるたびに、今度こそ応えなければと思った。
誰かが「大丈夫」と笑うたびに、本当にそうなのかと考えるようになった。
それでも、自分自身が苦しいときには、何も言えなかった。
自分が助けを求めることは、あの日の自分を許すことと同じような気がしたから。
そんなこと、できるはずがなかった。
「……俺は、悪くないなんて」
声が震えた。
「そんなわけ、ないだろ……」
悠人は、最後まで朔を責めなかった。
だからこそ、朔は今も、自分を責めている。
誰かに嫌われてもいい。
誰かに迷惑だと思われてもいい。
それでも、誰かを助けられるのなら。
自分がどれだけ傷ついても、今度こそ、見捨てずにいられるのなら。
そうやって生きていくしかないと思っていた。
箱の中には、まだいくつかの思い出が残っていた。
けれど朔は、写真を一枚だけ戻すと、蓋を閉めた。
箱を元の場所にしまう。
涙を拭い、立ち上がる。
明日も学校がある。
やるべきことがある。
誰かが自分を必要としてくれるなら、応えなければならない。
そうしなければ、きっとまた、同じことを繰り返してしまう。
朔は机の上のスマートフォンを手に取った。
律とのトーク画面には、何も届いていなかった。
それを確認して、少しだけ目を伏せる。
謝りたい。
話したい。
できることなら、今まで通りに笑っていたい。
けれど、もし律に自分の過去を知られたら。
もし、あのとき何もできなかった自分のことを知ったら。
律は、どんな顔をするだろう。
失望するかもしれない。
呆れるかもしれない。
それなら、知られないほうがいい。
嫌われたっていい。
もう誰も、自分のことで傷つかなくていい。
朔はスマートフォンを伏せた。
部屋の中は静かだった。
箱の中にしまわれた写真も、何も言わない。
ただ、あの日から止まったままの時間だけが、朔の中に残っていた。