朝、目が覚めたとき、七瀬朔は自分がどれくらい眠ったのかわからなかった。
カーテンの隙間から光が差し込んでいる。
スマートフォンを確認すると、いつも家を出る時間を少し過ぎていた。
「……やば」
慌てて起き上がる。
頭が重い。身体もだるい。けれど、遅刻するわけにはいかなかった。
顔を洗い、制服に着替え、鞄をつかむ。
鏡の中の自分は、ひどい顔をしていた。
目の下には薄く隈ができているし、唇の色も悪い。
少し迷ってから、朔は鏡に向かって笑ってみせた。
大丈夫。
これくらい、何でもない。
いつも通りにしていれば、誰も気づかない。
そう自分に言い聞かせて、家を出た。
*
教室に入ると、律がいた。
友人たちと話していた律は、朔の姿を見つけると、ほんの一瞬だけこちらを見た。
目が合う。
朔は反射的に笑いかけそうになって、やめた。
律も、何も言わなかった。
それだけだった。
けれど、その何もなさが、朔には妙にこたえた。
席に着き、教科書を取り出す。
今日は話しかけない。
自分からも話しかけない。
そう決めていたはずなのに、律の声が聞こえるたびに意識がそちらへ向いてしまう。
いつもと同じように笑っている。
いつもと同じように、くだらない話をしている。
自分がいなくても、律の日常は変わらない。
当たり前のことだ。
わかっている。
それなのに、胸の奥がじくじくと痛んだ。
「七瀬、これ先生に出しといてくれる?」
隣の席からプリントを差し出され、朔は顔を上げた。
「うん、いいよ」
受け取って、笑う。
その瞬間、視界がわずかに揺れた。
机に手をつき、何でもないふりをする。
「……七瀬?」
「ん?」
「顔色悪くない?」
「そう? 寝不足かも」
「大丈夫?」
「大丈夫だよ」
いつもの答え。
相手は少し心配そうにしていたが、朔が笑うと、それ以上は聞いてこなかった。
そのやり取りを、律が見ていたことには気づかなかった。
*
昼休み、朔は一人で廊下を歩いていた。
教室にいると、律の声が気になってしまう。
だから、少しだけ外の空気を吸おうと思った。
窓のそばに立ち、目を閉じる。
風が頬を撫でた。
少し休めば、きっと楽になる。
そう思っていたのに、頭の重さは消えなかった。
昨日の夜、悠人の写真を見てから、ほとんど眠れていない。
目を閉じれば、あの日のことが浮かぶ。
悠人の声。
あのときの自分の返事。
最後に届いたメッセージ。
何度思い返しても、過去は変わらない。
わかっているのに、考えるのをやめられなかった。
「……何やってんだろ、俺」
小さく呟いた。
そのとき、背後から足音が聞こえた。
「朔」
振り返らなくても、誰だかわかった。
律だった。
「……何?」
「いや、教室にいないから」
「ちょっと外の空気吸ってただけ」
「そっか」
短い沈黙が落ちる。
律は隣に立ったが、何も聞いてこなかった。
以前なら、きっと何か言っていた。
何かあったのかとか、ちゃんと寝てるのかとか。
けれど今は、何も言わない。
それが律なりの気遣いなのだと、朔にもわかっていた。
わかっているからこそ、苦しかった。
「……律」
気づけば、名前を呼んでいた。
「ん?」
律がこちらを見る。
朔は口を開いた。
何かを言おうとした。
ごめん、と。
この前は、本当にごめん、と。
心配してくれて、嬉しかったんだ、と。
でも。
「……何でもない」
結局、そう言ってしまった。
律の表情が、ほんの少しだけ曇った。
「……そっか」
律はそれ以上、何も聞かなかった。
そのまま二人で窓の外を眺めていた。
チャイムが鳴るまで、あと数分。
朔は隣に立つ律の存在を、ひどく近く感じていた。
手を伸ばせば届く距離。
それなのに、何も言えない。
たった一言が、どうしてこんなにも難しいのだろう。
*
午後の授業が始まってしばらくした頃、朔はノートを取る手を止めた。
文字が頭に入ってこない。
先生の声が遠く聞こえる。
何度も瞬きをして、ノートに目を落とす。
あと少し。
授業が終わるまで、あと少しだけ。
そう思っていた。
けれど、立ち上がろうとした瞬間、身体がふらついた。
「おっと」
隣の席の生徒が、慌てて腕を支えてくれた。
「大丈夫か?」
「……ごめん。ちょっと立ちくらみ」
「いや、ちょっとどころじゃないだろ。保健室行けよ」
「平気。座ってれば治るから」
「でも――」
「本当に大丈夫だから」
自分でも驚くほど強い口調になった。
相手が口を閉じる。
朔はすぐに表情を取り繕った。
「……ごめん。心配してくれてありがと」
そう言って座り直す。
机の下で、指先をぎゅっと握りしめた。
大丈夫。
大丈夫だ。
これくらいで休んでいたら、何もできなくなってしまう。
そう思っていた。
けれど、斜め前の席に座る律が、こちらを見ていることに気づいた。
目が合う。
律は何か言いたそうにしていた。
朔は、首を横に振った。
来ないで。
そう伝えるつもりだった。
律はしばらく朔を見つめていたが、やがて視線を戻した。
それを見て、朔は胸を撫で下ろした。
同時に、ひどく寂しくなった。
*
放課後。
朔は、いつものように頼まれごとを引き受けていた。
提出物の確認。文化祭の備品の整理。別のクラスの友人から頼まれたプリントの受け渡し。
一つひとつは、大したことではない。
少しずつ片づければ、何とかなる。
そう思っていた。
けれど、職員室へプリントを届けるために廊下を歩いていたとき、足が止まった。
急に、息が苦しくなった。
胸のあたりが詰まったような感覚。
うまく息を吸えない。
「……っ、は……」
壁に手をつく。
落ち着け。
大丈夫。
少し休めば。
いつもみたいに笑っていれば。
誰にも迷惑をかけずに、何事もなかったように戻れる。
そう考えようとしたのに、頭の中に浮かんだのは、悠人の顔だった。
――最近、ちょっと疲れたわ。
――もう全部、どうでもいいかも。
――お前は悪くないから。
「……やめろよ」
誰に向けた言葉なのか、自分でもわからなかった。
悠人に。
過去の自分に。
それとも、何度も同じことを思い出してしまう自分自身に。
目の奥が熱くなる。
泣くな。
こんなところで。
誰かに見られたら、心配される。
心配されて、何かを聞かれて、答えられなくて。
また、誰かを困らせてしまう。
朔は唇を噛み、どうにか顔を上げた。
「……七瀬?」
聞き慣れた声がした。
振り向くと、律が立っていた。
その顔から、いつもの明るさが消えていた。
「……何してんの」
「別に。プリント届けに行くところ」
「それ、今じゃなきゃ駄目なのか?」
「……は?」
「顔、真っ青だぞ」
「大丈夫だって」
「大丈夫じゃないだろ」
「だから、大丈夫だって言ってるじゃん!」
声が廊下に響いた。
朔自身、何をそんなに怒っているのかわからなかった。
ただ、律の目が怖かった。
何もかも見透かされてしまいそうで。
今まで必死に隠してきたものが、全部ばれてしまいそうで。
「……もういいだろ。俺のことは放っといてよ」
律は黙っていた。
怒鳴り返してくると思った。
また喧嘩になると思った。
けれど律は、静かに息を吐いた。
「……わかった」
その声は、ひどく疲れていた。
「今は、無理に聞かない」
朔は顔を上げた。
「でも、保健室には行け。せめて先生に体調悪いって言えよ」
「……」
「それくらいは、聞いてくれ」
律はそう言って、朔の手からプリントを取った。
「これ、俺が届けるから」
「いい、自分で――」
「今は無理だろ」
強い口調だった。
けれど、怒っているというより、必死に何かをこらえているように見えた。
「……頼むから」
律が、小さく呟いた。
「これ以上、無理してるとこ見せないでくれよ」
朔は言葉を失った。
律はすぐに視線を逸らした。
「……悪い。今のは忘れて」
そう言って、プリントを持ったまま歩き出す。
朔は、その背中を見つめていた。
これ以上、無理してるとこ見せないでくれ。
その言葉が、胸の中で何度も繰り返される。
律は、自分のことを心配してくれている。
わかっている。
わかっているのに。
どうして、そんな顔をするんだ。
どうして、そんなに苦しそうなんだ。
どうして、自分のことで、そんな思いをさせてしまうんだ。
朔は壁に手をついたまま、俯いた。
「……ごめん」
誰もいない廊下に、小さな声が落ちた。
*
保健室で少し休み、先生に今日は早く帰るよう言われた。
朔は言われた通り、寄り道をせずに帰宅した。
部屋に入って、鞄を床に置く。
ベッドに座り込むと、急に身体から力が抜けた。
今日は、何もできなかった。
いつもなら、もっとできるはずだった。
頼まれたことを全部終わらせて、誰かの役に立って、家に帰って、また明日の準備をする。
そうやって、毎日を過ごしてきた。
なのに、今日は途中で止まってしまった。
自分の身体一つ、まともに動かせない。
こんなことでは、誰も助けられない。
「……俺、何やってんだろ」
呟いた声は、ひどく掠れていた。
スマートフォンが震えた。
画面を見る。
律からだった。
『家着いた?』
たった一言。
それだけのメッセージだった。
朔は画面を見つめた。
返事をするべきだ。
心配してくれてありがとう、と。
さっきはごめん、と。
もう少しだけ、話したい、と。
けれど、指が動かなかった。
しばらくして、もう一度スマートフォンが震えた。
『返事できるときでいいから』
その文を見た瞬間、朔の視界が滲んだ。
急かしていない。
責めてもいない。
返事ができるときでいい、と。
律は、待ってくれている。
朔が何も言えなくても。
何も説明できなくても。
それでも、完全に離れてしまおうとはしていない。
「……なんで」
声が震えた。
「なんで、そんなに優しいんだよ……」
優しくしないでほしかった。
これ以上、好き勝手に心配しないでほしかった。
そうすれば、もっと簡単に離れられたのに。
律が自分を嫌いになってくれたら、諦められたのに。
なのに、律はそうしてくれない。
朔は両手で顔を覆った。
涙が、指の隙間からこぼれた。
誰にも見られない部屋の中で、声を押し殺す。
苦しかった。
ずっと、苦しかった。
誰かを助けたいと思うたびに、悠人のことを思い出した。
誰かに頼られるたびに、断ることが怖くなった。
休んでいると、何もしていない自分が許せなくなった。
笑っていると、悠人がもう笑えないことを思い出した。
自分だけが普通に生きていることが、申し訳なかった。
だから、もっと頑張らなければいけないと思った。
もっと誰かを助けなければ。
もっと役に立たなければ。
そうすれば、いつか。
いつか、自分も許されるのかもしれない。
けれど、何をしても、何人を助けても。
悠人は戻ってこない。
あの日は、変わらない。
自分が何をしたって、取り返しのつかないことは、取り返しがつかないままだった。
「……っ、う……」
息を吸うたび、喉が震えた。
本当は、苦しかった。
誰かに気づいてほしかった。
もう頑張らなくていいと言ってほしかった。
それでも、そんなことを願う自分が許せなかった。
朔は涙を拭い、スマートフォンを手に取った。
律とのトーク画面を開く。
文字を打つ。
『心配かけてごめん』
少し迷って、続けた。
『今日はもう寝る。ありがと』
送信。
すぐに返事が来た。
『おう。ちゃんと休めよ』
そのあと、もう一件。
『明日、話せそうだったら話そう』
朔は画面を見つめた。
話せそうだったら。
無理にとは言わない。
でも、話せるなら聞きたい。
律は、そう言っているのだ。
朔は返信欄に指を置いた。
そして、ゆっくりと文字を打った。
『……うん』
たった二文字。
それだけ送るのに、ずいぶん時間がかかった。
それでも、送れた。
ほんの少しだけ。
本当に、ほんの少しだけ。
自分の気持ちを、誰かに預けられた気がした。
まだ、過去を話すことはできない。
自分を許すこともできない。
明日になったら、また大丈夫なふりをしてしまうかもしれない。
それでも。
今夜だけは、少しだけ休んでもいいだろうか。
朔はスマートフォンを枕元に置き、布団に潜り込んだ。
目を閉じる。
胸の奥に残った痛みは、消えていない。
悠人への後悔も、自分を責める気持ちも、何ひとつ変わっていない。
それでも、律から届いた短い言葉が、暗闇の中で小さな灯りのように残っていた。
――ちゃんと休めよ。
朔はその言葉を胸の中で繰り返しながら、ゆっくりと目を閉じた。