嫌われ果てても   作:M1tarash1

6 / 6
06.本当は、苦しかった

 朝、目が覚めたとき、七瀬朔は自分がどれくらい眠ったのかわからなかった。

 

 カーテンの隙間から光が差し込んでいる。

 

 スマートフォンを確認すると、いつも家を出る時間を少し過ぎていた。

 

「……やば」

 

 慌てて起き上がる。

 

 頭が重い。身体もだるい。けれど、遅刻するわけにはいかなかった。

 

 顔を洗い、制服に着替え、鞄をつかむ。

 

 鏡の中の自分は、ひどい顔をしていた。

 

 目の下には薄く隈ができているし、唇の色も悪い。

 

 少し迷ってから、朔は鏡に向かって笑ってみせた。

 

 大丈夫。

 

 これくらい、何でもない。

 

 いつも通りにしていれば、誰も気づかない。

 

 そう自分に言い聞かせて、家を出た。

 

     *

 

 教室に入ると、律がいた。

 

 友人たちと話していた律は、朔の姿を見つけると、ほんの一瞬だけこちらを見た。

 

 目が合う。

 

 朔は反射的に笑いかけそうになって、やめた。

 

 律も、何も言わなかった。

 

 それだけだった。

 

 けれど、その何もなさが、朔には妙にこたえた。

 

 席に着き、教科書を取り出す。

 

 今日は話しかけない。

 

 自分からも話しかけない。

 

 そう決めていたはずなのに、律の声が聞こえるたびに意識がそちらへ向いてしまう。

 

 いつもと同じように笑っている。

 

 いつもと同じように、くだらない話をしている。

 

 自分がいなくても、律の日常は変わらない。

 

 当たり前のことだ。

 

 わかっている。

 

 それなのに、胸の奥がじくじくと痛んだ。

 

「七瀬、これ先生に出しといてくれる?」

 

 隣の席からプリントを差し出され、朔は顔を上げた。

 

「うん、いいよ」

 

 受け取って、笑う。

 

 その瞬間、視界がわずかに揺れた。

 

 机に手をつき、何でもないふりをする。

 

「……七瀬?」

 

「ん?」

 

「顔色悪くない?」

 

「そう? 寝不足かも」

 

「大丈夫?」

 

「大丈夫だよ」

 

 いつもの答え。

 

 相手は少し心配そうにしていたが、朔が笑うと、それ以上は聞いてこなかった。

 

 そのやり取りを、律が見ていたことには気づかなかった。

 

     *

 

 昼休み、朔は一人で廊下を歩いていた。

 

 教室にいると、律の声が気になってしまう。

 

 だから、少しだけ外の空気を吸おうと思った。

 

 窓のそばに立ち、目を閉じる。

 

 風が頬を撫でた。

 

 少し休めば、きっと楽になる。

 

 そう思っていたのに、頭の重さは消えなかった。

 

 昨日の夜、悠人の写真を見てから、ほとんど眠れていない。

 

 目を閉じれば、あの日のことが浮かぶ。

 

 悠人の声。

 

 あのときの自分の返事。

 

 最後に届いたメッセージ。

 

 何度思い返しても、過去は変わらない。

 

 わかっているのに、考えるのをやめられなかった。

 

「……何やってんだろ、俺」

 

 小さく呟いた。

 

 そのとき、背後から足音が聞こえた。

 

「朔」

 

 振り返らなくても、誰だかわかった。

 

 律だった。

 

「……何?」

 

「いや、教室にいないから」

 

「ちょっと外の空気吸ってただけ」

 

「そっか」

 

 短い沈黙が落ちる。

 

 律は隣に立ったが、何も聞いてこなかった。

 

 以前なら、きっと何か言っていた。

 

 何かあったのかとか、ちゃんと寝てるのかとか。

 

 けれど今は、何も言わない。

 

 それが律なりの気遣いなのだと、朔にもわかっていた。

 

 わかっているからこそ、苦しかった。

 

「……律」

 

 気づけば、名前を呼んでいた。

 

「ん?」

 

 律がこちらを見る。

 

 朔は口を開いた。

 

 何かを言おうとした。

 

 ごめん、と。

 

 この前は、本当にごめん、と。

 

 心配してくれて、嬉しかったんだ、と。

 

 でも。

 

「……何でもない」

 

 結局、そう言ってしまった。

 

 律の表情が、ほんの少しだけ曇った。

 

「……そっか」

 

 律はそれ以上、何も聞かなかった。

 

 そのまま二人で窓の外を眺めていた。

 

 チャイムが鳴るまで、あと数分。

 

 朔は隣に立つ律の存在を、ひどく近く感じていた。

 

 手を伸ばせば届く距離。

 

 それなのに、何も言えない。

 

 たった一言が、どうしてこんなにも難しいのだろう。

 

     *

 

 午後の授業が始まってしばらくした頃、朔はノートを取る手を止めた。

 

 文字が頭に入ってこない。

 

 先生の声が遠く聞こえる。

 

 何度も瞬きをして、ノートに目を落とす。

 

 あと少し。

 

 授業が終わるまで、あと少しだけ。

 

 そう思っていた。

 

 けれど、立ち上がろうとした瞬間、身体がふらついた。

 

「おっと」

 

 隣の席の生徒が、慌てて腕を支えてくれた。

 

「大丈夫か?」

 

「……ごめん。ちょっと立ちくらみ」

 

「いや、ちょっとどころじゃないだろ。保健室行けよ」

 

「平気。座ってれば治るから」

 

「でも――」

 

「本当に大丈夫だから」

 

 自分でも驚くほど強い口調になった。

 

 相手が口を閉じる。

 

 朔はすぐに表情を取り繕った。

 

「……ごめん。心配してくれてありがと」

 

 そう言って座り直す。

 

 机の下で、指先をぎゅっと握りしめた。

 

 大丈夫。

 

 大丈夫だ。

 

 これくらいで休んでいたら、何もできなくなってしまう。

 

 そう思っていた。

 

 けれど、斜め前の席に座る律が、こちらを見ていることに気づいた。

 

 目が合う。

 

 律は何か言いたそうにしていた。

 

 朔は、首を横に振った。

 

 来ないで。

 

 そう伝えるつもりだった。

 

 律はしばらく朔を見つめていたが、やがて視線を戻した。

 

 それを見て、朔は胸を撫で下ろした。

 

 同時に、ひどく寂しくなった。

 

     *

 

 放課後。

 

 朔は、いつものように頼まれごとを引き受けていた。

 

 提出物の確認。文化祭の備品の整理。別のクラスの友人から頼まれたプリントの受け渡し。

 

 一つひとつは、大したことではない。

 

 少しずつ片づければ、何とかなる。

 

 そう思っていた。

 

 けれど、職員室へプリントを届けるために廊下を歩いていたとき、足が止まった。

 

 急に、息が苦しくなった。

 

 胸のあたりが詰まったような感覚。

 

 うまく息を吸えない。

 

「……っ、は……」

 

 壁に手をつく。

 

 落ち着け。

 

 大丈夫。

 

 少し休めば。

 

 いつもみたいに笑っていれば。

 

 誰にも迷惑をかけずに、何事もなかったように戻れる。

 

 そう考えようとしたのに、頭の中に浮かんだのは、悠人の顔だった。

 

 ――最近、ちょっと疲れたわ。

 

 ――もう全部、どうでもいいかも。

 

 ――お前は悪くないから。

 

「……やめろよ」

 

 誰に向けた言葉なのか、自分でもわからなかった。

 

 悠人に。

 

 過去の自分に。

 

 それとも、何度も同じことを思い出してしまう自分自身に。

 

 目の奥が熱くなる。

 

 泣くな。

 

 こんなところで。

 

 誰かに見られたら、心配される。

 

 心配されて、何かを聞かれて、答えられなくて。

 

 また、誰かを困らせてしまう。

 

 朔は唇を噛み、どうにか顔を上げた。

 

「……七瀬?」

 

 聞き慣れた声がした。

 

 振り向くと、律が立っていた。

 

 その顔から、いつもの明るさが消えていた。

 

「……何してんの」

 

「別に。プリント届けに行くところ」

 

「それ、今じゃなきゃ駄目なのか?」

 

「……は?」

 

「顔、真っ青だぞ」

 

「大丈夫だって」

 

「大丈夫じゃないだろ」

 

「だから、大丈夫だって言ってるじゃん!」

 

 声が廊下に響いた。

 

 朔自身、何をそんなに怒っているのかわからなかった。

 

 ただ、律の目が怖かった。

 

 何もかも見透かされてしまいそうで。

 

 今まで必死に隠してきたものが、全部ばれてしまいそうで。

 

「……もういいだろ。俺のことは放っといてよ」

 

 律は黙っていた。

 

 怒鳴り返してくると思った。

 

 また喧嘩になると思った。

 

 けれど律は、静かに息を吐いた。

 

「……わかった」

 

 その声は、ひどく疲れていた。

 

「今は、無理に聞かない」

 

 朔は顔を上げた。

 

「でも、保健室には行け。せめて先生に体調悪いって言えよ」

 

「……」

 

「それくらいは、聞いてくれ」

 

 律はそう言って、朔の手からプリントを取った。

 

「これ、俺が届けるから」

 

「いい、自分で――」

 

「今は無理だろ」

 

 強い口調だった。

 

 けれど、怒っているというより、必死に何かをこらえているように見えた。

 

「……頼むから」

 

 律が、小さく呟いた。

 

「これ以上、無理してるとこ見せないでくれよ」

 

 朔は言葉を失った。

 

 律はすぐに視線を逸らした。

 

「……悪い。今のは忘れて」

 

 そう言って、プリントを持ったまま歩き出す。

 

 朔は、その背中を見つめていた。

 

 これ以上、無理してるとこ見せないでくれ。

 

 その言葉が、胸の中で何度も繰り返される。

 

 律は、自分のことを心配してくれている。

 

 わかっている。

 

 わかっているのに。

 

 どうして、そんな顔をするんだ。

 

 どうして、そんなに苦しそうなんだ。

 

 どうして、自分のことで、そんな思いをさせてしまうんだ。

 

 朔は壁に手をついたまま、俯いた。

 

「……ごめん」

 

 誰もいない廊下に、小さな声が落ちた。

 

     *

 

 保健室で少し休み、先生に今日は早く帰るよう言われた。

 

 朔は言われた通り、寄り道をせずに帰宅した。

 

 部屋に入って、鞄を床に置く。

 

 ベッドに座り込むと、急に身体から力が抜けた。

 

 今日は、何もできなかった。

 

 いつもなら、もっとできるはずだった。

 

 頼まれたことを全部終わらせて、誰かの役に立って、家に帰って、また明日の準備をする。

 

 そうやって、毎日を過ごしてきた。

 

 なのに、今日は途中で止まってしまった。

 

 自分の身体一つ、まともに動かせない。

 

 こんなことでは、誰も助けられない。

 

「……俺、何やってんだろ」

 

 呟いた声は、ひどく掠れていた。

 

 スマートフォンが震えた。

 

 画面を見る。

 

 律からだった。

 

『家着いた?』

 

 たった一言。

 

 それだけのメッセージだった。

 

 朔は画面を見つめた。

 

 返事をするべきだ。

 

 心配してくれてありがとう、と。

 

 さっきはごめん、と。

 

 もう少しだけ、話したい、と。

 

 けれど、指が動かなかった。

 

 しばらくして、もう一度スマートフォンが震えた。

 

『返事できるときでいいから』

 

 その文を見た瞬間、朔の視界が滲んだ。

 

 急かしていない。

 

 責めてもいない。

 

 返事ができるときでいい、と。

 

 律は、待ってくれている。

 

 朔が何も言えなくても。

 

 何も説明できなくても。

 

 それでも、完全に離れてしまおうとはしていない。

 

「……なんで」

 

 声が震えた。

 

「なんで、そんなに優しいんだよ……」

 

 優しくしないでほしかった。

 

 これ以上、好き勝手に心配しないでほしかった。

 

 そうすれば、もっと簡単に離れられたのに。

 

 律が自分を嫌いになってくれたら、諦められたのに。

 

 なのに、律はそうしてくれない。

 

 朔は両手で顔を覆った。

 

 涙が、指の隙間からこぼれた。

 

 誰にも見られない部屋の中で、声を押し殺す。

 

 苦しかった。

 

 ずっと、苦しかった。

 

 誰かを助けたいと思うたびに、悠人のことを思い出した。

 

 誰かに頼られるたびに、断ることが怖くなった。

 

 休んでいると、何もしていない自分が許せなくなった。

 

 笑っていると、悠人がもう笑えないことを思い出した。

 

 自分だけが普通に生きていることが、申し訳なかった。

 

 だから、もっと頑張らなければいけないと思った。

 

 もっと誰かを助けなければ。

 

 もっと役に立たなければ。

 

 そうすれば、いつか。

 

 いつか、自分も許されるのかもしれない。

 

 けれど、何をしても、何人を助けても。

 

 悠人は戻ってこない。

 

 あの日は、変わらない。

 

 自分が何をしたって、取り返しのつかないことは、取り返しがつかないままだった。

 

「……っ、う……」

 

 息を吸うたび、喉が震えた。

 

 本当は、苦しかった。

 

 誰かに気づいてほしかった。

 

 もう頑張らなくていいと言ってほしかった。

 

 それでも、そんなことを願う自分が許せなかった。

 

 朔は涙を拭い、スマートフォンを手に取った。

 

 律とのトーク画面を開く。

 

 文字を打つ。

 

『心配かけてごめん』

 

 少し迷って、続けた。

 

『今日はもう寝る。ありがと』

 

 送信。

 

 すぐに返事が来た。

 

『おう。ちゃんと休めよ』

 

 そのあと、もう一件。

 

『明日、話せそうだったら話そう』

 

 朔は画面を見つめた。

 

 話せそうだったら。

 

 無理にとは言わない。

 

 でも、話せるなら聞きたい。

 

 律は、そう言っているのだ。

 

 朔は返信欄に指を置いた。

 

 そして、ゆっくりと文字を打った。

 

『……うん』

 

 たった二文字。

 

 それだけ送るのに、ずいぶん時間がかかった。

 

 それでも、送れた。

 

 ほんの少しだけ。

 

 本当に、ほんの少しだけ。

 

 自分の気持ちを、誰かに預けられた気がした。

 

 まだ、過去を話すことはできない。

 

 自分を許すこともできない。

 

 明日になったら、また大丈夫なふりをしてしまうかもしれない。

 

 それでも。

 

 今夜だけは、少しだけ休んでもいいだろうか。

 

 朔はスマートフォンを枕元に置き、布団に潜り込んだ。

 

 目を閉じる。

 

 胸の奥に残った痛みは、消えていない。

 

 悠人への後悔も、自分を責める気持ちも、何ひとつ変わっていない。

 

 それでも、律から届いた短い言葉が、暗闇の中で小さな灯りのように残っていた。

 

 ――ちゃんと休めよ。

 

 朔はその言葉を胸の中で繰り返しながら、ゆっくりと目を閉じた。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
点
一言
0文字 一言(任意:500文字まで)
※評価値0,10は一言の入力が必須です。参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。