翌朝、朔はいつもより少し早く家を出た。
昨日よりは眠れた。
それだけで、身体がいくらか軽くなった気がした。頭の重さも、昨日ほどではない。
けれど、気持ちのほうは相変わらずだった。
律と話す。
昨日、自分でそう返事をしたのだ。
話せそうだったら、という律の言葉に、たった二文字で答えた。
それなのに、今になって怖くなっている。
何を話せばいいのだろう。
どこまで話せばいいのだろう。
そもそも、自分は何を聞いてほしいのだろう。
考えても、答えは出なかった。
ただ一つわかっているのは、律に嫌われたくないということだった。
自分から突き放したくせに。
もう放っておいてほしいと言ったくせに。
いざ本当に距離ができると、こんなにも不安になる。
「……最低だな、俺」
自嘲気味に呟いて、朔は歩き出した。
*
教室に入ると、律はすでに席に着いていた。
スマートフォンをいじっていた律が顔を上げる。
目が合った。
「……おはよ」
律から声をかけてきた。
「おはよ」
朔も返す。
それだけのやり取りなのに、妙に緊張した。
律は何か言いたそうにしていたが、結局、いつものように鞄を机に置いた。
「昨日、ちゃんと寝た?」
「……まあ、そこそこ」
「そっか」
律はそれ以上聞かなかった。
無理に話をさせようとはしない。
その距離感が、今の朔にはありがたかった。
同時に、少しだけ寂しかった。
以前なら、もっとしつこく聞いてきたはずだ。
ちゃんと食べたのかとか、まだ顔色悪いぞとか。
鬱陶しいくらいに世話を焼いてきたはずなのに。
今は、朔が答えたことをそのまま受け止めている。
きっと、律も考えているのだ。
どこまで踏み込んでいいのか。
どこから先は、朔が嫌がるのか。
そう思うと、胸が痛んだ。
「……律」
「ん?」
呼んだものの、その先が続かなかった。
律は急かさずに待っていた。
朔は視線を落とす。
「……放課後、時間ある?」
一瞬、律が目を見開いた。
それから、いつものように少しだけ口元を緩めた。
「あるよ」
「……そっか」
「どこ行く?」
「……裏庭。人が少ないから」
「わかった」
それだけだった。
何を話すのかも聞かず、律は頷いた。
朔は、少しだけ息を吐いた。
逃げずに話せるだろうか。
最後まで、ちゃんと言えるだろうか。
まだわからない。
それでも、今度こそ。
少しだけ、話してみようと思った。
*
放課後の裏庭は、思ったより静かだった。
校舎の陰にあるベンチには、ほとんど人が来ない。遠くから運動部の掛け声が聞こえるくらいで、二人の会話を遮るものはなかった。
朔はベンチの端に座り、律は少し間を空けて隣に座った。
しばらく、何も話さなかった。
話そうと決めていたのに、いざとなると言葉が出てこない。
どこから話せばいいのか。
何を話せば、律に伝わるのか。
朔は膝の上で手を組んだ。
「……この前は、ごめん」
ようやく出たのは、それだった。
「心配してくれてたのに、あんな言い方して」
律は少し黙ってから、答えた。
「……うん。傷ついた」
朔の肩が小さく揺れた。
予想していた言葉だった。
それでも、実際に聞くと胸が痛かった。
「……ごめん」
「いや、謝ってほしくて言ったわけじゃない」
律は前を向いたまま続けた。
「俺だって、しつこかったと思う。お前が話したくないことまで、無理に聞こうとしてたかもしれない」
「そんなこと……」
「あるよ。心配だからって、何でも聞いていいわけじゃないだろ」
律は苦笑した。
「俺、こういうときどうしたらいいのか、よくわかんねえんだよな」
朔は顔を上げた。
律がそんなことを言うのは、少し意外だった。
いつも迷いなく人に話しかけて、思ったことをそのまま口にする。何だかんだで、誰とでもうまくやっていける。
そんな人間だと思っていた。
「でもさ」
律が朔を見る。
「何も聞かないまま、お前が無理してんのを見てるだけってのも、違う気がするんだよ」
「……」
「だから、話せることがあるなら聞きたい。話したくないことは、無理に話さなくていい」
律は一度言葉を切った。
「ただ、何もかも一人で抱え込むのは、やめてほしい」
朔は、返事ができなかった。
その言葉は、ずっと欲しかったものに似ていた。
全部話せと言われているわけじゃない。
今すぐ変われと言われているわけでもない。
ただ、一人で抱え込まないでほしいと。
それだけを、願ってくれている。
どうしてだろう。
そんなふうに言われると、余計に苦しくなる。
「……俺さ」
朔は、ゆっくりと口を開いた。
「前に、友達を亡くしたことがあるんだ」
律の表情が変わった。
けれど、何も言わなかった。
朔は膝の上の手を見つめながら、話を続けた。
「悠人っていうやつ。……すごく仲がよかった」
人前で名前を口にするのは、久しぶりだった。
喉の奥が詰まる。
それでも、言葉を止めたくなかった。
「亡くなる少し前から、様子がおかしかったんだ。元気がないっていうか、何か……ずっと疲れてる感じで」
「……うん」
「俺、気づいてたんだと思う。いつもと違うって。でも、深く考えなかった」
朔は笑おうとした。
うまく笑えなかった。
「『最近、ちょっと疲れた』って言われたことがあってさ。あと、『もう全部どうでもいいかも』って」
律は黙って聞いていた。
「俺、そのとき何て言ったと思う?」
自分で問いかけて、自分で答える。
「大げさだな、って。明日になれば何とかなるだろって……そんなこと言ったんだよ」
言葉にすると、記憶が鮮明になった。
夕焼けの教室。
隣にいた悠人。
いつもより小さかった声。
そして、それを大したことではないと思った自分。
「……次の日になったら、何とかなると思ってた」
朔の声が震えた。
「今までもそうだったから。落ち込んでても、しばらくしたら元気になってたから。だから今回も大丈夫だって、勝手に思ってた」
息を吸う。
喉が痛かった。
「でも、違った」
そこから先は、うまく言葉にならなかった。
律は何も言わず、隣にいた。
朔は何度か唇を動かして、それからようやく続けた。
「最後に連絡が来たんだ。少し話せるかって」
視界が滲んだ。
「俺、そのとき別のことしてて……あとで返せばいいって思った。結局、返事したのは夜になってからで。そしたら、もう……」
言葉が途切れる。
その先を口にするのは、どうしても難しかった。
何度思い返しても、そこだけは受け入れられない。
返事がなかったこと。
もう二度と話せなくなったこと。
何を言っても届かなくなったこと。
朔は顔を伏せた。
「俺が、ちゃんと聞いてればよかったんだ」
声が小さくなる。
「もっと真剣に話を聞いてれば。あのとき、ふざけて返さなければ。最後の連絡だって、すぐに返してれば……何か変わってたかもしれない」
「朔」
「わかってる。今さら考えたって、どうにもならないのはわかってるんだよ。でも、ずっと考えちゃうんだ」
涙が一滴、膝に落ちた。
「俺なら気づけたはずだって。あいつのこと、よく知ってたんだから。いつも一緒にいたんだから。俺が気づかなかったら、誰が気づくんだよって……」
声が掠れた。
「なのに、俺は何もしなかった」
律は、すぐには答えなかった。
朔は続けた。
「それから、誰かに頼られると断れなくなった。困ってるって言われたら、どうしても放っておけなくて。少しくらい無理してもいいから、助けなきゃって思うようになった」
指先が震えていた。
「また誰かを見逃したら、どうしようって。今度も気づかなかったら、どうしようって。……怖いんだよ」
初めてだった。
こんなふうに、自分の気持ちを口にしたのは。
「だから、何でも引き受けるんだと思う。誰かの役に立ってれば、少なくとも、あのときの自分とは違う気がするから」
朔は目を閉じた。
「……でも、全然違わないんだよな」
笑いが漏れた。
ひどく惨めな笑いだった。
「どれだけ頑張っても、悠人は戻ってこない。俺が何をしたって、あの日のことは変わらない。それなのに、やめられないんだ」
ずっと、言えなかった。
誰にも知られたくなかった。
知られたら、自分がどれだけ愚かな人間なのか、わかってしまう気がしたから。
それでも、律には聞いてほしかった。
聞いてほしくないのに。
聞いてほしいと、思っていた。
「……俺、本当は」
そこで声が詰まった。
律が、静かにこちらを見ている。
朔は唇を噛んだ。
「本当は、ずっと苦しかった」
言った瞬間、涙がこぼれた。
「もう疲れたって思うこともある。何もしたくないって思うこともある。でも、そんなこと思っちゃいけない気がして……俺だけ普通に休んだり、誰かに頼ったりするのが、駄目なことみたいで」
涙が止まらなかった。
「……ごめん。こんな話、聞かせて」
「謝んなよ」
律の声がした。
いつもより、少しだけ低かった。
「何で謝るんだよ」
「だって……」
「だってじゃねえよ」
律は言いかけて、言葉を探すように黙った。
それから、ゆっくりと息を吐いた。
「……俺、お前が何を考えてるのか、ずっとわかんなかった」
朔は顔を上げられなかった。
「何でもないって笑うし、平気だって言うし。なのに、全然平気そうじゃないし。俺、どうしたらいいのか本当にわかんなくてさ」
律は困ったように笑った。
「でも、今の話を聞いても、やっぱり全部わかったわけじゃない。お前がどれだけ苦しかったのか、俺には想像することしかできない」
その言葉に、朔は少しだけ顔を上げた。
律は、まっすぐこちらを見ていた。
「……でもさ」
そして、はっきりと言った。
「お前は悪くない」
朔の呼吸が止まった。
その言葉を、何度も聞いたことがある。
悠人からも、言われた。
――お前は悪くないから。
だからこそ、許せなかった。
「……そんなこと、言わないでよ」
朔の声が震えた。
「え?」
「簡単に、そんなこと言わないで……!」
思わず、声が大きくなった。
律が目を見開く。
朔は涙を拭いながら、首を横に振った。
「律にはわかんないだろ……! あのとき俺が何を言ったのか。どんな顔して、あいつの言葉を聞き流したのか。何も知らないくせに……!」
「……うん。知らないよ」
律は、言い返さなかった。
「俺は、その場にいなかったから。悠人がどんな気持ちだったのかも、お前が何を考えてたのかも、全部はわからない」
朔は言葉を失った。
「だから、簡単にわかったふりをするつもりはない」
律は少しだけ身を乗り出した。
「でも、お前が一人で全部の責任を背負わなきゃいけないってことにはならないだろ」
「……っ」
「助けを求めてる人に気づけなかったことが、悔しいんだろ。もっと何かできたんじゃないかって、ずっと考えてるんだろ」
律の声が、わずかに震えた。
「だったら、その後悔を持ったまま生きていけばいいじゃん。忘れなくたっていい。悠人のことだって、無理に整理しなくていい」
朔は律を見た。
「でも、それと、お前が自分を苦しめ続けることは違うだろ」
律は、ぎゅっと拳を握った。
「お前がどれだけ無理したって、過去は変わらない。誰かの頼みを全部引き受けたって、悠人が戻ってくるわけじゃない」
わかっている。
そんなことは、朔自身が一番よくわかっていた。
「それでも、やめられないんだよ……」
朔は呟いた。
「そうしないと、俺……」
言葉が続かない。
そうしないと、自分を許してしまいそうで。
そうしないと、悠人のことを忘れてしまいそうで。
そうしないと、自分だけが楽になってしまいそうで。
そんなこと、できるはずがなかった。
律はしばらく黙っていた。
それから、少し迷うように手を伸ばした。
朔の肩に触れる直前で止まる。
「……触ってもいい?」
朔は驚いて顔を上げた。
律は、困ったような顔をしていた。
「嫌だったら、やめる」
朔は何も言えなかった。
ただ、ほんの少しだけ頷いた。
律の手が、そっと肩に置かれる。
強く掴むわけでも、無理に抱き寄せるわけでもない。
ただ、そこにいると伝えるような手だった。
「……朔」
「……何」
「俺、お前の代わりに悠人のことを忘れてやることはできない」
律の声は静かだった。
「お前が自分を許せないって気持ちを、今すぐどうにかすることもできないと思う」
朔の目から、また涙がこぼれた。
「でも、お前が苦しいときに、隣にいることくらいはできる」
律は、少しだけ笑った。
「だから、せめて俺の前くらい、無理して笑わなくていいよ」
その言葉を聞いた瞬間、朔の中で何かが崩れた。
「……っ、う……」
声が漏れた。
止めようとしても、止まらなかった。
今までずっと、泣くことさえ許してこなかった。
悲しむ資格がないと思っていた。
苦しいと言うことも、助けてほしいと願うことも、自分には許されないと思っていた。
なのに。
律は、泣いてもいいと言った。
無理しなくていいと。
隣にいると。
「……ごめん」
朔は、また謝った。
「だから、謝んなって」
「……でも」
「うん」
律は少しだけ声を柔らかくした。
「今まで、しんどかったな」
その一言で、朔はとうとう顔を覆った。
声を押し殺そうとした。
けれど、もう無理だった。
ずっと言えなかった言葉が、涙と一緒にこぼれていく。
苦しかった。
寂しかった。
怖かった。
誰かを失うのが怖くて、誰かに近づくのも怖くなった。
大切な人ができるほど、その人まで失ってしまうことが怖くなった。
だから、最初から離れていればいいと思った。
嫌われてしまえばいいと思った。
そうすれば、失うことを怖がらずに済むから。
けれど、本当は。
誰かにそばにいてほしかった。
誰かに気づいてほしかった。
誰かに、もう頑張らなくていいと言ってほしかった。
「……律」
「ん」
「……俺、どうしたらいいのかな」
それは、朔が初めて口にした、本当の意味での助けを求める言葉だった。
律はすぐには答えなかった。
正しい答えなんて、きっと持っていなかった。
それでも、朔の肩に置いた手を離さずにいた。
「……わかんねえ」
律は正直に言った。
「俺も、どうしたらいいのかはわかんない」
朔は、涙で濡れた顔を上げた。
「でも、一緒に考えることはできるだろ」
律は、少し照れくさそうに笑った。
「一人で答え出そうとすんなよ。俺にも考えさせろ」
朔は何も言えなかった。
ただ、何度も頷いた。
まだ、自分を許せるわけじゃない。
悠人のことを思い出さなくなるわけでもない。
明日になれば、また大丈夫なふりをしてしまうかもしれない。
それでも。
今は、少しだけ。
律の隣にいてもいいのかもしれない。
*
帰り道、二人は並んで歩いた。
いつもよりゆっくりとした歩幅だった。
律は、いつものようにくだらない話をしなかった。
朔も、無理に笑おうとはしなかった。
ただ、二人で歩いた。
交差点の手前で、律が口を開いた。
「なあ、朔」
「……何?」
「明日、学校来る?」
「来るよ。……たぶん」
「たぶんって何だよ」
律が少しだけ笑う。
「来れそうになかったら、ちゃんと休めよ」
「……うん」
「あと、昼飯」
「何?」
「ちゃんと食え。今日、全然食ってなかっただろ」
「……見てたの?」
「見えるだろ、普通に」
朔は少しだけ笑った。
久しぶりに、無理に作ったものではない笑みだった。
律はそれを見て、何も言わなかった。
ただ、少しだけ安心したように息を吐いた。
駅へ向かう道の途中、二人は分かれ道に着いた。
「じゃあ、また明日」
律が言う。
「……うん。また明日」
朔は返した。
律が歩き出す。
その背中を見ながら、朔は思った。
悠人は戻ってこない。
あの日のことも、消えない。
きっとこれからも、何度も思い出すだろう。
後悔だって、簡単にはなくならない。
それでも。
自分が苦しいときに、誰かの手を取ってもいいのかもしれない。
誰かに頼っても、いいのかもしれない。
そう思えたのは、初めてだった。
朔はポケットの中で、スマートフォンを握った。
明日も、律に会える。
それだけのことが、今は少しだけ嬉しかった。
けれど、その嬉しさのすぐ隣には、まだ小さな恐怖が残っていた。
もし、また誰かを失ったら。
もし、今度こそ本当に、取り返しがつかなくなったら。
そのとき、自分は耐えられるのだろうか。
答えは出なかった。
それでも朔は、今日だけは逃げずに帰ろうと思った。
律と過ごした時間を、なかったことにしないために。