「叛逆の物語」の続編を想定したものです。
「廻天」における新たなキャラクターは登場しません。
また、本作は「廻天」を否定するものではなく、まどかとほむらの関係にフォーカスした話を読みたい! という自給自足的なモチベーションから執筆されたものであることをご理解ください。
まどポ、マギレコ、まどドラ等の派生作品は一切触れておらず、内容にも加味されていません。ご了承ください。
また、細かな設定に矛盾がある可能性があります。ご容赦ください。

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魔法少女まどか☆マギカ ワルプルギスの怪演

『あくまと女の子』

 

あるところに、ひとりの女の子がいました。

女の子は、お友達が大好きでした。

けれどお友達は、とても重い病気にかかってしまいました。

女の子は、たいへん悲しみました。悲しんで悲しんで、あまりにも悲しいので、あくまさんにお願いをすることにしました。

あくまさん、あくまさん、お友達の病気をどうか治してください。

あくまさんは言いました。その願いを叶える代わりに、あなたはもうお友達とお喋りしてはいけないよ。

女の子は、いいよ、とうなずきました。

あくまさんはてさきをはなち、てさきはお友達の病気をすうっと吸い込みます。お友達の具合は、みるみるよくなりました。

女の子は喜びました。けれどお友達はもう、女の子を覚えてはいません。

これに落ち込んだ女の子は、あくまのてさきをつかまえて、ぱくっと食べてしまいました。

あくまさんはたいへん怒って、てさきをとりもどそうと、女の子の口をがばっと開いて、いきおいよくもぐりこみます。

びっくりした女の子は、そのままあくまさんを飲み込んでしまいました。

あくまさんがいなくなり、これを悲しんだお日様は、世界を真っ暗に変えてしまいました──

 

「あ、タツヤ泣いちゃった。お母さん、この絵本ちょっと内容が」

「あら、表紙が可愛いと思って借りてきたんだけど、タツヤには合わなかったか。ごめんねタツヤ〜」

 

 母に弟を託す。視線を感じて窓を見やる。黒い影が縁の向こうへと消えていったような、やっぱり最初から居なかったような。

 はっとして時計を見る。もうすぐ家を出なければ。

 そそくさと玄関に向かい、靴を履きながら、ふと立ち止まった。

 

「……体育、ないし。水泳じゃないし。宿題も、もってるし」

 

 胸の奥に、ほんの少しだけ空白がある。

 まるで、そこに何か大切なものがあったはずなのに、その形だけが綺麗に抜き取られてしまったような。

 

「まどか?」

「ううん、なんでもない」

 

 見送りに玄関に立つ父親。そう笑いかけてドアノブに手をかける。

 

「行ってきます」

 

 扉を開ける。

 朝の空気が流れ込んできた。

 見滝原は、今日も平和そのもの。

 

「まどかさん、ご機嫌よう」

「うん、おはよう仁美ちゃん、さやかちゃんも」

「よっすまどか。お、そのリボン可愛いじゃん」

「そ、そう? ちょっと派手じゃ──」

 

 ふと、さやかの後ろに佇む黒い猫が目に留まる。猫は振り返るさやかの視線から逃れるように、踵を返し去っていく。

 

「あの子、ここのところ毎日出迎えてきてますわね」

「うん。ご近所さんの放し飼いかもね」

 

 

転換

 

 

 夕刻。

 学校を終え、友人達と別れる。

 途中まで、いつも通りの帰り道だった。

 

「……あ」

 

 今朝も見かけた一匹の猫が、電柱の傍に佇んでいる。黒い猫。ただの黒猫ではなく。毛並みはきらきらと光を吸い込んでいる、少し奇妙な、そんな猫。

 そして、深い漆黒の瞳。その輝きが、自分の顔を映している。

 

「……またね」

 

 今朝の様子を覚えていたまどかは、今は無理に近づかず、そう手を振って帰路に立った。

 

 

 それから、その猫は時々まどかの前に現れるようになった。

 最初は近付かなかった。

 まどかが手を伸ばせば逃げる。

 声をかければ逃げる。

 お菓子を置いても、まどかが離れるまで食べようとしない。

 

「ふふ。恥ずかしんぼ」

 

 まどかは苦笑する。

 それでも、毎日少しずつ距離が縮まっていった。

 

 一週間。

 二週間。

 三週間。

 

 気が付けば、猫は必ずまどかの帰り道で待っているようになった。

 

「ただいま」

 

 しゃがんで語りかける。今日は、逃げて行かない。

 恐る恐る頭を撫でる。柔らかな毛に、温かい体温が手のひらを伝い、猫は満足そうに目を細める。

 

 瞬間。

 

 視界に閃く、いくつもの見知らぬ、知らないはずだった誰かの記憶。

 

 ──逆しまに漂う巨大な怪物。

 ──白い猫。

 ──黒髪の少女。

 ──泣いている少女。

 ──弓を引く自分。

 ──繋いだ手。

 ──全身を覆う、眩い光。

 

 

『まどか』

 

 

「……は」

 

 一瞬の奔流だった。

 呆然と声が漏れる。気付いた時には、いつの間にか空が暗くなっていた。だから黒いものが宙から降ってきたとしても、気付くことなんて出来やしない。

 かさかさと蠢く微かな気配。気の抜けた少女の隙を突き、小さな何かが前触れもなく──

 

「キュウ!」

「……え?」

 

 悲痛な鳴き声。

 目の前の黒猫の首元で、よく似た色をした黒いうねりが筋を引き、瞬きと共に消えていく。

 

「嘘……」

 

 猫は力無く横たわっていた。黒い瞳はもはや何も映さず、首筋からどろどろと垂れ流したまま、動かない。

 まどかは震える手で猫を撫でた。

 

「どうしたの……ねえ……」

 

 何度呼んでも。

 何度撫でても。

 猫は動かなかった。

 

 

切替

 

 

 まどかは猫の死を引きずった。授業中も、猫を埋めた時の毛のざらつきが掌にこびりついている。

 

「まどか、どうしたの?」

「……あの子が」

「猫?」

「うん」

 

 さやかが眉を寄せる。

 

「もしかして、死んじゃったとか」

「……うん」

「そっか……」

 

 さやかはそれ以上聞かず、まどかも話せなかった。

 思い出すたびに、胸の奥がずきずきと響く。

 

 そして夜になると、いつも奇妙な夢を見るようになった。影の街。無数のぼやけたシルエット。その中心に誰かが立っている。

 美しく長い黒髪。誰かは、自分に背を向けている。

 

「待って」

 

 声をかける。振り返ることはない。

 

「待ってよ……」

 

 手を伸ばす。

 届かない。だから、叫ぶしかできなくて。

 あなたは、いったい誰なの? と。

 

 

 数日後。

 

「……え?」

 

 通学中、交錯する視線と視線。見間違いなどではない。

 どう見ても、あの猫だった。

 黒く、黒ばって、黒く黒い。奇妙で不思議でへんてこな黒猫。

 慌てて駆け寄るも、猫はすぐに逃げていく。

 

「待って!」

 

 まどかを待たず、猫は路地裏へ。

 

「待ってよ!」

 

 角を曲がる。猫の尻尾がたなびく。

 また曲がる。

 猫がいる。

 そうやって繰り返して、まどかはようやく異変に気付く。

 角を曲がったのはこれで四回目。なのに、どうして元の場所に戻っていないのか。

 

 

 瞬間、認識が塗り変わる。音が消える。風が止む。

 そして静寂を破る、ギシィ、と大扉が閉まる音。

 空。建物。道路も何もかも、まるで黒いインクを上から塗りたくったように、世界が塗り潰されていた。

 

「え……?」

 

 まどかは立ち尽くす。そこは劇場、平坦な壇上。幕は全開、主演はまどか。見渡す観客席に、びっしりと──無数の黒猫が、こちらを黒いまなざしで囲いこんでいる。

 

 一匹。

 二匹。

 十匹。

 百匹。

 

 そのすべてがこちらを見ている。

 黒く、黒ばって、黒ずんで、黒めいた無限のアーモンド。間もなく天井に吊るされたモニターに、まだ色のない走り書きの映像が流れ始める。

 まどかは瞳に妬かれながら、台本を手に息を吸い込んだ。

 

 

 

 

 まどか 「はっ──!?」

 

 まどか 「あ!」

 

 ??? 「くっ──!」

 

 まどか 「ひどい……!」

 

 ????? 『仕方ないよ。彼女一人では荷が重すぎた。でも、彼女も覚悟の上だろう』

 

 まどか 「そんな! あんまりだよ! こんなのってないよ!」

 

 ????? 「諦めたらそれまでだ。でも、君なら運命を変えられる。避けようのない滅びも、嘆きも、全て君が覆せばいい。その為の力が、君には備わっているんだから」

 

 まどか 「ほんと、なの?」

 

 まどか 「私なんかでも、本当になにか出来るの? こんな結末を、変えられるの?」

 

 ????? 「勿論さ。だから僕と契約して──」

 

 

 

 

魔法少女に、なってよ。

 

 

 

 

 

「……ほむらちゃん」

 

 一糸まとわぬ黒髪の少女。目の前で恭しく己が手を取る彼女の名が、口から零れ落ちる。

 

 その瞬間。二人を引き裂くように、黒い蛇が落ちてきた。

 劇場にぽとりと水滴のような音を響かせて、ゆっくりと姿を変えていく。

 仰々と広がった翼と、目を引く長い髪。悪魔の如き妖艶さで、もう一人の自分を睨みつけている。

 

「……あれ、ほむら、ちゃん?」

 

 悪魔は己が名を呼ぶ少女をちらりと見る。

 その顔は、確かな疲労に強ばっていた。

 

「いい加減にしなさい」

 

 ほむらが手を上げ、いつの間にか握られていた銃。向けられた銃口に驚き、まどかは反射的に目を閉じ──銃声が鳴り響く。

 命乞いも待たず、ほむらは、まどかではなく、まどかの手を握ったままのほむらの裸体を撃ち抜いた。

 

 胸の中心に大穴が空き、黒髪は風を受け、ひらひらとステージに倒れ伏す。鮮血に塗れた少女は消え、そこにはいつか見た黒猫の死体だけ。

 続けざまに響く銃声。観客席の猫が鳴く。

 一匹。また一匹。

 残弾数と連動して、淡々と生命が刈り取られていく。

 

「ほむらちゃん?」

 

 銃声。

 

「ほむらちゃんだよね」

 

 銃声。

 

「ここはなに?」

 

 銃声。

 

「いま、なにしてるの?」

 

 銃声。

 

「なんでこんなこと……」

 

 機械のように猫を処理していく姿に、たじろいだ。

 まばたきをした。

 気付けば、猫はもう一匹もいなかった。

 観客席にあるのはすべて、何もかもを曝け出したままの、少女の死体ばかりで。

 

「大丈夫よ、まどか」

 

 唯一残った傍らの悪魔は銃を捨て、呆然と立ち尽くす両手を包み込む。

 

「これは全部、悪いユメ」

 

 

 

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「……あれ」

 

 瞼を開くと、見慣れた自室の天井。内容は朧気ながら、何やら鮮烈な光景がうっすらとちらついていた。

 

「……夢オチぃ?」

 

 朝の柔らかい光がカーテンの隙間からこぼれ、秒針の音が規則正しく時を刻んでいる。

 寝ぼけた頭が少しづつ熱を帯び、やがて胸の奥にこびりついた染みのような不快感に眉を顰める。

 

 目をしょぼつかせながら、カーテンを開く。

 ふと、視線が白い塀の上に向いた。

 

「……!」

 

 死んだはずの黒い猫が、静かに座っていた。

 視線が交差する。

 背筋を冷たい戦慄が駆け抜けた。

 

 ──ほむら、ちゃん。

 

 誰なのか。知らない。人の名前なのか。暁美ほむら。それはなんなのか。男なのか。女なのか。どうしてそう呟いたのか。学校への道すがら、教室のざわめきの中でも、その予感は消えることなく。

 意を決しさやかに声をかけようとして、言葉が喉につかえてしまう。

 

「あ、ああのささやかちゃん、暁美ほむらって人、知って──」

「ん?」

 

 誰、と首を傾げるさやかの瞳。

 その反応は予想できたはずなのに、鋭く胸を刺すその痛みは、まどか自身を驚愕という鉄塊で押し潰している。

 知らない。知るはずはない。それはだって、自分だってまだよく分かっていないものなのだから。

 でも、それは、物凄く寂しいことで、悲しいことではないのか。

 忘れているのだ。覚えていなければならないのだ。

 だって、それは、全ての████を救うことこそが。

 

「あ──」

 

 窓に映る自分の顔。その瞳が、黄金に輝いている。瞬間、フレームが音を立てて剥がれ落ちた。

 幾重にも結ばれた運命の繋がり、しかして何度も霧散したその存在。囚われ続けていた時間の牢獄。

 失われた全ての記憶の欠片が、眩い光となってまどかの内側からあふれ出す。

 教室が崩れ、空が裂け、この世界を象る下地のようなものが足下を覆っていく。

 幻惑を越えそこに立つのは、二人の魔法少女と、円環の理の端末と二柱のその使者、そして、翼を伸ばした一匹の悪魔だった。

 

「長いかくれんぼだったね、ほむらちゃん」

「なぎさ的には、もうちょっと引き伸ばしてくれても良かったですが」

「いいからあんたちょっと黙れ」

 

 さやかがなぎさの頭をぽかんと殴る。

 まどかは苦笑しつつ、ほむらに向き直り、少しだけ目を細めた。

 ほむらの瞳に光は無い。その手から零れ落ちる魔力はあまりにも深く、あまりにも澱んでいた。

 幾度もの絶望を重ねても、たったひとりの少女を守るために世界を敵に回し果てたモノ。けれど、それはほむらが、自らの意思で手に入れた力でもあったはずなのに。

 

「思い出したのね。私を」

「うん、今まで忘れちゃってごめんね」

 

 淡々とした確認に対し、まどかは申し訳なさそうに答える。

 悪魔はその反応に後ずさり、まるで隠し事を暴かれる前の幼児のように俯くしかなく。

 

「思い出してくれたことは──とても、嬉しいわ。認めるしかない。きっと……そう、あなたが思うよりもずっとずっと、嬉しくて嬉しくて、たまらない……」

 

 膨らむ感情を自覚し、昂ぶりに身をよじる。もはや自分自身の手にも負えないと、ほむらは両手を広げ。伸ばした翼を刃に、己が心臓に突き立てた。

 鼓動が早まっていくのなら、無理にでも止めるしかない。

 どうせ、悪魔に身を堕としたその身体は、心臓一つ破裂してもすぐに元に戻ってしまうのだから。

 

「……けれど、それでは困るの」

 

 口元から赤を滴らせながら、ほむらは顔を上げる。

 目の前で紡がれる破滅的な言動に、次に動揺するのはまどかの方で。

 

「どうして。声をかけてくれれば、もっと早くに」

「……」

「一人ぼっちになるのは……ダメだよ」

 

 深紅に染まった翼から、まどかはつい目を逸らす。

 ほむらは目を伏せ、片翼を降ろして右手でまさぐり始める。

 

「この力を手に入れた時から、私はずっと一人で戦ってきた。あなたの為に。あなたの幸せの為なら、何度だって一人になる」

「! お前、またそれかよ!」

 

 翼から取り出したのは、円環の理が顕現する以前の、彼女の魔法少女としての祈りの具現。時を制御する、機械仕掛けの円盾。

 杏子とさやかの突貫も間に合わず、ガシャリと大仰な音を奏で、再び世界が巻き戻される。

 周囲の景色は教室に、そして夜を越え、朝日が沈んでいく。

 

「……」

 

 放課後。無人の校舎に、ほむらは一人佇む。唇を噛み、拳を握り閉める。カチカチと秒針を刻む音が立ち尽くした少女を淡々と嘲り、前触れなく放たれた銃弾が時計の中心を貫いた。

 

「ぅう……うううう……ああ……」

 

 ベレッタが手のひらから滑り落ちる。

 かさついた唇が、言ってはならない言葉を何度も繰り返して。けれど、決して喉を震わせることはしない。あの子の為にも、自分自身の願いの為にも。

 

「……!」

 

 異変。涙と共に、大気の流れが停止する。

 直後、窓の外の景色は急速に早送りで再生し始める。夜、朝、昼を越え、校舎は砂のように崩れ去る。

 気付いた時にはほむらは白いテーブルに座っており、先ほどの面子でのティータイムに強制参加させられていた。

 

「あのねえ、もうまどかは全部思い出したんだから。そういう古い手は通用しないんだっての」

「そうそう。とっとと諦めて借りたもの返さねえと、利子が膨らんでくぜほむら」

「といっても、簡単に聞き入れてはくれないわよね」

 

 さやか、杏子、マミがにやりとほむらを見る。なぎさはバクバクとクッキーを頬張り、まどかは心配そうにほむらを黙って見つめている。

 ほむらは不快さに眉を顰め、椅子を倒して立ち上がる。

 

「まどか、ベベ、美樹さんはともかく、あなた達二人は私と戦う理由なんてないでしょう」

「アタシらは魔法少女なんだぞ。救い主が自分の役割を果たしたいと願うのなら、アタシ達はそれを手伝ってやらないと。でなきゃ恩知らずもいいとこだろうが」

 

 ほむらが目を見開く。展開を読んだなぎさはクッキーの入った皿をひょいと持ち上げ、ほむらはそのままダン、と激情のまま拳をテーブルに叩きつけた。

 庭に亀裂が奔り、地割れで洋風の家屋が傾く。気にも留めず、ほむらは捲し立てていく。

 

「まどかは人として幸せになる権利があるの! それは美樹さん、あなた達だってそうでしょう!?」

「落ち着きなよ。まあその気持ちは有難いけどね。ただ。自分で魔法少女になるのを選んだのは事実だし、でも、あんな思いはもう誰にもさせたくない。それを止める役割があるなら、ちゃんと果たしたい。うん、それはまどかだってそうなんだよ」

「……そう、だったら」

 

 拳を打ち付けたまま、ほむらの前髪がだらりと垂れる。

 後ずさり、ゾンビのように上体を起こさぬまま、前触れもなく広げられた翼が天上を覆い尽くしていく。

 魔法少女でも魔女でもない。悪魔と化し変貌したソウルジェムが織りなす、魔女結界ならぬ悪魔結界。円環の理と対をなす、理そのものと接続する埒外の権能。

 

「もう一度、奪うだけよ」

 

 その言葉こそ暁美ほむらの意思の全てであり、避けられない衝突の合図。

 一早く仕掛けた杏子の槍が反射し、ほむらが避ける。

 穂先が頬を掠め、黒い髪が数本、宙を舞う。

 次の瞬間、マミの銃弾が空間を埋め尽くした。逃げ道を塞ぐように放たれた弾丸の雨を、ほむらは翼を広げて受け流す。

 黒い羽根が散った。

 ひらひらと落ちていくそれらは、地面に触れるより早く、どろりと溶けて消えていく。

 

「さやか!」

「分かってる!」

 

 呼応するようにさやかが飛び込んだ。剣が閃く。ほむらは片腕で受け止めた。金属音にも似た、耳障りな衝突音が響く。

 

「硬っ! あんたメカかなんかなわけ!?」

「邪魔をしないで!」

「邪魔あ!? 邪悪な悪魔はあんたのほうでしょうが!」

「しょーもないのです。色々と」

「そこ! サボんな!」

 

 言いながらさやかが剣を押し込む。ほむらは眉一つ動かさず彼女を弾き飛ばした。杏子が受け止める。二人は地面を滑り、ようやく体勢を立て直した。

 

「くそっ、なんつう馬鹿力だよ……!」

「文句はあと! 今は止めるのが先!」

 

 マミの声が飛ぶ。その間にも、ほむらの背後では黒い翼が際限なく広がっていた。

 空を覆い、地平を覆い、世界の輪郭そのものを塗り潰していく。

 

「ほむらちゃん!」

 

 まどかが弓を引く。光の矢が放たれた。ほむらは伸ばした片手で矢を弾く。光は砕け、星々の死を思わせる無数の欠片となって宙に散らばり、塗りつぶされた空間に白くまだらを埋め込んでいく。

 ほむらは焦燥に目を細め、歯を食いしばる。まどかは震える指を握り締め、もう一度、矢を番える。

 

「ほむらちゃん、お願い。もうやめて」

 

 切望に近いその響きに、ほむらは向き直る。ぐちゃぐちゃに混ぜた絵の具によく似た瞳を淀ませながら、ほむらは取り乱し、地上へと吠えるように叫んだ。

 

「あなたは何も分かっていない!」

「そんなことないよ」

「分かっていないわ!」

 

 誰の耳にも、最後はもはや泣き言にしか聞こえないものだった。黒い翼が唸り、空間に亀裂が走る。足元の地面がめくれ上がり、景色が紙細工のように歪んでいく。

 

「救えるから、救う! あなたには、それが、出来てしまう、だけなの!!!」

「……違うよ」

「世界のために、自分を捨てる! 誰かのために、自分の幸福を諦める……そうして最後には、誰にも手の届かない場所へ行ってしまう!」

 

 掠れ、声帯が千切れ。

 

「そんなもの、そんなものは──!」

 

 翼が激情に呼応し一際大きく広がった。濁った結界は速度を増して世界を侵していく。円環を遮断し、まどかを二度と、天の上に還らせぬために。

 ほむらの脳裏に、鹿目家の家族の顔が浮かぶ。あんなに仲の良かった、信頼し合っていた家族に、まどかという存在の痕跡すら残ってはおらず。それでも、ただ、なんとなく懐かしい、なんて、不自然な凋落を生んでしまうほどに大切にされていた少女が。

 

「世界を救うために、自分自身を捨てるなんて、そんなものが幸福だなんて、認めないわ!!!」

 

 まどかは何も言わない。言えない。理解していた。

 その言葉が、どれほど深い絶望から生まれたものなのか。

 何度も時間を巻き戻し、何度も失敗し、何度も大切な人を失った少女。

 その果てにようやく手に入れたものが、こんなにも歪んだ形でなければならないなんて。

 

「……ならさ、ほむらちゃんは……ほむらちゃんは、自分をどうしてるの?」

 

 翼を展開したまま、ほむらは首を振った。

 

「私はいい」

「よくないよ」

「あなたが幸せなら、それでいいの」

「……」

「私は、それだけでいい」

 

 ほむらは、一心にまどかを見つめる。

 まどかは、それを真正面から見つめ返し。

 

「それなら、どうしてそんなに寂しそうな顔をしてるの?」

 

 瞳孔が大きく開く。

 ほんの一瞬。

 ほんの一瞬だけ、翼の動きが鈍った。

 その隙を逃すほど、少女たちは甘くはなく。

 

「今よ!」

「っ!」

 

 マミの合図で、槍、銃弾、剣、使い魔が一斉に悪魔に襲い掛かる。光の矢が黒い世界を貫いていく。ほむらは翼を振るい、それらをことごとく退けるが、少しずつ、その動きから余裕が失われていく。翼の先端が欠け、ぼろぼろと結界が剥がれ落ちていく。

 傷ついた翼では、宙を舞うことは出来ない。少女は制空権を喪い、真っ逆さまに墜落した。

 

「……まだ……まだ……!」

 

 両手を地に押し付け、上体を持ち上げようと身体を震わせる。しかし、周囲を染める自分の血液に何度も手のひらを滑らせて。うめくように連ねるその声は、誰に向けられたものでもなかった。

 自分自身に言い聞かせるように。

 何かに追い立てられるように。

 何度も、何度も。

 

「まだ……私は……!」

 

 まどかが一歩、近付く。

 

「ほむらちゃん」

「来ないで!」

 

 絶叫。

 

「来ないでッ!」

 

 黒い翼が暴れ、地面を抉る。まどかは思わず足を止めた。

 

「もう十分だよ」

「違う……!」

「これ以上、私のためにそんな顔」

「違う!」

 

 声量に反し、ほむらの翼が枯葉のように萎れていく。

 

「私は……あなたが幸せなら……それだけで良かった……!」

 

 ほむらは自分の手を見下ろした。

 そこにあるはずのものを探すように。

 もう二度と戻らないものを、確かめるように。

 

「そのはず……だったのに……!」

 

 落涙。ぽたりと黒い地面に、小さな染み。その波紋が伝い、何かが、各々の視界の隅で蠢いた。

 

「……ん?」

 

 足元の影が揺れている。鏡面に映るは一匹の猫。瞬きする間に鏡の世界が反転し、ほむらの傍らに実像が。

 もう一匹、二匹、十匹、百をも超えて尚、黒い世界のあちこちから猫の群れが溢れ出す。空の孔から、地の裂け目から。天の裏側から。どこからともなく、毛玉の軍勢が世界を覆い尽くしていく。

 

「なんだ、こいつら……!」

 

 杏子が後ずさる。

 

「黒キュウべえみたいな、いやほむらの使い魔かなんかか……?」

「……違う」

 

 呟いたのはまどか。他のすべてを意に介さず、猫たちはまっすぐにほむらへ向かっていた。一匹が、ほむらの足元にすり寄る。もう一匹が、翼に飛びつく。そして、三匹、四匹と、黒い影が少女の身体を覆い尽くしていく。

 

「やめ……て」

 

 止まらない。じゃれついているのではない。それは、紛れもなく。

 

「お願い……やめて……!」

 

 捕食行動。

 

「あ……ああ……」

 

 猫に遮られ、声はもう誰にも届かない。けれど、ただ一人、見つめるまどかの瞳に映っていたのは、猫の山などではなかった。ひとつ、またひとつと見えてくる。そこにあるのは、そう。

 泣き、笑い、 果てに絶望しながら祈っている。何度も繰り返して、何度も失敗して、涙を堰き止め戦い続け。忘れられても、恐れられても、それでも、ただ一人の少女を守ろうともがく。

 時間の中に取り残された、たった一人の女の子。

 

「……ほむらちゃん」

 

 まどかの声が震える。

 

「全部……ほむらちゃんだったんだね」

 

 ほむらたちが、さらに重なっていく。その身体を、その翼を、その顔を、その声を、汚く肥大した内なる真実で、単一色に塗り潰していくように。

 

「私は……私は、まだ……!」

 

 黒猫たちは止まらない。切り捨てたモノが、自分自身を食い尽くしていく。そして瞬く間の結末。もう何も残らなかった。ただ一つの、黒い影を除いて。

 残影はゆっくりと地面に溶け、液体のように広がり、渦を巻き、逆巻き、廻天する。黒く、深く、底の裏で、世界を呑み込みながら、少しずつ巨大な形を成していき──

 

 

 

『ahahahahahahahahahahhahahahahahahhahahah』

 

 

 

 突如、空間に顕現した巨大な歯車が回転し、空が裂け、鐘の音が鳴り響く。

 

「……そんな」

 

 マミが息を呑んだ。さやかが剣を握り締める。杏子は槍を構えたまま、言葉を失っていた。まどかもまた、まるでその現実を呑み込めてはいない。

 結界は景色を完全に移し替えられていた。見滝原。街を破壊する規模の嵐に襲われ、暗雲に呑まれた最後の舞台。

 その中心で、逆しまに浮かぶ巨大な魔女の影が揺れている。

 

「なんの冗談だ、ありゃあ……」

 

 何度も巻き戻された時間。何回も失敗した世界。幾度も救えなかった少女。たった一人の少女を救おうと繰り返された願い。その果てにあった彼女の絶望は、かつて“ワルプルギスの夜”と呼ばれたそれと、全く同じカタチをしていた。

 

「……ほむらちゃん」

 

 返事はない。

 ただ、巨大な魔女が笑っている。

 

「やあ」

 

 戦慄にメスを入れる平坦な声音。白い影が、瓦礫の上にちょこんと座っている。

 

「嫌なタイミングで来たわね、あなた」

「おや、どうやらあまり歓迎はされていないみたいだね」

 

 キュゥべえは巨大な魔女を見上げ、続ける。

 

「けれど、君たちも気になっているだろう? あれが何なのか」

「まさか、またあんたが一枚嚙んでるわけ!?」

「言い掛かりだよ。僕はただ、君たちの疑問を解消しに来ただけさ」

 

 キュゥべえは平然と答えた。

 

「ワルプルギスの魔女。その正体は、円環の力に含まれていた、暁美ほむらの集合体だったのさ」

「……集合体?」

「幾度も時を越え、収束した因果。その膨大な力は、何も君だけのものじゃない」

 

 キュゥべえがまどかを見る。

 

「円環の理は鹿目まどか、君で間違いはないけれど──その因果は、そもそも暁美ほむらがもたらしたものだよね。最初から、彼女という存在なくして証明できないものなんだよ」

「ううん、それはおかしいでしょ、だってほむらちゃんが魔法少女になったのは」

「そうだね。君はワルプルギスの夜との戦いで命落とした。その結末を嘆いたほむらは、時(・)間(・)操(・)作(・)の魔術を手に魔法少女になった。きっかけがワルプルギスなのだから、彼女がワルプルギスそのものだというのがおかしいと思うのも無理もない」

 

 五人の目を開かせるその四文字。

 他の魔法少女にはない、特異たる無二の奇跡。

 

「卵が先か、鶏が先かというやつさ。この時間軸を滅ぼした後、彼女は別の時間軸に飛んで呪いを撒き散らすだろう。かつての自分自身の運命さえも捻じ曲げながらね。そして暁美ほむらが魔法少女になる限り、ワルプルギスの夜という存在は産まれ続ける。まさに因果と業の体言といえるよね」

 

 魔女は見滝原の建物をなぎ倒し、突風が少女達を吹き抜けていく。

 キュゥべえは淡々と続ける。

 

「暁美ほむらは、円環の力の一部を抜き取った。ある意味で君とほむらは、今や存在を共有し合う関係になったわけだ。だから、君達が互いに接触した時、どうしても欠損した情報への復元力が働いてしまう。それで彼女は身を隠さざるを得なかったのさ」

 

 まどかは唇を噛む。黒猫を初めて見た日。逃げていった日。距離を縮めていった日々。

 そして、あの猫が死んだ日の哀しみ。

 

「それでもあの子は、最初は幸せそうに日々を過ごす君を見て、多少の満足感は得られていたように見えていたけれどね」

 

 あの時、猫の頭を撫でた時。確かに、何かが伝わってきていた。

 知らないはずの記憶。知らないはずの名前。そして、胸の奥に広がった、言葉にできない懐かしさ。あれは全て、暁美ほむらという少女の嘆きで、声にならない叫びのようなもので。

 

「君のそばにいたかった。けれど、近付けば君を思い出させてしまう。自分の願いを認めれば、君の幸福を守るという目的が揺らいでしまう。彼女はその矛盾を抱えたまま、猫という形で君の前に現れ、それを咎める理性が、蛇という形で増殖を抑制していた。まあ、とどのつまり──」

 

 ワルプルギスの夜が、ようやくまどか達を認識する。

 絶望を振りまく呪いの権化として。正しく魔法少女に立ち塞がるものとして。

 

「あれは、暁美ほむらが、自分自身の欲望に押し負けた姿ともいえるね」

「ばかやろー、逆だろ、それは!」

「……うん、そうだね」

 

 もう忘れない。もう見失わない。そんなことが出来るはずがないし、それだけは、これ以上してはいけなかった。それは鹿目まどかにとって、暁美ほむらという少女が。

 

「まどか!」

 

 さやかの声が響いた。高層ビルをへし折り、空を覆う影がこちらへと迫ってくる。

 

「来るよ!」

 

 五人が並ぶ。

 まどかは、仲間たちを見た。

 

「みんな、力を貸して」

「言わなくても分かってるって」

 

 杏子が笑う。

 

「あの仏頂面、流石にそろそろ崩したくなるってもんよ」

 

 さやかが頷く。

 

「ま、あの煮え切らない態度は気に食わないですね」

「ふふ。まあ、たまには眼鏡に戻って欲しいかもね」

 

 なぎさが呆れたように肩を竦め、マミが微笑む。

 

「行こう」

 

 光の矢が、弓に番えられる。

 

「ほむらちゃんを、迎えに行こう」

 

 

 ✦ ━━━━━━━━━━━━━━ ✦

 

 

 放たれた矢と共に、見滝原の魔法少女における宿命と呼ぶべき戦いが幕を開けた。しかし、無造作に放たれた衝撃波だけで少女達の身体を吹き飛ばし、果敢に打ち込む攻撃は手応えに乏しい。実際のところ、ワルプルギスの夜とのまともな戦闘経験を保有している者は限られている。加えて搦め手や物量でどうにかなる次元ではないほどに、その魔女は強大だった。

 ほむらが抱えてきた無数の絶望、そのすべてが連結し、物理世界を蝕むほど、規格外の魔力の渦となって襲い掛かる。

 記憶が戻ったとはいえ、まどかと円環の理本体との接続は未だ不安定。きっかけ次第で、戦局はどちらにも傾きうる状況だった。

 

「杏子!」

「まだだ!」

 

 吹き飛ばされるも、すぐ槍を地面に突き立て立ち上がる杏子。なぎさの使い魔に乗ったマミが次々と砲弾を放ち、オクタヴィアがさやかと共に巨体を押さえ付け、まどかは四方から矢を放ち続ける。

 

「くそ、埒があかねえ、このままやっててもジリ貧だ! なんかねえのか、こう、起死回生の一手ってやつはさ!」

「弱点みたいなもの、見つけるしかないのかしら」

 

 一つまた一つと、確実に逆しまの魔女の輪郭は崩れていく。けれど、理性無きその勢い自体は一向に衰えることはなく。無論魔法少女達の魔力も、無尽蔵というわけにはいかない。滲み出る焦燥が、表情から余裕を奪っていく。

 

「……なぎさ、アンタあれ、どう思う」

「うーん。魔女は魔女でも、魔女すぎる感、ですかね?」

「どういうこと?」

 

 さやかは剣を構えたまま、遠くに浮かぶ影を睨みつける。

 

「魔女ってのはさ、自分の中の汚いものや醜い欲望が、いわばカタチをもったものだと思うんだよ。もっとぐちゃぐちゃで、もっと奇抜で、人間の姿とはかけ離れていないと不自然なんだ。けどその点、あれはただのデカい女の化け物に見える」

「……お前らとは違うっての?」

「違うね。あれは感情というよりは理性の姿だよ。ヒトの絶望と呼ぶには小綺麗すぎる。だからさ、ありゃ魔女じゃなくて逆さまにしただけの、ただの暁美ほむらなんじゃないかな」

 

 杏子の眉が動く。マミもまた、言葉の意味を探るように魔女の姿を見つめた。

 あれが暁美ほむらそのものなのだとしたら、そこにあるのは何なのか。魔女の姿を借りてまで守ろうとしたものは、いったい何だったのか。

 

「どういうこと? なら、どうして暁美さんはあんな姿になったの」

「つまり、あれは自分を魔女と思い込んでいるだけの着ぐるみってことなのです。ほむらはまだ魔女になり切っていない。自分は魔女に違いないと、ただ自分で決め付けているだけ。それをあの姿自体が証明しているということなのです」

「どちらかと言えば、あれは願望の顕れだよね。まどかの傍にいたいっていう。それはどっちかっていうと魔法少女の在り方に近いんじゃないかと、私は思うね」

「なら、ほむらちゃんと話をしなきゃ。戦うんじゃなくて、その願いが間違いじゃないって、伝えたい」

 

 まどかは構えた弓を下ろす。その様子を見て軽く息を吐き、槍を肩に乗せつつも、杏子は首を傾げる。

 

「理屈は分かったけどどうすんのさ。あんま言いたくないけど、ああなったやつってほんと何しても聞く耳持たないよ」

「もー悪かったって。ま、あれはまだ魔女じゃないんだから、そこはまどかに頼るしかないよ。魔女になる前に何とかする、そういう力なんだから」

「鹿目さん、出来るの?」

「ちょっとの間なら、うん、なんとかなると思う」

 

 まどかは小さく頷く。

 

「待つのです! もし成功しても、いや、してしまえばその瞬間にあれは、ただの馬鹿でかい呪いの塊になってしまいます! 指向性を持たない分、今度こそ嵐とか竜巻とか、そんな程度の話では済まないですよ!」

「はあ!? おいどうすんだ詰んでるじゃねーか!」

「……私はいいよ、まどか」

 

 再び張り詰め始めた空気を、剣閃のような声音が切り裂く。何かを決意したさやかの顔を見て、最初に反応を示したのはなぎさだった。

 

「ああ、なるほどそういうことですか。まあなぎさも別にケチはつけないのです」

「……二人とも、ごめん」

「は? どういうことだよ、ちゃんと説明しろって」

 

 杏子が詰め寄る。だが、その声が届くよりも早く、空を覆う影が大きく揺れた。

 ワルプルギスの夜が巨大な使い魔を放ち、世界が横殴りに吹き飛んだ。

 衝撃波が瓦礫を巻き上げ、地面を砕き、巨大な亀裂を刻み込む。視界を埋め尽くす土煙と耳鳴り。足元から伝わる、世界そのものが軋むような振動。

 やがて煙が晴れた時、倒壊したビルが少女達を分断していた。さやかは上空の魔女を見上げ、唯一傍にいた杏子をちらりと見る。

 

「……あれは、ワルプルギスの夜は、円環の理の力で動いてる。だから完全に消し去るには、同じ力をぶつけてまるごと無かったことにするしかないんだよ」

「それじゃあ、お前ら」

「あんた達だってそうだよ。魔法少女が魔女になる。そういう原理に巻き戻されるんだから。でも、ワルプルギスの夜が消えるなら、その辺の運命もさ、いい感じに変わってくれるかもしれないでしょ」

「んなの分かんねーじゃんか!」

「うん、分かんない。でも本当はこうだったんだよ。まどかは本当は普通の女の子で、それなのにアタシら全てを助けるなんてのが、きっと間違ってた。アイツはさ、既にそれに気付いてたんだ」

「……お前は、それでいいのかよ」

「いいわけないでしょ。でも、うん。いいんだよ、これで」

 

 一方、まどかは俯く。自分が何をしようとしているのか、さやか達が何を受け入れようとしているのか。考えれば考えるほど、その選択は究極の難問と呼ぶべきもので。

 

「なぎさちゃん、マミさん、その……」

「あなたを咎められる人なんて誰もいないわ。それに、いつかきっともっといい方法が見つかると思う。そう信じたいの」

「魔女でもお菓子は食べられますし。どっちでもいいのです」

「……いいんだね、みんな」

 

 返事の代わりに、四人が頷く。

 まどかは目を閉じる。胸の奥に眠っていた光が、少しずつ熱を帯びていく。失われたはずの繋がり。その向こうにある、遥かな呼び声。

 彼女はゆっくりと弓を構え、桃色の光が足元から立ち昇る。

 光柱が天を貫き、黒い結界を内側から照らし出す。幾重にも重なった因果の糸が、まどかの周囲に浮かび上がった。一本一本が、無数の願いと絶望を繋いでいる。

 その輝きに呼応するように、曇天が徐々に高くなっていく。

 

「この時を待っていたよ。一時的に魔力を高め、円環の理との接続を取り戻そうとする、この瞬間をね」

 

 瓦礫の隙間から、白い影が一匹、姿を現す。

 インキュベーター。

 その赤い瞳が、まどかの光を映している。

 一匹の背後から、また一匹。さらに一匹。気付けば地面にも、壁の上にも、崩れた建物の窓辺にも、瞬きする間に無数の白い獣が並んでいた。

 

「戦況を変えるために円環の理の力を使うことは予想できていたからね。今回は結界という盾があるし、まどかという端末に触れさえすれば、ケーブルを通して円環の理の解析を迅速に進められる。実に好都合だ」

 

 白い群れが一斉に動き出す。

 無数の尾が揺れ、細い身体が地を駆け、光の糸へと飛びついていく。円環の理へと繋がる道筋に、小さな影が次々集う。

 

「させるかっての!」

「急げまどか! 長くは持ちそうもない!」

 

 杏子の槍が閃き、さやかの剣が白い影を薙ぎ払う。マミの銃弾が雨のように降り注ぎ、なぎさの使い魔が群れを蹴散らしていく。

 だが倒しても倒しても、白い獣は止まらない。円環の理(デウス・エクス・マキナ)の掌握は彼らにとって至上命題であり、ありったけのリソースを注ぎ込むインセンティブがあった。

 

 瞬間、空が開く。

 黒い天蓋に亀裂が走り、その向こうから届いた黄金の光が桃色の柱を塗り替える。世界を覆っていた闇が押し広げられ、雲の切れ間から、巨大な右腕が伸びてくる。

 

 円環の理。

 かつて、鹿目まどかが自らの願いによって成り果てた、神そのものと呼ぶべき後天的な世界のメカニズム。その掌が、ゆっくりとワルプルギスの夜へ伸びていく。

 魔女は巨大な歯車を軋ませ、漆黒の波動を解き放つ。膨大な魔力が嵐となって吹き荒れ、光を押し返そうとする。

 

 けれど、その手は止まらなかった。指先がついに魔女の身体に触れ、直後に世界は反転する。

 音が消え、風が止まる。重力も時間も空間もその意味を失っていき、まどかという端末の意識は、光に包まれながら深い場所へと沈んでいく。

 やがて辿り着いたその足元には水面のようなものが広がり、頭上には無数の歯車が浮かんでいた。その中心で、黒い糸に絡め取られ、逆さに吊るされた少女が、ゆっくりと顔を上げる。

 

「……ほむらちゃん」

 

 項垂れる長い黒髪。白い肌。けれどその顔は瞳を剥ぎ取られ、福笑いのように不自然に縫い付けられた口が、不気味にその端を吊り上げている。

 宙に浮かぶ幾重にも重なった歯車の隙間から、黒い糸が伸びている。細い糸は少女の手足に絡みつき、首筋を這い、皮膚の下にまで根を張るように食い込んでいた。吊り上げられた身体が、歯車の回転に合わせてゆらゆらと揺れる。

 その姿を見上げ、まどかは足を止めた。

 

「……違うわ」

 

 呟きは、ひどく小さい。けれど、静寂が支配するこの世界の中で、その一雫はどこまでも波紋を広げていく。

 

「あなたの役目は、ここに来ることではないはずよ」

 

 黒い糸がぴんと張った。

 少女の身体がわずかに引き上げられる。まどかは構わず、一歩を踏み出した。

 

「ほむらちゃん、でも」

「私は暁美ほむらではないわ。見れば分かるでしょう」

 

 それを咎めるように、語気が強まる。

 

「ワルプルギスの夜。最悪にして災厄にして最大の魔女。私を消し去ることは、あなたが果たすべき最も重要な仕事でしょう」

「そうして欲しいの?」

「……」

「ほむらちゃん!」

 

 ガシャリと歯車が唸り、目の無い少女の口が上下逆さに反転する。埋め込まれた糸を震わせ、それは叫んだ。

 

「私に! 願いを口にする資格はない……全ての元凶は私だった……何も出来ない、何の役にも立たない、無力で無価値な暁美ほむら……それだけならまだ良かった……私の身勝手な行動が、多くの人々の命を奪い、悲しみを生み出し、貴方を……殺した……生まれてきてはいけなかった……私はもう、絶望する権利さえも、自分自身の手で燃やし尽くしてしまったのだから」

 

 まどかの耳に、途中で何度も途切れる息遣いが強く残る。肩が震えているのに、涙を零す瞳はそこに無い。

 泣くことさえ、自分には許されないと。

 まどかは、そっと目を伏せる。

 事切れた黒猫を抱きながら、自分は何を感じたのか。

 

「身勝手な願いの、何が悪いの」

 

 顔を上げる。

 

「身勝手じゃない願いなんてないよ。ほむらちゃんが私の為に頑張ってくれたことが、間違いでなんかあるはずない」

 

 黒い糸の振動が消える。歯車の影に隠れた少女が、こちらを向いたように見えた。

 

「それに、覚えてる? 私が頼んだんだよ。私を助けてって。だからさ、ほむらちゃん。今度は私の番」

「駄目よ! 繰り返すことになる、私を助けるということは!」

 

 絶叫、世界がぎしぎしと軋む。

 頭上の歯車が一斉に回転を速め、黒い糸が水面を這う。足元から波紋が広がり、まどかの進む道を塞ぐように、無数の影が立ち上がった。

 それでもまどかは、吊るされた少女から目を離そうとはせず。

 言葉はなく。

 その瞳に映る未来を少女は目にし、消えた瞳で瞠目する。

 

「本気なの、まどか」

「さやかちゃんとなぎさちゃんはいいって」

「あなたは? 本当にいいの?」

「うん。今回のことで分かったの。置いていかれることが、どれだけ悲しいことなのかって。でも、きっと間違ってるとも思うの。だからこれも、身勝手な願いなんだよ。私の、鹿目まどかの」

 

 ほむらを見る。

 その向こう側に、いくつもの景色が重なる。笑い合った教室。放課後の街角。何でもない話をしていた帰り道。共に戦った魔女の結界。そしていつも最後には、彼女だけが取り残される。

 唇を結ぶ。

 彼女だけは自分を忘れない。それが自分にとって嬉しくもあり、彼女にも救いになってくれると思っていた。けれど、それこそが、あなたを追い詰めてしまっていたと。

 まどかは地を蹴り、黒い糸の隙間を縫うようにして進み始めた。

 

「ほむらちゃんの言うことは正しい。正しすぎるくらい。だからほむらちゃんの代わりに、私が間違える。そうしたいの」

「まどか……」

 

 かすれた声が、闇の向こうから響く。縫い付けられた口元が歪み、その奥で、見えない何かが震えていた。

 手を伸ばす。頬に触れ、そっと微笑んだ。

 

「今まで置き去りにして、ごめんね」

 

 その言葉で、指先から淡い光の礫が立ち上る。

 ガラスのような音を立てて、少女の身体を縛り付けていた糸が一本、また一本と切れていく。

 覆っていた呪いが剥がれ、口はフェルトになって縫い目から外れ落ちる。堰き止めていた涙が音も無く零れ、閉じた世界の雲間が急速に開かれていく──

 

 

 ✦ ━━━━━━━━━━━━━━ ✦

 

 

 暁美ほむらという少女を通し、かろうじてひとつの形を保っていたワルプルギスの夜。その中核から彼女が切り離されたことで、もはや何者の願いにも縛られない、あらゆる生者を否定する呪いそのものへと変貌を始めていた。

 

 歯車が軋み、幕が翻り、逆さまの街並みが崩れ落ちる。これまでその身にまとっていた滑稽な装飾は、ひとつ、またひとつと剥がれ落ち、黒い奔流となって一点へと収束していく。

 

 空の中心に浮かび上がった、あまりにも巨大な黒い太陽。光を放つどころか、周囲のあらゆる光を呑み込み、空も大地も、そこに存在するすべての色彩を塗り潰していく。

 その表面に無数の亀裂が走った。

 亀裂の奥で明滅するのは、光ではなく、絶望を凝縮した魔力の輝きと呼ぶべきもの。

 

 黒い太陽から無数の光弾が射出される。

 それはただ人を殺す兵器と成り果てた、純粋なる合理性の塊。生きているものを見つけ出し、命の灯火が消えるまで追い続ける、執拗な破壊のためだけに生み出されたミサイル。標的を見失うことも、追跡を諦めることもない。逃げることも、隠れることも、欺くことも許さない。生きているという事実そのものを罪と定め、その存在が消滅するまで追い立てる、絶対的な死の宣告だった。

 

 最初に蹂躙されたのは、地上に残されたインキュベーター。

 無数の白い身体が、次々と魔力の奔流に呑まれていく。ひとつが消え、ふたつが消え、やがて数えることさえ意味を失うほどの速度で、その姿が世界から消し飛ばされていった。

 

 攻撃はそれだけでは終わらなかった。

 標的を失ったミサイルは、すぐさま別の生命を捉える。近くにいた魔法少女たちへと、その進路を変えていった。

 

 回避不能の迫り来る無数の光弾。彼女たちが選べる道は、ただ防ぐことだけ。

 佐倉杏子の傍らに、異形の騎士が姿を現す。オクタヴィア。かつて美樹さやかだったものが、魔女としての姿を借りて、迫り来る死の奔流を受け止める。

 

 その隣では、巨大な菓子の魔女が、幾重にも折り重なった身体を盾にしていた。甘ったるい色彩も、どこかふざけたような姿も、今ばかりは頼もしい防壁となって、魔力のミサイルを次々と受け止めていく。

 

 けれど、それはほんのわずかな猶予にすぎない。

 直撃を受けるたびに、二体の魔女を覆う魔力が削り取られていく。ひとつを防いでも、次が来る。次を防いでも、その次が来る。黒い太陽は、ただひたすらに死を降らせ続けるだけ。

 

 やがて、空を埋め尽くす光弾の向こうから、ひとつの影が舞い降りる。

 その腕には、意識を失った暁美ほむらが抱きかかえられていた。まどかは彼女を決して離すことなく、地上へと降下していく。黒い太陽から放たれる無数のミサイルがその軌道を変え、二人へと迫った。

 

 けれどまどかは振り返らず、ほむらを抱きしめたまま、魔法少女たちの待つ場所へと降り立った。

 

 足元に広がる大地が、淡い光に包まれる。

 雲も、空も、遠くに見えていたはずの景色さえも、その向こう側へと押し退けられていく。現れたのは、ひとりの少女の姿をした、あまりにも巨大な存在。

 

 天を拓くは円環の理。

 その全身が世界を覆い尽くすほどの大きさで、ゆっくりと姿を現していく。長い髪が星々のように広がり、純白の衣が光の奔流となって空を満たす。その背後には、無数の光が羽根のように連なり、世界の理そのものが、人のかたちを借りてそこに在った。

 かつて、たったひとりの少女が願いの果てにたどり着いた、奇跡の姿。

 

 見上げるまどか自身の表情にもう迷いはない。

 彼女は静かに顔を上げ、天に現れたもうひとりの自分へと手を伸ばした。

 

 その手に応えるように、円環の理が両腕を広げる。その身体は光の礫となり、無数の輝きが収束し、宙に浮く長大な弓のかたちを成していく。弦が張られ、その中心に、世界の理を凝縮した矢が生まれた。

 

 魔法少女たちの祈りも、幾度となく繰り返された時間も、そこに積み重なった悲しみも、すべてを抱きしめてきた円環の理。その存在そのものを、ひとつの矢へと変えたものだった。

 

 弓を引く。

 

 黒い太陽が、応えるように無数の亀裂を広げる。表面から放たれる魔力が激しさを増し、世界を覆い尽くすほどの光弾が、いっせいにその標的を定めた。

 

 弦を引く手は緩まない。

 彼女の視線の先にあるのは、ただひとつ。その願いを、最後の一矢に託す。

 

 弦が放たれ、矢は音もなく空を駆け抜ける。

 無数のミサイルがその進路を阻もうと押し寄せる。しかし、矢が触れたものは、黒い光も、歪んだ空間も、そこに凝縮された絶望さえも、ひとつ残らず白い輝きへと変わっていった。

 

 そして、矢は黒い太陽の中心を射抜き、刹那、世界から音が消失。

 巨大な黒い球体に、ひと筋の光が走る。その亀裂は瞬く間に広がり、黒い太陽を覆い尽くしていく。内側から溢れ出した光が、漆黒の表面を突き破り、世界の隅々へと駆け抜けていった。

 

 空が裂け、大地が輝き、世界は極光に充ちる。

 

 無数の光が天を流れ、互いに交わりながら、果てのない空を染め上げていく。黒い太陽も、降り注いでいたミサイルも、そこに至るまでのすべての絶望も、極光の向こうへと溶けていった。

 

 世界を塗り潰していた闇は、もうどこにもなかった。

 ただ、まどかの腕の中で眠る少女の姿と、最後まで彼女を見届けようとする魔法少女たちの姿だけが、淡い光の中に残されていた。

 

 

 ✦ ━━━━━━━━━━━━━━ ✦

 

 

「ここは……」

 

 目を開け、ほむらは周囲を見渡す。大気圏の先、星々の輝く夜空の中心で、まどかがこちらに笑いかける。

 

「猶予みたいなものかな。円環の理もワルプルギスの夜もいない、魔法少女が魔女になる世界に変わっていくまでの」

「なるほど。それで、ここに僕を招いたのはなぜだい? まどか」

 

 キュウべぇのそれにまどかは答えず、右手を開いた。

 そこには、淡い光が集まっている。

 

「それは──なるほど、君が円環の理から分離してから、ほむらが君の記憶を消すために繰り返した分の因果が、また君に集まっていたんだね。けど、また円環の理を作り出せるほどの力じゃないね。その力で君は、今度は何を願おうと言うんだい?」

 

 まどかはほむらを見て、静かに微笑む。

 そして。

 

「私の、願いは──」

 

 

 ✦ ━━━━━━━━━━━━━━ ✦

 

 

 ある街の片隅で、一匹の白い獣が、ひとりの少女を見上げていた。

 少女は、まだ何も知らない。

 自分がどんな願いを抱くのかも。その願いが、いつかどんな結末へとたどり着くのかも。

 今はただ、目の前にいる不思議な生き物を見つめていた。

 白い獣は、赤い瞳で少女を見つめ返し。

 

「突然だけれど、君に叶えたい願いはあるかい? たとえ、いつかその希望と同じだけの絶望に成り果てたとしても。もし、その結末を受容できるのなら──僕と契約して、魔法少女になってよ」




END.

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