泥まみれの英雄たち   作:初時雨

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第一部 神童と喪失/第一章 泥まみれの英雄と魔術の芽生え
第1話 泥まみれのヒーロー


春になっても、ランカスターの朝は寒い。寝台から石床に足をつけると、冷たさに思わず跳ね上がりそうになった。昨夜のうちに暖炉の火は消えている。僕は寝間着の上に毛織りの上着を重ね、廊下へ出た。

 中庭から、こつ、こつ、と木を打つ音が聞こえてくる。

 兄さんだ。

 窓の白い曇りを袖で拭って覗くと、レオンハルト兄さんが木剣を振っていた。七歳の兄さんには、まだ少し長すぎる剣だ。振り下ろすたび、身体ごと前へつんのめる。

 すると兄さんは、自分の手足の短さを不思議がるみたいに眉をひそめ、同じ足運びを何度もやり直した。五歳の僕には、あの木剣を両手で持つだけでも大変だった。

「アルヴィス坊ちゃん。そんなところにいると冷えますよ」

 洗濯物を抱えた侍女のマルタが、背後から声をかけてきた。僕が中庭を指すと、彼女は呆れたように笑う。

「若様は朝食の前から、また稽古ですか。手の皮が剥けてもやめないんだから」

「昨日も血が出てた」

「ええ。せっかく薬を塗って差し上げたのに、木剣を握ればすぐ剥がれてしまいますよ」

 どうしてそんなに急ぐみたいに剣を振るんだろう。手が痛いなら休めばいいのに。

 そう聞いたことがある。

 すると兄さんは「昨日より一回多く振れたら、今日は昨日より強くなったってことだろ」と笑った。ただ、笑っているのに目だけは少しも楽しそうじゃなくて、僕はそれ以上聞けなくなった。

 

◇

 

 ランカスター男爵家は、貴族といっても裕福ではない。冬の間は薪を節約するために使わない部屋を閉め切るし、朝食も固い黒パンと薄い麦粥、それに昨日の残りの豆だけだ。

 隣に座った兄さんは、パンを片手で割ろうとして顔をしかめた。

「やっぱり痛いんじゃない」

「ちょっとだけだ」

「見せて」

「嫌だ。お前、また大げさに騒ぐだろ」

 そう言いながらも、兄さんは両手を差し出した。木剣を握る手のひらや親指の付け根に新しい水ぶくれができ、昨日の傷には細い布が巻かれている。

「ほらね」

「ほらね、じゃない。剣の握り方を覚えてるところなんだ」

 兄さんは空いた方の手で、自分の皿の豆を少し僕の皿へ移すと、僕の髪をくしゃくしゃに撫でた。

 

◇

 

 朝食のあと、台所の裏を通ると、洗い物をしていたマルタが別の侍女と話しているのが聞こえた。

「若様の手に塗る薬草、もう切れそうなのよ。裏の石垣に生えてる、細い葉っぱで裏が白っぽいやつ。あとで摘みに行かないと」

 裏が白い、細い葉っぱ。

 それなら僕でも見つけられるかもしれない。薬は作れなくても、摘んで帰ればマルタが確かめてくれるし、兄さんを驚かせられる。マルタたちが洗濯物を干しに行った隙に、僕はこっそり裏庭へ出た。

 屋敷の裏手には、僕の背より高い古い石垣がある。しゃがんで根元の草をひっくり返してみたけれど、どれも白くない。

 もう少し先ならあるかもしれない。冬の雪で石垣が崩れ、まだ直せていない隙間があった。そこを回り込むと、屋敷の壁が見えなくなり、低い藪が続く細い道へ出た。一本見つけたらすぐ帰ろう。

 そう思って進んだのが間違いだった。何本か草を摘んで顔を上げると、来た道が分からなくなっていた。似たような藪ばかりで、石垣も見えない。

「……マルタ?」

 返事はない。

 もう少し大きな声で呼ぼうとしたとき、藪の奥でがさりと音がした。

 犬だった。

 屋敷の猟犬より一回り小さい。けれど腹がひどく痩せ、毛は泥で固まっている。黄色い歯を覗かせ、鼻先を低くして僕を見ていた。

 そっと一歩下がると、犬も一歩進んだ。逃げようとして後ろの枯れ枝を踏み、乾いた音を立ててしまった。犬の喉から低い唸りが漏れる。

「だ、誰か……」

 膝が震えて、走ろうにも足が動かない。

「アルヴィス!」

 藪をかき分けて、兄さんが飛び出してきた。いつも落ち着いている兄さんが、見たこともないほど真っ青な顔をしていた。僕を見て大きく息を吐き、すぐに犬を睨みつける。

「動くな。ゆっくり、こっちへ来い」

「兄さん……」

「走るなよ」

 兄さんは犬から目を離さないまま足元の落ち枝を拾い、僕と犬の間へ回り込んだ。犬が跳びかかりにくいよう、じりじりと斜めに足を運んでいる。けれど近くに来て初めて、兄さんの足も小刻みに震えているのが見えた。

「アルヴィス、石垣の方へ戻れ。大人を呼んでこい!」

 兄さんが枝を振った。犬は一度身を引いたものの、逃げてはいかない。

 僕は後ろへ下がろうとして、枝が脚に絡み、尻もちをついた。

 その音に、犬が跳んだ。

「兄さん!」

 突き出した枝がへし折られる。次の瞬間、兄さんは迷いなく右腕を突き出し、僕の上へ覆いかぶさった。

 生臭い息とともに、鋭い歯が兄さんの右腕に深く食い込む。

 兄さんが短く叫んだ。

 僕も叫んだ。

 それでも兄さんは腕を引かなかった。ぬかるんだ泥土に膝をめり込ませ、僕を背中に押し隠したまま、空いた左手で犬の喉元を力任せに地面へねじ伏せる。僕は夢中で起き上がり、足元の石を拾って何度も犬の背へ叩きつけた。

「やめろ! 兄さんから離れろ!」

 石垣の向こうから男たちの怒鳴り声がした。崩れた石垣を直しに来ていた作業の者たちが駆けてくる。一人が長い柄の鋤を突き出すと、犬は呻き声を上げて藪の奥へ逃げ去った。

 静まり返ったあとも、兄さんは地面に崩れ落ちたままだった。

 春の雪解け泥が、兄さんの上着や顔、髪にまで飛び散り、噛まれた右袖は引き裂かれて赤黒い血が泥の中に広がっていた。

「……お前、怪我は」

 僕が首を横に振ると、兄さんは張り詰めていた糸が切れたように息を吐き、急に顔を歪めた。

「痛い」

 僕はその場で泣きだしてしまった。握りしめたままだった草の葉が、指の間で泥と一緒に潰れていた。

 

◇

 

 屋敷に戻ると、兄さんはすぐに医者の手当てを受けた。父さまに「勝手に出てはいけないと教えただろう」と厳しく叱られたあと、夕方になってようやく、兄さんの部屋に入ることを許された。

 寝台に腰かけた兄さんは、犬に噛まれた右腕に分厚い包帯を巻いていた。

「兄さん、ごめんなさい」

「もう何回目だ、それ。お前がいなくなったから、探しに行っただけだよ」

 兄さんは僕の手に握られた草に気づき、首をかしげた。

「それ、何だ?」

「兄さんの手に塗るお薬にしようと思って。でも、違う草だった」

 兄さんは息を呑んだように固まり、包帯を巻いていない左の手のひらを開いて、木剣の稽古でできた傷を見た。それから吹き出し、笑った拍子に頬の擦り傷を押さえて痛そうに顔をしかめる。

「馬鹿だなあ。……俺の手なんかのために、そんなところへ行くな。マルタに頼めばいいだろ」

「驚かせたかったんだもん」

「もう十分驚いたよ」

 兄さんはその左手を僕の方へ伸ばしてきた。

「次は一緒に探そう。だから、もう一人で行くなよ」

「……うん」

 僕が手を握ると、いつも木剣を振っているせいで硬い手のひらが、僕の指先を確かめるみたいに強く包み込んだ。

「兄さん、怖くなかった?」

「怖かったよ。すっごく」

「でも、逃げなかった」

 兄さんは僕の手が温かいことを何度も確かめるように撫で、それから少しだけ胸を張った。

 兄さんは僕の手が温かいことを何度も確かめるように撫で、それから少しだけ胸を張った。

「それに、俺はお前のお兄ちゃんだろ」

 僕はその日のことを、ずっと忘れないと思った。剣を振るのがまだ下手でも、犬を前に足が震えていても、泥まみれになって僕を助けに来てくれた。僕にとって、レオンハルト兄さんより格好いい人はいなかった。

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