【第11話 山間の村の議論】
去年、水門の使い方を話し合った村の集会所が、また人の声でいっぱいになっていた。ゴードン爺さんに連れられて入ると、農夫たちが長い机を囲み、畑の地図を指差していた。春の作付けが変わったのに、水門を開ける順番は去年のままだという。
「上の畑は種をまいたばかりだ。今、水を止められたら困る」
「それじゃ下の畑はまた後回しか」
誰も怒鳴りたいわけではなさそうだった。でも、声は少しずつ大きくなっていく。
僕は地図を覗いた。
川から最初に水が入る畑と、最後に届く畑がある。途中の水門を閉めると、別の道へ水が流れるらしい。
「同じ量ずつ流せば?」
僕が言うと、隣の爺さんは首を振った。
「広さも作物も違いますからな。畑が半分の広さなら、水も半分でいい、とは限りません」
村長が僕に席を勧めた。
「坊ちゃんはどう思われますか」
大人たちの目が集まる。僕は急に落ち着かなくなった。
「ええと、上から順番に流すのは?」
「何日ずつにしましょう」
僕は答えられなかった。
どの畑に何が植わっているのか、そもそも水をいつ必要とするのか知らない。
「……分かりません」
村長は少し驚いた顔をした。ゴードン爺さんが僕の横へ椅子を寄せた。
「知らないことは、聞けばよろしい。坊ちゃん、書きつけてみましょう」
僕は小さな紙を出した。
「上の畑には何を植えてるの?」
「ライ麦です」
「下は?」
「豆と、家で食べる野菜です」
話を聞くうちに、上の畑の一つは水が少し遅れても大丈夫だが、下の畑の苗は今乾くと傷むと分かった。でも別の農夫は、下へ先に流すと上の種が発芽しないと言った。僕は何度も紙を書き直した。
昼過ぎ、村長と爺さんが水門の開閉を試す順番を決めた。最初から完璧な分け方ではなく、何日か試して畑の様子を見てから変えることになった。帰り支度をしていると、村長が頭を下げた。
「今日はありがとうございました」
「僕は何もしてないよ」
「話を聞いていただきました」
僕には、それだけで礼を言われる理由が分からなかった。帰りの荷車で爺さんが尋ねた。
「今日、何を覚えましたかな」
「水を流す道だけ分かっても、畑のことを知らなきゃ決められない」
「そうです」
「あと、一回で全部決めなくてもいいんだね」
爺さんは少し目を細めた。
「それを覚えていただければ、今日は十分です」
僕は紙を折りたたみ、外套の内側へしまった。
◇
【第12話 枯れた水路と小さな奇跡】
夏になっても、雨は降らなかった。最初は庭の土が乾くだけだった。やがて井戸の水を使う量が決められ、村から届く野菜も小さくなった。父さまの机には、見たことのない数の報告書が積まれていた。
ゴードン爺さんとヴォルクに連れられて村へ行くと、水路の底が見えていた。以前、足を滑らせそうになった場所は固い泥になり、細かなひびが入っている。
「坊ちゃん、ここへ水を戻せませんか」
村の男が帽子を脱いで言った。
僕は水路を見下ろした。
火を整えることはできる。わずかな水を曲げることもできる。でも、そこには動かす水そのものがなかった。
「川から、もっと引くのは?」
「下流の村にも使う分があります」
爺さんが答える。
「なら、地面の下は?」
ヴォルクが土をひとつまみ取り、指でほぐした。
「あるかもしれん。ただ、どこにどれだけあるか調べないと、掘っても無駄になる」
僕は少しだけ悔しかった。
前にこの村の水路を見たとき、魔術で何とかしたいと思った。でもゴードン爺さんに止められて、水を使う人のことを考えた。今度も、よく調べずに力を使うのはやめようと決めていた。
「僕、何か調べる手伝いができる?」
ゴードン爺さんは村の地図を取り出した。
「昔、水が染み出していた場所がいくつかあります。まずはそこを見て回りましょう」
「僕も行く」
村の男が加わり、四人で畑の縁を歩いた。土を掘る人がいて、僕はその湿り具合を触って比べた。乾ききった場所と、少し冷たく感じる場所がある。でも、冷たいからといって水があるとは限らないとヴォルクに言われた。
昼まで調べても、はっきりした答えは出なかった。集会所へ戻ると、村長が水の入った小さな桶を差し出してくれた。
「遠くまで歩かせて、申し訳ありません」
僕は桶に口をつけかけ、そばにいた子どもを見た。その子は僕より小さく、乾いた唇を舐めていた。
「先に飲んでいいよ」
子どもは母親の顔を見た。母親は迷ってから、僕に頭を下げた。僕は何だか恥ずかしくなった。水を探しに来たのに、飲む水さえ足りないことを忘れかけていた。屋敷へ戻り、父さまに報告した。
「まだ水を戻せるか分からない」
父さまの顔が曇る。
「でも、もう少し調べたい。爺さんと先生と、村の人たちにも手伝ってもらって」
「何が必要だ?」
その問いに、僕はすぐ答えられなかった。
「……明日までに聞いてくる」
父さまはしばらく僕を見つめ、それから頷いた。
「では、ゴードンに道具と人員をまとめさせよう」
僕は頭を下げた。
水を見つけるまでは、まだ長い道のりがある。それでも、次にすることは一つ分かった。
◇
翌朝、ゴードン爺さんは古い図面を広げた。紙の端は擦り切れ、いくつかの文字が消えかけている。
「ここに、昔の水の取り入れ口があったようです」
爺さんが指差したのは、川の本流ではなく、今の水路から少し離れた山裾の岩場だった。
「川から引くんじゃないの?」
「ええ。川の水をこれ以上分けたら、下流の村が干上がってしまいますからな。ですが図面によれば、この岩場の奥には山からの古い湧き水があったようです。昔の大雨で山肌が崩れて取り入れ口が埋まり、修理する金も人手もないまま忘れられていたのですよ」
僕は図面を覗いた。川とは別の細い線が、山裾から古い溝へつながっている。
「今も水が出てるかな」
「土砂の下で岩の割れ目が生きているかどうか、そこを調べます」
村へ着くと、昨日会った子どもが桶を持って歩いていた。僕を見ると足を止め、遠慮がちに頭を下げる。
僕も頭を下げた。
大人たちが地面を掘り始めると、その子は少し離れたところに座り、じっと見ていた。最初に出てきたのは石ばかりだった。次は固い土。その下に湿った砂があった。
「ここだけ少し冷たい」
僕が指先を土へ押し当てると、ヴォルクが隣にしゃがんだ。
「魔術で分かることは?」
「……何か動いてる気がする。でも、すごく小さい」
「無理に引き寄せるな。どこへ向かっているか、まず確かめろ」
僕は目を閉じた。
胸の奥の温かさと、土の下の冷たさ。二つが重ならないように、ゆっくり意識を向ける。川の方からではない。山側の固い岩盤の奥から、冷たい水の筋が崩れた石の下をくぐり、深い砂利の層へそのまま逃げていくのが分かった。
「こっち。山の岩の下から出て、深いところへ逃げてる」
ヴォルクも岩肌に手を当てて頷いた。「川の水脈とは別だな。山から降りてきた湧き水だ。これなら掘り起こしても川の量は減らん」 爺さんは僕が指差したところに棒を立て、男たちへ掘る位置を伝えた。
しばらくして、一人が声を上げた。
「湿ってるぞ!」
崩れた岩と砂を取り除くと、岩盤の隙間から澄んだ水がじわりと湧き出した。最初は泥を濡らすだけだったものが、行き場を得て少しずつ細い筋になった。爺さんはすぐに水を汲ませ、どれくらいの速さで溜まるかを確かめた。
「川の本流には手をつけずに済みますな。これなら下流の村の分を減らさずに、全部ではなくとも畑へ回せるかもしれません」
「やった!」
僕が立ち上がると、足が痺れてよろけた。
ヴォルクが肩を支える。
「まだ終わってない。水を通す道がいる」
「うん」
男たちは木の樋を運び、石を積み直した。僕も石を渡したが、重いものは持たせてもらえなかった。日が傾くころ、細い水が溝へ落ちた。村人の一人が膝をつき、掌を濡らした。
「本当に流れてる」
その声を聞いて、僕は嬉しくなった。
「もう大丈夫?」
ゴードン爺さんは首を振る。
「畑全部には足りません。それに、この水もいつまで続くか調べる必要があります」
僕は少しがっかりした。
でも、昨日は空っぽだった溝を、今日は水が流れている。その違いが僕には大きかった。帰りの荷車では、皆が疲れていた。ヴォルクは珍しく黙り、爺さんは帳面へ数字を書き込んでいた。
「僕、役に立てた?」
小さな声で聞くと、爺さんは顔を上げた。
「ええ。坊ちゃんが流れを感じ取らなければ、あそこは掘らなかったでしょう」
「でも、樋を作ったのは僕じゃない」
「それも大切なことですな」
爺さんは笑った。
「水は一人では運べません」
屋敷へ戻ると、兄さんが荷車の荷下ろしを手伝っていた。
「どうだった?」
僕は今日あったことを最初から話した。兄さんは石の積み方について何度も質問し、最後に言った。
「じゃあ、直ったら俺も見に行きたいな」
「もちろん!」
僕はすぐ答えた。
水路に流れたのは小さな水だったけれど、その日は胸がいっぱいだった。