第14話・第15話 父と長男/客人と届かない剣
【第14話 父と長男】
雨の日は、中庭の土が柔らかくなる。兄さんはそんな日でも剣を振るけれど、滑りそうなところには近寄らない。足を置く場所を一つずつ確かめ、同じ動きを繰り返していた。その午後、兄さんが父さまの執務室へ呼ばれた。
僕は図書室へ本を返す途中、廊下で兄さんとすれ違った。
「どうしたの?」
「稽古の話だって」
兄さんは笑ったが、声が硬かった。戻ってきたのはずいぶん後だった。兄さんは外套も脱がずに中庭へ行き、木剣を握った。最初の十回はいつも通りだった。けれど、そのあと足の置き方が乱れ、剣先が地面を叩いた。
「兄さん」
呼ぶと、兄さんは息を整えた。
「何だ」
「父さま、何て?」
「もっと強くなれって」
「いつも言ってるね」
「そうだな」
兄さんは木剣を握り直した。
「アルヴィスが帝都へ行くなら、俺には別の役目が必要なんだってさ」
僕は首をかしげた。
「兄さんも一緒に行けばいいのに」
「父さまは、そう思ってないみたいだ」
その言葉が嫌だった。
兄さんがいない帝都なんて、僕には想像できなかった。
「僕から父さまに言ってみようか」
「やめろ」
兄さんはすぐ答えた。
いつもより大きな声だったので、僕は驚いた。
「……ごめん」
「いや」
兄さんは目を伏せた。
「怒鳴るつもりじゃなかった」
雨上がりの庭で、木剣の先から水が落ちた。
僕はしばらく黙っていた。
何か助けになることを言いたかったのに、兄さんは僕に頼んでいない。
「兄さんの剣、好きだよ」
やっとそう言うと、兄さんは困ったように笑った。
「好きなだけじゃ、勝てない相手もいるんだ」
「練習したら?」
「相手だって練習する」
僕は言い返せなかった。
夕方になり、兄さんはようやく木剣を置いた。
「今日はもう終わり?」
「ああ。足が滑る」
自分の失敗を確かめるように、兄さんは地面の跡を見ていた。
僕も隣にしゃがんだ。
「明日、晴れるかな」
「晴れたら、また最初からだ」
兄さんは立ち上がり、僕へ手を差し出した。僕はその手を握って立った。何が変われば兄さんが楽になるのか、まだ分からなかった。
◇
【第15話 客人と届かない剣】
客人が来る朝、マルタは僕の襟を何度も直した。
「苦しいよ」
「今日は少しだけ辛抱してください」
廊下にはいつもより多くの足音が響いている。使っていなかった客間に火が入り、玄関には庭の花が飾られた。父さまは朝食の席でも、挨拶を忘れないようにと繰り返した。やって来たのは、隣領の騎士家の親子だった。
父さまたちが客間で話している間、僕と兄さんは二人の少年を庭へ案内することになった。上の子は兄さんと同じくらいの背丈で、腰に飾りのついた剣帯を巻いている。
「レオンハルト様も剣を?」
少年に尋ねられ、兄さんは頷いた。
「毎朝少しずつ」
「それなら、あとでぜひ」
兄さんは笑ったが、相手の足元を一瞬見た。きれいな靴の外側だけ、革が擦れていた。僕には何を気にしたのか分からなかった。
午前中、ヴォルクの許しを得て魔術の授業を少し見せた。油皿の炎を揃えるだけだったのに、少年たちは大きな声を上げた。
「本当に動いた!」
「そんなに珍しいの?」
僕が聞くと、兄さんより年上の少年は真面目に答えた。
「うちには火をつけられる者もいません」
僕は先生の顔を見た。ヴォルクは、調子に乗るなと言いたそうに腕を組んでいる。兄さんは少し離れたところで見ていた。僕が目を合わせると、いつも通り親指を立ててくれた。昼食のあと、少年たちが中庭で木剣を振りたいと言い出した。
父さまも見ている。兄さんは自分の木剣を持ち、客の年上の少年と向かい合った。二人が構えたとき、兄さんは相手の剣先ではなく、肩と足を見ていた。相手がまだ動いていないのに、兄さんの足がほんの少し横へずれた。
僕には、次に何が起こるか知っているみたいに見えた。少年が勢いよく踏み込んだ。兄さんの剣先が動く。相手の横が空いていると、僕にも分かった。けれど兄さんはそこで踏み込まず、剣を引いた。
一拍遅れて少年の木剣がぶつかり、兄さんの剣は地面に落ちた。
「一本!」
客の家人が声を上げた。
少年は嬉しそうに胸を張り、それから慌てて頭を下げた。
「失礼しました」
「いや、俺の負けだ」
兄さんは木剣を拾った。その手つきがあまりに落ち着いていて、僕は不思議だった。負けて悔しくないのだろうか。
「魔術は弟君の方が、剣も――」
年下の少年が言いかけたところで、付き添いの大人が咳払いした。
僕は思わず一歩前へ出た。
「兄さんは毎日練習してるんだよ」
「知ってますよ」
「さっきだって、途中までは――」
「アルヴィス」
兄さんに名前を呼ばれた。
振り向くと、兄さんはほんの少し首を振った。
僕は口を閉じた。
兄さんは客の少年にもう一度礼をして、木剣を壁へ立てかけた。客人たちが帰るころには、空が赤くなっていた。父さまは機嫌よく挨拶を交わしていたが、僕は兄さんの横顔が気になった。
「兄さん、さっき……」
「帰ってからな」
小さな声でそう言われ、僕は頷いた。兄さんの右手は木剣の柄を握ったままだった。
◇
客人を乗せた馬車が見えなくなると、兄さんは中庭へ戻った。木剣を構え、土の上に片足で線を引く。
「もう一回やるの?」
「確かめたいことがある」
兄さんは一歩踏み出し、身体をひねって剣を振った。動きは速かった。さっきの少年よりずっと静かで、木剣が風を切る音だけがした。でも最後のところで足がついていかず、身体が少し流れた。
「……またか」
兄さんが小さく言った。
「何を確かめてるの?」
「ここから、もう半歩出られるかどうか」
兄さんは自分の足元を指した。僕には十分遠くまで踏み込んでいるように見えた。
「さっきもそこへ行こうとした?」
兄さんは少し黙った。
「見てたのか」
「うん。行けそうだったのに、やめたでしょ」
「……相手も動いてたからな」
兄さんはそれ以上言わなかった。僕は納得できなかったけれど、木剣を握る兄さんの手が白くなっているのを見て、聞き返せなかった。兄さんはもう一度踏み込んだ。今度はさっきより遠くへ届いたが、踵が浮いて姿勢を崩した。
「危ないよ」
「分かってる」
兄さんは剣を下ろした。
「頭では届くと思うのに、身体が遅れる」
「それなら、短く踏み込めばいいのに」
「そうすると、届かない相手もいる」
兄さんは土の線を消し、新しい線を引いた。何度か振るうちに、息が荒くなった。木剣の速さは落ちたのに、兄さんはまだ止めようとしない。
「水、持ってくる」
僕が言うと、兄さんは短く頷いた。台所から水を持って戻ると、兄さんは庭の端に座っていた。僕が渡すと、一息で飲み、肩で息をした。
「悔しい?」
「悔しいよ」
兄さんはすぐに答えた。
「でも、今日の相手に負けたからってだけじゃない」
「どういうこと?」
兄さんは水の残りを見つめた。
「できるはずだと思ってたことが、できないときがあるんだ」
僕は魔術の授業で火を大きくしすぎた日のことを思い出した。
「また練習したら?」
「そうだな」
兄さんは笑った。
「今は、それしかない」
その言い方が少し変だった。兄さんはいつも、練習すれば昨日より強くなれると言っていたのに。僕は兄さんの木剣を拾った。
「これ、持って帰るよ」
「重いぞ」
「知ってる。僕も少しは大きくなったもん」
両手で抱えると、確かに重かった。兄さんは僕を見て、ようやくいつもの顔で笑った。
「じゃあ、頼む」
屋敷の玄関まで一緒に歩いた。
「ねえ、兄さん。次にあの子が来たら、また勝負する?」
「どうかな」
「僕は兄さんが勝つところも見たい」
兄さんは少しだけ困ったように笑った。
「そのうちな」
僕には、それが約束なのかどうか分からなかった。