泥まみれの英雄たち   作:初時雨

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第21話・第22話 嵐の書庫/遠ざかる背中

【第21話 嵐の書庫】

 

秋の嵐で、屋敷の窓が一晩中鳴った。寝つけずに廊下へ出ると、書庫から明かりが漏れていた。

「兄さん?」

 扉を開けると、兄さんは大きな地図を机に広げていた。

「眠れないのか」

「うん。雨の音がうるさくて」

「じゃあ、少しここにいろ」

 僕は向かいの椅子へ座った。地図には、ランカスター領だけでなく、帝都や北の国境まで描かれていた。

「こんなに広いんだ」

「本物はもっと広い」

 兄さんは指先で川をなぞった。

「ここが増水すると、この街道は使えなくなる。こっちを通ると、今度は山を越える」

「水路の話に似てるね」

「そうだな」

 僕らは道を追いながら、荷車が何日かかるか考えた。兄さんは兵舎で聞いたことを話し、僕はゴードン爺さんから聞いたことを話した。

 雷が近くで鳴った。

 僕は肩をすくめ、椅子を少し兄さんの方へ寄せた。

「帝都へ行くとき、兄さんも来る?」

 兄さんの指が止まった。

「まだ決まってない」

「僕は一緒がいい」

「前にも聞いたな」

「何回だって言うよ」

 兄さんは小さく笑ったが、すぐに窓の方を見た。

「帝都じゃ、お前にはもっとすごい人たちが会いに来る。俺は、その隣に立って何をするんだろうな」

「兄さんは兄さんでしょ」

「それだけでいいのかな」

 僕は不思議だった。

 兄さんは僕の兄さんだ。それ以上の理由なんて、必要だろうか。雨が少し弱まったころ、兄さんが古い本を閉じた。

「戻ろう。明日寝坊するとマルタに叱られる」

 

 僕は地図を畳むのを手伝った。最後に帝都の印が見えなくなると、なぜだか胸の奥が少し寂しくなった。でも、兄さんが灯りを持って廊下を歩いてくれたので、怖くはなかった。

 

 

◇

 

 

【第22話 遠ざかる背中】

 

秋が深まるにつれ、父さまは僕の授業を増やした。帝都で役立つ知識が要るのだという。朝は魔術、午後は帝国の歴史、夜は計算。ヴォルクが休ませようとしても、父さまはあと少しだけと頼んだ。

 

 先生は僕の顔を見るたび、眠れているか尋ねるようになった。兄さんと遊ぶ時間は減った。中庭へ降りると、兄さんの稽古が終わっている日が多い。ある夕方、兵舎へ行くと、兄さんは剣の手入れをしながら見回りの相談をしていた。

 

「明日の巡回は北門からでいいですか」

 僕が入ってきても、兄さんはすぐには振り返らなかった。兵士との話が終わってから、ようやく笑った。

「どうした?」

「何してるの?」

「明日の見回りの段取り」

「僕も行っていい?」

「父さまに聞いてみろ」

 以前なら、兄さんがすぐに連れていってくれた気がした。その帰り道、僕は少し拗ねていた。

「最近、兄さんは兵舎ばっかり」

「お前も勉強部屋ばっかりだろ」

「僕は父さまに言われてるから」

「俺だって、ここで覚えたいことがあるんだ」

 兄さんの声は怒っていなかった。それなのに、僕は置いていかれる気がした。

「じゃあ、もう遊べないの?」

「そんなこと言ってない」

 兄さんは歩みを止め、僕の目の高さにしゃがんだ。

「時間が合えば一緒にいられる。合わない日もある。それだけだ」

「……うん」

「明日は夕食のあと、地図を見ようか」

 僕はようやく頷いた。

 

 次の日、夕食が遅くなった。ヴォルクの宿題が終わらず、兄さんとの約束を思い出したころには、廊下の灯りが半分消えていた。書庫へ行くと、机に地図が広げられていた。

 でも、兄さんはいない。

 マルタに聞くと、明朝の巡回に備えてもう休んだらしい。僕は椅子へ座り、地図を一人で見た。昨日、兄さんが指した川を辿る。知らない道が何本もあった。兄さんに聞けば教えてくれただろうに。

 僕は地図を畳み、机の端へ揃えた。約束を破ったのは僕の方だった。そのことが悔しくて、寝台に入ってもしばらく眠れなかった。

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