兄さんが野犬に噛まれてから、半年が過ぎた。
夏の短いランカスターでは、秋の風が吹き始めるとあっという間に朝晩が冷え込む。山の上にはまだ雪がないけれど、台所ではもう冬用の薪を数え始めていた。
兄さんの右腕には、あの日の傷が残っている。包帯が取れたあとも、噛まれたところは赤く盛り上がっていた。腕を曲げると引っ張られるらしく、ときどき顔をしかめる。
「今日は二十回」
中庭で兄さんが木剣を構えた。
「昨日は十八回だったよ」
「知ってる。だから二十回」
兄さんは得意そうに言って、一回目を振った。
僕も借りた短い木剣を持って真似をする。三回目で手首が痛くなり、四回目は剣先が土を叩いてしまった。
「お前、腕だけで振るからだよ」
「兄さんも腕で振ってるじゃない」
「腰も使ってる」
兄さんは見本を見せようとしたが、勢いをつけすぎて足を滑らせた。二人で笑っていると、洗濯籠を運んでいたマルタに「遊ぶなら泥を落としてから屋敷へ入りなさいよ」と叱られた。
兄さんは前より元気になった。僕も、あの日以来一人で裏の石垣へ行くことはなくなった。ただ、何か役に立つことをして兄さんを喜ばせたい気持ちは、まだ残っていた。
東棟の回廊には、母さまが大切にしている鉢植えがある。
母さまが帝都からこの屋敷へ嫁いだとき、持ってきた白百合だ。素焼きの鉢には細いひびが入り、下には水受けの皿が敷いてある。冬になると窓辺の暖かい場所へ移し、春になれば外へ出す。それを母さまは毎年欠かさなかった。
けれど、今年は様子が違った。春先の霜が長引いて鉢の土が何度も凍り、根を傷めたせいで夏になっても花をつけなかったのだ。さらに秋口の冷たい風に当たって、今は茎まで黄色く萎れ、葉の先が茶色く縮れている。秋になっても、新しい芽は出てこない。
「これ、もう咲かないの?」
母さまが鉢の脇にしゃがんでいたので、僕は聞いてみた。
「分からないわ。根が生きていれば、また芽を出すかもしれないけれど」
「じゃあ、ずっと置いておく?」
「ええ。もう少しだけね」
母さまは葉先を指で撫でた。僕は、母さまがこんな顔をするのをあまり見たことがなかった。
「帝都のお庭にあった花なの?」
「そうよ。小さいころから見ていた花なの」
「また見られるといいね」
「そうね」
母さまは微笑んだが、声は少し寂しそうだった。
その日の午後、僕は一人で回廊を通りかかった。
窓から差す光の中に、鉢が置かれている。土の表面は乾いていたが、水をやりすぎても根が傷むと母さまから聞いていたので、勝手に水差しを持ってくるのはやめた。
代わりに、しゃがんで茎をそっと触った。
「元気になってよ」
もちろん、返事はない。葉は指に触れるだけで折れそうだった。僕は両手で茎の根元を包み、しばらく眺めていた。
そのとき、胸の内側がふっと温かくなった。
最初は、窓から日が当たったのだと思った。でも違う。肋骨の奥で、何かがゆっくり脈打っている。息を吸って吐くたび、その温かさが肩から腕を下り、手のひらへ集まってくる。
驚いて手を離そうとすると、温かさも途切れそうになった。
もう一度、ゆっくり息を吐きながら触れてみる。
自分の手のひらの熱が、冷たい素焼きの鉢と乾いた土へ、じわりと染み込んでいくような感覚があった。
「……え?」
窓の外を見た。誰もいない。戻って鉢を覗くと、茎の付け根に小さな水滴が一つ浮かんでいた。指は濡れていないし、水を注いだ覚えもない。
僕はしばらくそこで待ったけれど、ほかには何も起こらなかった。気のせいだったのかもしれない。夕食の時間になり、僕は鉢をそのままにして食堂へ向かった。
翌朝、兄さんの素振りを見に行く前に、回廊へ寄った。
そこで足が止まった。
黄色く萎れていた茎が、まっすぐ立っている。
昨日まで垂れ下がっていた葉にも張りがあり、根元には小さな緑色の芽が見えた。
「母さま!」
僕は走りかけ、廊下では走るなと言われたことを思い出して早足に切り替えた。食堂へ向かう途中で、母さまを見つけた。
「お花、元気になった!」
「え?」
「百合! 芽が出てる!」
母さまは少し首を傾げ、それから僕と一緒に回廊まで来た。鉢を見るなり、口元に手を当てる。
「まあ……」
しゃがみ込み、葉を一枚ずつ確かめている。僕は昨日の手のひらのことを話そうとしたが、何と言えばいいのか分からなかった。
「昨日、僕が触ったら、あったかくなったんだ」
「日が差していたからかしら」
「ううん、胸の奥から、手の中が」
母さまは不思議そうに僕の手を取った。そのとき、回廊の向こうから重たい靴音がした。
「おや。こりゃまた、ずいぶん景気よく持ち直しましたな」
腰に麻縄を巻き、泥のついた長靴を履いた老人が立っていた。水路番のゴードン爺さんだ。屋敷の古井戸や水路を見て回っている元工兵で、僕が中庭の井戸を覗こうとすると、いつも危ないから離れろと叱る。
「この鉢、昨日まで弱っておったでしょう」
「そうなのよ。私も驚いているの」
爺さんは鉢の縁を軽く叩き、土の湿り具合を調べた。次に茎の根元を覗き込み、昨日まで枯れていた部分と新しい芽を見比べる。
「水を替えたり、土を足したりなさいましたか」
「いいえ、何も」
「ふむ」
爺さんの視線が僕に向いた。
「坊ちゃんは、何かしましたかな」
「触っただけ。こうやって手を当てて、息を吐いたら、胸が温かくなったんだ」
爺さんは眉を動かし、すぐには答えなかった。
「奥様。ちと坊ちゃんに、簡単なことを試していただいても?」
母さまが頷くと、爺さんは石畳に落ちていた枯れ葉を二枚拾った。湿った茶色の葉だ。爺さんは水差しから皿へ少し水を注ぎ、まず自分の一枚を皿の縁に置いた。
爺さんが太い指先を葉に添え、短く息を吸う。
「――灯れ」
低い声と同時に、葉の端がぷすりと黒く焦げた。
「わしらが現場で火種を作るときは、こうして『灯れ』と言葉を添えて熱の通り道を固めます。坊ちゃん、昨日の温もりを思い出せますか。合図の言葉はあとで教えますから、まずは胸のあたりから腕へ熱を通すようにして、もう一枚の葉っぱにそっと触れてみてくだされ」
僕は頷き、皿の上の枯れ葉へ指先を触れさせた。
昨日のように、ゆっくり息を吐く。言葉なんて何も言わなかった。それなのに、指先が触れている葉の端から、すっと細い煙が立った。一拍遅れて、小さな赤い火種が生まれる。
「わっ!」
驚いて身を引くと、爺さんが素早く皿を押さえた。火は葉の先を少し焦がしただけで、すぐに消えた。焦げた匂いが鼻をくすぐる。
「僕がやったの?」
母さまは息を呑み、僕と葉っぱを交互に見ていた。ゴードン爺さんは、焦げた葉を指で摘まんだまま固まっていた。
「……言葉も添えず、一度で通しましたか」
「何を?」
「魔術の、いちばん初めのところです」
爺さんはそう答えたが、顔つきは見たことがないほど険しかった。
「爺さんもさっきやったじゃない」
「わしは水路の泥を扱う方が得意でしてな。しかも言葉の型が要る。坊ちゃんの今のは、ただの手品じゃありませんぞ」
爺さんは僕の手首を軽く持ち、脈や痛みがないかを確かめた。どこも痛くないと言うと、少しだけ安堵したように息を吐いた。
「もう一回やっていい?」
「今日はそこまで」
「どうして?」
「身体の中の道を、まだ自分で知らんでしょう。小さいうちに無理をすると、身を傷めることがあります」
僕は自分の手を見た。さっきまで普通の手だったのに、急に知らないものになった気がした。
「これで、兄さんの腕の傷も治せる?」
思わず聞いていた。爺さんは少し考え、それから首を横に振った。
「火を出せたからといって、傷を治せるとは限りません。違う調律が要ります。勝手に試すのだけは、いけませんよ」
「……うん」
「でも、ちゃんと習えば、できることは増えるかもしれませんな」
僕はもう一度、元気になった白百合を見た。母さまは鉢に触れたまま黙っていたが、やがて僕の頭に手を置き、柔らかく笑った。
「ありがとう、アルヴィス」
僕は急に照れくさくなった。
その日の昼前、ゴードン爺さんは父さまの執務室へ向かった。
僕も母さまと一緒に呼ばれた。机には水路の図面と、細かな数字を書きつけた帳簿が何冊も積まれていた。
「話は聞いた。枯れ葉に火をつけたそうだな」
父さまはすり切れた軍服姿のまま、椅子から僕を見た。
「うん。ちょっとだけ」
「ゴードン。お前が教えたのか」
「いいえ、型も作業詠唱も教えておりません。ただ昨日の温もりを思い出して触れてみろと言っただけで、坊ちゃんがご自分で」
「偶然ということは?」
「偶然とは思えません。わしが『灯れ』と符丁を使う前に、坊ちゃんは息を整えて指を触れさせただけで火を通しました。言葉の補助輪すら使わず、一度で周囲のマナを応じさせたのです」
爺さんは言い切った。
「ですが、どれほどの才かをわしが決めるのは危険です。間違った扱いをすれば、坊ちゃんの身体を壊します。まずはちゃんとした教本と、腕のある教師を。調べるのはそれからです」
父さまは腕を組み、机に積んだ帳簿を一冊開いて数行に目を走らせた。
「教師を呼ぶ金など、どこにある」
「私には費用のことまでは分かりません。ただ、我流で放置するわけにはまいりません」
母さまが静かに口を開いた。
「エドガー。先にこの子の身体を診てもらいましょう」
父さまは答えず、もう一度僕を見た。その視線は、朝食でパンを残したときのようなものでも、いたずらを叱るときのものでもなかった。
「アルヴィス。今日はもう魔術を使うな。ゴードンの言うことを聞きなさい」
「はい」
「……よくやった」
最後の一言は、小さかった。
部屋を出ると、廊下の向こうから、こつ、こつ、と木剣の音が聞こえた。
兄さんはまだ稽古をしているのだろう。
僕は早くこの話をしたくて、母さまの手を引いた。枯れ葉に火が灯ったことも、白百合が元気になったことも、兄さんならきっと誰より喜んでくれる。
そのときの僕は、少しも疑わずにそう信じていた。