泥まみれの英雄たち   作:初時雨

22 / 24
第一部 神童と喪失/第三章 破滅の吹雪と凡人の歩み
第27話 破滅の吹雪


十歳の誕生日を迎える前夜、屋敷の外では雪が降り続いていた。夕食には母さまの用意した甘い菓子と、約束の焼き栗が出た。父さまは帝都へ持っていく書類の話をし、ヴォルクは僕に食べすぎるなと言った。

 兄さんはいつもどおり、僕が取ろうとした栗を先につまんだ。

「それ、僕の」

「一つくらいいいだろ」

「あとで返してよ」

「栗を?」

 僕たちは笑った。

 寝台に入ってからも、なかなか眠れなかった。明日で十歳になる。帝都に行って、たくさんの人に力を調べられる。それが怖いのか楽しみなのか、自分でもよく分からなかった。

 窓の外で風が鳴っていた。

 眠ったのか、まだ起きていたのかは覚えていない。急に部屋が遠くなったような気がした。呼吸に合わせて感じていたマナの流れが、いつもと違う方へ引かれていく。

 誰かが何かを言ったような気もする。廊下から聞こえたのか、夢の中だったのか、分からない。瞼の裏に細い光が広がる。手を伸ばそうとしても、指先の感覚が曖昧だった。そのあとのことは覚えていない。

 あとになって何度思い返しても、残っていたのは雪の音と、胸の内側がふいに静かになった感覚だけだった。

 

◇

 

 目を覚ますと、母さまが寝台のそばにいた。部屋には見慣れない薬草の匂いが満ちていた。窓の向こうには、まだ雪が残っている。

 

「……母さま?」

 母さまは泣きそうな顔で、僕の額を撫でた。

「よかった」

「どうして泣いてるの?」

「三日も眠っていたのよ」

 

 三日。僕は身を起こそうとしたが、身体に力が入らなかった。何があったのか尋ねると、母さまは高い熱が出たのだと教えてくれた。医師とヴォルクが交代で看ていたらしい。雪の音。胸の内側が遠くなった感覚。ぼんやりした光。

 それだけが残っていた。夢を見ていたのかもしれない。

「兄さんは?」

「兵舎へ出ているわ。あなたが目を覚ましたと聞けば、来るでしょう」

 僕は頷いた。三日も眠っているうちに誕生日が過ぎてしまったことを、早く誰かに話したかった。

 午後、ヴォルクが来た。

「アルヴィス、いつもの呼吸をしてみろ」

 僕は目を閉じ、胸の奥の温かさを探した。

 何もない。

 もう一度息を吸った。心臓は動いている。身体も温かい。それなのに、いつもそこにあった細い流れが見つからなかった。

「先生」

「どうした」

「分からない」

 必死に息を整えた。

「前は、ここにあったのに」

 

 胸へ手を当てると、ヴォルクは答えず、僕の手を下ろさせた。夕方、父さまが来て、火をつけてみるよう言った。机に置かれた油皿を見つめた。いつもなら火の揺れが分かるのに、今はただの冷たい皿だった。何度試しても、何も起きなかった。

 

「もう一度だ」

 父さまの声が硬くなる。

「やめましょう」

 ヴォルクが僕をかばうように立った。

「今はまだ身体を休ませるべきです」

 

 父さまは長く黙ったあと、油皿を片づけさせて出ていった。その夜、母さまは小さな甘い菓子を持ってきてくれた。誕生日に食べられなかった分だという。

 僕は一口だけ食べた。

「きっと熱が下がれば、元に戻るよね」

 

 母さまは僕の肩を抱き寄せたが、答えはくれなかった。あの夜何が起きたのか、僕には分からなかった。ただ、胸の奥にあった温かさだけが、戻ってこなかった。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。