寝台を離れてよいと言われた日、僕は真っ先に勉強部屋へ行った。机の上には二つの燭台が残っている。片方の蝋燭は短く、もう片方はほとんど使っていない。
ヴォルクの帳面もあった。
『十呼吸、安定』
自分の名前の下に書かれた文字を見て、僕は少し笑った。ほんの数日前までは、そんなことができたのだ。僕はいつもと同じように椅子を引いた。背筋を伸ばす。息を吸う。吐く。炎を見る。
マナの流れは、やっぱりどこにもなかった。
「もう一回」
声に出すと、少しだけ落ち着く気がした。何度繰り返しても、燭台の火は変わらない。最後には、自分が何を探しているのか分からなくなった。熱が出たから魔術を失ったのだろうか。それとも、魔術を失ったから三日も眠ったのだろうか。
雪の夜について思い出せるのは、細い光と、胸の内側がふいに静かになった感覚だけだった。病気でこうなったのか、それとも別のことが起きたのか、僕には分からなかった。
兄さんは僕のことを尋ねているらしい。でもなかなか姿を見せなかった。前なら真っ先にからかいに来たはずなのに、どうしてだろう。扉が開き、ヴォルクが入ってきた。
「ここにいたか」
「先生、ちょっと見て」
僕はもう一度、椅子に座り直した。
先生は止めなかった。
僕が何度も息を整えるのを、ずっと見ていた。
「……できない」
やがてそう言うと、ヴォルクは机の燭台を消した。
「今日は終わりだ」
「まだできる」
「身体が震えてる」
僕は自分の手を見た。指先が小さく揺れていた。
「先生、僕、何を間違えたの?」
ヴォルクはすぐに答えなかった。
「今は分からない。原因を調べている」
「調べたら、元に戻る?」
「それも、まだ言えない」
先生が嘘をつかない人だと知っていた。だからこそ、その答えが怖かった。夕食には、兄さんの席も空いていた。母さまは僕にスープを勧めたが、味がよく分からなかった。
「兄さんは?」
「部屋で休んでいるわ」
「会って話したい」
母さまはスプーンを置いた。
「もう少し、待って」
僕は首を振った。
「僕は、何をされたのか聞きたいだけなんだ」
その日の夜、廊下で誰かが歩く音がした。あの夜のことを思い出そうとすると、雪の音と曖昧な光だけが浮かぶ。何が起きたのか分からないのが怖かった。
それでも、誰かが部屋を覗くと、兄さんではないかと期待してしまう。助けてくれたのか、傷つけたのか。答えがないまま二つの気持ちがぶつかって、息が苦しくなった。
僕は扉を開けた。
誰もいなかった。
以前なら、兄さんがそこに立っていて、眠れないのかと尋ねてくれたはずだった。
◇
ヴォルクは本を何冊も借りてきた。先生はまず、僕が寝込んでいた三日間の発熱の記録を確かめた。熱が原因なのか、魔力の異常が先だったのか。医師の記録だけでは判然としなかった。
「じゃあ、どうしてこうなったの?」
「分からない。同じ症例の記録が見つからない」
ヴォルクは医師や屋敷の者にも話を聞いていたが、誰も僕が倒れた瞬間をはっきり説明できなかった。僕は先生にも、分からないことがあるのだと知った。古い治癒術の記録、魔力を使いすぎた兵士の報告書、帝都で発行された学術書。
僕は最初、先生が本を開くたびに期待した。どこかに、僕と同じ状態から治った人がいるのかもしれない。
「この頁は?」
僕が尋ねると、先生は首を振った。
「マナの流れが弱くなった例だ。お前とは違う」
「じゃあ、こっちは?」
「身体の病気が原因だ。これも違う」
机の上に、調べ終えた本が積まれていく。僕は本の高さばかり気にするようになった。ある日、先生が外へ出た隙に、僕は紙へ火の調律の手順を書いた。
呼吸。姿勢。炎の揺れ。
一つずつ確かめながら、昔のように手を伸ばす。
何も起きなかった。
悔しくなって机を叩くと、燭台が倒れそうになった。
僕は慌てて手で押さえた。
火はつけていなかった。
それなのに怖くて、しばらく動けなかった。戻ってきたヴォルクは、紙を見ても叱らなかった。
「アルヴィス、俺が調べているのは、何が起きたかだ」
「元に戻す方法じゃないの?」
「それも探してる。だが、起きたことを知らずに、治す術は選べない」
「いつ分かる?」
先生はゆっくり息を吐いた。
「分からん」
またその答えだった。
「先生でも分からないんだ」
「ああ」
ヴォルクは目をそらさなかった。
「分からないものを、分かると言いたくない」
僕は泣きたくなった。
でも、先生が嘘をついてくれなかったことは、少しだけ嬉しかった。帰る前、先生は新しい帳面を一冊くれた。
「魔術の練習には使わなくていい」
「何を書くの?」
「今日分かったこと。分からなかったこと。それから、思いついたこと」
僕は表紙を開いた。
最初の頁には何も書かれていなかった。その白さが、少し怖かった。