泥まみれの英雄たち   作:初時雨

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第30話・第31話 閉ざされた部屋/兄の出立

【第30話 閉ざされた部屋】

 

十一歳になってから、僕はあまり庭へ出なくなった。窓の外では、兄さんが兵士たちと話している。以前なら、稽古が終わると僕に声を掛けてくれた。今は、こちらを見ることがあっても部屋へは来ない。

 僕も呼べなかった。

 あの夜から、どうしてか兄さんとは話しにくくなっていた。前と同じように声をかけてくれない理由も分からなかった。母さまは何度も散歩へ誘った。

 

「少し日を浴びた方がいいわ」

「あとで」

「アルヴィス」

「あとでって言った」

 強い声が出て、自分で驚いた。母さまは何も言わず、扉を閉めた。

 僕はすぐ謝りたかった。

 でも、身体が動かなかった。机にはヴォルクからもらった帳面があった。最初の頁に書いたのは、『今日は何もできなかった』という言葉だった。

 

 次の日も同じ。

 その次の日は、何も書かなかった。紙が白いまま増えていくのを見るのが嫌だった。ある夕方、マルタが掃除に来た。

「坊ちゃん、窓を開けてもよろしいですか」

「寒いよ」

「少しだけ空気を入れましょう」

 マルタが窓を開けると、庭から木剣の音が聞こえた。

 僕は顔を背けた。

「閉めて」

「はい」

 窓は静かに閉まった。

 夜、台所へ水を汲みに行くと、ゴードン爺さんがいた。帳面を広げ、明日の荷車の数を確かめている。

「坊ちゃん、お久しぶりですな」

「……うん」

「村の水路は、今年も何とか流れています」

 僕は思わず顔を上げた。

「僕がいなくても?」

「もちろんです。皆で直しましたから」

 爺さんは当たり前のことのように言った。

 僕は胸が痛くなった。

 自分がいなくても、ちゃんと続いている。嬉しいことのはずなのに、今は少し寂しかった。部屋へ戻り、帳面を開いた。

『水路は、今年も流れている』

 久しぶりに、新しい一行を書いた。それだけでその日は終わった。

 

 

◇

 

 

【第31話 兄の出立】

 

兄さんが屋敷を離れると知ったのは、十一歳の冬だった。父さまは北の国境にある小さな砦へ、兄さんを送ると決めたらしい。

 

「剣術を続けるため?」

 母さまはしばらく迷ってから頷いた。

「そういうことになっているわ」

 

 そういうこと。変な言い方だと思った。出発の前夜、僕は兄さんの部屋へ行った。寝台の上には古い外套、木剣、何冊かの本。机には磨かれた鞘が置かれていた。

 

「本当に行くの?」

「ああ」

「いつ帰る?」

「まだ分からない」

 僕は戸口に立ったまま、床の木目を見た。兄さんは以前より背が伸びていた。兵舎での稽古が増えたせいか、手には新しいまめができている。

 

「僕が魔術を使えなくなってから、兄さんはあんまり話してくれなくなった」

 兄さんは黙っていた。

「僕といるの、つまらなくなった?」

「そんなことはない」

 答えはすぐだった。

「じゃあ、どうして?」

 兄さんは机の端を見つめた。

「今は、うまく答えられない」

「僕の方が子どもだから?」

「そうじゃない」

「だったら教えてよ」

 声が強くなった。兄さんはそれでも言い返さなかった。

「僕、帝都にも行けなくなったし、前みたいに一緒に練習もできない。なのに兄さんだけ遠くへ行くんだね」

「……ああ」

 兄さんは頷いた。それが余計に悔しかった。

「兄さんには、僕がいなくてもいいんだ」

「アルヴィス」

 名前を呼ばれたが、振り向けなかった。僕は部屋を出た。背中から呼び止める声はしなかった。

 

 翌朝、兄さんは門の前で馬に乗った。父さまは硬い顔で見送り、母さまはハンカチを握りしめていた。

 僕は窓の陰から見ていた。

 兄さんが一度だけ屋敷を振り返る。呼びかけようと思ったのに、言葉が出なかった。馬の足音が遠ざかっても、僕はしばらく窓から離れられなかった。

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