泥まみれの英雄たち   作:初時雨

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第32話・第33話 水路番の仕事/帳簿と地図

【第32話 水路番の仕事】

 

十二歳の春、僕はゴードン爺さんに頼んで、水路の点検に同行させてもらった。以前と違い、僕には魔術がない。爺さんはそのことに一度も触れず、長靴と手袋を渡した。

 

「今日は見るだけではありませんぞ」

「うん」

「まず、木の板がきちんとはまっているか確かめてください」

 僕は水路の脇へしゃがんだ。板の片側に泥が詰まっていた。手袋で掻き出すと、冷たい水が袖の中へ入った。

「うわっ」

 僕が声を上げると、近くの農夫が笑った。

「坊ちゃん、まだ春の水は冷たいですよ」

「知ってる。今知った」

 

 僕が答えると、農夫はまた笑った。以前のように、神童様と頭を下げる人はいなかった。少しだけ寂しかった。でも、こちらも話しやすかった。昼前、木の板を引き抜こうとしたら、泥で固まって動かなかった。

 僕は力いっぱい引いた。

「折れますぞ」

 爺さんに止められた。

「片方から少しずつ緩めましょう。無理に引けば、板も水路も傷めます」

 僕は頷き、棒で泥をほぐした。十分ほどかけて、ようやく板が動いた。動いた瞬間、たまっていた水が細く流れた。

「できた!」

 声が出た。

 爺さんは笑った。

「ええ。水門一つ、ちゃんと直せました」

 昔なら、魔術であっという間に何とかしようとしただろう。今は手が冷たく、腕も痛い。

 それでも水は流れた。帰り道、爺さんが尋ねた。

「また来ますか」

「邪魔じゃなければ」

「邪魔なら最初から連れてきません」

 僕は笑った。

 

 翌日、掌に豆ができていた。兄さんの手にできていた豆を思い出した。同じものではないけれど、少し嬉しかった。

 

 

◇

 

 

【第33話 帳簿と地図】

 

十三歳になるころ、僕は水路の手伝いだけでなく、倉庫の帳簿も写すようになった。大きな数字を計算するのは苦手だったが、荷車がどこへ何回行ったかなら、地図と合わせて確かめられた。

 ある日、北の見張り台へ送る薪の量が、去年より少ないことに気づいた。

「足りなくならない?」

 ゴードン爺さんに尋ねると、爺さんは運搬の記録を見せてくれた。

「荷車は同じ回数出ていますが、今年は道の状態が悪く、一度に積める量を減らしました」

「じゃあ、回数を増やせば」

「馬も人も、ほかの仕事があります」

 僕は地図を広げた。

 橋の手前までは平らな道。橋を越えると急な坂がある。荷を少なくしているのは、その坂を登れないからだという。

「橋まで大きな荷車で運んで、そこで小さな荷車に積み替えるのは?」

 爺さんは首を傾げた。

「積み替える人手が要りますな」

「見張り台から誰か迎えに来てもらえないかな」

「見張りが減ります」

 僕は紙へ数字を書いた。

 荷の量、歩く距離、必要な人。計算するたび、どこかが足りなくなる。

 

 翌日、倉庫の男に聞くと、橋の手前に古い小屋があると教えてくれた。そこで一晩だけ荷を置ければ、馬を休ませながら小分けに運べるかもしれない。

 

「小屋、まだ使える?」

「屋根が抜けてなければね」

 

 僕はゴードン爺さんへ頼み、現場を見に行った。小屋の屋根には穴があり、床板も腐りかけていた。思いついた案は、すぐには使えなかった。でも、板を替える費用と人手を調べることはできた。

 父さまに報告すると、父さまは数字を見て言った。

「修理しても、得になるのは数年先だな」

「でも、その間ずっと使えるよ」

「分かっている。ほかの修理を後回しにしてよいか、考えよう」

 父さまは紙を僕へ返した。

「その図の写しを一部、執務室へ置いていけ」

「修理の予算を考えるの?」

「……それもある」

 父さまはそこで言葉を切り、もう一度だけ僕の書いた数字を見た。

「調べたことは、無駄ではない」

 それは以前のような褒め言葉ではなかった。でも、僕は紙を大事に抱えて部屋へ戻った。

 

 数日後、その図の写しが分厚い封筒にまとめられ、領地の帳簿とは別の棚へ置かれているのを見かけた。何のためなのかは聞かなかった。

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