第36話 初めての軍靴と百二十袋の麦
春の朝、僕はランカスターの屋敷を出た。門の前には小さな荷車が一台待っている。荷物といっても、着替え、ヴォルクにもらった帳面、地図を入れた筒くらいだった。
「忘れ物はない?」
母さまが僕の襟を直す。いつもと同じ仕草なのに、今日は指先が少し震えていた。
「うん。手紙、書くから」
「無理をしないでね」
僕は頷いた。
父さまは荷車の横に立ち、行き先のことをもう一度話した。
「国境守備隊の補給所だ。お前は軍人ではなく、見習いの軍属として働く。命令を聞くこと。分からないことは確認すること」
「分かりました」
「家の名前で仕事をしようとするな」
少し厳しい声だった。
僕は父さまの顔を見た。
「うん。僕にも、それは嫌だ」
父さまは何か言いかけ、結局「気をつけて行け」とだけ答えた。屋敷が見えなくなってから、僕は荷車の上で帳面を開いた。最後の頁には、北の見張り台へ荷を送り終えた記録がある。その下へ、新しい文字を書きかけた。
『今日から――』
何を始めるのか、まだ分からなかった。
僕はペンをしまった。
西谷補給所は、僕が想像していた軍の建物とは違っていた。高い城壁も、旗を掲げた塔もない。石造りの倉庫が三棟と、雨よけのついた荷捌き場。広い土の庭には、荷馬車の車輪の跡が重なっていた。門番が父さまの紹介状を確かめ、奥へ案内した。
倉庫の前で、大きな声が響く。
「空袋を積むな! まだ濡れてるぞ!」
声の主は、短く刈った髪に白髪の混じる男だった。紹介状を渡すと、男は片手で受け取り、ちらりと読んだ。
「補給長のオルドだ。十五歳か」
「はい。アルヴィス・ランカスターです」
「名前は聞いてる」
僕は少し身構えた。
「魔術のことなら、もう……」
「それは俺の仕事じゃない」
オルドは紹介状を畳み、僕へ返した。
「念のため言っておく。ここは貴族の子の見学場所じゃない。続けられるかどうかは、仕事を見て決める」
僕は頷いた。
「はい。そうしてほしいです」
オルドは一度だけ僕の顔を見直した。
「袋は持てるか」
「持てます」
「数は数えられるか」
「はい」
「なら、まず働け」
僕が案内されたのは、麦袋を積み直す場所だった。倉庫の入り口にいた少年が、僕へ麻縄を投げてよこす。
「新入り? 俺はテオ。こっち押さえて」
僕が袋の端を持つと、想像以上の重さに腰が落ちた。テオは笑いかけ、すぐ真顔になった。
「指を下へ入れるな。落としたら潰れる」
「ごめん」
「謝るより、持つところ見て」
僕は言われた通りに、縫い目のある端を握り直した。二人で持ち上げると、何とか荷車の上へ載せられた。
「一袋」
テオが言う。
「一袋」
僕も繰り返した。
それを十回、二十回と続けるうちに、腕の内側が熱くなった。昼の鐘が鳴ったころ、僕は腰を伸ばすのもつらくなっていた。テオは平気な顔で縄をまとめている。
「毎日これやってるの?」
「今日は軽い方だよ。雨が降ったら、もっと面倒」
「どうして?」
「袋が濡れるし、荷車がぬかるみにはまる」
テオは僕の靴を見た。
「その靴、明日には終わるな」
屋敷から履いてきた革靴には、もう泥が入り込んでいた。夕方、補給長のところへ報告に行った。
「何袋運んだ」
僕は答えようとしたが、喉が詰まった。最初の二十までは覚えている。そのあと、腕が痛くなってからは数えていなかった。
「……途中から、分かりません」
オルドは机の上の帳面を指で叩いた。
「運んだものを忘れたら、運ばなかったのと区別できない。明日は荷を持つ前に、数え方を覚えろ」
「はい」
叱られると思ったが、それだけだった。寝台は六つ並んだ小部屋にあった。靴を脱ぐと、踵の皮が少し剥けている。僕は帳面を開き、今度は最後まで書いた。
『一日目。麦袋を何袋運んだか、分からなくなった』
それから思いついて、一行足した。
『明日は数える』
隣の寝台でテオがいびきをかき始めた。僕は少し笑って、灯りを消した。
◇
朝、書記のミラに呼ばれた。僕より少し年上の女性で、髪を短くまとめ、細い炭筆を耳に挟んでいる。
「今日は倉庫の受け入れを手伝って。運ぶ前に記録をつける練習」
机には三枚の紙が並んでいた。昨日の荷車の記録、倉庫の在庫、今日の予定。僕は数字を見ると少し落ち着いた。屋敷でも帳面は毎日見ていたからだ。
「昨日、麦が百二十袋届いてるんだね」
一袋二十五キロとして、帳面上は三トン。それでも石門砦で食べる人たちの、せいぜい二日分ほどだ。西谷へ届く麦は北部全軍の食糧ではなく、いくつもの集積所から分けられた一部だった。
「そう書いてある」
ミラは紙の端を押さえた。
「じゃあ、倉庫に何袋あると思う?」
「元の数に百二十を足して、昨日出した分を引けば……」
僕が答えると、ミラは首を振った。
「そう計算する。けど、それだけじゃ駄目」
彼女は僕を倉庫へ連れていった。倉庫には袋が高く積まれ、床には古い木札が散らばっている。奥の列を指して、ミラが言った。
「ここを数えて」
僕は端から数え始めた。
四十二、四十三、四十四。
数え終えると、帳面より三袋少なかった。
「盗まれた?」
「早く決めつけない」
ミラは一袋の口を開き、麦の粒を指で確かめた。
「昨日の雨で破れた袋がある。中身を移したら、袋の数は変わるでしょう」
「あ……」
「それに、袋ごとに重さも同じじゃない。大事なのは、食べられる麦がどれだけあるか」
僕は屋敷の倉庫で薪の太さを数え直した日のことを思い出した。あのとき分かったはずのことを、また忘れていた。
僕らは袋を一つずつ見た。
口を縫い直したものには印をつける。底が湿ったものは別の場所へ運ぶ。虫がついていないかも確かめた。昼前には手も服も粉だらけになった。
「全部量り直すの?」
僕が聞くと、ミラは笑った。
「急ぐ荷からね。明日の配給分は先に確かめる」
彼女は出荷予定の紙を指した。
「数字が合うまで兵を待たせたら、今度はそっちが困るから」
僕は頷いた。
帳面を正しくすることと、食糧を間に合わせること。その両方を考えないといけなかった。
午後、テオが袋を運びに来た。
「まだやってるのか」
「三袋、数が合わなくて」
「昨日、俺たちで積み替えたやつだろ」
テオがあっさり言う。
「一つ破れてたから、二袋へ分けたんだよ。空になった袋は外へ出した」
「それ、どこにも書いてない!」
ミラが顔を上げた。
テオは肩をすくめた。
「急げって言われたからさ」
「だからって書かなきゃ、明日の朝に誰かが探すのよ」
二人は言い合いになった。
僕は何も言えなかった。昨日、袋を積み直すときに僕も数を忘れていたからだ。
しばらくして、ミラが大きく息を吐いた。
「明日から、袋を移したら木札を一枚置いて。私がまとめて記録する」
「木札なら俺でも書ける」
テオが言う。
「字は要らない。移した袋の数だけ刻みを入れればいい」
ミラは木札へ短い線を一本彫った。テオがそれを受け取り、裏返して眺めた。
「これなら邪魔にならないな」
僕はそのやり取りを見ていた。解決したのは、計算が得意な人でも、力仕事が得意な人でもなかった。二人が話し合ったからだった。
夕方、オルドへ報告した。
「足りない袋は見つかったか」
「袋の数え方が変わっていました。でも、麦の量はまだ全部確認できていません」
「なら、確認した分と、まだの分を分けて書け」
僕は頷いた。
オルドはそれだけ言って別の報告書を開いた。寝る前、今日の帳面へ記した。
『百二十袋という数字だけでは、百二十袋分の麦があるとは言えない』
その下へ、小さく書き足す。
『テオに聞く。ミラにも聞く』
明日の仕事が一つ増えた。