泥まみれの英雄たち   作:初時雨

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第37話 地図の外側

雨が降り始めた三日目、補給所へ伝令が駆け込んできた。北の巡回隊へ送る干し肉と塩の荷が、道の途中で止まっているという。

 僕は倉庫の地図を広げた。

「西の橋を通れば、今日中に届けられるはずです」

 オルドがこちらを向いた。

「地図にはそう書いてあるな」

「じゃあ、荷車を回した方が」

「お前、橋を見たことは?」

「……ありません」

 オルドは僕へ外套を投げた。

「なら、見に行け。ただし、勝手に荷車を動かすな。テオと一緒に行って、橋の状態を報告しろ」

 僕らは小さな馬に荷を持たせず、歩いて出た。雨は細かかったが、道に残った車輪の跡には水が溜まっていた。

「こんな日に外へ出すなんて」

 テオがぼやく。

「僕が地図の話をしたからかな」

「そうだろうな。けど、現物を見ないと決められないのは本当だよ」

 彼は先を歩いた。僕も足元に気をつけてついていった。

 橋へ着くと、僕は驚いた。

 地図には太い一本の線で描かれていたのに、実際の橋は人が二人並べばいっぱいになるほど狭い。木の板は何枚か新しく替えられていたが、中央が沈み、下から水音が聞こえる。

 

「荷車は通れないね」

 僕が言うと、テオは頷いた。

「一台なら落ちないかもしれない。でも、失敗したら馬も荷も川へ落ちる」

 僕は反対側の道を見た。

 橋の向こうには、さらに急な坂が続いている。

「橋を越えても、大変そう」

「雨が降ったら車輪が滑る。帰りだって同じだ」

 地図には坂の勾配まで描かれていなかった。帰り道、テオが僕へ尋ねた。

「屋敷では、地図を見て仕事を決めてたの?」

「見たあとに、誰かへ聞くことが多かったよ。ゴードン爺さんとか、兵の人とか」

「じゃあ、今も同じだな」

 僕は少し笑った。

 軍へ来たら、もっと大きな地図で立派な計画を立てるものだと思っていた。実際には、靴の中へ雨水が入り、橋の板を確かめるところからだった。補給所へ戻ると、ミラが乾いた布を投げてくれた。

 僕は報告の紙へ、橋の幅、沈んだ板、坂道の泥を順番に書いた。

「西の橋は使えません」

 オルドは紙を見た。

「代わりは?」

 僕は地図の南側を指した。

「大回りですが、石畳の旧街道があります。ただ、そっちはまだ見ていません」

「よし」

 オルドは顔を上げた。

「『使える』とは書くなよ。『確認が必要』と書け」

 僕は慌てて文字を直した。

 荷はその日のうちには動かなかった。

 少し悔しかった。

 でも、橋を通れないと分かったことで、馬を危ない場所へ送らずに済んだ。

 テオが僕の肩を軽く叩く。

「ほら、今日は空振りじゃなかっただろ」

 僕は頷いた。

 地図の上にある一本の線にも、そこを歩いた人にしか分からないことがある。僕は橋の横へ、小さく『雨天・荷車不可』と書き込んだ。

 

◇

 

 翌朝、僕はオルドに呼ばれた。机には、昨日歩いて確かめた橋の報告と、旧街道の地図が並んでいる。

「西の橋は使わん。荷は旧街道から回す。荷車二台だ」

 僕は頷いた。

「僕もついていっていいですか」

「記録係としてな。御者のロウについて、出発と到着の時刻を覚えてこい」

 オルドは僕の顔を見た。

「荷が遅れると思ったら、勝手に道を変えるな。まずロウと相談しろ」

 ロウは、髭の濃い中年の御者だった。荷を積み終えると馬の脚を一つずつ確かめ、それから車輪を回し、木の軸へ油を差した。

 

「荷を積む前にやれば早いのに」

 僕が言うと、ロウは鼻を鳴らした。

「積んだときと空のときでは、軸にかかる重さが違う」

 僕は帳面へ『積載後、車輪点検』と書いた。

 テオが覗き込む。

「何でも書くなあ」

「忘れるから」

「それは正しい」

 テオは笑った。

 旧街道は石畳の部分こそ走りやすかったが、谷へ下りる曲がり道が多かった。僕は地図の端に書かれた距離を見て、昼には向こう側の中継所へ着けると思っていた。

 ところが、二刻ほど進んだところで馬車が止まった。

「休ませる」

 ロウが手綱を緩める。

「まだそんなに走ってないよ」

「荷が重い。坂を下るときも、馬は踏ん張ってる」

 僕は馬の腹が大きく動いているのを見た。鼻先には細かい汗がついていた。ロウは水を少しずつ飲ませ、脚を撫でてから、ようやく出発した。

 午後、旧街道の先に別の荷車が停まっていた。その車輪が外れ、道を半分塞いでいる。向こうの御者たちは板を当てて直していたが、僕らの車が通れる幅はなかった。

 

「迂回しよう」

 僕が言うと、ロウが首を振った。

「斜面の草地へ車輪を入れたら、戻せなくなる」

「でも、このままだと遅れる」

「遅れても荷は残る。転べば荷も馬も失う」

 

 その言葉に、僕は返すものがなかった。結局、道が開くまで一刻ほど待った。中継所へ着いたころには、太陽が山の向こうへ隠れかけていた。僕は到着の時刻を記し、地図に線を引いた。

 朝の計算では昼前に着くはずだった。

 実際には半日近く遅れた。

 ロウは荷を下ろしながら言った。

「今日は何がいちばん時間を食った?」

「車輪が壊れてた荷車」

「ほかには?」

「馬の休憩」

「そうだ。どっちも地図には書いてない」

 僕は帳面の余白へ書いた。

『距離だけで時間を決めない』

 今度からは、出発する人にも話を聞いておこうと思った。

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