六歳になった僕に、父さまは新しい勉強部屋を用意してくれた。
東棟の、午前中によく日が当たる部屋だ。長いこと物置になっていたらしく、運び出された箱からは埃が舞い、窓の下には古い机の脚が一本残されていた。マルタたちは二日がかりで床を磨き、石壁の隙間に獣脂と麻くずを詰めて隙間風を塞いでくれた。大きな机と本棚のほかに僕の寝台も運び込まれ、これからは寝起きもこの部屋ですることになった。二つの部屋を別々に暖めるより薪を節約できるからだという。
父さまが町から買った机は、天板に傷がいくつもあった。でも僕には十分立派に見えた。
「ここで毎日勉強するの?」
「ああ。魔術の教師も決まった」
「兄さんも来ていい?」
父さまは書類から顔を上げた。
「レオンハルトには剣の稽古がある。お前は魔術に専念しなさい」
「兄さんも魔術を習ったら、きっと楽しいよ」
「二人にはそれぞれ役目があるんだ」
それ以上聞いても父さまの返事は変わらなかった。
兄さんに部屋を見せると、僕より先に机の引き出しを開けて、何も入っていないことを確かめた。
「すごいな。紙まである」
「まだ何も書いてないよ」
「じゃあ最初に俺の名前でも書いとけ」
「なんで?」
「記念だよ。お前が偉い魔術師になったとき、その紙を売るんだ」
兄さんが大真面目な顔で言うので、僕は笑ってしまった。
「そんなの誰も買わないよ」
「分かんないだろ」
兄さんは笑いながら、右腕をさすった。野犬に噛まれたところには、まだ赤く盛り上がった傷痕がある。寒い日には引きつるらしかった。
「先生が来たら俺にも教えてくれ。火の出し方とかさ」
兄さんはそう言い、僕の頭を軽く小突いて中庭に戻っていった。
家庭教師が来た日は、冷たい雨が降っていた。
ヴォルクと名乗った男は、煤けた灰色の外套を着て、雨に濡れた革鞄を下げていた。顎に無精ひげがあり、父さまの前でも背筋を伸ばしすぎない。僕が想像していた、立派な帽子を被った宮廷魔術師とはずいぶん違う。
「アルヴィスだな。まず、手を見せろ」
挨拶のあと、最初に言われたのはそれだった。
僕が両手を出すと、ヴォルクは指先を一本ずつ確かめた。
「魔術を使ったあと、痛んだことは?」
「ないです」
「息が苦しくなったり、急に眠くなったりは?」
「葉っぱを燃やしたときは、びっくりしただけ」
「ならいい。だが、今日は何でも燃やす稽古をするわけじゃないぞ」
ヴォルクは鞄から小さな油皿を出し、机の中央に置いた。少量の油に浸した芯へ火を移すと、橙色の炎が揺れた。
「身体の中には、マナを通す道がある。魔術回路――パスと呼ぶ」
「道?」
「水路を見たことはあるか。水があっても、溝が塞がれば畑には届かん。魔術も似たところがある。ただし、通る道の大きさと、流す量と、上手に扱うことは、それぞれ別だ」
僕は自分の腕を見た。皮膚の下を覗いても、そんな道は見えない。
「先生には見えるの?」
「直接は見えん。呼吸、疲れ方、術の反応から確かめる。決めつけて無理に流すと身体を傷めるぞ」
先生は僕の小さな手をそっと机へ戻した。
「魔術は、身体の中にある熱を無理やり外へ投げるものじゃない。自分の中を巡るマナと、外にあるものの状態を合わせる。まず呼吸を整えるんだ」
言われた通りに座り直し、息を吸って吐いた。
「そう。炎が左右に揺れるだろ。窓の隙間から風が入っている。お前の思い通りに動くものばかりじゃない。まずそれを見ろ」
炎が揺れる。
僕はしばらく、ただ見つめた。
ヴォルクは何も急かさなかった。僕の肩が上がると、軽く叩いて力を抜かせる。呼吸が速くなると、ゆっくり数を数えた。目を凝らしているうちに、自分が息を止めていたことに気づく。
「そうだ。息を止めるな」
先生は、僕がいつの間にか握りしめていた手を開かせた。
その日の授業は、それだけで終わった。拍子抜けしていた僕に、ヴォルクは帰り際、こう言った。
「白百合を元気にしたときも、枯れ葉を燃やしたときも、何をしたか自分では説明できないんだろ。なら、まず自分の身体で何が起きるのかを覚えろ。先を急ぐのはそれからだ」
翌日も、その次の日も、僕は呼吸を整え、胸の奥の温かさを探す練習をした。
ある日の授業が終わるころ、見回りから戻った父さまが顔を出した。
「どうだ、ヴォルク」
「魔術の素質はあります。ただ、今は基礎を覚えているところです。焦らせないでいただきたい」
「まだ火は使わせていないのか」
「最初に偶然できたことを、繰り返せるようになるには時間が要ります。身体を傷めては元も子もありません」
父さまはしばらく黙り、机に置かれた教本と油皿に目を向けた。
「……必要なものがあれば言いなさい」
ヴォルクは短く頭を下げた。
父さまは僕の肩に手を置いた。
「よく励んでいるそうだな」
「うん。でも、まだ火は動かせないよ」
「そうか。なら、先生の言うことをよく聞きなさい」
父さまが稽古のことを尋ねてくれたのが嬉しかった。僕はうなずいて、教本を机の上にきちんと重ねた。
けれど、その日から屋敷では少しずつ、変わったことが起こった。
まず、東棟の僕の部屋には、朝から夜まで暖炉に薪がくべられるようになった。寒いと授業で指がかじかむし、夜に身体を冷やしてもいけないからだと、マルタは言った。
次に、食事に卵が一つ添えられる日が増えた。
僕は最初、鶏がたくさん卵を産むようになったのだと思っていた。でも、食堂で兄さんの皿を見ると、卵はついていなかった。
「兄さんのは?」
「俺は別にいらないよ」
「でも、僕だけじゃ……」
兄さんは僕の皿の卵を指でつつく真似をした。
「食べないなら俺がもらうぞ」
僕は慌てて皿を引き寄せた。兄さんは笑ったけれど、すぐに自分の冷めたカブのスープへ視線を落とした。
何日かあと、夕食の席で父さまが言った。
「アルヴィスには、これからも十分な食事を用意しなさい。魔術の訓練には体力が要る」
マルタが頷いた。
僕の皿には貴重な塩漬けの干し肉が載っていた。兄さんの前にあるのは、固い黒パンの端切れと薄いスープだけだった。
「兄さんも剣の稽古をしてるよ」
父さまはパンをちぎる手を止めた。
「レオンハルトには必要な分を与えている」
「でも、僕の方が多い」
「アルヴィス」
名前を呼ばれただけだったが、僕はそれ以上話せなくなった。
兄さんがテーブルの下で僕の足を軽く蹴った。
「いいから食えって」
兄さんは小声でそう言った。
僕は干し肉を半分に切って、兄さんの皿へ移そうとした。兄さんは少し迷ったあと、小さい方の一切れだけ受け取った。
「ありがとな」
その声がいつも通りだったので、僕も少し安心した。
冬が近づくにつれ、勉強部屋で過ごす時間は長くなった。
窓の外では、朝早くから兄さんが木剣を振っている。僕は授業が終わると中庭へ降りて、何を習ったか話した。兄さんは大抵、面白そうに聞いてくれた。
ただ、ときどき「今日はもういい」と言って稽古に戻る日もあった。
そんな日、僕はどうしたらいいのか分からず、しばらく兄さんの背中を見ていた。
ある夜、眠る前に水を飲もうと廊下へ出た。
東棟の暖炉にはまだ火が残っていた。僕の部屋も暖かい。
西側の階段へ向かう途中、兄さんの部屋の扉が少し開いているのに気づいた。
「兄さん?」
返事がない。
覗くと、兄さんは寝台の端に座っていた。暖炉は消えている。机の上に木剣が置かれ、その隣に裂けた手袋が一つあった。
「まだ起きてたの?」
「お前こそ」
兄さんはいつもの顔で笑おうとした。けれど、唇が青白い。
「寒くない?」
「平気だよ」
僕が近づくと、石床から刺すような冷たさが上がってきた。自分の部屋とは全然違う。
「薪、持ってこようか」
「明日の朝には入るって」
「でも今、寒いよ」
兄さんは少し黙ってから、掛け布を持ち上げた。
「じゃあ、ちょっとだけ座ってけ。お前、暖かい部屋にいたんだろ」
僕は隣へ座った。掛け布の中で兄さんの手に触れると、指先が氷みたいに冷たかった。
前は、兄さんが僕の手を引いてくれた。
今は僕の方から握ってみたけれど、冷えた指がすぐに温まるわけではなかった。
「明日、先生に聞いてみる」
「何を?」
「部屋を暖かくする魔術」
兄さんは一瞬だけ息を止め、それから吹き出した。
「お前、まだ火を見てる練習ばっかりだろ」
「そのうちできるようになるもん」
「じゃあ、そのときは頼むよ」
兄さんは僕の頭を撫でた。
僕は、その言葉を約束だと思った。
いつかもっとたくさん魔術を覚えたら、この屋敷のどの部屋も暖かくできるかもしれない。兄さんの右腕の傷だって、きっと治せるようになる。
そう考えると嬉しくなった。
けれど、寝台から降りるとき、兄さんが僕の手を離すのが少し早かったことだけは、なぜか胸に引っかかっていた。