泥まみれの英雄たち   作:初時雨

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第39話 同じ食卓、帳簿の余白

翌朝、ロウの荷車は泥だらけになって戻ってきた。馬は疲れていたが、脚に怪我はない。ロウも兵士も元気だった。

「よかった」

 僕が言うと、ロウは濡れた帽子を脱ぎ、苦笑した。

「大げさだな。雨が止むまで待っただけだ」

「待ってたから心配だったんです」

「そりゃ悪かった」

 ロウは馬の首を撫でた。

「でも、無理をしなかったから戻れた」

 僕は頷いた。

 昼、補給所の食堂はいつもより騒がしかった。テオがパンをちぎりながら、昨夜のことを話している。

「うちの新入り、雨の中を飛び出そうとしたんだって?」

「言っただけだよ」

 僕が答えると、何人かが笑った。

「貴族のお坊ちゃんは勇ましいな」

 奥の席から聞こえた声に、僕は手を止めた。以前にも同じようなことを言われた。でも、そのたび何となく笑ってやり過ごしてきた。

 今日は笑えなかった。

「僕は、役に立てると思って……」

「そういうのが邪魔なんだよ」

 年上の荷役係が言った。

「自分が何かしたいからって、こっちの手間を増やされちゃ困る」

 僕は言い返せなかった。

 オルドが止めてくれたから、僕は外へ飛び出さずに済んだ。もし行っていたら、あの人の言う通りだった。でも、何もしなかったわけじゃない。そこまで言いかけて、僕はパンを皿へ戻した。

 

「誰が最後に見たか、あいつが聞いて回ってくれただろ」

 ミラが言った。

「地図の小屋も見つけた。手間が増えたばっかりじゃないよ」

 荷役係は鼻を鳴らしたが、それ以上は言わなかった。

 僕はミラを見た。

 彼女は自分のスープを飲み、こちらを見ずに言った。

「あなたも、言いたいことは自分で言いなさい」

「……うん」

 食事のあと、僕はさっきの荷役係を探した。彼は倉庫の裏で縄を干していた。

「あの、僕、昨日は無茶をしようとしました」

 男は僕を見た。

「でも、外へ行かずに、最後に見られた場所を調べました。あれは役に立ったと思います」

 声が少し震えた。

「だから、何もしてないとは思われたくないです」

 男はしばらく黙っていた。

 

 やがて、濡れた縄を一本渡してくる。

「なら、これを先に干せ。口だけじゃないところも見せてくれ」

 僕は受け取った。

 謝罪でも賞賛でもなかった。でも、少しだけ話ができた気がした。

 

◇

 

 雨が続いた週、食堂のパンが小さくなった。ミラはいつもと同じ大きさの皿に、少し薄いパンを載せている。

「減らしたの?」

 僕が尋ねると、彼女は頷いた。

「補給所の分を一時的に抑えてる。前線の見張り台へ先に送るから」

 僕は帳面を覗いた。

 倉庫にはまだ麦がある。計算上は、全員にいつもの量を出せるはずだった。

「全部配っても残るよ」

「その残りで、次の便が遅れたら何日もたせる?」

 ミラが尋ねた。

 僕は指を止めた。

「……分からない」

「だから決めたんだよ。オルドさんと、調理場の人が話し合って」

 午後、僕は備蓄の記録を写していた。そこへ厨房の女性が来て、ミラに小声で何かを話した。

「明日の朝は、粉をもう少し残してほしいんです。病人用の粥を作るので」

 ミラは帳面をめくった。

「病人が増えたの?」

「雨に濡れて熱を出した兵が二人。それから馬番の子が一人」

 僕は顔を上げた。

 馬番の子は、朝いつも水桶を運んでいる少年だ。

「その子、昨日も働いてた」

「具合が悪いと言わなかったんだろうね」

 厨房の女性はため息をついた。僕は食べ物の欄を見直した。

 麦、豆、干し肉。

 帳面には誰が病気なのか、誰が食べにくいのかは書かれていない。

「病人の分を別に数えたら?」

 僕が言うと、ミラは頷いた。

「それは前からしてる。でも、今回は急に増えた。数字はあとから追いかけてくるの」

 彼女は空いた欄へ、病人の人数と、必要な食事について書き始めた。

「だから、現場に聞かないと帳面だけじゃ足りないんだよ」

 

 夕方、僕は厨房へ薪を運んだ。火のそばは暑く、汗が背中を流れた。病人用の鍋には、薄い麦粥が静かに煮えている。僕は何となく、その鍋を長いこと見ていた。昔なら、魔術で火を強くして早く煮ようとしたかもしれない。

 今は、焦げつかないように薪を足す人がいて、食べられる柔らかさを確かめる人がいる。鍋ができるまでに、何人もの仕事があった。

 

 その夜、帳面に小さな余白を作った。

『予定と違うことが起きたら、誰に確かめるか』

 数字の横へ、人の名前を書く欄だった。僕は真っ先に、ミラと厨房の女性の名前を書いた。

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