泥まみれの英雄たち   作:初時雨

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第44話 石門砦の食卓

数日後、橋の水位が下がり、補強を確かめたあとで荷車が通れるようになった。残りの麦を運ぶ隊に、僕も同行することになった。砦へ着くころには、日が西へ傾いていた。

 石門砦は、谷を挟むように延びる低い石壁と複数の木の見張り台、その内側に並ぶ兵舎や穀物庫からできていた。

 守備兵八百人が交代で壁や街道を見張り、ほかに厨房、鍛冶場、荷役、医療を担う二百人ほどがいる。門の外には大きな荷捌き場と、近隣の農家が荷を持ち込む広場もあった。大きな城を想像していた僕は、少し拍子抜けした。

 

 けれど門をくぐると、兵士たちの顔が疲れていることに気づいた。鎧を脱ぐ暇もないのか、肩当てをつけたまま鍋を運ぶ人がいる。壁際には濡れた外套が何枚も掛けられていた。

 ラウルが迎えに来た。

 彼は砦の在庫表を見せてくれた。普段は十日ほどの食糧を持つが、街道の不通と予定外の部隊の流入が続き、残りは二日分に減ったという。

 

「こんな大きな砦が、三台の荷車を待っていたんですね」

「三台だけで食べているわけではありません。ほかの道からも来る。でもその三台が来ないと、今日の献立と明日の配給を削ることになるんです」

 僕は答えられなかった。大きな軍なら小さな遅れが消えるのではない。遅れの影響を受ける人が増えるのだ。

「よく来てくれました」

 僕は頭を下げた。

「遅くなって、ごめんなさい」

 ラウルは少し困った顔をした。

「謝ってもらいたいわけじゃないんです」

 彼は倉庫へ僕らを案内しながら続けた。

「何が届くのか、いつ届くのか。それが分からないのが一番つらかった」

 

 荷を下ろす間、僕は砦の厨房を見せてもらった。鍋には豆と少量の麦が入っていた。兵士たちの椀は小さい。ひとりの若い兵が、干し肉を手のひらで二つに割っている。

 

「そんなに少なくても大丈夫ですか」

 僕が尋ねると、彼は笑った。

「大丈夫かどうかは、明日にならないと分からないな」

 冗談のつもりだったのだろう。

 でも、僕は笑えなかった。

 砦の医師から、夜番の兵が二人、疲労と冷えで倒れたと聞いた。直接、食糧不足だけが原因とは言えないという。

「眠る時間も足りていません。それでも、温かい食事がもう少しあれば違ったでしょう」

 僕は医師の言葉を帳面に書こうとした。

 途中でやめた。

 その人たちは、記録の中の『二人』ではなかった。今、隣の部屋で眠っている人たちだった。夕食前、ラウルが僕を見張り台へ連れていった。北の森の向こうに、いくつも細い煙が上がっている。

 

「あれが国境?」

「もっと向こうです。煙は、この辺りで暮らしている人たちの家でしょう」

 僕は遠くを見た。

 砦が食糧を求めているあいだも、どこかで普通に夕食を作る人がいる。その距離が思っていたより近く、そして遠く感じた。

「また来てくれますか」

 ラウルが尋ねた。

「僕が決められることじゃないけど、来たいです」

「じゃあ、次は何が必要か聞いてから来てください」

 彼は少し笑った。

 僕はしっかり頷いた。

 帰りの馬車では、砦の人たちの顔ばかり浮かんだ。

 

◇

 

 帰還した翌日、石門砦への輸送について正式な報告の場が設けられた。オルドだけでなく、守備隊の副官も来ていた。僕はミラの横に座り、用意した記録を机へ並べた。橋が閉鎖された日。迂回路の判断。荷馬で先行した人数。落とした荷。負傷者。

 順番に読めば、全部分かるようにしたつもりだった。

「なぜ、峠の危険を十分に確認せず、荷馬を送った」

 副官が尋ねた。

 僕は口を開いたが、先にオルドが答えた。

「最終判断は俺だ。砦の残量を急いで補う必要があった」

「危険だと知っていたのか」

「危険があることは知っていた。だが、今回ほど道が崩れているとは思わなかった」

 副官は書類を見下ろした。

「なら、案内役に確かめるべきだったな」

「その通りだ」

 オルドは言い訳をしなかった。

 僕は手を上げた。

「僕からも言いたいことがあります」

 副官がこちらを向いた。

「輸送の案を出したとき、峠を通る荷馬の速さと運べる量は計算しました。でも、危ない場所を知っている人に、道の状態を聞いていませんでした」

「お前が決めたのか」

「いいえ。でも、僕は大丈夫だと思って提案しました」

 声が震えた。

 副官は頷き、紙へ短く何か書いた。

「提案者の見立てが甘かったことは記録する。ただし決裁者とは分ける」

 僕は黙って頭を下げた。

 会議のあと、オルドが僕を呼んだ。

「よく話した」

「でも、ダニルさんが怪我をしました」

「ああ」

 オルドは机の縁に腰を掛けた。

「お前に必要なのは、二度と失敗しないという誓いじゃない。危険を確かめる方法を増やすことだ」

「それで、足りますか」

「足りないこともある」

 オルドははっきり言った。

「それでも、やるしかない」

 その夕方、僕は診療室へ行った。ダニルは寝台に座り、腫れの引いた足首を布で巻いていた。

「僕が出した案のせいで、怪我を……」

「お前、俺が石段で滑るのを見たのか」

「いえ」

「なら全部を背負おうとするな。俺も足場を見誤った」

 ダニルはそう言って、少し笑った。

「ただ、次に峠へ行くやつには言っといてくれ。あの石段は雨のあと危ない」

「はい」

 僕はその場所を地図へ書き込んだ。謝罪だけでなく、その言葉を次へ渡すのが僕の仕事だった。

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