泥まみれの英雄たち   作:初時雨

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第48話 隊を動かすもの

レオンハルトが補給所へ来たのは、夜の鐘が鳴ったあとだった。僕は書類を届けるため食堂から出たところで、門をくぐる一団を見た。先頭の騎士が馬から降りる。黒い外套には旅の泥がつき、右腕には革の手甲があった。

 顔を上げた瞬間、僕は分かった。

 兄さんだ。

 兄さんは僕を見つけると、ほんの一瞬足を止めた。それから何事もなかったように、オルドへ礼をした。

「レオンハルト・ランカスターです。夜分に失礼します」

「補給所長のオルドだ。隊の到着は明朝と聞いていたが」

「道が空いていたので、先に来ました。兵は明朝到着します」

「なら宿舎を用意する。話は朝にしよう」

 兄さんは頷いた。

 僕の方を見なかった。

 書類を持つ手が冷たくなった。

 何か言いたかった。

 でも、兄さんの周りには知らない兵がいる。彼らが僕を見て、ひそひそと何か話した。僕は踵を返し、倉庫へ向かった。夜遅く、宿舎の廊下で兄さんとすれ違った。

 互いに立ち止まる。

「……久しぶりだな」

 兄さんが言った。

 声は昔と同じだった。

「うん」

「元気そうだ」

「仕事してるから」

 自分でも変な答えだと思った。兄さんは少し笑いかけたが、すぐに表情を消した。

「補給所で働いてるって、母さまから聞いた」

「兄さんも、北で仕事してるって」

「ああ」

 沈黙が落ちた。

 僕は勇気を出して尋ねた。

「北の暮らしはどう?」

 兄さんは少し考えてから答えた。

「寒い。雪の日は馬の世話が大変だ」

「そっか」

 僕はほかにも聞きたいことがあった。でも、それ以上言葉が続かなかった。兄さんは何か話そうとしたけれど、僕は先に歩き出した。

 背中で足音が止まる。

 振り返りたかった。

 でも、振り返らなかった。

 寝台へ戻ると、テオが半分眠った声で言った。

「会えたのか」

「……会った」

「どうだった」

「分かんない」

 

 テオはそれ以上聞かなかった。僕は毛布をかぶり、目を閉じた。兄さんがすぐ隣の宿舎にいる。その事実だけで、ずっと遠くにいたときより眠れなくなった。

 

◇

 

 翌朝、補給所の庭には百人近い兵が並んだ。これは北部戦線の軍勢ではない。レオンハルトが率いる独立した前進部隊で、斥候と騎兵を含めても百人ほどだ。

 ほかの方面では別の部隊が動いている。兄さんがいくら強くても、北の国境に散らばるすべての兵を、一度に守ることはできない。革鎧の擦れる音、馬の鼻息、誰かが小声で交わす冗談。これだけの人が集まると、庭が別の場所になったようだった。

 僕はミラと一緒に、荷の受取書を並べていた。

「前列の二十人は歩兵。後ろの十二騎は先行する。荷馬は八頭」

 ユリウスが確認する。

 僕は帳面の数字と照らし合わせた。

「予備の飼葉が、一日分だけ少ないです」

「計算上は足りるはずだ」

「それは予定日に到着した場合です。峠で一日止まったら」

 ユリウスは答えかけ、紙を取り直した。

「……追加できる?」

 ミラが頷く。

「その分、荷台を少し空けてください。ほかの荷をどうするか決めないと」

 

 僕らは積む順番を変え、予備の弦の箱を後便へ回した。書類の上なら、数行の変更だった。実際には、テオが積んだ箱を全部いったん降ろすことになった。

 

「これ、最初に聞けなかったのかよ」

 テオは汗を拭いた。

「ごめん」

「謝るのはいいから、次は先に言ってくれ」

「うん」

 

 僕は彼と一緒に箱を降ろした。新しい靴の底に、早くも泥がついた。出発前、レオンハルトが庭へ現れた。昨日は旅装だったが、今日は黒い外套の下に薄い鎧を着けている。

 兵たちの前に立つと、兄さんは短く言った。

「荷を先へやりすぎるな。川沿いの道は落石がある。先行する者は、曲がり角ごとに後続へ知らせろ」

 大声ではなかった。

 でも、聞いていた兵士たちはすぐ動いた。兄さんは自分で馬の腹帯を確かめ、ユリウスと何か相談していた。僕は少し離れたところから見ていた。昔の兄さんは、僕の木剣を持って笑う人だった。

 今の兄さんは、百人が動き出す合図を出している。同じ人なのに、どうしてこんなに遠く見えるのだろう。

「お前も同行するか」

 オルドが僕へ尋ねた。

 僕は驚いた。

「僕が?」

「次の中継所までだ。出荷した荷の受け取りを確かめろ。軍属としての仕事だ」

「……行きます」

 僕は答えた。

 兄さんのいる隊へ近づきたいからなのか、荷の行方を確かめたいからなのか、自分でもよく分からなかった。ただ、今度こそ仕事から逃げたくなかった。

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