泥まみれの英雄たち   作:初時雨

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第50話 手甲の下

襲撃者のうち二人は捕まり、残りは森へ逃げた。物を奪うためだったのか、隊の行き先を妨げるためだったのかは、まだ分からない。僕は破れた麦袋と、矢で傷ついた木枠の数を記録した。書類を書き終えても、頭に残ったのは兄さんの右腕だった。

 夜、中継所の医療室で兄さんを見つけた。手甲を外し、古い布で腕を巻き直している。布には血が滲んでいた。

「怪我したんだね」

 兄さんは顔を上げた。

「少しな」

「魔術を使ったから?」

 しばらく沈黙した。

「……そうだ」

 

 僕は腕を見た。野犬に噛まれた昔の傷。その周りを囲むように、細い線がいくつも走っている。兄さんはいつの間に、こんな大きな術を覚えたのだろう。昔は剣を振っている姿ばかり見ていたのに。

 

「前から、あんな魔術が使えた?」

「いや。いろいろ勉強した」

「どうしてそこまでして?」

 兄さんは答えるまで、少し時間をかけた。

「必要だと思ったからだ」

「でも、無理してるのは分かるよ」

「そうだな」

 その短い返事が、かえって心配だった。

「僕は魔術のこと、もうよく分からない。でも、兄さんが元気じゃないと困る」

 兄さんは顔を上げた。

「お前もか」

「当たり前じゃないか」

 

 しばらくして兄さんは、ほんの少し笑った。僕はそれ以上聞かなかった。いつから強い術を覚えたのかは気になったけれど、今はまず休んでほしかった。

 隣の部屋から負傷した兵たちの声が聞こえた。僕は新しい布をそばへ置き、邪魔にならないように立ち上がった。扉を出ようとしたとき、兄さんが呼んだ。

 

「アルヴィス」

 振り返らずに止まる。

「今日、荷のそばに残ってくれて助かった」

 

 あのとき僕は怖かった。ただテオと一緒に、荷を守るために動いた。僕は小さく頷いて廊下へ出た。兄さんの魔術については、まだ分からないことが多い。それでも、無理をしてほしくないと思った。今の僕に言えるのは、それくらいだった。

 

◇

 

 中継所へ着いて二日後、増援隊はさらに北へ向かうことになった。

 僕ら補給係は西谷へ戻る。

 荷を渡すための書類には、兄さんの署名があった。レオンハルト・ランカスター。見慣れた名前なのに、字は昔より大きく、力強くなっていた。出発前、ユリウスが僕を呼んだ。

 

「今回の襲撃について、補給所へ詳しい報告が必要だ」

「書いてあります」

 僕は被害の一覧を渡した。

 ユリウスは最後まで読み、頷いた。

「助かった。怪我した者の報告も別に出す」

「……兄さんの腕もですか」

「レオンハルト卿の?」

 彼は少し驚いた顔をした。

「軽傷と聞いているが」

 僕はそれ以上言わなかった。兄さんが何を隠しているのか、僕にも分からない。荷車が出る少し前、兄さんが門のそばへ来た。

 

「帰るのか」

「うん」

「道の護衛はつけてある。気をつけて」

 僕は頷いた。

 以前なら、こういうとき兄さんは僕の頭を撫でていた。今日は手を伸ばさなかった。

「兄さんも、無理しないで」

 口から出た言葉に、自分で驚いた。兄さんも少し驚いた顔をした。

「……ありがとな」

 短い返事だった。

 馬が動き、荷車が門を出る。

 僕は振り返らずにいた。

 けれど坂道の途中でどうしても気になり、後ろを見た。兄さんはまだ門の前に立っていた。黒い外套が風に揺れ、右手だけが手甲で覆われている。

 

 やがて兄さんは背を向け、北へ行く兵たちのところへ戻っていった。西谷へ帰るまで、テオは兄さんのことを聞かなかった。

 僕も話さなかった。

 補給所へ戻ると、ミラがいつものように言った。

「お帰り。書類はこっち」

 

 机には出荷の予定が山ほど積まれている。僕は外套を脱ぎ、帳面を開いた。兄さんがいくら強くても、ここにある荷を全部運べるわけではない。そう考えたとき、少しだけ呼吸が楽になった。

 僕の仕事はまだ残っている。

 明日も、その次の日も。

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