父さまの執務室には、いつも紙と蝋の匂いがする。机には三通の封筒が並べられ、それぞれ違う紋章が押されていた。
「アルヴィス、座りなさい」
母さまに促され、僕は背筋を伸ばした。父さまは書きかけの手紙を伏せ、僕の顔を見た。
「ゴードンから、村の水路の話を聞いた」
「……うん」
「お前は魔術を使わなかったそうだな」
叱られるのかと思って、僕はすぐに答えられなかった。あのときは、手をかざして水の流れを変えれば、みんなが驚くだろうと思っていた。
「使ってみたかった。でも、ゴードン爺さんに止められたんだ」
「止められなければ、使っていたか?」
「うん」
「では、今はどう思う?」
僕は膝の上で手を握り、水門の前で言い争っていた人たちを思い出した。
「上の畑だけに水を送ったら、下の人が困っちゃう。僕、誰がどれだけ使うのか全部は知らないから」
父さまはしばらく黙り、机の上の手紙に目を落とした。
「知らないまま力を使うべきではない。ゴードンの言いつけを守ったのは正しい。ただ、領地のために魔術が必要になる日もある。稽古は続けなさい」
僕はほっと息を吐いた。けれど、父さまは僕が魔術を使う日を、もう考えているみたいだった。父さまは机の封筒を一通手に取った。
「それとは別に、お前の魔術について問い合わせが来ている」
「僕の?」
「近隣の貴族たちからだ。将来どこで学ぶのか、誰を師とするのか、知りたがっている」
僕は不思議だった。油皿の火を動かせるようになったことは、先生や家族くらいしか知らないはずなのに。
「どうして知ってるの?」
「噂は人づてに広がるものだ」
父さまは封蝋の紋章を指で叩いた。
「騎士家からも、親子で訪ねたいという手紙が届いている。まだ日取りは決まっていないが、そのときはお前も挨拶しなさい」
「兄さんも?」
僕が尋ねると、母さまも父さまを見た。
「もちろんだ。長男だからな」
父さまは当然のように答えた。僕は嬉しくなった。兄さんと一緒なら、知らない子にも会えそうだった。部屋を出ると、廊下でマルタに会った。
「騎士家の人が、そのうち来るかもしれないんだって」
「そうですか。日取りが決まったら、食堂も忙しくなりますね」
マルタはすぐに頭の中で仕事を数え始めたらしい。
「お菓子も出るかな」
「坊ちゃんはそこが気になるんですか」
呆れられて、僕は笑った。
夕方、兄さんを中庭で見つけた。木剣の柄に布を巻き直している。巻き終えた部分を指で押し、すぐにほどいてやり直した。
「騎士家の子が、いつか遊びに来るかもしれないんだって!」
「知ってる」
「一緒に剣の稽古ができるかもしれないよ」
「……そうだな」
兄さんは嬉しそうではなかった。
「どうしたの?」
「客人の前だと、父さまがいつも以上に厳しいから」
「兄さん、ちゃんと練習してるのに」
「練習してることと、勝てることは別なんだよ」
兄さんは柄をもう一度結んだ。さっきよりきつく。
僕は答えに困った。
僕にとって客人は、新しい友だちに会える楽しい出来事だった。でも、兄さんにとっては、そうではないらしい。
その夜、食堂で兄さんにパンを半分渡そうとすると、兄さんは首を振った。
「食べろよ。お前、明日も授業だろ」
「兄さんも稽古でしょ」
「俺は平気」
兄さんは笑った。
僕はパンを皿へ戻したけれど、何となく味がしなかった。
◇
騎士家の訪問の日取りが決まらないまま季節が過ぎ、初雪が降った。兄さんはその朝、中庭で木剣を振らなかった。地面が滑るので、兵士に止められたという。
「じゃあ何するの?」
僕が兄さんの部屋で聞くと、兄さんは机の上に古い地図を広げた。
「お前、これ読めるか?」
屋敷、畑、川、北の見張り台。僕が知っている場所が、小さな線と印になっていた。
「ここ、村へ行くとき通った」
「そう。じゃあ、この橋が流されたら?」
「……渡れない」
「そのとき、食糧を運ぶ人はどこへ行く?」
僕は道を辿った。途中で線が途切れる。
「こっち?」
「そこは沢が深い。荷車なら、こっちの遠回りだ」
兄さんは地図を回して見せた。
「でも冬は、その道も雪で閉じるかもしれない」
「じゃあ、冬になる前に運ぶ?」
「そういうこと」
兄さんは得意そうに笑った。ゴードン爺さんの帳面で聞いた話と同じだった。でも、兄さんが道のことを詳しく知っているのが、僕には少し意外だった。
「誰に教わったの?」
「兵の人たち。見張り台までの道なら、父さまより知ってる人もいるんだぞ」
「兄さん、剣以外のことも覚えてるんだね」
「お前、俺のこと何だと思ってたんだ」
兄さんは呆れた声を出した。僕は笑ったけれど、少し恥ずかしくなった。毎日同じ庭で過ごしているのに、兄さんが僕の知らない人たちから、僕の知らないことを学んでいた。
昼過ぎ、雪は小降りになった。僕らは地図を持って窓辺へ移った。外では兵が荷車の車輪へ布を巻いている。
「どうしてあんなことしてるの?」
「滑らないようにするんだって」
「兄さんは何でも知ってるね」
「何でもじゃない。聞いたことを覚えてるだけ」
兄さんはそう言って、僕の頭を軽く小突いた。しばらくして、僕は地図の端にある帝都の印を見つけた。
「ここ、僕も行くのかな」
「父さまは行かせたいみたいだな」
「兄さんは?」
「俺は……どうだろう」
兄さんは曖昧に笑った。
「一緒がいいな」
「なんで?」
「知らないところ、一人じゃ怖いから」
「お前、魔術は怖がらないのに」
「魔術と帝都は違うもん」
兄さんは笑った。
「犬だって、一人じゃ怖かったろ」
「それは兄さんだって怖かったくせに」
「それを言うなよ」
兄さんは右腕をさすった。袖の下には、野犬に噛まれた傷が残っている。僕はあのときのことを思い出し、少しだけ黙った。兄さんが来てくれなかったら、僕はどうなっていただろう。
「ねえ、兄さん」
「何だ?」
「僕がもっと魔術を覚えたら、兄さんと一緒に仕事したい」
「何の?」
「兄さんが剣で守って、僕が後ろから助けるの」
兄さんは首を傾げた。
「それじゃ、俺が危ない目に遭うのが前提じゃないか」
「じゃあ僕も前に行く」
「お前は前に出るなよ」
兄さんは困ったように笑った。
「なら、二人で考えよう。どっちが前に出るかじゃなくて、どうしたら誰も怪我しないか」
「うん!」
僕はすぐ頷いた。
窓の外では、また雪が強くなっていた。兄さんは地図を畳み、机の引き出しへしまった。
「いつか一緒に行けたらいいな」
「約束?」
僕が小指を差し出すと、兄さんは少し照れながら指を絡めた。
「約束」
その手は僕より大きく、木剣のせいで指の根元が固かった。僕はその手をぎゅっと握った。未来がどんなふうになるのかなんて、まだ知らなかった。でも、兄さんとなら大丈夫だと思っていた。