泥まみれの英雄たち   作:初時雨

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第7話 父の手紙と二人の約束

父さまの執務室には、いつも紙と蝋の匂いがする。机には三通の封筒が並べられ、それぞれ違う紋章が押されていた。

「アルヴィス、座りなさい」

 母さまに促され、僕は背筋を伸ばした。父さまは書きかけの手紙を伏せ、僕の顔を見た。

「ゴードンから、村の水路の話を聞いた」

「……うん」

「お前は魔術を使わなかったそうだな」

 叱られるのかと思って、僕はすぐに答えられなかった。あのときは、手をかざして水の流れを変えれば、みんなが驚くだろうと思っていた。

 

「使ってみたかった。でも、ゴードン爺さんに止められたんだ」

「止められなければ、使っていたか?」

「うん」

「では、今はどう思う?」

 僕は膝の上で手を握り、水門の前で言い争っていた人たちを思い出した。

「上の畑だけに水を送ったら、下の人が困っちゃう。僕、誰がどれだけ使うのか全部は知らないから」

 父さまはしばらく黙り、机の上の手紙に目を落とした。

「知らないまま力を使うべきではない。ゴードンの言いつけを守ったのは正しい。ただ、領地のために魔術が必要になる日もある。稽古は続けなさい」

 僕はほっと息を吐いた。けれど、父さまは僕が魔術を使う日を、もう考えているみたいだった。父さまは机の封筒を一通手に取った。

 

「それとは別に、お前の魔術について問い合わせが来ている」

「僕の?」

「近隣の貴族たちからだ。将来どこで学ぶのか、誰を師とするのか、知りたがっている」

 僕は不思議だった。油皿の火を動かせるようになったことは、先生や家族くらいしか知らないはずなのに。

「どうして知ってるの?」

「噂は人づてに広がるものだ」

 父さまは封蝋の紋章を指で叩いた。

「騎士家からも、親子で訪ねたいという手紙が届いている。まだ日取りは決まっていないが、そのときはお前も挨拶しなさい」

「兄さんも?」

 僕が尋ねると、母さまも父さまを見た。

「もちろんだ。長男だからな」

 

 父さまは当然のように答えた。僕は嬉しくなった。兄さんと一緒なら、知らない子にも会えそうだった。部屋を出ると、廊下でマルタに会った。

 

「騎士家の人が、そのうち来るかもしれないんだって」

「そうですか。日取りが決まったら、食堂も忙しくなりますね」

 マルタはすぐに頭の中で仕事を数え始めたらしい。

「お菓子も出るかな」

「坊ちゃんはそこが気になるんですか」

 呆れられて、僕は笑った。

 夕方、兄さんを中庭で見つけた。木剣の柄に布を巻き直している。巻き終えた部分を指で押し、すぐにほどいてやり直した。

「騎士家の子が、いつか遊びに来るかもしれないんだって!」

「知ってる」

「一緒に剣の稽古ができるかもしれないよ」

「……そうだな」

 兄さんは嬉しそうではなかった。

「どうしたの?」

「客人の前だと、父さまがいつも以上に厳しいから」

「兄さん、ちゃんと練習してるのに」

「練習してることと、勝てることは別なんだよ」

 兄さんは柄をもう一度結んだ。さっきよりきつく。

 僕は答えに困った。

 僕にとって客人は、新しい友だちに会える楽しい出来事だった。でも、兄さんにとっては、そうではないらしい。

 

 その夜、食堂で兄さんにパンを半分渡そうとすると、兄さんは首を振った。

「食べろよ。お前、明日も授業だろ」

「兄さんも稽古でしょ」

「俺は平気」

 兄さんは笑った。

 僕はパンを皿へ戻したけれど、何となく味がしなかった。

 

◇

 

 騎士家の訪問の日取りが決まらないまま季節が過ぎ、初雪が降った。兄さんはその朝、中庭で木剣を振らなかった。地面が滑るので、兵士に止められたという。

 

「じゃあ何するの?」

 僕が兄さんの部屋で聞くと、兄さんは机の上に古い地図を広げた。

「お前、これ読めるか?」

 屋敷、畑、川、北の見張り台。僕が知っている場所が、小さな線と印になっていた。

「ここ、村へ行くとき通った」

「そう。じゃあ、この橋が流されたら?」

「……渡れない」

「そのとき、食糧を運ぶ人はどこへ行く?」

 僕は道を辿った。途中で線が途切れる。

「こっち?」

「そこは沢が深い。荷車なら、こっちの遠回りだ」

 兄さんは地図を回して見せた。

「でも冬は、その道も雪で閉じるかもしれない」

「じゃあ、冬になる前に運ぶ?」

「そういうこと」

 

 兄さんは得意そうに笑った。ゴードン爺さんの帳面で聞いた話と同じだった。でも、兄さんが道のことを詳しく知っているのが、僕には少し意外だった。

 

「誰に教わったの?」

「兵の人たち。見張り台までの道なら、父さまより知ってる人もいるんだぞ」

「兄さん、剣以外のことも覚えてるんだね」

「お前、俺のこと何だと思ってたんだ」

 

 兄さんは呆れた声を出した。僕は笑ったけれど、少し恥ずかしくなった。毎日同じ庭で過ごしているのに、兄さんが僕の知らない人たちから、僕の知らないことを学んでいた。

 昼過ぎ、雪は小降りになった。僕らは地図を持って窓辺へ移った。外では兵が荷車の車輪へ布を巻いている。

「どうしてあんなことしてるの?」

「滑らないようにするんだって」

「兄さんは何でも知ってるね」

「何でもじゃない。聞いたことを覚えてるだけ」

 兄さんはそう言って、僕の頭を軽く小突いた。しばらくして、僕は地図の端にある帝都の印を見つけた。

「ここ、僕も行くのかな」

「父さまは行かせたいみたいだな」

「兄さんは?」

「俺は……どうだろう」

 兄さんは曖昧に笑った。

「一緒がいいな」

「なんで?」

「知らないところ、一人じゃ怖いから」

「お前、魔術は怖がらないのに」

「魔術と帝都は違うもん」

 兄さんは笑った。

「犬だって、一人じゃ怖かったろ」

「それは兄さんだって怖かったくせに」

「それを言うなよ」

 

 兄さんは右腕をさすった。袖の下には、野犬に噛まれた傷が残っている。僕はあのときのことを思い出し、少しだけ黙った。兄さんが来てくれなかったら、僕はどうなっていただろう。

 

「ねえ、兄さん」

「何だ?」

「僕がもっと魔術を覚えたら、兄さんと一緒に仕事したい」

「何の?」

「兄さんが剣で守って、僕が後ろから助けるの」

 兄さんは首を傾げた。

「それじゃ、俺が危ない目に遭うのが前提じゃないか」

「じゃあ僕も前に行く」

「お前は前に出るなよ」

 兄さんは困ったように笑った。

「なら、二人で考えよう。どっちが前に出るかじゃなくて、どうしたら誰も怪我しないか」

「うん!」

 僕はすぐ頷いた。

 窓の外では、また雪が強くなっていた。兄さんは地図を畳み、机の引き出しへしまった。

「いつか一緒に行けたらいいな」

「約束?」

 僕が小指を差し出すと、兄さんは少し照れながら指を絡めた。

「約束」

 

 その手は僕より大きく、木剣のせいで指の根元が固かった。僕はその手をぎゅっと握った。未来がどんなふうになるのかなんて、まだ知らなかった。でも、兄さんとなら大丈夫だと思っていた。

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