とある風紀委員の殺意追跡   作:黒鏡

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3話 『視』

 

 

「二人目の死者についてです」

 

進行役の男が、紙の資料を一枚めくった。天井の送風口は、相変わらず低い音を立てて温風を吐き出している。

 

「九月六日の夜、第十五学区の配信スタジオで、高校二年の男子生徒が死亡した。霧島カイト。死亡した時刻、あなたたちはその場にいましたね」

 

「ええ」

 

黒子は膝の上で指を組んだまま答えた。

 

「三万人と一緒に、見ていましたわ」

 

男のペン先が、紙の上で一度だけ止まった。それから何事もなかったように、また小さな音を立てて動きはじめた。

 

 

 

 

 

 

◆

 

 

 

 

 

 

 

一 九月六日 午後五時十分

 

幼稚園の門を出たところで、黒子は黄泉川に電話をかけた。

 

夕方の第十三学区の通りには、もう園児の姿はなかった。低いガードレールの向こうを、配送ロボットが一台、小さなモーター音を立てて通り過ぎていく。黒子は歩道の端に寄り、携帯電話を耳に当てて、初春から聞いた数字をそのまま黄泉川に伝えた。

 

『ネットで名前が一番になった。それだけで、警備員を動かせって?』

 

受話口の向こうで、黄泉川がため息をつく。

 

「篠宮さんも、亡くなる前の晩までは一番でしたの」

 

『それは聞いた。けど、炎上してる人間の名前が上に来るのは当たり前じゃん。白井だって分かってるだろ』

 

「分かっておりますわ。分かっていて、お電話しておりますの」

 

しばらく返事がなかった。電話の向こうで、誰かが無線で何かを報告している声がかすかに聞こえる。

 

『……霧島の事務所に、二人回す。名目は念のための見回り。それ以上は出せない』

 

「十分ですわ」

 

『風紀委員がついてくるなら、現場では警備員の指示に従ってもらうじゃん。真壁にも、よく言っとけ』

 

通話が切れると、黒子は携帯電話を下ろして後ろを振り返った。

 

迅は門の脇の植え込みのそばに立って、さっき黒子がきつく巻き直した包帯の上から、左手の指を一本ずつ曲げては伸ばしていた。しびれの具合を確かめているらしい。黒子と目が合うと、迅は指を止めた。

 

「白井先輩。篠宮さんの悲鳴が上がったのは、十一時を少し過ぎたころでした」

 

「ええ。調書にもそうありましたわ」

 

「霧島さんの配信は、何時までですか」

 

黒子は、初春が送ってきた告知の画面を開いた。霧島カイトの所属事務所のアカウントで、銀色に髪を染めた少年が頭を下げている写真の下に、こう書かれている。

 

今夜九時から、三時間の特別配信。霧島カイトが、自分の言葉で皆さまにお話しします。

 

「九時から、零時までですわ」

 

口に出してから、黒子は迅が何を言いたいのかに気づいた。十一時なら、霧島はまだカメラの前に座っている。

 

「……偶然かもしれませんわよ」

 

「そうだといいです」

 

迅の返事はそれだけだった。

 

「で、私も行くからね」

 

二人の横で、美琴が当然のように言った。黒子はすぐに言い返そうとして、それより先に別のことを思い出した。

 

「お姉様。門限は、どうなさるおつもりですの」

 

美琴の口が、半分開いたまま止まった。

 

「わたくしは風紀委員の活動として、支部から寮監様に外出の届けを出せますわ。けれど、お姉様の分までは出せませんのよ」

 

「……あとで考える」

 

目をそらしたままの美琴の返事に、黒子の顔から血の気が引いた。常盤台の寮監は、門限を一分でも過ぎた生徒を絶対に許さない。眼鏡の奥から無言で見下ろされて、首をつかまれて、ごきり。何度も間近で聞かされてきたあの音が、耳の奥によみがえる。

 

「お姉様、それは何も考えておられない方の顔ですわ」

 

「いいから、行くわよ。第十五学区でしょ」

 

さっさと駅のほうへ歩き出した美琴の背中を見送って、黒子は小さくため息をつき、迅に向き直った。

 

「真壁さん。今夜は、わたくしの指示があるまで一歩も動かないでくださいまし。よろしくて?」

 

「はい」

 

昼間と同じ、素直な返事だった。その返事をどこまで信じていいのか、黒子には分からない。小さく首を振って、黒子は美琴の背中を追いかけた。

 

 

 

 

 

 

 

◆

 

 

 

 

 

 

 

九月六日 午後八時三十分

 

テレビ局や芸能事務所が集まる第十五学区は、夜になっても昼間のように明るかった。大型の街頭ビジョンには、新作の飲料の広告と、来週から始まるドラマの予告が交互に流れている。

 

霧島カイトの所属事務所は、その通りから一本裏に入ったビルの十二階にあった。

 

エレベーターを降りた先の廊下には、警備員の制服を着た男が二人立っていた。黄泉川が回してくれた二人だ。黒子が腕章を見せると、年上のほうが小さくうなずいて、廊下の突き当たりの部屋を顎で示した。

 

そこが、配信用のスタジオだった。中は分厚いガラスで二つに分かれていて、手前には機材がずらりと並んだ調整室がある。ガラスの向こうは、壁一面に吸音材を貼った六畳ほどのブースで、机と椅子とマイクが二本、それに照明とカメラが置かれていた。机の正面の壁のモニターには、配信の画面とコメント欄が映るようになっている。

 

美琴が調整室の隅からガラス越しにのぞくと、霧島カイトはもう椅子に座っていた。

 

写真で見たとおりの、銀色に染めた髪の少年だった。舞台用の化粧を塗っているせいで、顔だけが妙に白い。霧島は携帯電話の画面を指で弾きながら、ときどき鼻で笑っていた。何を見ているのかは、美琴の位置からでも分かる。画面を流れていく文字の頭には、どれも同じタグが付いていた。

 

#死ね霧島カイト

 

「中止はできません」

 

調整室の真ん中で、マネージャーの男が黒子に向かって言った。四十代くらいの、細いネクタイを締めた男だった。

 

「今夜の配信は、本人が謝罪するって告知してるんです。ここで中止したら、それこそ逃げたと言われて、今以上に叩かれる」

 

「霧島さんの身に、危険が及ぶかもしれませんのよ」

 

「ネットの書き込みで、ですか」

 

マネージャーは、苦笑いを隠そうともしなかった。

 

「風紀委員さん。うちのタレントには、死ねなんて言葉は毎日何百件と届いてます。それで本当に死ぬなら、この業界に生きてる人間なんて残っていませんよ」

 

黒子は唇をかんだ。風紀委員には、配信を止めさせる権限なんてない。警備員の二人だって、名目はただの見回りだ。本人と事務所がやると言っている以上、黒子たちにできることは何もなかった。

 

そのとき、ブースの扉が開いて、霧島が顔を出した。

 

「なに、まだ揉めてんの?」

 

霧島は黒子の腕章に目をやって、面倒くさそうに首を鳴らした。

 

「話は聞いたよ。俺の名前が、例のタグで一番になってるって? 知ってるって、そんなの。毎朝起きたら、まず自分の名前で検索してんだから」

 

「でしたら、今夜だけでも」

 

「やめないよ」

 

黒子が言い終わる前に、霧島はかぶせるように言った。

 

「あの企画さ、子供に俺の歌を歌わせて、俺が辛口でコメントするってやつ。台本に書いてあったんだよ。才能ないから別の夢探したほうがいい、って言えって。泣かせたら数字が取れるからって」

 

そこで霧島は、口の端を片方だけ上げて、短く息を吐くように笑った。

 

「台本書いた奴は、一言も謝ってない。番組も謝ってない。叩かれてるのは俺だけ。だから今夜、俺が謝るの。それで終わり」

 

言い終えると、霧島はブースに戻って扉を閉めた。

 

ガラスの向こうの霧島を見ながら、美琴はあの映像を思い出していた。小学生の男の子が緊張した顔で霧島の歌を歌い終えて、霧島が笑いながら首を横に振った。男の子の目に涙がたまっていくところを、カメラは寄りで映していた。台本に書いてあったのかどうかは、美琴には分からない。でも、男の子が泣き出しそうになったとき、霧島は本当におかしそうに笑っていた。あれが台本どおりの笑い方だとは、どうしても思えなかった。

 

椅子に座り直した霧島は、また携帯電話を手に取った。机の下で、霧島の右足が小刻みに床を叩いている。さっきから、一度も止まっていなかった。

 

美琴の横では、迅が調整室の音響担当の男に声をかけていた。

 

「ブースのマイクの音を、ヘッドホンで聞かせてもらえますか」

 

「は? なんで」

 

「ガラス越しだと、音が半分も聞こえないので」

 

音響担当の男は、困ったように警備員のほうを見た。年上の警備員が黙ってうなずくと、男は肩をすくめて、予備のヘッドホンを迅に渡す。迅はそれを耳に当てると、調整室の壁際に立ったまま目を閉じた。

 

「何も起きなければいいわね」

 

美琴が小声で訊くと、迅は目を閉じたまま答えた。

 

「間違い無いですね」

 

迅はそれきり口を閉じて、ヘッドホンを両手で押さえた。

 

 

 

 

 

 

◆

 

 

 

 

 

 

九月六日 午後九時〜十一時

 

九時ちょうどに、調整室のモニターの右上で、赤い「LIVE」の文字が点った。ヘッドホンの中で、霧島が小さく息を吸う。

 

「……皆さん、こんばんは。霧島カイトです」

 

画面の向こうの霧島は、机の上の紙に目を落としたまま話しはじめた。先週の番組で、出演してくれた男の子を傷つけてしまったこと。軽率な言葉だったこと。本人とご家族に、心からお詫びしたいこと。紙に書かれた文章を、霧島は一行ずつ、抑揚のない声で読み上げていく。

 

コメント欄の流れが、一気に速くなった。

 

台本読んでるだけじゃん

 

謝る気ないだろ

 

#死ね霧島カイト

 

あの子の顔、一生忘れない

 

#死ね霧島カイト

 

同時視聴者数の数字は、配信が始まって五分で一万を超えた。

 

迅は壁際に立ったまま、ヘッドホンの音を聞き続けた。霧島の声の後ろに、いくつもの音が重なっている。ブースの換気口から流れてくる空調の唸り。霧島が紙をめくるたびに鳴る、乾いた擦れ。椅子のキャスターがわずかに軋む音。それに、机の下で霧島の右足が床を叩く、一定の速さの小さな音。

 

十時を過ぎると、霧島は紙を読むのをやめて、コメント欄の質問を拾っては短く答えるようになった。番組の打ち合わせはどうだったのか。あの子に直接謝ったのか。答えるたびに、霧島の声は少しずつ早口になっていく。右足が床を叩く速さも、上がっていった。

 

十時半を回ったころ、霧島はコメント欄の一つを読み上げて、黙り込んだ。

 

「……死ねって言ってる奴らさ。俺が本当に死んだら、満足すんの?」

 

マネージャーが息をのみ、慌ててガラスを叩こうとした。その手を、年上の警備員が横からつかんで止める。画面の中の霧島は、カメラをまっすぐに見ていた。

 

コメント欄は、かえって勢いを増した。

 

満足する

 

やってみろよ

 

#死ね霧島カイト

 

逆ギレ謝罪会見w

 

#死ね霧島カイト

 

霧島は何か言いかけて口を閉じ、紙を裏返して、また質問を拾いはじめた。

 

十時五十分を過ぎても、ヘッドホンから聞こえてくる音は変わらなかった。迅は首を少しだけ傾けて、耳を澄まし続けた。

 

モニターの隅の時計が十時五十八分に変わったとき、全部の音の奥に、細くて高い音が混じった。

 

高さが少しも揺れない。大きくも小さくもならないまま、ずっと同じ調子で鳴り続けている。四日の夜、篠宮の部屋の壁越しに聞いたのと、まったく同じ音だった。

 

迅は目を開けた。マイクは二本あって、音は右のマイクのほうが大きい。霧島の右の耳のあたりから聞こえている。

 

「白井先輩」

 

ヘッドホンをしたままだと、自分の声が妙に遠く聞こえた。

 

「来ます。あの音です」

 

振り返った黒子の前で、迅はヘッドホンを外し、ブースの扉へ一歩踏み出しかけた。その手首を、黒子がつかむ。

 

「ここにいてくださいまし」

 

言い終わると同時に、黒子の姿が調整室から消えた。

 

次の瞬間には、黒子はブースの中、霧島の椅子のすぐ横に立っていた。霧島がぎょっとして身を引き、マイクスタンドに肘をぶつける。調整室のスピーカーから、金属のぶつかる鈍い音が響いた。

 

「な、なんだよ、いきなり――」

 

言葉の途中で、霧島の右手が自分の右耳を押さえた。指の間から細い呻き声が漏れ、それが二秒もしないうちに叫び声に変わる。

 

「いっ、あ、ああああああっ! いたい、いたいいたいいたいっ!」

 

霧島は椅子から転げ落ち、両手で頭を抱えて床の上で身をよじった。こめかみに爪を立て、頭皮をかきむしる。黒子が飛びついて腕を押さえようとしたが、霧島の体は黒子より二回りも大きい。振り払われた黒子の背中が、ブースの壁の吸音材にぶつかった。

 

「真壁さん!」

 

ガラスの向こうで黒子が叫んだときには、迅はもう扉を開けていた。

 

ブースに飛び込んで霧島の背後に回り、両腕ごと胴を抱え込む。篠宮のときと同じ体勢だった。黒子が霧島の足の上に体重をかけ、遅れて入ってきた警備員の二人が、それぞれ霧島の腕を床に押さえつける。四人がかりでも、霧島の体は止まらなかった。

 

「とめて、とめろよ、なんだよこれ、あたまの、なか、がっ」

 

迅の耳のすぐ横で、霧島が叫び続けている。その叫び声の奥で、あの細い音はまだ鳴っていた。今度は壁越しでも、ヘッドホン越しでもない。抱え込んだ霧島の頭の中から、じかに聞こえてくる。

 

ブースの入口に立っていた美琴が、「どいて」と短く言って、霧島の頭のそばに膝をついた。霧島の額に手のひらを当てると、前髪の下でぱちりと小さく火花が散る。美琴は霧島の頭の中を流れる電気を探っていた。

 

その顔が、すぐに強張った。

 

「……何これ。頭の中の電気が、めちゃくちゃに暴れてる」

 

美琴の声は、霧島の叫び声にかき消されそうなほど小さかった。

 

「その奥に一つだけ、ずっと同じ間隔で打ってるのがある。神経の電気じゃない。でも、こんな小さいの――」

 

霧島の体が、弓なりに跳ねた。押さえていた警備員の手が外れ、霧島の体が、後ろから抱えた迅ごと前へ傾く。

目の前に、机の角があった。

霧島は、そこへ自分の額を叩きつけた。

 

鈍い音が一度、二度とブースに響く。

三度目で、迅が胴から腕を離し、霧島の頭を抱え込んで机から引き剥がした。

 

霧島の体から、力が抜けた。同時に、あの細い音がふつりと途切れる。

 

迅は霧島を床に横たえて、首筋に指を当てた。黒子が霧島の口元に耳を寄せ、警備員の一人が無線で救急を呼ぶ声がブースの中に響く。指先には、何の脈も触れなかった。

 

迅は霧島の胸の中央に両手を重ね、心臓マッサージを始めた。声に出して数を数え、三十まで数えたところで、黒子が霧島の顎を上げて息を吹き込む。もう一度、三十。

 

救急隊員がブースに駆け込んできたのは七分後で、迅の手はそのときまで一度も止まらなかった。

 

 

 

 

 

 

◆

 

 

 

 

 

 

霧島が担架で運び出されていったあと、ブースの床には、マイクスタンドが一本倒れたまま残っていた。

 

迅は壁にもたれて座り込み、自分の手のひらを見ていた。包帯の血は、もう手首を伝って指先まで垂れている。黒子がその横に膝をついて、「真壁さん」と呼びかけた。

 

「同じ音でした」

 

迅は、手のひらから目を上げないまま答えた。

 

「篠宮さんのときと、同じ音です。霧島さんの頭の中から、聞こえてました」

 

黒子は、何か言おうとして口を開き、そのまま閉じた。ブースの入口では、美琴が、霧島の額に当てた自分の右手を見下ろしている。その指を握っては開き、また握っていた。

 

黒子のポケットで、携帯電話が鳴った。

 

『白井さん!』

 

初春の声は、震えていた。

 

『霧島さんの配信、まだ切れてません。カメラがそのまま回ってます。同時視聴、三万人を超えてて……』

 

黒子は弾かれたように立ち上がって、ガラスの向こうの調整室を見た。

 

調整室のモニターには、今もブースの中が映っていた。倒れたマイクスタンドと、床に残った血の跡と、壁にもたれて座る迅の足。音響担当の男もマネージャーも、モニターの前で立ち尽くしたまま、誰も配信を止めていない。画面の右側では、コメント欄が流れ続けていた。

 

え

 

演出?

 

マジで死んだ?

 

やらせだろ

 

#死ね霧島カイト

 

#死ね霧島カイト

 

「止めてくださいまし! 今すぐ!」

 

黒子の声で、音響担当の男がようやく我に返り、機材のスイッチに手を伸ばした。

 

その数秒のあいだ、迅はブースの壁のモニターを見上げていた。右上に表示された、同時視聴者数の数字を。

 

霧島が動かなくなってからのほうが、その数字は速く増えていた。

 

 

 

 

 

 

 

◆

 

 

 

 

 

 

 

九月七日 午前一時

 

第七学区の病院の廊下は、夜中でも消毒液の匂いがした。

 

美琴がこの病院に来るのは、八月以来だった。廊下の長椅子も、自動販売機の唸る音も、あのときと何も変わっていない。変わったのは、隣に座っているのが黒子と、年上の新人だということだけだった。

 

霧島の遺体は、救急車でいったん第十五学区の病院へ運ばれた。それを黄泉川が手を回して、この病院へ移させたのだ。同じ死に方をした人間が、三日のうちに二人。しかも二人とも、死ぬ直前に同じ音がしていた。黄泉川は電話口で迅の話を最後まで聞き、それから短く「あの先生に見せる」とだけ言った。

 

診察室の扉が開いたのは、日付が変わって一時間ほど経ったころだった。

 

「待たせたね」

 

顔を出したのは、白衣を着た、蛙によく似た丸い顔の医者だった。助からないはずの患者を何人も連れ戻してきたことから、冥土帰し(ヘヴンキャンセラー)と呼ばれている。医者は美琴の顔を見て、ほんの少し眉を上げた。

 

「君も来ていたのかい。門限は大丈夫なのかね」

 

「……今それ、関係ないでしょ」

 

美琴が目をそらすと、医者はそれ以上は何も言わずに、三人を診察室の中へ招き入れた。

 

診察台の横の机に、銀色の小さな皿が置かれていた。その上に、虫が一匹載っている。

 

親指の爪ほどの大きさの、蜂だった。黄色と黒の縞模様まで、本物とよく似ている。けれど、照明の下で見ると、縞の継ぎ目に細い溝が走っていた。半透明の羽の付け根には、髪の毛より細い金属の線がのぞいている。

 

「霧島くんの頭の中に、これがいたよ」

 

医者は皿の横に、頭部の断面を映した画像を並べた。

 

「右の耳の奥に、小さな穴が開いていた。そこから細いトンネルが、まっすぐ脳の奥まで続いていてね。たどっていった先で、これが丸まっていた。自分で掘った巣の中で、休んでいるみたいにね」

 

黒子の手が、口元へ上がった。

 

「掘った、んですの? この虫が、自分で」

 

「そうだよ。そして、掘り進んだ先がここだ」

 

医者は画像の一点を、ペンの先で指した。

 

「島皮質(とうひしつ)の、後ろのほう。痛みを感じる働きに深く関わっている場所だよ。ここを内側から削られたら、頭の中から焼かれるような痛みが止まらずに続く。どんなことをしてでも止めたくなるくらいのね」

 

ブースの床で机の角に額を叩きつけていた霧島の姿が、美琴の目の奥によみがえった。篠宮も、同じ痛みのなかで死んでいったのだ。

 

「篠宮さんも、ですの」

 

「黄泉川先生に頼んで、彼女の遺体もこちらへ運んでもらった。右の耳に、同じ穴があったよ」

 

医者はそう言って、皿の上の蜂をピンセットでそっと裏返した。腹の部分に、刻印のような細かい文字が並んでいる。

 

「街路樹の受粉に使っている、蜂巣網(ハニカム)の機械蜂だね。君たちも、通りで一度は見ているはずだよ」

 

美琴は、皿の上の蜂から目を離せなかった。

 

「……あれ、だったんだ」

 

声が、自分で思っていたより低く出た。

 

「あの人の頭に手を当てたとき、ずっと同じ間隔で打ってる電気があった。神経の電気じゃないのは分かったのに、それが何なのか、最後まで分からなかった」

 

医者はピンセットを置いて、美琴のほうへ向き直った。

 

「体のほとんどが樹脂でできていて、金属は羽を動かす部分と、ほんのわずかな回路だけだからね。流れている電気も、針の先ほどしかない。そのうえ、あのときの霧島くんの脳は、痛みでめちゃくちゃに電気を出していた。そのなかで、針の先ほどの電流に気づけただけでも、君でなければできなかったことだよ」

 

医者は画像の上で、脳の断面をペンでなぞった。

 

「この虫を作った人は、電撃使いに見つかりにくいように、わざとそう作ったのかもしれないね」

 

「気づいたって、何もできなかった」

 

美琴は首を横に振り、体の横で右手を握りしめた。頭の中にあると分かっていても、そこへ電撃を流せば、焼けるのは機械蜂だけでは済まない。霧島の脳ごと焼くことになる。あの数秒のあいだに美琴にできたことは、本当に何もなかった。

 

「あれは、羽音だったんですね」

 

それまで黙っていた迅が、ぽつりと言った。

 

「篠宮さんのときも、霧島さんのときも。頭の中で、これが羽を動かしてた」

 

皿の上の蜂から目を離さないまま、迅は続けた。

 

「先生。これ、街路樹の受粉用なんですよね」

 

「そうだよ」

 

「今も、街中を飛んでるんですよね」

 

医者は少しのあいだ黙ってから、窓の外に目をやった。

真夜中の第七学区に、街灯の列がまっすぐ続いている。

その街灯の下には、どの通りにも街路樹が植えられていた。

 

「数えたことはないけれどね」

 

窓の外を見たまま、医者は静かに答えた。

 

「何十万匹と、飛んでいるはずだよ」

 

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