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2026年2月18日ウェブサイトにて発表
サイトバックアップ用にこちらに投稿しています
pixivにてバックアップ投稿済
琥珀色に輝くジンジャーエールがストローでずずっと吸い上げられ、置き去りになった氷が透明で甲高い音を立てた。カランカラン。空になったグラスの中を覗き込みながら、少年は口を離したストローにフッと息を吹きかける。流体の抵抗に支えられることのないストローは頼りなげにユラユラと揺れた。
「色気ってどうしたら出ると思う?」
ジンジャーエールの少年が言った。同じカウンターに座っていた老齢の男性がジンジャーエールと同じような琥珀色をしたハイボールを飲みながら少年の方をチラリと見た。少年の言葉の“色気”のなさに、年長者である男性は思わず微笑みたくなるが、少年のいたって真面目な面持ちを前に自制する程度には紳士だった。グラスをテーブルに置いて、傾聴の姿勢を取る。
「音に色気がないって」
さっきお客さんに。少年は口を尖らせた。先ほど終えたピアノ演奏について、観客から言われたのだそうだ。少年はジャズバーのピアノ奏者だった。少年と並んでカウンターにかけている男性はこのジャズバーの常連である。男性はハイボールにもう一度口をつけながら、少年の演奏を思い出す。
「君、いくつだっけ」
「十六」
「それは、そうだね、仕方ないというか。十六には十六にしか出せない音があるんじゃないかな」
色気というのは音楽において、たしかに、あった方が良いのかもしれない。しかし、それだけが音楽の魅力ではない。十六の少年の持つ“色気”などの未知の世界に抱く焦燥や、人の評価にいちいち心を揺らす柔らかさ、酒で濁ったことのない視界の明晰さ、なにより、自身の表現を深化させたいという向上心が反映された君だけの音楽は、それはそれで魅力的である。そのようなことを男性は切々と語る。しかし、少年は唇を尖らせたままだ。納得していない。こうした感情に素直なところも、この少年の弾くピアノにはよく表れており、それも若者らしくて良い、と男性は思うのだが、これらをいくら説明しようと、今一歩大人の世界に入り込めない青少年のもどかしさには響かないことを、かつて若者であった男性もよく理解していた。
「マスターのピアノ聞いてみる?」
老齢の男性はジャケットの内ポケットから携帯電話を、胸ポケットから老眼鏡を取り出した。老眼鏡をかけ、たどたどしい手付きで携帯電話の映像フォルダを開ける。動画を見せたいらしい。おしぼりを台座にして、携帯電話を立てかけた。
「マスター?」
「前のマスター。ママの旦那さんの方」
小さな画面の中で演奏が始まった。狭いステージにグランドピアノ、ドラム、アンプがぎゅうぎゅうに詰め込まれたその場所はよく見知ったそれだった。先ほどまで自分が立っていたステージだ。少年はカウンターの背にあるステージを振り返り、そしてまた画面を見る。携帯電話で撮影されたその映像は手ブレも酷かったが、音質も画質も悪く、男性が少年に見せたい演奏をどれだけ再現できているかは果たして疑わしいものであったが、流れてくるピアノの音に少年の目は、いや、耳は、釘付けになった。持ち主に断りを入れるのも忘れ、携帯電話を手に取り、猫背気味に背を丸めて画面にのめりこむ少年を、男性は嬉しそうに眺める。
「マスターのピアノ、いいだろ?」
「……うん」
少年は携帯電話から目を離さず、手探りでグラスを手繰り寄せ、ストローを口に入れた。すでにジンジャーエールが空になっていることを忘れているようだった。流れてくる音楽が溶けかけた氷を震わせ、その振動で融解した水滴をすする。冷たいようなぬるいような、柔らかいような硬いような、音が、水が、少年に染み込む。映像が終わった。男性の指が伸びてきて、画面をスライドする。別の映像もあるらしい。少年の口からストローが離れた。
「これ、歌ってるのって」
「ママだよ。この頃のママは特別キレイだろ?」
画面の中に現れた赤いドレスを着た女性を一瞥して、男性は目を細める。
「あら、今はキレイじゃないってこと?」
カウンターの向こうにいる女性が言った。
「ママはいつまでもキレイさ」
空になったジンジャーエールのグラスを下げ、代わりに水の入ったグラスを置いた手を、少年は目で追った。このミュージック・バーを営む女性店主がそこにいた。飾り気のない黒いシャツを着用し、小さなピアスだけを耳にのせた、控えめないでたちの彼女は小さく微笑んだ。
「うふふ、ありがと」
微笑まれた常連の男性はわかりやすく相好を崩し、それを隠すようにグラスを口に運んだ。人生の先輩として少年の若さを礼賛していたはずの男性が、それこそ少年のように恥ずかしそうにはにかんでいるのを少年は出されたばかりの水のグラスに手をかけながら盗み見ていた。
「でも、マスターと呼んでちょうだいね」
「どうも呼びなれなくてなぁ」
「あの人がいなくなって何年経ったと思ってるのよ」
「そうだな。もう随分経つのか」
女性店主と常連の男性が一緒になって店内を見回した。酒瓶が並んだ棚を背にした小さなキッチン、それをぐるりと囲むカウンター席、カウンター席の背後には壁がせまり人が一人やっと通れるほどの隙間しかない、その隙間を通り抜けると小さなテーブル席が二卓並び、さらに奥には先ほどまで少年が弾いていたグランドピアノを擁するステージになっている。小さな店内は見回すほど広くもないが、二人はその風景の中に、これまでの店の様子が思い出されているのか、随分と時間をかけて見回していた。
その様子を、少年は不思議そうに眺めた。少年の座るカウンターの天板はキレイに磨かれ飴色に光っているが、ところどころ傷がつき、人がよく触る小口の部分は摩耗してすっかり丸くなっている。ステージに置かれたアンプやマイクも丁寧に扱われているため使用に問題はないがもちろん最新のものではない。この店のピアノ奏者として雇われるようになって数ヶ月という新参者の少年にも、この店が経た年月が調度から知れるのだった。
「でもあの頃のお客さんたちが変わらず来てくれて、本当にありがたいわ」
「そりゃ、ここの客はみんなママに恋をしてるから」
カウンターには少年と男性のほか、二人連れの男女客、テーブル席にこれも常連の男性客が座っていた。そのうち、会計を済ませにテーブル席の客がカウンターにやってきた。演奏が終了した店内では、ジャズの名演奏の映像がプロジェクターから投影されており、立ち上がったテーブル客の影がその映像に重なった。マイルス・デイビスのトランペットが震える壁の上で、影が言った。
「だけど、ママはマスターしか見えてない。そこが良いんだよな。恋する女が一番キレイで、そんなキレイな女に俺たちは叶わない恋をして、センチメンタリズムをアテに酒を飲むんだ」
少年に映像を見せたカウンターの男性が頷く。客の言うマスターは少年の知るマスターではなかった。この店を始めた当時のマスターであり、少年の手の中の小さな画面でピアノを弾いている男性であり、数年前、病に倒れた、今は亡き、現マスターである女性店主の夫だった人物のことであった。映像は終わり、画面には再生ボタンが表示された。その奥に、赤いドレスの女性がいる。女性はピアノを振り返って笑っていた。少年は画面から顔をあげる。黒いシャツを着た“マスター”がいた。マスターは少年の視線を感じ、目を細めるだけの儀礼的な笑みを浮かべた。
「なんで、“叶わない”恋がいいの? 叶った方がいいでしょ」
画面の中の女性の笑みと、自分に向けられた笑みとの間に、明らかな違いを見た少年は疑問を呈する。同じ笑顔であれば画面の中の女性のしているような笑顔がいいに決まっている。あいまいに漂う視線ではなく、集光して火をつけるような視線の方が、意図的に持ち上げられた口角ではなく、今にも愛がまろびでてしまいそうにむずがる尖った唇の方が、ただ膜を震わせて音を識別する耳ではなく、ある人物から発される衣擦れの音にもそびやかされ染められる耳殻の方が、ずっと、魅力的で、それがいかにも欲しくなって、恋とはそういうものなのではないのか。
「ははは、十六にはまだ早いか」
テーブル席の客が少年の肩を叩く。こいつになんか食うもん出してあげて。そう言って多めに金を払う。マスターが礼を言いながら、その金を受け取った。
「こういうのが分かるようになったら、自然と出てくるんじゃないかな。色気ってやつが」
先に帰る客に手をあげて見送る老齢の男性が言った。「命短し、恋せよ若者」。カウンターの奥に座る男女客のうち、女性客の方がグラスを持ち上げる。グラスには鮮やかなオレンジ色のカクテルが揺れている。カンパリオレンジだった。
「恋ねぇ。みんな、好きだよね。恋愛。ほかにもいっぱいあるでしょ、人生って」
少年は借りている携帯電話の画面を勝手にスライドする。バーの映像は追いやられ、持ち主である男性の愛犬の写真が表示された。
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ピアノの音だけが響く開店前の薄暗いバーの扉が開いた。まだほの明るい午後の明かりが一筋差し込む気配に、奏者は一瞥さえしない。Tシャツの下に波打つ僧帽筋がときおり音の粒にビクビクと痙攣するような動きを見せている。シャンソンを弾いているにしては荒々しいその動きを見ながら、扉を開けた人間は静かに開けた扉を閉めた。持っていたビニール袋をそっとカウンターの上に、自身の体をそっとカウンターのハイチェアの上に預ける。一心不乱にピアノにかじりつく奏者の姿をじっと眺める。常時稼働している換気扇の音が遠のいていく。ピアノの音が体を満たしていく。心地よい陶酔だった。身を委ねて目を閉じる。が、すぐに、ピアノの音が止まった。一曲弾き終わったらしい奏者が、カウンターに座る人間の方にぐるっと首を回して、「こんにちは」や「お疲れ様です」などの挨拶よりも先に質問を投げつけた。
「マスターはさ、薔薇色だった? 好きな人と両思いになった時」
足りない食材を買いにでかけていた店主の女性がケチャップを片手に目を丸くする。照明がほとんど灯っていない暗い店内では、その表情が見えなかったのか、店主が面食らっているかどうかなど構うつもりがないのか、奏者の少年は店主の返答をまたずに質問を重ねた。
「私のためにあの人がいる、あの人のために私がいる。そんな感じ?」
鍵盤を指が滑る。練習中のシャンソンを少年が再び奏で始めた。店主は立ち上がり、キッチンに入って、照明スイッチをパチパチと押した。暗かったステージに光があたる。シャンソンは止まらない。熱心な少年の様子に微笑みながら、店主は買ってきた食材を冷蔵庫に収納した。流れる旋律に店主の小さな鼻歌が重なる。
「エディット・ピアフね」
フードの仕込みを始めた店主が、もう一曲弾き終わった少年に声をかけた。少年は立ち上がり店主のいるキッチンカウンターにやってくる。コールスローサラダ用にキャベツを刻む包丁の心地よいリズムに小さく頷くように呼応する。
「恋愛ってのは、そんなにいいものなのかって思ってさ」
少年はカウンターに身を乗り出し、キッチンのシンクに手を伸ばす。水が飲みたかった。店主がキャベツまみれの手でグラスを差し出した。キャベツのかけらのついたグラスを受け取り、少年は水をくんだ。一息に水をグラス一杯分飲み干し、ついでに手についたキャベツを食べた。小さすぎるそれを噛み締めるのは至難の業で、しばらく口をモゴモゴと動かしていた。それを横目で見た店主はおかしそうに笑った。
「まるで、ケルビーノじゃないの」
からかうような店主の声色を聞いて、少年は釈然としない顔のままピアノの元へ戻った。練習中のシャンソンを再びなぞる。たしかに少年の弾くシャンソンは愛や人生の悲喜こもごもを語っているにしては、少々、元気が良すぎるようだった。音符が飛び跳ねるような少年のシャンソンを聞きながら、店主はキャベツを刻む速度を少し落としてみたりした。
「小説でも読んでみたらいいんじゃない? 恋愛小説」
自分の演奏に納得がいかないのか首を捻りながらピアノから離れ、気持ちを切り替えるためか店内の掃除をし始めた少年に、店主が声をかける。開店前のバーをピアノ練習スタジオとして借りる代わりに、開店の準備を手伝う。これが少年と店主の間の契約事項だった。
「文字読んだら三分で寝れるよ、俺」
キャベツとにんじんを刻み終え、塩水を張ったボウルに放り込んだ店主は、洗った手をタオルで拭きながら、店内の本棚に向かう。一冊取り出す。「恋」という文字を見て手に取った一冊は、店主の夫の置き土産である菊池寛の短編小説集であった。
「ふふ、自慢になってないからね、それ」
受け取った文庫本をパラパラとめくり、口をへの字に曲げる少年の様子に、店主は肩を揺らした。別のボウルでサラダのソースとなるマヨネーズや酢を混ぜ合わせる音がカンカンと響いた。リズミカルに動く店主の手と、金属的な響きを楽しみながら、少年は言った。
「マスター、俺とデートしよう」
「私と? もっと歳の近い子を誘いなさいよ」
手元から目をあげることもなく店主は笑って答えた。
「ピアノのためって誘って怒らないのはマスターくらいしか思いつかないから」
「それは、そうね。純情を芸の肥やしにしてしまったらどんな悲劇があるかわかったものじゃないものね」
少年が手に持つ、しかし、少年に読まれることのないであろう『藤十郎の恋』の表紙を見て、店主は微笑む。その笑みを見た少年は小さく息をのんだ。よく見る目を細めるだけのあの笑みの奥に、何かがあるようにも見えたが、ボウルの中のにんじんの赤色が反射しているだけのようでもあった。にんじんとキャベツをザルにあげる。塩水がザッと流れていく。ポタポタと雫がシンクを叩く。音と音の間隔が伸びていく。いよいよその間隔は沈黙へと名前を変えそうなタイミングで店主は口を開いた。
「じゃ、二時間だけ」
店主は少年の手から文庫本を奪い、本棚に差す。そして、同じ本棚からDVDのパッケージを取り出し、少年に差し出した。これもまた生前の夫がこの店に持ち込みそのままになっていたものだった。
「映画?」
「そ」
開店前の二時間、映画を一緒に見よう。店主の提案はこうだった。恋愛に限らず、様々な人生を追体験できるようなドラマを見て、少年の探す“色気”というものを学ぼう。差し出されたのはクロード・ルルーシュの恋愛映画だった。開店まであと二時間弱。映画を見るにはちょうどよい時間である。出会った男と女が渚までドライブをするにも最適な時間であり、映画を横目にゆっくりと開店前のバーを整えるにも適切な時間でもあった。店主は夫の愛したフランス映画のBGMに小さく鼻歌をのせ、夫の遺したバーのカウンターを磨いた。映画デートと言う割に、隣に座ってくれるわけでもない店主の様子が最初こそ気になったが、少年はすぐに映画の内容に夢中になった。一通りの準備を終えた店主がいつの間にか自分のすぐ後ろの椅子に座って映画を見ていることに気づかないほどであった。店主がどんな顔で映画を鑑賞していたのか見れなかったことに、少年は少し残念な気もした。
「ダバダバダ、ダバダバダ」
映画の余韻に浸りながら少年は鍵盤を叩く。雨を拭うワイパーの几帳面さ、気まぐれに形を変えるタバコの煙、もったいつけるように寄せては返す波打ち際、性急に接近する肌と肌。白黒のフランス映画で見た光景を、白黒の鍵盤の上に再現する。スキャットが自然と口からこぼれる。
今夜もバーはいつものように開店し、いつものように見知った客が入れ替わり立ち替わり訪れ、いつものように演奏の時間となって、いつものように少年はピアノを弾いた。一方、少年のピアノはいつもと違った。映画の中の“男と女”の間に流れる空気のように、しっとりと流れる音色に、バーに集った客は聞き入っていた。
「いやに艶っぽいね、今日は」
客からの言葉にはにかんでいる少年の様子を見て、キッチンの奥にいた店主は目を細めた。明るい照明が当たるステージから薄暗いキッチンの奥が見えるはずもないのに、少年はその店主の笑みに返事をするかのように、はにかんだ顔を向けた。二人は微笑み合う。秘密のデートの感想を紡ぐ。少年は、少年ゆえ、視線だけのやり取りでは足りず、声をかけずにはいられない。
「マスター、歌って」
ステージ上の少年に集まっていた衆目がぐるりとキッチンの方へ向いた。
「サンバ・サラヴァ、歌えるよね?」
今日も客は常連ばかりだった。前のマスターの頃から通っている客たちは、かつて聞いた歌声を思い出す。暗いキッチンの奥に引っ込んだ女性が、かつて、ステージの上でドレスを着て、ハイヒールを履いて、美しい歌声を響かせていたことを思い出す。暗いキッチンに客たちの眼差しというスポットライトが降り注ぐ。
「いやよ、もう長いこと歌なんて」
客からの、少年からの期待のこもる眼差しを避けるように店主は首をゆっくり振った。手元のグラスを持ち上げる。「今日はもう飲んじゃったし」。先ほどカウンター席に座る常連客のキープボトルから一杯、ウィスキーを飲んでいた。
「ママの歌、聞きたいな」
テーブル席に座る客が少し大きな声で言った。他の席からも「聞きたい、聞きたい」と声が上がる。店主にウィスキーをすすめたカウンターの客は彼女に無理を強いることはしたくないが、今一度その歌声が聞けるかもしれない希望に浮き足立たずにはいられない、という複雑な思いに眉を寄せながら笑っていた。店主の元に店中から好奇と期待が注がれる。それらを一身に受ける店主はただ笑っていた。狭い店内なので、目が慣れれば、暗がりにいる店主の表情はよく見えた。少年の見つめる店主は笑っていたが、困っていた。少年も困ってしまった。困らせたくて言ったつもりはなかったのだ。ただ、二人の初デートの思い出を確かめあう、二人だけの暗号として映画の中に登場した歌を共有する、そんなウブなやりとりをしてみたかっただけだった。
「ママはマスターのピアノじゃないと歌えないのよね」
カウンターの奥に座る女性客が言った。“ママ”に“叶わない恋”をする客たちは、その言葉の甘美さに言葉を失い、自分達がふりかざした卑俗な提案を即座に取り下げた。マスターのピアノでないと歌わないママ、この言葉を噛み締める客それぞれの脳内で映像が再生される。“マスター”のピアノの音、その旋律に寄り添う歌声、歌う女の視線、視線を受け止める奏者。二人の音楽。少年が、小さな携帯電話の画面越しに見た、二人ぼっちのシャングリラ。
「それにしても、今日は一段といい演奏だったね。恋でもしたのかな?」
少年のためにジンジャーエールを注文した女性客が対価として質問する。店主がグラスに氷を放る音にまぎれさせながら、少年は「さあね」と小さく答えた。
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この日の映画はアメリカ映画だった。これも開店前の薄暗いミュージックバーの本棚に入っていたDVDである。白黒ではないが古い映画だ。マルセイユからニューヨークへ向かう大きな客船が、少年の眼前を悠々と横切っていく。さらに、壁に投影されたその映像の前を、人影がさっと横切る。DVDをセットし終え、店内を掃除する店主の影であった。いつも通り掃除や料理に忙しい店主の腕を、少年は引き寄せた。
「デートなんだから、せめて隣に座ってよ」
映画の後、俺も開店準備手伝うからさ。少年は今日、早めに店にやって来ていた。勤勉な店主がさらに早くに店に来ていることを知ってのことだった。映画を見てもまだ開店まで時間はある。少年が映画の後にピアノの練習をするつもりで早めに来店したのだと考えていた店主は目を丸くする。
「ふふ。プレイボーイね。ニッキーのマネ?」
「人生はシャンパンの泡だから?」
「お酒を飲んだこともないくせに」
少年は一度立ち上がり、自分の座っていた椅子に店主を座らせ、近くにあった椅子をその隣に寄せた。円形の座面の端と端がピタリと一点を共有するほど近くに寄せ、そこに座る。少年の膝が店主の腿に当たった。店主はさりげなく足を組んで距離をとった。プレイボーイに疑りの眼差しを向ける歌手のごとき用心深さに、少年は気づいたのか気づいていないのか、ただ映像を凝視していた。
「Our love affair will be such fun……」
エンドロールも終わり、無粋なタイトル画面に戻った壁を惚(ほう)けた顔で眺め続けている少年の口から映画の主題歌の一節がこぼれ落ちる。まだ船の揺れが、エンパイアステート・ビルの雑踏が、ショールのたな引きが、少年の後ろ髪を引き続けていた。映画の世界に浸り続ける少年の様子に笑みを浮かべた店主は、そっと席を立つ。プレーヤーからDVDを取り出し片付けを進めながら、主題歌の続きをハミングだけで歌った。隣にあった体温が失われたこと、歌声が聞こえたことで、少年は我に返る。目の前には、DVDを除かれ何も投影するものがなくなったプロジェクターの明かりだけが煌々と壁を照らしていた。そこに、営業時間用に別の映像を用意する店主の影がよぎる。少年の口からまたこぼれる。
「マスター、歌って」
店主の着る、店の人間であることを主張するような装飾を一切排した凡庸な黒いシャツが、プロジェクターの光で青白く発光していた。その光るシャツが揺れる。店主は笑っていた。少年の言葉を受け流すように、軽く、小刻みに。シャツの凹凸に溜まった青白い光が小さく細かく震えると、あたかもキラキラと輝いているようだった。
「準備、手伝ってくれるんじゃなかったっけ?」
「一曲だけ」
少年は性急に立ち上がり、ピアノに歩み寄る。鍵盤の蓋を開ける。聞いたばかりの主題歌を少し口の中で反芻して、メロディを拾う。チューニングを合わせるように何度か試す。すぐに方針を定め、ピアノを離れる。光の中にいる店主の手を引き、狭くて薄暗いステージに連れてくる。スマホを叩いて歌詞を検索し、店主に渡す。鍵盤の前に戻り、椅子に腰掛ける。
「俺しか聞いてない」
ピアノ越しに少年は店主を睨め付けた。次の映像が始まらないプロジェクターの明かりが投影された壁だけが明るく、店主が引きずりあげられたステージは薄暗く、少年が座るピアノの奥はもっと暗い。その暗がりで、少年の眼差しだけが光っている。挑発的で、攻撃性すら感じる鋭い眼光に射られた店主は冗談で逃げることを忘れ、ステージで立ちすくんだ。
「歌って」
すれ違う恋の切なさを。忘れられない愛のままならなさを。ラストシーンに降り注ぐ雪の白さを。少年は薄暗いステージで黒いシャツを溶かす女性に眼光というスポットライトを当てる。前奏を始める。聞き覚えのある曲が女性の耳に、髄に染み込んでいく。この曲を、このステージで歌ったことがあった。何度も。愛する者のピアノにのせて、愛する者が好んだ映画を彩る、愛する者同士の曲。歌詞など見せてくれなくても良いのだ。脳も体も、すっかり覚えているのだから。しばらく鍵盤に注がれていた少年の目が女の方へ投げつけられる。女は、静かに息を吸い込み、歌い出す。
「キレイだね。マスターの歌」
曲が終わり声をかけられた。店主は小さく「ふふ」と笑ってから、少し跳ねるようなアクセントでステージを降りた。少年のピアノからの影響だった。良く知った、良く歌った曲だというのに、今日の曲はこれまで聴いた、これまで歌ったどれとも違った。オープニングにふさわしい高揚感でも、祖母のピアノに合わせて歌う静かな祈りでも、クライマックスに向けて広がりゆく豊かさでもなく、まして、店主の、女の呼吸を良く聞いて都度調整する懐深い夫の演奏でもない、少し力んだ、しかし弾むような若さが備わった、少年の曲だった。裏方に徹し続ける女をステージに引きずり上げる強引さと、それを楽しむ奔放さに溢れた、少年の旋律は久しぶりに歌う人間にとって難しいものであったが、一方で、店主はその勝手で無邪気なピアノに翻弄されるのを楽しんでさえいたのか、ステージを降りる顔は清々しいものであった。
「さ、開店準備しましょ」
狭いキッチンに入った店主は照明のスイッチをパチパチとリズミカルに押していった。薄暗かったバーにあかりが灯る。今日のステージは一時間後から始まる予定だった。少年は客の前で同じ曲を弾いた。店主はキッチンの奥、口の中で、小さくその曲にのせる歌を口ずさんでいた。
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窓際に歌うムーン・リバー、砂漠の中から聞こえるコーリング・ユー、ブランコと揺れるゴンドラの唄。映画を見て、映画の中に聞いた曲を弾いた。少年は、映画の中の世界を八十八の鍵盤で再出力する。誰かの人生をなぞることで、少年のピアノは少年の人格から剥離した。しかし、それを繰り返すと、今度は、俳優たちの演じたロマネスクとそれを見た少年の視座とが雲母のように重奏した。さらに繰り返せば、再び少年の人格が薄膜となって全てを覆った。もはや、誰も、少年のピアノに“色気がない”などという批評を加えることはなかった。
バーに通い続ける常連客たちは、虚構のロマンと眼前のパトスによって織りあげられる円熟と未熟の積層に酔い、かつてこのバーに響いた”マスター”のピアノに酩酊した夜を忘れつつあった。誰もがその亡霊を求め続けていたはずだった。忘れられない思い出、というものに酔うために、今のマスターを依代(よりしろ)にしてバーに立たせ続けていたのは、常連客たちであり、そして女店主自身でもあった。風化していく一方の美しい思い出は、老いゆくだけの中高年にはひたすらに甘美だった。しかし、未熟さに喘ぎ、身をやすっては光る少年の演奏は、その、ただ甘く、ただ優しいだけの亡霊がたたずむには眩しすぎた。
「マスター、歌って」
少年は店主を手招く。店主は拒む。このお決まりのやり取りに、客たちは淡い期待を寄せ始めていた。もう一度、彼女の歌声が聞ける。という期待では、もはや、なく、少年のピアノに歌が加わる、ということへの期待だった。さらに少年のピアノは進化するかもしれない。それを目の当たりにできるのかもしれない。客たちは好奇の目を遠慮がちに二人へ向けた。しかし、店主がかのマスターへの忠義を忘れるはずはないという期待も一方であり、にべもなく断りつつもその誘い文句に困ったように微笑んでいる店主の複雑な表情を、それこそ複雑な思いで眺めているのも本当だった。
「マスター、歌って」
誘いを断り続ける店主の腕を、少年が無理矢理引っ張り上げるのは開店前だけだった。客の前で悶着を演じることの無粋さは、さすがの少年でも理解していた。店主は開店前のバーの狭いステージに引っ張り上げられるたび、必ず、少しためらう素振りを見せる。かまわず始まるピアノの演奏に仕方なく応じる、という形で歌った。二人の逢瀬は銀幕の中で待ち合わされ、歌曲の中に遂げられた。何度も。セッションをするようになった当初は、跳ね回る若々しい少年のピアノに女が遠慮がちに歌を合わせていたが、逢瀬を重ねた今は、少年は女の歌の呼吸に音を添わせ、女は少年のピアノの拍子に身を委ねることができた。互いの息遣いも、心臓の拍動も、愉悦の瞬間も、理解し始めていた。それは女にとって、心地が良く、同時に、恐ろしいことだった。
「Le nuvole e la luna……」
店主は、女は、歌った。愛の不毛を。「太陽はひとりぼっち」。今日見た映画はイタリア映画だった。馴染みのないイタリア語の発音は難しいはずだったが、女は歌った。歌えるのだった。どの映画の曲も、店主は歌うことができた。どの映画も、この店にあるDVDから再生したものであり、どの映画も、店主の失われた夫の愛した映画であり、どの曲も、その夫のピアノに合わせて歌ったことのある曲だったからだ。しかし、今、歌い終わった曲は、かつて歌った曲と違った。夫のピアノは、少年のピアノほど力強くなく、自分の歌を置いて走るようなこともなく、走るピアノに追いつこうとする自分を挑発するような素振りも、躍起になって追いついた自分に満足そうに微笑むようなこともなかった。女がその断崖に沈みゆく太陽の面影へ思いを馳せていることを知ってかしらずか、少年は無邪気に言うのだった。
「キレイだね。マスターの歌、俺、好きだよ」
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「今日はこれにしましょう」
女が次に選んだのは、船の上でピアノを弾き続ける少年の物語だ。歌曲の登場しない映画だった。女は、今日、歌うつもりがなかったのだ。しかし、この映画を初めて見る少年は女の思惑など知るわけもなく、再び、自分と女の座る椅子をピッタリと寄せ、未だ呼ばれなければ隣に座ろうとしない女の腕を引くのだった。そして、女はそれを拒まないのだった。豪華客船がうねる波の上でその巨体を揺らすイタリア映画が始まった。
「ダメ?」
“海の上のピアニスト”が船室に忍び込む。惚れた女に会いに行く。一方的で身勝手な逢瀬だ。安らかな寝顔に顔を近づける。映像の中で、俳優同士の顔が近づいた。そして、女店主の顔に、少年の顔が近づいた。女は素早く顔をそむけた。
「私を犯罪者にするつもり?」
映画を見なさい。女は少年に音楽的指導をする店主として短い叱責を与えた。少年は不服そうに口を尖らせながら、しかし、素直に、映像の方へ顔を向き直した。ピアニストの恋は成就せず、レコードは届かず、船は沈んでいった。
映画が終わり、歌うべき曲もなく、店主はステージを見向きもせずにキッチンの中へ入った。パチパチと音を立てて照明のスイッチを押す。店内が急に明るくなる。突然の眩しさに目をしかめた少年は、映画鑑賞用に置いた椅子の上から動かず言った。
「マスターだって、年の差結婚だったんでしょ」
先ほどの店主の断り文句に対する応答だった。少年の若さを理由にした店主の拒絶について言っているのだった。少年が少年でなかったら受け入れたのか。少年でなくなる数年後には受け入れるつもりがあるのか。少年と女の間の年月の溝をまさか理由にしてなどいるまいな。客席に比べ薄暗いキッチンの奥にいる店主へ視線をやる。安全地帯に逃げ込んだ店主は、余裕ありげに「ふふ」と笑って答えなかった。
「たまには外に行きましょう。買い忘れたものがあるの。着いてきてくれる?」
次の映画は選ばれなかった。映画のシーンのように迫られたことを店主が拒否しているのは明らかだった。無体をはたらいた自覚のある少年に言い返す言葉はなく、有無を言わさずバーを出て行く店主の後を追いかけるよだけだった。「せっかくだから、少し散歩しようか」。外に出ると、唯一の飾り気である店主のピアスに反射した日光が少年の目を突いた。映画鑑賞とピアノ練習の時間を考慮して早めにバーを訪れていたため、開店までまだまだ時間があった。日はまだ明るく、しかし、傾きつつあった。
“少し散歩”、という割には長い距離を歩いた。店主が向かったのは大きな公園の脇にある業務用スーパーだった。人通りの多い大通りをずっと歩き、車通りの多い大通りで曲がり、猥雑な繁華街と繁華街の隙間を抜け、目当てのスーパーの前を通りすぎ、公園に入った。先に牛乳を買うとぬるくなってしまうから。二人分の入場券を買いながら店主は言った。
公園に料金を払って入場するのは初めての経験だった少年は、スムーズに入場ゲートをくぐる店主の背を慌てて追う。自分達のバーの入る雑居ビルほどに背の高い大木たちを口を開けて見上げる少年の様子に店主は小さく声を漏らしながら笑った。
「じゃ、君が勝ったら左、私が勝ったら右に行きましょう」
「え」
「ジャーンケーン」
「えっ」
左に行くことになった。国営のこの公園は非常に広く、四方八方に遊歩道が伸びている。入場門の目の前の分岐で行き先は二人のジャンケンの勝敗によってひとまず決まった。後ろの道はハナから眼中になかった様子の店主は、道を決めたはずのジャンケン勝者を置いて、さっさと歩き始める。少年は店主の後を追って緑道を進んだ。平日の午後、閉園も近い時間の公園は人もまばらだった。
樹木ごとにつけられたネームプレートを見ては、その名前を口の中で発音している少年が着いてきていないことに気づき、店主は道を振り返った。さらなる分岐のあるY字路だ。クリスマスローズを背にして立つ店主を見て、少年ははにかみながら小走りに道を進んでくる。駆け寄る男の子のはずんだ息が近づいてくる。「ここ、初めて来ました。面白いですね」。はずんだ息にはずんだ言葉をのせ、少年は頬をもはずませた。シミもシワもない頬が、傾く日差しに輝いていた。
「よく来るんですか?」
「久しぶり、かな。前はよく来たんだけど」
再び広い芝生広場に出た。周囲に居並ぶはずのビル群が見切れるほどに広場は広かった。見慣れた繁華街のすぐそばにこれほど大きな空白が潜んでいたとは。少年は、いつの間にか大きなウロに迷い込んだような不安感さえ覚えた。入場ゲート付近に立っていた樹木の大きさに驚いていたが、さらに大きな木々が悠々と佇んでいることに畏れさえ抱いた。あっけに取られている少年を置いて、店主は広場の中へ進んでいく。どこまでも進めるほど、広場は広く、少し手を伸ばせば引き寄せられる狭いバーにいた店主の黒いシャツはどんどんと小さくなった。
「あの人とね、よく、来たの。最後に一緒に出かけたのもここだった。それは覚えてるの。でも、それって夏だったのかしら、冬だったのかしら。思い出せない。声も、匂いも、もう、遠くなってしまって。ピアノの音だけ。でも、その音も」
少し離れた場所でつぶやかれた言葉は、途切れ途切れに少年の耳に届いた。それは少年に向けた言葉ではないようだった。茫漠と広がる芝生の平原をただ吹き過ぎていく木の葉の一片一片と同義だった。
「ねぇ、あなた、あの人のピアノの音まで消してしまうの」
風が吹くと、一帯の木々が声を合わせてさざめいた。広場に転々と植わった桜の木々も、高々と天をつくユリノキも、遠くに整列するプラタナスたちも、店主に代わって、何がしかを言いかけては止め、また何か言いたげに音を立てた。
「いつの間にか、あのバーであの人と過ごした時間よりも、あの人がいなくなってからの時間の方が長くなっちゃった」
前に来た時は温室は工事中だったかな。どうだったかな。自嘲的な笑みを浮かべ、女は歩き出した。少年の近くに戻り、そして通り過ぎた。遠くに見える温室へ向かうようだった。自分の雇用主であり、バーを一人で経営するいっぱしの大人としての振る舞いでなく、どこか少女めいた勝手気ままな言動を見せる店主の背を少年は追った。
「俺、あの街しか、ピアノしか知らないんだ。でも、今日、出てきちゃった」
桟橋を降りちゃった。バーのある繁華街が少年のホームタウンだった。生まれた時から見栄と消費を貨幣や装飾にかえて飾り立てた場所に過ごし、街の人間にならって芸事で食いつないできた。十六などまだ社会から保護され、好きに遊んでいて良い年齢だというのに、少年はそのことすら知らないのだった。世界という荒波の中に揺れる、繁華街という豪華客船の中だけが少年の全てだったからだ。温室の中に並ぶ大きなサボテンを見上げて見たことのない砂漠を知り、映画を見て海に揺られ、芝生広場で情念と忘却の無限遠を見た。それらを見せた女は、亡霊の影が薄れゆくことを恐れ、一人、美しい過去との心中を夢見ていた。海の上にも、客船の中にも、陸の上にも、穏やかな場所はないということを教えておいて、それでも、桟橋の降り方を教えておいて、自分は愛したものと破滅するつもりだった。少年は、ピアノを弾くためにキレイに爪を切り揃えた手で、水仕事に荒れた女の手を強く掴んだ。
「マスター、俺やっぱり、あんたに歌ってほしい」
「歌えないわ、もう」
「嘘だ」
映画を見ようと言い出したのは女自身だった。歌うことを最後まで拒否しなかったのは女自身だった。この公園へ少年を伴ったのも女自身だった。そもそも、少年を演奏者として雇い入れたのは女自身だった。だというのに、そうすることで夫との思い出が少年によって塗り替えられていくことに、被害者ぶっているのも女自身だった。
夫以外のピアノに合わせて歌うなどもはやできないはずだった。愛した夫の遺した大事な店を守り続ける貞淑な女を客は求めているはずだった。そうあるべきだと、女は思っていた。それらが欺瞞であることを看破されるのは恐ろしいことだった。同時に、その卑怯で愚昧な自分を誰かに糾弾してほしいとも思っていた。少年が自分をステージに引っ張り上げ、歌わせようとすることは、女にとって断罪であり救済であった。
再び、少年は女の腕を引いた。長い緑道を、寄るはずだったスーパーの前を、買い物客で賑わう大通りを、早くも酔客がうろつく繁華街を、駆けるように通り過ぎる。日光が降り注ぐだだっ広い芝生の上から、開店前の薄暗いバーに駆け込む。バーの扉が閉まるのも惜しんで、少年は後ろに引っ張ってきた女を振り返り、抱き込めた。女は拒否するでもなく、抱擁を返すでもなく、バランスを崩すまいと出入口扉の横の棚に手をかけた。二人が身漁るDVDなどが収められた本棚だった。女の手があたり、一冊の本が落ちる。映画を見始める前に女が少年にすすめた短編小説集だった。
「あなた、私を殺すつもり?」
足下に落ちた『藤十郎の恋』を目線だけで見下ろしながら、女は声を震わせた。
「ちがう。あんたが俺を殺すんだ」
女の手を引き、小さな明かりさえつけていない店内を進む。ガタンガタンと椅子やテーブルにぶつかりながら少年はステージにあがった。女をステージに引っ張り上げた。少年は手探りでピアノを弾き始める。殺し屋のさばる混沌の街に捧ぐフォゲット・ヒム。先日見た香港映画の劇中歌だった。
「マスター、歌って。俺を殺すつもりで」
ピアノ越しに声をかける。女は少年の言葉に小さく頷いた。女は開店前の薄暗い店内をぼんやりと眺めていた。この頷きが少年の言葉を受け止めた、という意思表示ではないことを、多くのロマンスを目撃した少年にはもはや理解できた。照明のついていない暗いキッチンの影から微笑みかける誰かの亡霊を、自分をピアノ越しに見守る誰かの亡霊を、探すように、女の視線はバーの中を彷徨っていた。少年の言葉、声ではなく、誰かの言葉、声を待っていた。そこに誰もいないことを確かめ終わって、女は何度も、何度も、「忘記他」と繰り返し歌う。繰り返すごとに、ピアノの音が自分の歌に染み込むのが分かった。夫の音色ではない、夫のリズムではない、しかし、何度も聞いて、何度も合わせた音。その癖も、その呼吸も、よく知った音。自分の歌を待ちのぞんで手招いている。女は振り向く。ピアノの黒い塗装が唯一灯る非常口の明かりに光っている。その奥で異なる光を放つ眼差しに挑むように、女は視線と歌声を向ける。いつか映像の中で歌っていた女の甘えたような姿ではなく、鬼気迫るその姿に少年は満足そうに目を細めた。
「俺の音をよく聞いて。俺のリズムに合わせて。俺のことを見て。俺のために、歌って」
少年は、断りも入れず、次の曲を弾き始めた。
<終>
♪ 宇多田ヒカル(feat. 椎名林檎)「二時間だけのバカンス」
■参考
・菊池寛「藤十郎の恋」
・クロード・ルルーシュ「男と女」
・レオ・マッケリー「めぐり逢い」
・ミケランジェロ・アントニオーニ「太陽はひとりぼっち」
・ジュゼッペ・トルナトーレ「海の上のピアニスト」
・ウォン・カーウァイ「天使の涙」
など