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2026年1月19日ウェブサイトにて発表
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屋敷のバルコニーには月明かりが差していた。あの夜の月は明るかった。バルコニーの向こう側のバンケットルームではきらびやかなシャンデリアが星よりも明るくきらめき、それに負けないほどに輝く宝飾品を散りばめた女たち、その女たちを着飾った男たちが談笑していた。彼らの上品な言葉遣いのうちに見え隠れする卑俗さをマスキングするため演奏される室内楽のフルートとバイオリンの音が響いていた。バルコニーに向かって開け放たれた窓のガラスが、それらの不協和音にわなないていた。
震えるガラスに反射する月光を頼りに少年は本を読んでいる。ヴェルヌの海洋冒険小説だった。少年にフランス語はまだ難しく、時折、その集中が妨げられた。ふと顔をあげる。一人きりだと思っていたバルコニーに別の人間がいた。少女だった。少年と同じようにバルコニーに置かれた椅子にかけ、本を開いている。その本のタイトルを見ると、これもまた少年と同じようにフランス語の本だった。しかし、それは少年の読む古典SFではなく、二十世紀後半を代表するフランスの文化人類学者の著作だった。少年は表紙にパンジーの花が飾られたその本を読み耽る少女の顔をもう一度見た。
少年に気づき、少女も顔をあげた。微笑んだ。少年は驚いた。このパーティーを主催する父親にとって妾の子である自分に、つまり邪魔者で除け者の自分に、その少女が微笑みかけたからだ。少女はパーティーの主賓、少年の父の経営する会社のどれよりも歴史がある経営者一族の令嬢だった。他の子どもたちのようにパーティもそっちのけにゲームや菓子に夢中になるのではなく、このうら寂しいバルコニーにやってきたことにも、除け者の自分の近くに座し、自分と同じ時間を過ごしていることも、たまたまとはいえ同じフランス語の本を読んでいたことにも、少年は驚いていた。驚いている少年を置き去りに、少女は再び本の世界へ戻った。うつむく少女の鼻筋が月光に白々と光っていた。少年はフランス語に飽きるたび、ふと少女を見た。少女は変わらずそこにいた。少年は月が明るい夜で良かった、と思った。
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月は細く、月光は頼りなかった。安定的に電力が供給され、夜間の照明に事欠かなくなったとはいえあちらこちらに街灯や二十四時間営業の店が立ち並んでいた旧世界とは違って、ストーンワールドの路地は暗い。月明かりがなければ尚更だった。その暗い路地を右往左往している人間がいることに、龍水は気づいた。立ち上げた銀行の運営方針について各国の重要人物らとオンライン会議をした帰りだった。
「遅くまで仕事とは熱心だな。何か困っていることはあるか?」
路地をうろつく人間に声をかける。不審な動きとも思えないが、仕事に従事するには夜は更けすぎている。何か事情があるのだとして、その事情がこの村および自分の事業の存続に悪影響があるものかどうか確かめなければならなかった。
「こんばんは。もう少しで終わりますので、おかまいなく」
暗がりに身を浸す人間が答えた。女の声だった。龍水は夜を行き来するために持ち歩いていたカンテラを女の方へかざした。カンテラの火が揺れた。
「貴様は」
「龍水さん。ご無沙汰しております」
女はあの月光の少女だった。バルコニーで共に本を読んだ、パーティーから除け者にされる自分の横にいた、月明かりに鼻筋を白く染めていた、あの少女だった。あのバルコニーの夜以降も家の行事で時折顔を見ていたのだから間違うはずがない。石化する数ヶ月前に見かけてもいる。七海家に出入りするある国の大使を囲んでの食事会に両親と共に参加していた。屋敷のポーチで車から降りているのを見かけた。あの少女、あの女だった。
「復活していたのか。俺がいることを知っていただろう。声ぐらいかけろ」
女は「申し訳ありません」と小さく言い、頬の筋肉を動かした。微笑んでいるように見える挙動だったが、今夜は月明かりが乏しく、龍水のかかげるカンテラの火は揺れ続けていたので、その表情を微笑みと断ずるには少々困難があった。カンテラを持つ手を顔の高さからゆっくりと下ろした龍水は、女の足元に薪が積んであるのを見た。
「薪を運んでいたのか」
「はい」
「こんな夜更けにか」
「はい」
「一人か」
「はい」
「ここにあるもの全部、貴様が運んだのか」
「はい」
「なぜ。共同住宅で使うものだろう。他の住人は手伝わないのか」
「これが私の仕事ですので」
女は龍水を真っ直ぐに見ながら、歯切れよく答えた。背筋が伸びた良い姿勢で、指先を臍の前あたりで少し重ね合わせている。重ねられた指先はささくれが目立ち、爪に汚れが詰まっていた。
「そういう分担、という訳か」
「はい」
「とはいえ、一人きりに夜中まで薪運びをさせるなどおかしい。違うか?」
龍水の語気は少しずつ強いものになっていた。その声の強さ、言葉の強さを受けてか、龍水の質問にハキハキと答え続けていた女が少し言葉を詰まらせた。良い姿勢を保ち、相手の瞳から顔を逸らさない女の目がかすかに揺れているのを見て、龍水は口をつぐんだ。ほんの少しの沈黙のあと、女は口の端を少し震わせながら言った。
「……ほかに、なにも、できないんです」
裕福な家庭で育った女は、お茶を立てることはできても料理はできない。生まれた時から家付きの料理人がいたからだ。花を活けることはできるが植物を育てることはできない。生まれた時から家付きの庭師がいたからだ。裁縫もできない。ほころびが生じた衣服は直さず買い替えてきたからだ。いや、一度着た服を再び着ることはほとんどなかったため、そもそも衣服にほころびが生じることもなかった。子供の世話もできない。自分がそうされてきたように子供が泣けば泣き止むまで放置し、子供がワガママを言えば全て聞き入れてしまう。
原始的社会の文化や思考から野生の思考を学ぶ視座を得ることはあっても、原始的生活の中で生き抜くだけの知恵も根気もなく、文化人類学の専門書を読むことはできても、目の前の人間の心情を慮ることはできない。そんな女に村人が与えた仕事が薪運びだった。本来であれば半日もかからない仕事だ。夜更けまでかかっているのは、女が力仕事などと無縁に生きてきた証左でもあり、生活上の効率性を考えずに生きてきたツケでもあった。
薪を運ぶための台車を調達する、他の人間に手助けを要請する、終わらなかった分は明日以降に回すことを指示した者にネゴシエーションする、そのどれもを思いつくことがない。思いついたとして実行しない。ただ、与えられた役を全うする。それが彼女の生き方だった。大人しくしていろ、と言われれば、パーティー会場のもっとも邪魔にならないところで一人本を読む。愛想よくしろ、と言われれば、見知らぬ人間にも微笑みかける。一方、妾の子は黙殺せよ、と言われなければ、しない。あの夜の少女の言動はプログラム化されたいくつかの命令の果てにはじき出された値だった。龍水は、由緒のある家に生まれ、家柄にふさわしい人間として厳しい教育を受けた女の姿を見かけるたび、親や祖父母の言いなりになって生き続ける様子を目の当たりにするたび、あの夜の月明かりが思い出されていた。
「では、俺が貴様に、薪運びよりも適した仕事を与える」
月明かりのない暗い路地で龍水はカンテラを高く掲げた。あの夜、月光に白く染まった女の鼻筋が赤く染まる。女はかつて祖父に教わった、話している人間の目を見る、という習慣を一瞬忘れ、掲げられたカンテラを目で追った。龍水はニヤリと笑う。ほかの兄弟と違って歯列矯正をされなかった八重歯がカンテラの明かりを受けて光った。
「貴様は英語、フランス語は使えたな。他に言語は」
「日常会話程度であれば、スペイン語、ドイツ語、中国語が」
「では、各国との定時連絡に同席し、議事録をとってくれ。会計業務は」
「実務経験はありませんが、日商簿記1級の資格をとったことがあります」
「では、俺の事業の会計を。帳簿はつけている。整理するところから始めてくれ」
「はい」
「楽器は」
「ピアノとバイオリン、十三絃を少々」
「では、次の村祭りで琴を弾け。それに向け、明日から琴を作らせるから監修しろ」
「はい」
かくして、女は翌日から龍水の元で働くこととなった。女の担当していた薪運びは、消費される薪の量を把握し、公平分配するという理由から新設された村内のエネルギー源確保およびそれらの流通を担当する部署が総合的に行うこととなった。のちのエネルギー供給事業の基盤を整えることを目論む龍水の発案であった。
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納入された食材の検品を行っているフランソワの元に、薪運びから龍水の秘書役へと転職した女がやってきた。東の空に上弦の月がうっすらとその姿を浮かべている時分だった。
「フランソワさん、こちら龍水さんからです」
フランソワが主体となって運営されている村のレストランである。目が回るほど忙しい昼食どきを過ぎたレストランは、その昼どきにランチを逃した数人が食事をとっている以外、静かなものだった。その遅い昼食をとっていた一人の男が、龍水の使いでフランソワの元へやってきたという女を見上げた。女はその視線に気づき、うっすらと微笑みを浮かべ、小さな会釈をする。知った人物だっただろうか、本日のランチとして提供されたチキンティッカを咀嚼しながら男は女に会釈を返す。
「えっと、彼女も七海家の執事だった人?」
鶏肉を飲み込んでから口を開いた男、SAIがフランソワに問う。女が龍水の下働きをしている様子から、フランソワと同様の役職の人間と思ったようだった。しかし、見覚えがない。自分が去った後に七海家に入ってきた人間だろうか。怪訝そうな顔をしているSAIに対し、フランソワは少し言葉を選ぶ時間をかけながら答えた。
「いえ……、こちらの方は○○家のご令嬢です」
「○○家っ、って、あの銀行とか不動産とかのあの○○グループ!?」
「はい」
「七海の家はあのグループにだいぶ援助してもらってたって聞いてたけど。どちらかというとあっちが僕たちを使う側なんじゃ?」
七海家は大きな経営グループであるが、その歴史は明治以降のものだ。それに対し、女の生まれた家はさらに数百年遡ることのできる国内でも随一の大財閥が元となった家柄である。金融危機や戦乱等、たびたび起こる様々な難局において、融資や援助などの表層的な部分だけでなく、情報交換やアドバイザーの紹介などの手助け、さらには経営者同士の悩みを分かち合う友人としての交流も続けられていた。もちろん、七海家もまたその恩に報いるよう務めてはいた。海運業で培った各国とのコネクションは報恩の良いカードで、龍水がかつて女の参加を見かけた七海家に出入りするある国の大使を囲んでの食事会などがそれだった。女は招かれ、もてなされる側であった。七海の家の人間が伝書鳩として書類を運ばせるようなことは、あってはならぬことであった。
「あいつに何か弱みでも握られた? 何かあれば相談してくれよ」
「ありがとうございます。ですが、そのようなことはありません。お仕事をくださって感謝しているくらいです」
少し眉を寄せたフランソワが茶を提供する。二人分だ。先日、龍水の船が運んできた中国茶だった。こうばしい香りが立ち上る茶をSAIは一口含んだ。女は茶器に手を伸ばそうともしなかった。
「どうしたの? これ、君の分だよ」
「では、いただきます」
SAIの座るカウンター席から一席あけ、腰を下ろした女が音も立てずに茶器を持ち上げた。茶の匂いのする湯気に鼻を埋めた女の頬の筋肉が微かに弛緩する。取り繕っていた愛想の良い微笑みから解放されたその顔を隠すように、茶器とそれを持つ手で顔の前を覆った。一口飲み込み、熱い液体が喉を滑り落ちるころには、再び、いつもの口角を少し持ち上げた微笑みを浮かべる女は「おいしいです」と言った。
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その夜は新月だった。闇に沈む村の中で、明々と照明がともる小屋がいくつかあった。夜警の人間が交代で詰める警ら隊の小屋、翌日までに新聞記事を仕上げたいと原稿を進めるジャーナリズム部門の小屋、仕事中毒の研究者がこもるロケット開発チームの小屋などだ。
龍水は星座のようにポツポツと明かりを刻むそれらの小屋の一つを訪ねた。ロケットのためのプログラムを制作するプログラミングチームの仕事小屋だ。このプログラミングチームでリーダーを務める兄のSAIに土産を渡しにきたのだった。龍水は数週間の船旅から先ほど帰港したばかりである。レアアースの採掘事業の視察で大陸に渡っていたのだ。現地で採集したシーベリーを携え船を降りたところ、まだこの小屋の明かりがついているのを見とめ、栄養が豊富だというその果物を、プログラム開発に勤しむ兄への労いとして渡しにくることにしたのだった。
小屋の中からは話し声が聞こえていた。チームに参加している他の人間もいるかもしれない。皆に土産話を話してやろう。若き研究者の少年などは喜んで聞くだろう。龍水はにわかに心を弾ませ、小屋の扉の取っ手に手をかける。一瞬、手が止まる。近づいたことでより鮮明に聞こえたのは、聞き覚えがある一方で、この小屋から聞こえる想定がなかった声だった。その声は笑っていた。
「ここで何をしている」
小屋の扉を開け、そこにいる人間の顔を見た龍水は、シーベリーを渡す、という目的を忘却した。
「龍水さん。おかえりなさいませ」
答えたのは龍水の秘書役をつとめる女だった。女は大陸への渡航には帯同せず、村に残り、龍水の代理として各地との定期連絡係や金融事業の運営を行う役目を担っていた。その女がオンラインミーティング用の通信室でも、金融事業のための執務室でもなく、プログラミングチームの開発室にいる。龍水は持っていたシーベリーを小屋中央のテーブルに乱雑に放り、女の腕を引いた。突然の訪問者、突然の慌ただしさに驚いたSAIが、執務机に積み上げられた資料の山の奥から顔を出した。
「ここで、何をしている」
「お、お手伝いを、しています」
自分の腕を強く引く龍水の剣幕に驚き、女は平素のハキハキとした調子を乱しながら答えた。穏便でない様子にSAIが執務机から立ち上がる。この騒動で立ち上がったのはSAIだけで、部屋には他に誰もいないようだった。女とSAIが二人きりで過ごしていた部屋を見回した龍水は、ともすれば荒げそうになる声を抑えながら、言葉を区切るようにして言った。
「こんな夜遅く、ほかに男一人しかいない仕事場で、か」
人口が少ないため建物同士の間隔は広く、何事かが起こっても小屋外には知られにくい、この状況で。
「こんな夜遅くって。げっ、確かにもうこんな時間か」
星の動きで時刻が分かる龍水と違って、SAIは、先日、アメリカ大陸から持ち込まれた機械式時計を見て、やっと、日付が変わりそうな時刻であることを知った。「遅くまで悪いね」。女に片手で謝罪のポーズを取る。女ははにかむように笑みを浮かべ、小さく首を振った。少ない言葉や動きで、しかし十分に意思疎通をしている二人を、龍水は鋭い視線で追った。
「人が足りなくてね。資料整理をお願いしていたんだよ」
「俺の秘書だ」
龍水は掴んでいた女の腕を離し、SAIと女の間に立った。何がしかが龍水の気分を害したことだけは理解した女は自分の前に立ち、SAIを睨む龍水の背後から、控えめに、しかし、ハッキリとした声で進言した。
「私がお仕事をくれるようお願いしたんです」
龍水は目線だけでチラリと背後を見返すが、体は女の方へ向けなかった。
「仕事と言うが、随分と楽しそうだったな」
小屋の扉の前で聞いた笑い声は女のものだった。少なくとも男の声ではなかった。この部屋には男が一人、女が一人しかいない。つまり、その笑い声は、この秘書の女のものである。龍水は未だかつて聞いたことのない、この女の笑い声が、先ほどまで、この部屋で、一人の男の前だけで披露されていた。愛想よくしろ、祖父だか祖母だかに言われた言葉を守って誰にでも振りまく笑みではなく、おそらく今も、困惑に歪みを生じそうになっている表情を制しながら頬の筋肉を操作して作り上げているだろう微笑みではなく、声を出して、笑っていた。声を出して笑うような楽しいことが、この二人の間で起こっていた。
「さっきまでクロムがそこで居眠りしててさ、よだれの跡が残ってるのを笑ってたんだ」
SAIが一枚の紙を持ち上げた。そこにはミミズの這ったような鉛筆の線と、何かで濡れた箇所があった。スイカがクロムを自室まで連れてったんだよ。どっちが歳上だかわかんないよね。SAIはクスクスと笑いながら、クロムのよだれ付きの書類をテーブルに置いた。そこには龍水が土産として持ってきたシーベリーが、小屋の照明を受け、その鮮やかなオレンジ色の実を光らせていた。「珍しい実だなぁ、これ何?」。問うSAIの声は明らかに聞こえているというのに、龍水は黙っていた。なぜか機嫌を損ねた弟の様子に、SAIもまた快い思いはしなかった。乱暴に頭をかきながら言った。
「なんだよっ、仕事の合間に談笑ぐらいするだろう?」
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夜遅くなったため自室まで送り届けることとした女を後ろに歩かせながら、龍水は再びカンテラを掲げていた。歩を進めるたびカンテラは揺れ、二人の影も揺れていた。月は新月で、星は多い、暗いが輝きに満ちた夜空だった。しかし、その星々のきらめきに二人が気づくことはない。女は前を行く男の背を、男は女の自室までの距離がみるみる縮まっていく様だけを見ていた。住居区画に入ったところで、男は背中越しに言った。夜間のためか、いつもの覇気はなく、いたって密やかな声色だった。
「見ず知らずの人間に言われたことを、そう易々と引き受けるのか」
女にとってSAIは見ず知らずの人間ではないことは分かっていた。龍水と同じように家同士の交流があった間柄は、むしろ知己とさえ言える。易々と引き受けたのではないことも知っていた。おそらく龍水から言い渡された仕事は女に取って容易すぎ、暇を持て余した女が、忙殺されている知己に援助を申し出たのだろうことくらい想像にやすかった。分かっていながら、棘のある言葉をこぼさずにいられないでいた。
「お役に立てるのでしたら」
女はおそらく“そうしろ”と言われれば“そうする”。それが誰の命(めい)でも、どんな内容でも。得意ではない薪運びのような肉体労働も、本来であれば従わせる側の家系の人間の従者でも、引き受けてしまう。龍水は女のその危うい従順さ、責務放棄ともいえる無思考さへ苛立ちを隠せなかったのだ。女へ仕事を依頼したのがSAIではなく他の男だったら。同じように夜間、二人きりの部屋に呼び出されたら。仕事というのが事務作業ではなく、たとえば、女という性に関わるものであったら。そうだとしても、従順に、無思考に、受け入れてしまうのではないか。
「……滝壺に飛び込めと言われたら飛び込むのか」
本当の危惧を言葉にせず、しかし、何も言わずにはいられず、龍水は唸るような声を出した。立ち止まり、振り向く。女はいつもと同じように良い姿勢で、まっすぐに龍水の顔を見ていた。いつものように微笑んでいた。対外的な笑みだった。
「場合によっては」
打てば響くように女は答える。ハッキリと、断定的に。しかし答え自体は曖昧だった。苦虫を噛み潰したような龍水の表情を見ても、特に恐れや焦りを見せない。曖昧な答えに、明確な意志がある、そんな態度だった。女の堂々とした態度を前に、龍水は口をつぐんだ。まるで自分が駄々をこねる子供のように感じられた。応答は確かに返ってくるにも関わらず、何も得られないこの手応えのなさを、それに対する焦燥を、どう処理して良いか、分からないでいた。
「土産だ」
話題を変えるため、龍水はポケットから何物かを取り出した。女に差し出す。女は両手で受け取った。
「アンデシンだ。今回の採掘で見つけたものだ」
女の手のひらには小さな石がのった。現地では古くから聖なる石とされている宝石の一種だった。軽く研磨されているがカッティング等の加工はされていない。原石を磨いただけの素朴な宝石が、女の手のひらの中でカンテラの明かりを集めては輝いている。女は龍水の顔と、手のひらの中の宝石を交互に見た。
「……ありがとうございます」
「嬉しくないか」
女はやはり型通りの礼を述べた。その礼に少しの熱も感じられない点について、龍水は率直に指摘した。女の育った家には宝石など、掃いて捨てるほどあっただろう。今更、珍しくも、欲しいとも思わないかもしれない。宝飾品に加工してから渡したら良かっただろうか。そうだとしても、女は同じ反応をしただろうことも、想像できた。しかし、今回、土産として持ち帰れるものはSAIに渡した果物かこの貴石程度だった。
「嬉しいです。私に贈り物を選んでくださって、ありがとうございます」
「しかし、欲しかったものではない。違うか?」
「……」
アンデシンには様々な色合いが存在する。赤いものが有名だが、緑色、オレンジ色のものもある。今回、龍水が持ち帰ったものはイエローアンデシンと呼ばれる種類で、黄色味がかった透明度の高い石だった。今宵、姿を隠している月の姿に似ている。龍水はそう感じた。それが、これを女への土産とすることにした理由の一つであった。しかし、女はカンテラの明かりでオレンジ色に光るこの石に、月の面影を見ているようには思えなかった。まして、龍水が月の明かりを女との出会いの象徴と認識していることなど、知る由もなかった。
「貴様は何が欲しい」
「特に、これといって。十分、満ち足りています」
女は手のうちに光る鉱石を見つめながら言った。いつもであれば上背のある龍水を見上げる女の目がそっと伏せられている。まつ毛が頬に影を刻んでいた。まばたきごとに、頬の上を蠢く影を龍水は見ていた。
「何でも良いのだ。レアアースの採掘権でも、銀行の重役ポストでも、髪飾りでも、友人でも。貴様が欲しいと思うものを聞かせてくれ」
呼吸に合わせて動くまつげの影のように、ただ、そこにある、欲求を。龍水は女の“欲しい”を問う。何を欲しがるか、そこにその人間の真性が現れる。型通りの返事は聞き飽きた。張り付いた微笑みも見飽きた。あの三日月の夜、龍水が仕事を与えた時、微かに見えた愉悦の気配、それをもう一度見たかった。あわよくば、自分にも笑い声を聞かせて欲しかった。
「ではお仕事の指示が欲しいです。頼まれていた帳簿の整理が終わってしまったので」
女は微笑んだ。龍水は眉をひそめた。
「自分が何が欲しいのかを言え、と言っている」
声色が硬くなったことを、龍水は自覚していた。しかし、取り繕うとも思わなかった。女は龍水の声を聞いて、例の微笑みを解いた。相手が怒っている様子なので、笑みを取り下げた。ただそれだけのように見えたこともまた、龍水の苛立ちを煽った。しかし、さらに重ねられた女の回答はさらに龍水を勃然とさせた。
「……命令が欲しいです」
「だから!」
大きな声が出た。星のささやきなど消し飛びそうな、暴力的な響きだった。皆が寝静まった真夜中の住居区であることを、賢明な龍水が忘れることはなく、すぐにその響きを鞘に収めた。しかし、手に持つカンテラの明かりが揺れ続けていた。女のまつ毛の影も揺れていた。その影がぐにゃりと歪んだ。女が口を開いたのだった。
「私は今、新月の夜をさまよう迷い子に等しい。父や祖母のように、私のなすべきこと、私のなるべき姿をあなたが示してくれるのであれば、嬉しく思います」
手の中の宝石をじっと見下ろしている女は、その希少な石の存在に生家の豊かさの幻影を見出しているのかもしれなかった。数百年続いた由緒ある家系。3700年後の世界では、ほんの小さな歴史。そのどれをも超越する星霜の果てに結実した鉱石の輝き。日々姿を変える月の姿など、女の目には映っていないようだった。
「欲しいは正義、なんですよね」
再び、女は龍水を見た。龍水は、まっすぐと自分の瞳を射抜く女の視線に、絶望も、希望も、追慕も、愛惜も含まれていない、と感じた。ただ、まっすぐ、見ている。それだけだった。龍水はその視線を受け、たじろぎかける。しかし、彼の性質はそれを許容しない。女の言う通り、“欲しいは正義”だからだ。さらに詰問する。女の答えが、女の真意が、欲しかった。
「指示や命令に従って生きてきた貴様の半生を否定したいのではない。だが、貴様自身の中に貴様自身の意思があるはずだ。それを聞かせてくれ」
「指示や命令に従って生きていたい。それが私の意思です」
女はやはり間髪入れずに答えた。
「“実存は本質に先立つ”とはよく言ったものだ。貴様のそれはそう思わされているだけだ、今貴様を縛る家はなくなった。もっと自由に選択し、生きることができる」
知りもしない相手に微笑む必要はない、誰にでも慇懃に接しなくて良い、そうしないからといって責める人間はもはやいない。女が無礼で不作法な人間であっても、傷つく家名ももはやない。本当は龍水のように誰にでも不遜な態度でいたいのではないか。本当はSAIのように家を出て好きなことをしたいのではないか。たくさんの習い事よりも友達とカフェに行きたかったのでは、親のパーティに参加するより恋人を作って映画を見たかったのでは。今なら、本当はしたかったこと、それらも叶えられる。女の言動を見咎める大人は、家柄は、なくなったのだから。龍水は、女に言いつのる。そして、その問いに女は応える。
「自由でありたい、そう思っているあなたの思想もまた、あなたを取り巻く関係や環境によって形作られたものではないのですか? 人間は自由であるべき、という考えはあなたの言うところの“本質”ではないと言えますか?」
龍水は次の言葉を用意できなかった。女の言い分に間違ったことはない。女は道を誤ったこともない。ただ、ありのまま何もない女を、見失いそうな自分だけが今、実存していた。ただそこにいる。あの月夜と同じだ。龍水が時折思い出す、あの夜、あの月明かり、少女の姿。少女は、除け者の自分のそばにいた。何度、本から顔をあげても、そこにいた。今もそうだ。しかし、どこまで行っても月との距離は縮まらないように、ただそこにいるだけだった。
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新月の夜から再び大潮の時期が巡ってきた。沈みゆく火球の光線によって赤く染まった船の甲板に、二人分の影が長く伸びている。次の航海について寄港先の担当者とオンラインミーティングをした帰り道、そのミーティングで出た検討事項の確認のため船に寄ることとした龍水とその秘書の女だった。再びの船出が近かった。しかし、次の航海に龍水は参加しない。月面旅行のメンバー候補として訓練があるからだった。ロケットが完成すれば、龍水は月に行く予定だった。
「俺が月に行ったら、貴様はどうする。また命令してくれる誰かに盲従するのか」
確認を終え、あとは船を降りるのみとなった龍水は振り返る。夕日を背に、その輪郭を赤く燃やしている女の姿を見る。いつも通り、女は龍水をまっすぐ見ているのだろうが、背後の落日の鮮やかさに女の顔は黒く陰り、その表情の詳細は明らかでなかった。
「おそらく」
同行していた秘書の女は短く答えた。英語で書きつけた議事録を胸に抱いた女の影は長く伸び、龍水の半身を黒く染めていた。龍水は自分の胸に投影された女の影をちらりと見下ろした。夕日は徐々に山間へ身を浸していき、光線は徐々に弱まり、女の影の輪郭は曖昧になっていった。消えゆく影を抑え込むように、龍水は右手をあてた。敬礼のような姿で、顔をあげる。上目遣いに女を見る。乞うように唱える。
「……では、俺からの命令だ」
夕日が沈み、月明かりが優勢となっていく黄昏の空を背負って、龍水は命を下す。胸に手を当て、女の顔を見上げ、乞うように命令する。女は、やはり、龍水をまっすぐに見ていた。その瞳には月が浮かんでいた。今夜は満月だった。
「俺が戻るまで他の者からの命令に従うな。勧誘や依頼を受けるかどうかは貴様が決めろ。決断が難しければ、俺であればどう答えるかを想定しろ。これは俺が戻り、俺自身で撤回するまで無期限に有効な命令とする」
「……はい」
海は穏やかで、足元に砕ける波の音が小さく響いていた。その波音に溶け込むように、女は小さく返事をした。平時の即時的な返答とは異なる、少し間をあけて押し出されたその言葉に、龍水はにやりと笑った。
「夜が来たら月を見ろ。俺を思え。見えなくとも、俺を思え」
満月の夜も、三日月の夜も、新月の夜も、晴天でも、曇天でも、宴で村に明かりが絶えない夜も、嵐で空を見上げられぬ夜も。
「そうしろ、と言われるのであれば」
すぐに返事が返ってくる。女は姿勢よく、まっすぐ、龍水を見ている。不遜な男の背後、夕日の沈んだ反対側の海の上には月がのぼっていた。宵闇に溶ける水平線と白々と明るく高くのぼりゆく衛星を背負い龍水はニヤリと笑った。
「ああ、そうしろ」
女には、龍水のこぼれた八重歯が、月の欠片のように見えた。
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♪ syrup16g「月になって」