淡海乃海 獅子の子が描く波紋 作:竹若丸
元亀二年(1574年) 一月上旬 近江国蒲生郡八幡町 八幡城 朽木基綱
年が明けたというのに、暦の間では黒野重蔵と蒲生下野守を相手に物騒な話をしていた。丹波の戦はまだ終わっていない。昨年末に八幡城へ帰還しても、正月気分に浸ってはいられなかった。
もっとも、悪い知らせばかりではない。赤井方の芦田為家、波多野方の江田行範、小野木重勝、須知景氏が朽木に寝返りを申し出ている。内から崩れ始めているのは確かだ。だが、追い詰められた者が素直に降るとは限らない。
「波多野の忍びが、まだ俺を狙っていると?」
「はっ。寝返りを申し出た者達からも警告がございます」
「しつこい連中だ」
「御屋形様、くれぐれも御用心を」
重蔵の顔は厳しかった。昨年、丹波の陣中で忍びに鉄砲を撃ちかけられたことを気に病んでいるのだろう。南蛮鎧のおかげで命拾いしたが、次も同じように助かる保証はない。
「分かっている。俺も二度とあんな目には遭いたくない」
重蔵はなお納得しかねる様子だった。下野守まで頷いている。困ったものだ。二人揃って俺が信用できんらしい。
話題を公方様の動きに移した。上杉、織田、今川、北条、武田、さらには毛利、大友、龍造寺、島津にまで使者を送っているという。狙いは毛利だろう。毛利と大友を和睦させるか、大友を他家に牽制させ、その間に毛利を朽木へ向けようという腹かもしれん。
東海道では織田と今川の戦が続き、織田に従って兵を出す徳川にも負担が溜まっている。公方様が使者を送ったからといって、上杉や織田が直ちに朽木を裏切るとは思わん。だが、各家には各家の事情がある。そこを無視することも出来ない。
「重蔵、東海道、とりわけ徳川の様子を探らせよ」
「はっ」
「下野守、丹波の調略は進めてよい。だが寝返りを申し出た者達は、十分に調べてから受け入れよ」
「承知いたしました」
二人を下がらせ、机上の書状に目を落とした。
天下を一つにまとめるために動き始めた以上、毛利との衝突はいずれ避けられん。いや、避けるつもりもない。阿波三好、大友、土佐一条と連携する道筋は既につけてある。毛利と戦うのは、むしろ望むところだ。
問題は時機と戦い方だ。公方様が毛利をけしかけるのなら、それを逆に利用する手もある。だが、こちらの備えが整う前に敵の望む時機で戦を始めさせられては堪らん。毛利は西に大友を抱えている。誰が何を求め、どこまで動けるか。それを見極めてこそ、こちらから手を打てる。
「父上、竹若丸です」
「入れ」
襖が開き、竹若丸が入って来た。昨年より背が伸び、顔つきも少し大人びてきた。とはいえ、俺を見た時に表情が和らぐところは変わらない。
「どうした、竹若丸」
「父上にお尋ねしたいことがあります」
「ほう。何だ?」
向かいに座るよう促した。竹若丸は膝を揃え、少し考えてから口を開いた。
「半兵衛から、公方様が諸国の大名に使いを送っていると聞きました。上杉や織田にも送っているのですか?」
「そうだ」
「でも、上杉も織田も朽木の味方ですよね。公方様は、なぜ使いを送るのでしょう」
「今は朽木と親しくしていても、事情が変われば考え直すかもしれん。公方様はそう期待しておられるのだろう」
「事情が変われば……」
「例えば織田が今川との戦で苦しくなった時、公方様が助けになる話を持って来ればどうだ?」
「織田が、その方が得だと思えば、公方様の話を聞くかもしれません」
頷くと、竹若丸は一度視線を落とした。まだ考えたいことがあるらしい。
「父上。でしたら、織田が朽木との約束を守りたいと思うようにすることも、大切ではありませんか?」
「……ほう」
「裏切るかもしれないと心配するだけでは、何も変わりません。織田が朽木を必要と思っていれば、簡単には離れないでしょう?」
なるほど。相手が約束を守る理由を、こちらから作れと言うのか。
「その通りだ。ただし、こちらがどれほど親しくしても、相手の都合が変わることはある。それに織田の望みを何でも叶えればよいというものでもない。朽木にも守るべきものがある」
「……そうですね」
竹若丸は頷いた。自分の考えを否定されたとは受け取らなかったようだ。
「もう一つ、聞いてもよいですか」
「構わんぞ」
「毛利は、公方様に頼まれたら、すぐに戦を始めるのですか?」
「毛利とはいずれ戦うことになろう。だが、毛利には毛利の事情がある。公方様に言われたからといって、すぐに兵を動かすとは限らん」
「では、毛利が戦うつもりでも、今すぐに動けるとは限らないのですね」
「うむ。こちらにも戦を始める時機がある。相手の都合ばかりで決めるわけにはいかん」
竹若丸は顎を引き、また考え込んだ。
「なら、毛利が今、何を心配しているのか分かれば、父上も戦の備えを考えられるのですね」
「そうだ。戦う相手だからこそ、何を恐れ、何を欲しているか知らねばならん」
俺は身を乗り出した。
「毛利は西国で大友と争っている。大友を背後に置いて、簡単に東へ兵を出せるものではない。だから公方様は大友にも使いを送り、龍造寺や島津にも働きかけているのだろう」
「……毛利だけではなく、大友やほかの大名も動かそうとしているのですね」
「そういうことだ」
「でも、父上。それぞれが自分の都合で動くのなら、公方様の思う通りにはならないのではありませんか?」
そう来たか。確かに毛利と大友が和睦するとは限らん。だが、大友をほかの勢力に牽制させるだけでも毛利が動く余地は生まれる。公方様も一つの筋だけに頼っているわけではなかろう。
「皆を一つ残らず思い通りに動かす必要はない。一つが駄目でも別の手を用意すればよいのだ」
「では、父上も毛利と戦うために、幾つか手を考えておられるのですか」
「当然だ。戦は相手の都合で始めさせるものではない。こちらから仕掛ける時機を見極めねばな」
「……はい」
竹若丸は考えながら頷いた。今はそれでよい。戦の主導権を公方様に握らせぬためにも、こちらから手を打つつもりだ。
面白い。知識はまだ乏しいが、分からぬところを聞き流さず、相手の立場から考えようとしている。七歳にしては、なかなかのものだ。
「竹若丸。なぜ、そのようなことを気にした?」
「半兵衛が、国同士の約束も守られないことがあると教えてくれたからです。では、どうすれば守ってもらえるのかと」
「なるほどな」
「父上なら、どうお考えになるのか知りたかったのです」
真っ直ぐな言葉だった。俺を信用している。だが、俺の答えを何も考えずに受け入れるのではない。その違いが嬉しかった。
「よいか。約束は大切だ。こちらも守らねばならんし、相手にも守ってもらいたい。だが、それだけでは足りん。相手が守りたいと思う関係を築き、それでも破られる時には備える。両方が要る」
「はい」
「一人で何もかも考えようとするな。分からぬことがあれば半兵衛や新太郎に聞け。俺に聞いてもよい」
「ありがとうございます、父上」
竹若丸が小さく笑った。
昨年、俺が丹波で撃たれた折にも、この子は随分と心配して文を寄越した。戦に勝つことと、無事に帰ることは別だと気づき始めているのだろう。今は父親の身を案じる気持ちが、こうした問いにもつながっているのかもしれん。
その時、廊下を急ぐ足音が聞こえた。
「御屋形様!」
小夜の声だった。襖が開くと、その後ろには綾ママもいた。どちらも顔色が悪い。
「如何した、小夜」
「京から急ぎの知らせが届きました。飛鳥井の御爺様が……」
「弥五郎殿。父上が危篤とのことです」
綾ママの手には、京から届いた文が握られていた。
「……危篤ですか」
飛鳥井雅綱。綾ママの父で、俺の祖父に当たる。直接言葉を交わす機会は多くなかったが、綾ママにとっては実の父親だ。随分と弱っているとは聞いていた。それでも年を越せたのだから、もう少しは持ち堪えるかと思っていたのだが……。
「母上、京へ参りましょう。船で大津まで行き、そこから陸路を取ります。急ぎ支度を」
「はい……」
「小夜、留守を頼む。竹若丸も連れて行こう。曾祖父のことだからな」
「承知いたしました」
「父上」
「何だ?」
「京の曾御爺様は、それほどお加減が悪いのですか」
「詳しくは行ってみなければ分からん。だからこそ急ぐのだ」
「……はい」
竹若丸が黙ったところへ、重蔵と下野守が取次ぎを求めて来た。京から急報があったと聞き、戻ったらしい。
「御屋形様。若君の御同行は見合わせていただきとうございます」
「何?」
「京には御屋形様を狙う者がおります。若君まで御連れになるのは危険にございます」
「某も重蔵殿と同じ考えにございます。御屋形様は行かねばなりますまいが、若君はまだ幼少。此度は八幡城にお残しくだされ」
二人の言う通りだ。俺が京へ行くのは当然だが、父子揃って危険に身を晒すこともない。
「分かった。竹若丸は残そう」
竹若丸を見ると、残念そうではあるが、口を挟もうとはしなかった。
「済まんな。そなたは小夜と城に残れ」
「京が危ないからですか」
「そうだ」
「……分かりました」
少しの間があった。
「父上も、気を付けてください。京へ行くことを、敵が知るかもしれません」
なるほど。自分が行けなくなったことより、俺が狙われるのを気にしているらしい。
「心配するな。護衛は重蔵達に任せる。兵も連れて行く」
「はい」
竹若丸はそれ以上何も言わなかった。
大津八左衛門と宮川新次郎へ使者を出し、上洛の兵と道中の手配を命じた。人日の節句に予定していた能興行は中止せざるを得まい。敏満寺座には詫びを入れ、こちらの都合で取り止める分の銭を払わせよう。
皆が支度のために下がってゆく。竹若丸も退出しかけたが、襖の前で振り返った。
「父上。曾御爺様が、お元気になられるとよいですね」
「……ああ。そうだな」
竹若丸は頭を下げて出て行った。
先程まで同盟だの諸国の利害だのを話していた息子が、今はただ曾祖父の無事を願っている。どれほど鋭い問いを発しても、まだ七歳の子供なのだ。
俺は綾ママの握る文へ目を向けた。綾ママはまだ青い顔をしている。何とか爺様が生きているうちに会わせてやりたい。
急がねばなるまい。
元亀二年(1574年) 二月上旬 山城国葛野郡 京 一条邸 春齢内親王
庭に面した障子から、淡い冬の日が差し込んでいた。火鉢に掛けた釜の湯が小さく音を立てている。祖父の葬儀を終えてから、幾日かが過ぎた。屋敷にはいつもの静けさが戻りつつあるが、私はまだ、その静けさに慣れずにいた。
飛鳥井の祖父が亡くなられたと聞いた時は、覚悟していたこととはいえ、すぐには信じられなかった。体が弱っておられることは以前から知っていた。それでも、次にお目にかかれる日があると思っていたのだ。
叔母上と従兄様も急いで京へ来られたが、間に合わなかったという。葬儀の折に見た叔母上のお顔が、今も忘れられない。人の前では気丈に振る舞っておられたものの、ふと視線を落とされた時、ひどく寂しそうに見えた。
「母上。お茶をお持ちしました」
顔を上げると、秋麗が女房に付き添われて入って来た。まだ小さな手で茶の載った盆を持っている。女房がそっと手を添えているのを見て、思わず口元が緩んだ。
「ありがとう、秋麗。こちらへいらっしゃい」
「はい」
秋麗は盆を女房に預け、私の傍に座った。膝の上に手を揃え、こちらを見上げる。いつもより行儀が良い。何か話したいことがあるのだろう。
「母上。あの……」
「どうしました?」
「竹若丸様は、もう近江へお帰りになったのですか」
私は頷いた。秋麗は少し残念そうに目を伏せたが、すぐに顔を上げた。
「そうですか。また、お会い出来るでしょうか」
「ええ。親類なのですから、いずれ機会もありましょう」
そう答えながら、先月のことを思い出した。
竹若丸様が初めて一条邸を訪ねて来られたのは、祖父が亡くなってからのことだった。従兄様と叔母上は危篤の知らせを受けて急ぎ上洛されたが、竹若丸様は京の危うさを案じる家臣達の言葉に従い、八幡城に残されたと聞いている。
その後、従兄様は家臣達と道中の安全や護衛を改めて確かめ、訪問先と滞在を限った上で竹若丸様の上洛を許されたと聞く。危険がなくなったわけではない。あの日も門前には供の者が控え、長居は出来ぬ様子だった。
私は初めて会う従兄様の御子を、少し緊張して待っていた。幼い頃から慕っていた方の御子なのだ。どのような少年に育っているのか、以前から気になっていた。
案内されて来た竹若丸様は、部屋の入り口で丁寧に頭を下げられた。
「竹若丸です。本日はお招きいただき、ありがとうございます」
「よくおいでくださいました。お疲れでしょう」
「いいえ。皆が気を配ってくれましたので」
まだ七つになられたばかりだという。幼い顔立ちなのに、言葉は落ち着いている。けれども、礼を終えて顔を上げた時には、見知らぬ場所を訪れた子供らしい硬さもあった。
「叔母上が随分と気落ちしておられると聞きました。竹若丸様も、心配でございましょう」
「はい。御婆さまは、曾御爺様にお会い出来なかったと……」
その先は続かなかった。竹若丸様は少し視線を落とし、膝の上で手を揃え直された。
「私も、御婆さまに何と申し上げればよいか分かりませんでした」
「……そうですか」
私はそれ以上、慰めの言葉を探さなかった。幼い子が祖母を心配している。それだけで十分に伝わるものがあった。
やがて女房が秋麗を連れて来た。秋麗は私の後ろに隠れかけたものの、促すと前に出て、小さく頭を下げた。
「秋麗です」
「竹若丸です。初めまして」
二人は顔を見合わせたまま黙ってしまった。どちらも礼を失するまいとしているのだろうが、私は少し可笑しくなった。
「秋麗。この方は、母上の従兄様の御子ですよ」
「はい。存じております」
秋麗はそう答えたものの、次の言葉が出ないらしい。竹若丸様も困ったように私を見られた。大人の挨拶を覚えていても、初めて会う同じ年頃の相手と何を話せばよいかは、別なのだろう。
「秋麗は近頃、手習いをしております。竹若丸様も、字を習っておられるのでしょう?」
「はい。御婆さまに教えていただいています」
その途端、秋麗の表情が明るくなった。
「竹若丸様も、お文を書かれるのですか」
「時々、書きます。まだ間違えることもありますが」
「わたくしもです。書き直すと、初めより悪くなることもあるのです」
竹若丸様が小さく笑われた。
「私も、同じ字を何度も直されたことがあります」
「まあ」
秋麗も笑い、ようやく二人の間から緊張が抜けた。
それからは、互いにどのような文字を習っているか、書き損じた紙をどうするかといった話になった。秋麗の話はあちらこちらへ飛び、時折何を尋ねたかったのか自分でも分からなくなる。竹若丸様はその度に少し首を傾げながら、急かすことなく聞いておられた。
落ち着いた御子だと思った。だが、ただ大人びているのではない。秋麗が思いつくまま話しても、煩わしそうな顔をなさらない。分からぬことがあれば聞き返し、答えを聞いてから頷かれる。その様子に、私は従兄様の面影を感じた。
従兄様も、昔からそのような方だっただろうか。
そう考えて、少し可笑しくなった。私は幼い頃の従兄様を、ほとんど知らない。初めてお目にかかったのは、一条家に入ってからだった。それまでは、文を通じてしかお人柄を知ることが出来なかったのだ。
「近江のお城は、どのような所ですか」
秋麗が尋ねると、竹若丸様は少し考えてから答えられた。
「八幡城からは、淡海乃海が見えるのです」
「淡海乃海?」
「はい。とても広い湖です。日の光を受けると、水面がきらきらと光ります。私は、あの眺めが好きです」
「まあ。わたくしも見てみたいです」
秋麗は声を弾ませた。子供同士のこと、そのまま近江へ誘う言葉が出ても不思議ではなかった。けれど竹若丸様はすぐに答えず、少し間を置かれた。
「……いつか、ご覧になれるとよいのですが」
「いつか、行けるでしょうか」
「それは、私だけでは決められません。父上にもお尋ねしなければ」
秋麗は一度口を開きかけ、頷いた。
「わたくしも、母上のお許しをいただかなくてはなりませんね」
「はい」
二人は顔を見合わせ、小さく笑った。
互いに、来てほしいとも行きたいとも、約束にはしなかった。朽木の嫡男と一条家の姫では、幼いからといって勝手に行き来は出来ない。まして今は京への道中すら危ぶまれる。二人とも、それぞれの立場を幼いなりに分かっているようだった。
私も、幼い頃に従兄様から叶わぬ約束は出来ないと教えられた。二人の慎ましい言葉を聞いているうちに、そのことがふと胸に浮かんだ。
「竹若丸様。近江へお帰りになっても、今日のことを覚えていてくださいますか」
唐突な問いに、私は思わず娘を見た。竹若丸様も少し驚かれたようだが、すぐに首を横に振られた。
「忘れません」
「本当ですか」
「はい。秋麗様とお話ししたことも、覚えています」
秋麗はほっとしたように笑った。
「では、お文をくださいますか」
「……私から、ですか?」
「はい。近江のことも知りたいのです」
竹若丸様は少し考えられた。断るためではなく、どう答えようか迷っておられるように見えた。
「お文を差し上げたら、秋麗様もお返事をくださいますか」
「もちろんです。……でも、上手には書けないかもしれません」
「私も、御婆さまに見ていただいてからでないと、うまく書けないことがあります」
今度は二人で笑っていた。私はその様子を見ながら、遠い昔のことを思い出していた。
幼い頃の私は、従兄様へ文を書くのが楽しみだった。
まだお顔も知らぬ頃から、従兄様は母上のもとへ珍しい品々を送ってくださった。母上からその話を聞くたびに嬉しくなり、文を出しては返事を待った。お返事が届けば、何度も読み返した。気前のよい従兄様のおられる朽木は、さぞ素晴らしい所に違いない。幼い私はとうとう、従兄様に嫁ぎたいと文に書き送ったことがある。
届いた返事には、私を喜ばせるための慰めはなかった。身分が違うのだから夫婦にはなれないと、はっきり書かれていた。あの時は悲しくて、しばらくその文を読み返すことも出来なかった。けれど今なら分かる。従兄様は、叶わぬことを軽々しく約束なさらなかったのだ。
けれども、位が高いからといって、宮中の暮らしが豊かなわけではなかった。帝の娘であっても、内親王の宣下を受けなければ尼寺へ入り、俗世と縁を切るのが習い。私もそうなるはずだった。母上がどれほど案じておられたか、今なら分かる。
内親王宣下の話が持ち上がっても、儀式には多額の費用が要る。その五百貫を用立ててくださったのが従兄様だった。おかげで私は宣下を受け、尼寺へ入らずに済んだ。やがて一条家との縁談がまとまった時にも、婚儀のために朽木から援助を受けた。
あの時従兄様が手を差し伸べてくださらなければ、私は一条家に嫁ぐことも、秋麗とこうして暮らすことも出来なかったかもしれない。幼い頃の憧れは年月とともに形を変えた。あの返事に泣いたことも、今は懐かしい。それでも、従兄様への感謝と親しみは今も変わらない。
従兄様は今や大勢の家臣を率いる武家の当主になられた。私も一条家に入り、秋麗の母となった。あの頃のように気軽に文を交わすわけにもいかない。それでも、遠い近江から届いた便りのことは、今も覚えている。
「母上?」
秋麗に呼ばれ、我に返った。
「どうしました?」
「竹若丸様のお文が来たら、母上にもお見せしてよいですか」
「ええ。勿論ですよ。ただし、お返事はまず秋麗が自分で考えて書くのですよ」
「はい」
秋麗は素直に頷いた。
その日の竹若丸様は、長くは留まられなかった。京の情勢が穏やかでない以上、幼い御子をいつまでも引き留めるわけにはいかない。帰り際、秋麗は何度も振り返りながら、竹若丸様を見送っていた。
そして今日も、秋麗はその話をしている。
「母上。お文には、何を書けばよいのでしょう」
今の問いに、私は少し考えた。娘のために言葉を選んでやることは出来る。けれども、それでは秋麗の文ではなくなってしまう。
「竹若丸様に、何をお伝えしたいのですか」
「……また、お話ししたいことです」
「それなら、まずはそうお書きなさい。ほかにも聞きたいことがあれば、一緒に」
「淡海乃海のことも、聞いてよいですか」
「ええ。きっとお答えくださるでしょう」
秋麗は満足したらしく、茶を一口飲んだ。熱かったのか、少し慌てて茶碗を置く。女房が心配そうに身を寄せると、大丈夫だと言いたげに首を振った。そんな様子を見て、私は久しぶりに声を立てずに笑った。
祖父の死は、まだ胸に重く残っている。叔母上の悲しみも、簡単には癒えないだろう。私に出来ることは多くない。それでも今、娘が誰かに文を送りたいと願っている。その小さな気持ちを、大切にしてやりたかった。
「秋麗。明日にでも紙を用意させましょう」
「はい、母上」
娘が嬉しそうに頷いた。
私は庭へ目を向けた。冷たい風に枝が揺れている。春が来るには、まだ少し早い。けれども、こうして文を交わす楽しみが一つ増えれば、秋麗にも次の季節を待つ時間が出来るだろう。
元亀二年(1574年) 三月上旬 近江国蒲生郡八幡町 八幡城 朽木綾
庭の梅がほころび始めていた。朝晩の冷え込みはまだ厳しいが、日差しには春の気配がある。障子を少し開けると、澄んだ空気が入ってきた。
竹若丸は私の前で笛を構えている。息を整え、唇を当てると、細い音が一つ響いた。次の音へ移るところで息が乱れ、音が途切れる。竹若丸は眉を寄せたが、そのまま吹き直そうとはせず、笛を膝へ下ろした。
「御婆さま。今のところが、上手く繋がりません」
「少し急いでしまいましたね。指を動かすことばかり考えず、息をゆっくり送りましょう」
「はい」
私が短く吹いてみせると、竹若丸は指の動きを確かめてから、もう一度笛を唇へ運んだ。先程よりも音は続いたが、最後が僅かに揺れた。
「今の方が良いですよ」
「最後は、まだ違います」
「一度で出来るようになるものではありません。今日はそこまで音が続いたのですから、まずは良しとしましょう」
竹若丸は少し考え、それから頷いた。幼い頃から、納得のいかぬところをそのままにしない子だ。けれど私の言葉を聞かずに繰り返すことはない。教えられたことを確かめ、出来るところから直そうとする。
昨年の正月、弥五郎が小鼓の稽古で苦戦していた時、竹若丸が励ましていたことを思い出した。自分も笛が上手く吹けないのだから、稽古を重ねれば良くなるのだと。あれから一年余り、竹若丸の笛も少しずつ上達している。もっとも本人は、出来ないところばかり気になるようだ。
「少し休みましょう。喉が乾いたでしょう」
「ありがとうございます」
竹若丸は笛を布の上へ置き、私の勧めた湯を飲んだ。目を向けた先には、京の秋麗姫から届いた返書が一通置かれている。稽古が始まる前、嬉しそうに私へ見せてくれたものだった。
一月のこと、竹若丸は京の一条邸を訪ね、姪の春齢内親王とその娘の秋麗姫に会った。最初の上洛には同行しなかったが、後日、供を整えて改めて京へ赴いたのだ。父上を失ったばかりで心の落ち着かぬ頃に、孫が新たな縁を結んだことを、後になって嬉しく思った。
八幡へ戻ってから竹若丸が一条邸へ文を送り、その返事が届いたのはつい先日のことだ。秋麗姫は竹若丸より一つ年下と聞く。文には書き慣れぬところもあったが、竹若丸と再び話したいという気持ちは十分に伝わった。
「秋麗姫へのお返事は、もう考えましたか」
「はい。ただ、一つ迷っています」
「何を迷っているのですか」
「秋麗様が、淡海乃海は雨の日にも綺麗なのかとお尋ねになりました。綺麗な日もありますが、そうでない日もありますから」
思わず笑みが零れた。
「見たままを書けばよいのではありませんか」
「晴れた日には光って、雨の日には暗く見えると書こうと思いました。でも、それだけでは、あまり良い眺めに思えないかもしれません」
「雨の日には、雨の日の景色があります。竹若丸はどう思いますか」
竹若丸は障子の外へ目を向けた。八幡の城からは淡海乃海を望むことが出来る。今日はよく晴れているが、曇りの日には湖と空の境が曖昧になることもある。
「……雨が止んだ後は、雲の間から光が差すことがあります。湖の一ところだけ明るくなるのが綺麗です」
「では、そのことも書いてはいかがです」
「そうします」
竹若丸は穏やかに頷いた。年の近い親類へ、見慣れた湖のことを伝える。文机に向かう時の真剣な顔は普段と同じでも、そこに戦や政の話はない。私にはそれが嬉しかった。
「秋麗姫も、いつか淡海乃海をご覧になれるとよいですね」
「はい。……本当は、見に来ていただければ嬉しいのですが」
竹若丸の声は小さかった。京では軽々しく招くことをしなかったと聞いている。今も、勝手に約束してよいことではないと分かっているのだろう。武家の嫡男と摂家の姫が行き来するには、両家の許しと道中の備えが要る。まして弥五郎を狙う者がいる今は、なおさらだ。
「いつか、そのような機会があるとよいですね。楽しみに思うことまで、悪いわけではありませんよ」
「はい」
竹若丸はほっとしたように頷いた。相手の立場を考えることは大切だが、自分の願いまで抑え込む必要はない。まだ七つの子なのだから。
ふと、春齢内親王が幼い頃に弥五郎と文を交わしていたことを思い出した。妹の目々典侍から、従兄からの返事を春齢が待ちわびていると聞かされたものだ。今度はその娘が、弥五郎の息子と文を交わしている。不思議な巡り合わせだった。
二人の将来をあれこれ考えるには、まだ早い。遠くの相手に伝えたいことがあり、返事を楽しみにしている。今はそれで十分だろう。
竹若丸が湯呑を置いたところで、私は笛を手に取るよう促した。
「もう一度、先程のところを吹いてみましょう」
「はい」
音が部屋に戻ってきた。今度は急がず、息を途切れさせずに吹き終えることが出来た。竹若丸は自分でも分かったらしく、笛を離して私を見た。
「出来ました」
「ええ。よく出来ましたね」
竹若丸が嬉しそうに笛を置くのを見て、父上にもこの子の音を聞いていただきたかったと思った。京へ急いだあの日から、まだ二月にもならない。弥五郎とたどり着いた時には、父上は既に亡くなられていた。
最後に一目でもお会い出来れば、何も話せずとも良かったのかもしれない。今でも、ふとした折にそう思う。けれど、もう叶わぬ願いだった。
竹若丸が無事に京へ行き、春齢内親王達に会えたのは喜ばしい。だが、昨年の丹波での襲撃を思えば、弥五郎があの子の道中を案じたのも無理はない。
先月、弥五郎は伊勢で一条家の方々と会談するために出掛けた。その道中でも、弥五郎を狙う者が現れたという。本人は無事に戻ったが、別の道を進んでいた黒野重蔵殿が襲われ、左腕と左足を負傷したと小夜殿から聞いた。特に足の傷は重く、今後は以前のように動けぬらしい。弥五郎の無事に安堵する一方、長くあの子を支えてきた重蔵殿のことを思うと、手放しでは喜べなかった。
重蔵殿は以前から八門の頭領を倅の小兵衛殿に譲りたいと願い出ておられたそうだ。小夜殿の話では、弥五郎もこれを認め、重蔵殿には引き続き相談役として仕えてもらうという。忍びとして働くことは難しくなっても、あの方の力を必要とする者はいる。命を失わずに済んだことが、せめてもの救いだった。
竹若丸も、重蔵殿のことは気に掛けている。
「御婆さま」
呼ばれて顔を上げると、竹若丸は膝の上に両手を揃えていた。
「重蔵殿は、もう遠くへ出掛けられないのですか」
「以前のように走ることは難しいそうです。でも、お仕事がなくなるわけではありませんよ」
「これからは、小兵衛が重蔵殿のお役目を引き継ぐのですね」
「ええ。重蔵殿も、これまでとは違う形で弥五郎殿を支えてくださるそうですよ」
「父上には、ずっと重蔵殿がいてくださったのに……」
竹若丸は口を結んだ。何を言えばよいのか分からないのだろう。私も、この子にすべてを納得させられる答えなど持っていなかった。
「重蔵殿がこれまでしてこられたことを、なかったことには出来ません。今までと同じ働きが出来なくなっても、重蔵殿のお知恵を頼りにする方はおられるでしょう」
「父上も、そうなさるでしょうか」
「弥五郎殿も、そうお考えなのではないでしょうか」
竹若丸は少し黙ってから頷いた。それでも心配が消えたようには見えなかった。
弥五郎は家臣達に慕われ、朽木をここまで大きくした。それでもあの子を前にすると、私は今なお心が強張る。愛おしみたいと思いながら、母として思うように出来ない。だが、無事を願う気持ちだけは偽りではなかった。
重蔵殿の足に傷が残ったことも、弥五郎が再び狙われたことも、聞かずに済むならどれほど良かっただろう。
「竹若丸。今日は、もう笛をしまいましょう」
「はい。御婆さま、ありがとうございました」
竹若丸は笛を丁寧に布へ戻した。立ち上がる前に、文机の上の書状を確かめる。
「秋麗様へのお返事、今日のうちに書いてもよいですか」
「ええ。書けたら持っていらっしゃい。見て差し上げます」
「ありがとうございます」
今度こそ、竹若丸は嬉しそうに笑った。
父上に会うことはもう出来ず、重蔵殿の傷も消えない。弥五郎を取り巻く危うさも変わらぬままだ。それでも竹若丸は、遠い京の姫へ湖の色を伝える文を楽しみにしている。
竹若丸を送り出してから、私は障子の外へ目を向けた。遠くの淡海乃海は、朝よりも明るい色をしているように見えた。