「ルナちゃーん! 朝だよー!」
月白荘の廊下に、明るい声が響いた。
「……んぅ……あと、ちょっと……」
布団の中で、白月ルナは丸くなった。
艶のある黒髪が枕に広がり、琥珀色の瞳はまだ半分しか開いていない。
今日はいつもより少し早い朝。
けれど、眠気には勝てそうになかった。
「ルナちゃん、起きないと朝ごはん冷めちゃうよ?」
「うぅ……かなえちゃん……あと五分……」
「その五分、昨日も聞いた気がするんだけどなぁ?」
扉の向こうで、北河かなえがくすくす笑った。
「……起きるぅ……」
ようやく布団から顔を出したルナだったが、次の瞬間、廊下から別の声が聞こえてきた。
「白月。あと三分」
「ひゃっ!?」
ルナはびくっと驚きながら飛び起きた。
黒瀬蓮の声だった。
「れ、蓮くん!? 聞いてたの!?」
「廊下にいれば聞こえる」
「そ、そうだけど……!」
「先に行ってる」
パタパタと足音が遠ざかる。
ルナは慌てて時計を確認した。
「た、大変……!」
その声を聞いて、廊下にいるかなえがまた笑った。
月白荘の朝は、今日も平和だった。
****
食堂には、すでに何人かが集まっていた。
「おはよう、白月。間に合ったな」
東雲悠陽が、コーヒーを片手に優雅に声をかける。
「お、おはよう……。ぎりぎりだったよぉ……」
「黒瀬くんに声かけられてやっとだったよねぇ」
かなえがにやにやしながら尋ねると、ルナの頬が赤くなった。
「そ、そうだけど……!」
「かわいいねぇ」
「かなえちゃん!」
「はいはい、ごめんね?」
楽しそうに笑うかなえの前には、オレンジティーが置かれている。
悠陽はそのカップに目を向けた。
「今日もオレンジティーか」
「うん。好きだからね」
「……そうか」
それだけ言って、悠陽は再びコーヒーを口にした。
かなえは首をかしげる。
「どうしたの?」
「いや。似合ってると思っただけ」
「……えっ?」
今度はかなえが固まった。
悠陽は何事もなかったかのように、手元の端末を操作している。
「……そ、そういうこと急に言わないでよ」
かなえは小さく呟き、カップに口をつけた。
その耳がほんのり赤くなっていることに、悠陽は気づいていないふりをした。
「こより、パンを焦がす前に取り出して」
「ま、まだ焦げてないもん!」
「煙が出てるけど」
「えっ!?」
氷室こよりは慌ててトースターを開けた。
そこには、少しばかり焼きすぎたパンが鎮座していた。
「……あああ……」
「だから言ったでしょ」
神崎伊織は呆れたようにため息をついた。
「うぅ……伊織くん、助けてぇ……」
「はいはい。貸して」
伊織は焦げたパンを取り出し、代わりに新しいパンをセットする。
「今度は時間を短くする。ちゃんと見てて」
「う、うん!」
「あと、トースターから離れない」
「は、はい!」
こよりがしょんぼりすると、伊織は少しだけ表情を和らげた。
「……まあ、最初から全部うまくできる人はいないから」
「伊織くん……!」
「だから、次は焦がさないこと」
「うんっ!」
こよりがぱっと笑う。
伊織はその笑顔を見て、ほんの一瞬だけ視線をそらした。
「……おやおや」
その様子を、かなえが見逃すはずもなかった。
ニヤニヤしながらその様子を見ていて、悠陽に首根っこ捕まれたのは言うまでもない。
「朔夜くん、お味噌汁のおかわりいる?」
「……もらおうかな」
桜宮ののかが椀を受け取ると、雨宮朔夜は静かに差し出した。
「ありがとう」
「ううん! いっぱい食べてね」
「ののかも」
「え?」
「昨日、夕食あまり食べてなかっただろ」
いきなりのことにののかは目を丸くした。
「……覚えてたの?」
「見てたから」
あまりにも自然な返事に、ののかは言葉を失った。
やがて、黄色い瞳が嬉しそうに細められる。
「……朔夜くんって、ちゃんと見てくれてるんだね」
「……たまたまだ」
朔夜は少しだけ目を伏せた。
その隣では、月城詩乃が御影朔と穏やかに話していた。
「今日、少し風が強いみたいね」
「そうだな。帰り、冷えるかもしれない」
「ふふ。朔くんは心配性ね」
「……詩乃が薄着だから」
「ちゃんと上着を持っていくわ」
詩乃は微笑み、朔は短く頷いた。
二人の会話は静かだった。
けれど、その沈黙は気まずいものではない。
無理に言葉を探さなくても、一緒にいられる。
そんな関係が、少しずつ育ち始めていた。
十人が揃う食卓。
笑い声と、温かな料理と、ささやかな気遣い。
この時間が、彼らにとって何より大切なものだった。
放課後。
オカルト研究部の部室には、十人が集まっていた。
悠陽は机の上にノートパソコンと資料を広げ、蓮はその隣で腕を組んでいる。
「それで、今日は何を調べるんだ?」
パイプ椅子に座った蓮が尋ねる。
「最近、旧校舎の近くで妙な目撃情報が続いてる」
悠陽が画面を回した。
『閉まっていた教室の窓に、人影が映った』
『夕方になると、誰かに名前を呼ばれた気がする』
「……うわぁ」
こよりが資料を見つめて顔を青くした。
「や、やっぱり、そういう話だよね……?」
「まだ怪異と決まったわけじゃない」
伊織は冷静に言った。
「聞き間違いや、窓の反射という可能性もある。証言だけで結論を出すのは早いよ」
「伊織くん、冷静すぎない……?」
「怖がっても情報は増えないからね」
「そ、それはそうだけどぉ……」
こよりが落ち込みながら小さくなる。
ルナは資料の一枚を手に取った。
「……この目撃情報、昨日の夕方なんだね」
「そう。しかも、場所がほとんど同じだ」
悠陽が指で地図を示す。
「旧校舎の東側。特に、この渡り廊下付近に集中してる」
「偶然にしては偏っているわね」
詩乃が静かに見つめながら呟いた。
「あぁ。まずは現地を確認するべきだと思う」
御影朔も静かに頷いた。
ののかは資料を見つめながら、ふと顔を上げた。
「でも……もし、本当に誰かが助けを求めているんだったら?」
その言葉に、部室の空気が少し変わった。
怪異は恐ろしいものかもしれない。
けれど、そこに何らかの事情がある可能性もある。
「……だから、ちゃんと調べるんだ」
悠陽はそう答えた。
「怖いからって決めつけず、何が起きているのかを確かめる」
かなえが頷いた。
「うん。みんなで調べよう」
「もちろん。俺も行く」
蓮が短く答える。
ルナは少しだけ不安そうにしながらも、頷いた。
「わ……私も」
蓮は静かにルナを見た。
「無理はするなよ、白月」
「うん。でも、私にもできることがあると思うから」
その言葉に、蓮は小さく頷いた。
「……わかった」
それ以上、何も言わなかった。
けれど、彼はルナのすぐ隣に立っていた。
十人は、まだ人通りのある時間帯に旧校舎の渡り廊下へ向かった。
夕日が窓から差し込み、長い影が床に伸びている。
風が吹くたび、古い窓枠が小さく鳴った。
「……普通の廊下に見えるけど」
かなえが周囲を見渡した。
「今のところはな」
悠陽は射影機を手に取り、ファインダーを覗き込んだ。
レンズ越しに廊下の奥を確認する。
――カシャッ。
一枚、撮影する。
「何か写った?」
ルナが尋ねる。
「今のところ、目立ったものはない」
悠陽は画面を確認しながら答えた。
そのときだった。
「……あれ?」
かなえがぴたっと足を止めた。
「どうしたの?」
ルナが不思議そうに振り返る。
かなえは廊下の壁際をじっと見つめていた。
「そこ……光ってない?」
ルナたちが目を向ける。
一見、何もない。
しかし、かなえには見えていた。
夕日の色とは違う、淡く揺らめく光の筋。
床から壁へ、そして閉ざされた教室の扉へと続いている。
かなえの能力――残光視。
怪異にまつわる光の痕跡を視る力。
「……残光視に映ってる。ここを何かが通った跡かもしれない」
悠陽の目が輝いた。
「なるほど……。その光は、どっちに続いてる?」
「教室の中まで。でも、途中で薄くなってる……」
かなえが光を追う。
その横で、ルナも目を凝らした。
けれど、彼女には光とは別のものが見えた。
壁の一部分に、淡く滲む感情の痕跡。
不安。
焦り。
そして、誰かを待ち続けるような、ひどく寂しい感情。
「……ここ、悲しい気持ちが残ってる」
ルナが呟いた。
「白月の残響視か」
蓮が彼女の隣で尋ねる。
ルナは頷いた。
「うん……。でも、誰のものなのかまではわからない」
「それだけでも手がかりだ」
伊織は壁と床を交互に確認した。
悠陽も頷いてルナとかなえの方を見つめる。
「かなえの視ている光と、白月が感じ取った感情。関連している可能性はある。ただ、まだ断定はできない」
そのとき。
「……聞こえる」
こよりが突然、顔を上げた。
「こより?」
伊織がすぐに彼女を見る。
こよりは、閉ざされた教室の扉を見つめていた。
「女の人の声……。向こうから聞こえる」
能力――幽聴。
幽霊の声を聞き取る力。
「何て言ってる?」
悠陽が声を抑えて尋ねた。
こよりは耳を澄ませる。
ヘッドホンに触れながら。
「……『まだ、帰れない』って……」
こよりの表情が強張った。
「それから……『待ってる』って……」
誰も、すぐには言葉を返せなかった。
ののかも目を閉じた。
「……待って。わたしにも……」
彼女、ののかの能力は残響聴。
物や場所に残された、過去の音や声を聞き取る力。
ののかの耳には、かすかな音が届いていた。
コツ。
コツ。
コツ。
何かを叩くような、規則的な音。
「……扉を叩いてるみたい」
ののかは目を開けた。
「でも、今の音じゃない。もっと前……ずっと昔に、この場所で鳴った音が残ってる感じがする」
「過去の音が、場所に残っているのか……」
悠陽は資料を取り出し、急いでメモを取った。
そして、詩乃が静かに一歩前へ出た。
「……扉の向こうに、何かが通った跡があるわ」
詩乃の能力――幽跡視。
怪異が通った場所に残る痕跡を視る力。
詩乃には、床に沿って伸びる、ぼんやりとした跡が見えていた。
「ただ……姿まではわからない」
彼女は更に慎重に続けた。
「ここから教室の中へ入って、また戻ってきたように見える」
「つまり、五人がそれぞれ別の手がかりを捉えたってことか」
御影朔が考えながら整理する。
ルナの残響視。
かなえの残光視。
こよりの幽聴。
ののかの残響聴。
詩乃の幽跡視。
同じ場所に、異なる痕跡が残っている。
それは偶然なのだろうか。
それとも――。
「……今日はここまでにしよう」
蓮が静かに言った。
「えっ? でも、まだ調査が……」
悠陽が振り返る。
「もう日が落ちる。何がいるかわからない場所に、準備もなしで踏み込む必要はない」
伊織も頷いた。
「同意する。今日は情報を整理して、明るい時間に改めて調べよう」
悠陽は少し考えたあと、射影機を下ろした。
「……わかった。今日は撤収だ」
こよりが、ほっと胸を撫で下ろす。
「よ、よかったぁ……」
「でも、こより」
伊織が彼女を見る。
「よく声を聞き取ってくれた。大事な手がかりだよ」
「……っ!」
こよりは目を丸くした。
「ほ、ほんと……?」
「うん。怖かっただろうに、よく頑張ったね」
こよりの頬が、じわじわと赤くなる。
「……あ、ありがと……」
伊織は微笑み、先に歩き出した。
その背中を見つめながら、こよりは胸元をそっと押さえた。
怖かった。
でも、それだけではなかった。
夜の月白荘。
十人は食堂で仲良く夕食を囲みながら、今日の調査について話し合っていた。
「かなえの残光視に映った光は、かなり重要な手がかりだな」
悠陽がノートを開く。
「ただし、光の意味はまだ不明。白月の残響視に映った感情との関係も調べる必要がある」
「扉の向こうに、本当に幽霊がいるのかな……」
蓮が思考しながら、そう言う。
ルナが不安そうに呟いた。
「いるかどうかも、まだわからない」
伊織は落ち着いた声で答えた。
ルナに視線を向けて。
「だから調べるんだよ」
「……うん」
「怖いなら、一人で行かなくていい」
蓮がルナの様子を見ながら言った。
「俺たちがいる」
ルナは驚いて彼を見つめた。
それから、少しずつ表情を和らげた。
「……ありがとう、蓮くん」
「別に」
蓮は視線をそらし、食事を続けた。
その向かいでは、かなえが悠陽のノートを覗き込んでいた。
「明日も調べるんでしょ?」
「ああ。光の痕跡がどこまで続いているか、もう少し詳しく確認したい」
「じゃあ、わたしも一緒に行くよ」
「……頼りにしてる」
かなえは一瞬、言葉に詰まった。
「……うん!」
嬉しそうに笑う彼女を見て、悠陽も小さく笑った。
ののかは朔夜にお茶を差し出した。
「今日、隣にいてくれてありがとう」
「……俺は何もしてないよ」
「ううん。いてくれただけで安心したの」
朔夜は少し黙り、それから静かに答えた。
「……なら、明日も隣にいる」
ののかは目を丸くした。
「……うん!」
詩乃はそんな二人を微笑ましく眺め、隣の朔に声をかけた。
「明日も調査に行くの?」
「そのつもり」
「私も行くわ。まだ、あの痕跡が気になるもの」
「……わかった。一緒に確認しよう」
詩乃は嬉しそうに頷いた。
食堂には、少しずついつもの笑い声が戻ってきた。
怪異の正体はわからない。
明日、何が起こるかもわからない。
それでも、十人には帰る場所がある。
誰かが怖がれば、誰かが手を差し伸べる。
誰かが迷えば、みんなで考える。
その積み重ねが、いつか彼らを大きく変えていくのかもしれない。