「……本当に、今日も行くの?」
朝食の席で、氷室こよりはお味噌汁のお椀を両手で抱えていた。
「行くよ。昨日の記録を確認しないとな」
東雲悠陽はそう言いながら、タブレットに調査予定を書き込んでいる。
「でもでも、昨日、女の人の声がしたんだよ!? 『まだ帰れない』って! それって絶対、普通じゃないよぉ……!」
「だから調べるんだろ」
黒瀬蓮が淡々と答えた。
「うぅ……黒瀬くんまで……」
「嫌なら、無理に先頭を歩かなくていい」
蓮はそれだけ言うと、ルナのほうへ視線を向けた。
「白月も、怖いなら後ろにいろ」
「……わ、私も行くよ」
ルナは少し緊張しながらも、顔を上げた。
「昨日、あの教室に何があったのか気になるから」
「……そうか」
蓮はそれ以上何も言わなかった。
ただ、ルナの手元に温かいミルクティーを置いた。
「冷める前に飲め」
「……ありがとう」
ルナはカップを両手で包み、ほっと息を吐いた。
その様子を見ていたかなえが、にこにこしながら悠陽に顔を向ける。
「ねえ、悠陽くん。私にも何か気遣ってくれたりしないの?」
「何か必要なのか?」
「……えっ」
「飲み物ならそこにあるぞ」
「そういうことじゃないんだけどなぁ……!」
かなえが頬をぷくうと膨らませる。
悠陽は首をかしげた。
「?」
「……もういいです!」
かなえはぷいっと顔をそらした。
隣で伊織が小さく笑う。
「悠陽って、そういうところあるよね」
「何がだ?」
「……いや、いいよ」
伊織と悠陽の会話を聞きながらかなえは深いため息をついた。
今日の調査は、怪異よりも人間関係のほうが難しいかもしれない。
放課後。
旧校舎へ向かう前に、十人の男女の組はオカルト研究部の部室へ集まった。
悠陽がホワイトボードに簡単な見取り図を描く。
「昨日の情報を整理する。まず、かなえが残光視で見た光の筋。これは廊下から教室の中へ続いていた」
「うん。今日も同じように見えるか、確認してみるね」
かなえが頷く。
「次に、白月が感じた感情の痕跡。氷室が聞いた声。桜宮が聞いた過去の音。そして月城が視た怪異の足跡」
悠陽は一人ずつ顔を見た。
「それぞれの能力で、同じ場所を別の角度から調べる。ただし、何が起きても勝手に離れないこと」
「賛成」
伊織が即座に答えた。
「特に、声が聞こえても一人で追いかけない。見えたものが本物かどうかも、複数人で確認する」
「……う、うん」
こよりは緊張した面持ちで頷く。
「射影機の記録は俺が担当する」
悠陽がカメラ型の機材を持ち上げた。
射影機……「ありえないものを映すカメラ」
「ファインダー越しに確認して撮影する。目視と記録の両方を残したい」
「俺は全員の位置を確認する」
蓮が10人を見つめながら言う。
「私は調査結果を整理するわ」
詩乃が続けた。
「おれも周囲を観察する。危険があればすぐに知らせる」
御影朔も静かに頷く。
「じゃあ、私は聞こえた音をできるだけ記録するね」
ののかが笑顔でノートを開いた。
「私は、みんなが離れないように声をかけるね」
かなえがにこーっと笑った。
ルナも続いて小さく頷く。
「私も、感情の痕跡に気づいたらすぐに伝える」
「ぼ、ぼくも。幽霊の声聞こえたら伝えるね」
ルナは蓮をちらっと見てから言い。
こよりは緊張しながら伝える。
十人の準備が整った。
恐怖が消えたわけではない。
それでも、誰か一人で立ち向かう必要はなかった。
夕方の旧校舎。
十人が渡り廊下に到着すると、悠陽は射影機を構えた。
ファインダーを覗き、昨日と同じ場所を確認する。
――カシャッ。
「……記録した。昨日の画像と比較する」
一方、かなえは壁際へ近づいていた。
「……あった」
床に沿って、淡い光の筋が浮かんでいる。
「昨日と同じだ。でも……今日は少し違う」
「どこが?」
悠陽が隣に立つ。
かなえは光の先を指さした。
「昨日は教室の扉までだったの。でも今日は……扉の向こうから、こっちへ伸びてる」
悠陽の表情が引き締まった。
「向きが逆になったのか?」
「うん。まるで、教室の中から何かが出てきたみたい」
「……なるほど」
悠陽は再びファインダーを覗き込んだ。
かなえは横から画面を覗こうとして、悠陽の肩に軽く触れてしまった。
「あっ、ご、ごめん!」
「いや。見たいなら、こっちからでも見える」
悠陽は少しだけ位置をずらした。
「ほら」
かなえは隣に並び、画面を見つめる。
二人の肩が触れそうな距離だった。
「……ありがとう」
「ん?」
「……なんでもない!」
かなえは慌てて光の筋へ視線を戻した。
悠陽は不思議そうに首をかしげたが、すぐに調査へ意識を戻した。
その様子を遠くから見ていたののかが、朔夜に小声で囁く。
「……ねえ、朔夜くん。あの二人、なんかいい感じじゃない?」
「……調査中だぞ」
「わ、わかってるよぉ……!」
朔夜はののかの反応に少しだけ口元を緩めた。
「でも、そう見えるのはわかる」
「えっ、朔夜くんもそう思う!?」
「声が大きい」
「ご、ごめん!」
二人の会話は、蓮のひと言で終わった。
「……お前ら、調査に集中しろ」
「はーい……」
ののかはしょんぼりしながら話すのを止めて、ノートを開いた。
「……聞こえる」
こよりの声が震えた。
ヘッドホンに触れているこより。
全員が彼女を振り返る。
「昨日と同じ声?」
伊織が近寄っていきながら尋ねた。
「ううん……違う」
こよりは、教室の扉に視線を向けていた。
「昨日より、近い……」
そのとき。
――コン、コン。
閉ざされた扉の向こうから、二回、音がした。
こよりがびくっと肩を跳ねさせる。
「ひゃっ!」
伊織はすぐに彼女の前へ立った。
「大丈夫。ここにいるから」
「……伊織くん……」
「無理して聞こうとしなくていい。聞こえたことだけ教えて」
こよりは深呼吸をした。
「……女の人の声がする」
「何て?」
「『開けて』って……」
ルナの顔から血の気が引いた。
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がひどく重くなった。
「……悲しい」
「白月?」
蓮が顔を向ける。
「この扉……誰かが、ずっとここに残していった悲しい気持ちがある」
ルナは扉を見つめた。
残響視に映るのは、輪郭の曖昧な感情の痕跡。
その中には、恐怖だけではなく、深い寂しさも混じっていた。
「……でも、変なの」
「何が?」
「悲しいのに……誰かを恨んでいる感じはしないの」
ルナは自分の胸元を押さえた。
「ただ、誰かに会いたいみたいな……そんな感じがする」
その場に沈黙が落ちた。
そのとき、ののかがノートを握りしめた。
「……音が変わった」
「ののか?」
「扉を叩く音が、さっきより速くなってる。昔の音が……
繰り返されてるみたい」
彼女の残響聴は、過去に残された音を拾い続けていた。
コツ、コツ、コツ、コツ。
まるで、誰かが必死に助けを求めているかのように。
詩乃も扉の下を見つめた。
「……足跡が増えているわ」
「増えている?」
御影朔が尋ねる。
「ええ。さっきまでは扉の向こうへ向かう痕跡だった。でも今は……」
詩乃は言葉を切った。
幽跡視に映る痕跡が、ゆっくりと廊下側へ伸びている。
「……こちらへ戻ってきている」
悠陽が射影機を構え直した。
「全員、少し下がって!」
ファインダーを覗く。
扉。
壁。
床。
そこには、誰もいない。
しかし、シャッターを切ろうとした瞬間――
カメラのファインダーの奥に、白い手が映った。
「……っ!」
悠陽は思わず息を呑んだ。
肉眼では何も見えない。
けれど、レンズ越しには、扉の隙間から伸びる手がはっきりと映っていた。
「悠陽くん、どうしたの!?」
かなえが声を上げる。
「……今、何かが映った」
悠陽はカメラを下ろし、肉眼で確認する。
やはり、何もない。
その瞬間。
ガチャッ。
扉の取っ手が、内側から回った。
「きゃあああっ!!」
こよりが伊織の腕を掴む。
「っ…!」
ルナも蓮の袖をぎゅっと握りしめた。
蓮はルナを背後にかばい、扉から目を離さない。
「……全員、下がれ」
今度は、はっきりと聞こえた。
――開けて。
――お願い。
――ひとりに、しないで。
その声は、恐ろしいというよりも。
泣いているように聞こえた。
「……今日はここまでだ」
蓮が低く言った。
「でも、今の声は……!」
悠陽が言いかける。
「今の状態で扉を開けるのは危険だ。中に何がいるかわからない」
伊織も頷いた。
「同意する。記録を持ち帰って、対策を立てよう」
悠陽は悔しそうに唇を結んだあと、射影機を下ろした。
「……わかった。全員、撤収する」
十人は互いの位置を確認しながら、廊下を引き返した。
その途中。
ルナは、ふと足を止めた。
「……待って」
「どうした、白月?」
蓮が訝しげに振り返る。
ルナは廊下の先を見つめていた。
夕日の残る窓ガラス。
そこに、十人の姿が映っている。
ルナ。
蓮。
かなえ。
悠陽。
こより。
伊織。
ののか。
朔夜。
詩乃。
御影朔。
確かに、十人いる。
けれど。
「……あれ?」
ルナは目を凝らした。
窓ガラスのいちばん端。
十人の列の後ろに、もう一人、誰かが立っている。
制服のような服を着た、小さな影。
顔は見えない。
けれど、その影だけが、こちらを向いていた。
「……誰?」
ルナが呟いた瞬間、影が消えた。
「白月?」
蓮が近づいてくる。
「……今、誰かがいたの」
「誰か?」
「うん。でも……」
ルナはもう一度、窓を見た。
そこには十人の姿しか映っていなかった。
かなえが心配そうに声をかける。
「ルナちゃん、大丈夫?」
「……うん。たぶん、見間違い……」
そう答えながらも、ルナの胸には不安が残っていた。
十人は旧校舎を後にした。
誰も気づいていなかった。
彼らが通り過ぎた教室の扉の下から、淡い光が一筋、廊下へ漏れ出していたことに。
そして、誰もいない廊下に。
十一人分の足音が、しばらく響き続けていたことに。