時給八千円、危険手当込み。
俺の仕事は、ヒーローに倒される悪役を演じること。

世間には秘密。もちろん、ヒーロー本人にも秘密。
今日も正義を輝かせるため、俺は悪党らしく笑う。

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第1話

『本日午後、中央商店街の搬入口で、輸送中の機密ケースを狙った怪人が出現しました』

 

 テレビの中で、黒い怪人が警備員を突き飛ばした。

 警備員の手からケースが離れ、路面を滑る。怪人がそれを拾い上げた瞬間、画面の端から銀色の人影が飛び込んできた。

 

『そこまでです! そのケースを置いてください!』

 

 光装士アルカ。

 この街で活動するヒーローの一人だ。

 腕から広がった青い光の盾が、転んだ警備員を守る。続けて全身を走る光が銀色の装甲へ収束した。光装甲。光盾。そして、光撃。彼女の戦い方は、初めて見る俺にも分かるほど明快だった。

 

『闇を切り裂く希望の光! 光装士アルカ、ここに参上!』

 

 怪人は肩を揺らし、いかにも悪党らしく笑ってみせた。覆面の奥の表情までは分からない。

 アルカの拳が青白く輝き、怪人の胸を捉える。

 怪人は派手に宙を舞い、三回転ほどして積まれたコンテナに突っ込んだ。

 

「……うわ、痛そう」

 

「痛かったわよ。三回転目は予定にないんだから。二回転までならシミュレーションしてたんだけどさ」

 

 隣から女の声がした。

 テレビの中では、怪人が煙幕を残して逃走している。その本人が俺の隣で枝豆を食べていた。

 

「先輩、本当にあれで無傷なんですか?」

 

「無傷じゃないわよ。明日は筋肉痛ね。でも見た? 着地までは完璧だったでしょ」

 

「三回転目が予定外なんでしょう?」

 

「だからこそよ。予定外に対応できて一人前なの」

 

 先輩は勝ち誇ったようにビールをあおった。今日は一度も勝っていないはずなのに。

 

 ニュースはアルカの活躍を称えていた。怪人の行方は不明。負傷者なし。機密ケースは無事回収。めでたしめでたし、と言いたげな調子だ。

 

『なお、この騒ぎの最中、付近の照明が一時的に消えるトラブルがありましたが――』

 

「あれ?」

 

 画面の中でアルカが光盾を張った瞬間、青い輪郭が砂嵐のように乱れた。ほんの一拍。画面のノイズと言われれば、そうも見える。

 

「先輩、今、光が途切れませんでした?」

 

「ああ、それね。私の通信も一瞬切れたのよ。誰かの追加演出かと思ったんだけど、班長も知らないって」

 

「知らないことが起きていいんですか、この仕事」

 

「よくはないわねえ。ま、終わったあとで調べるでしょ」

 

 先輩はあっさりテレビへ背を向けた。

 

「それより乾杯、乾杯! ほーらほらっ、祝敗なんだからあんたももっと飲みなさい!」

 

「俺、まだ一回も出動してませんけど」

 

「私の負けを祝えばいいのよ。負ける側の景気が悪かったら、正義の味方だって張り合いがないでしょ?」

 

「初めて聞く景気の概念ですね」

 

 駅裏の居酒屋。参加者は先輩と俺、以上二名。

 世間にとっては今日も正義が勝った記念日で、俺たちにとっては祝敗会なのだそうだ。

 

 どうして俺が、こんな不思議な宴会に参加しているのか。

 話は数日前、求人サイトで妙な募集を見つけたところまで遡る。

 

          *

 

 時給八千円。危険手当込み。

 

 募集の職種は『特殊業務補助スタッフ』。業務内容は『現場対応、イベント関連業務、その他』。詳細は面接時に説明するとあった。

 

 怪しい。

 怪しさに時給をかけ算すると、さらに怪しくなる。

 それでも応募したのは、家賃の支払日が迫っていたからだった。通帳の残高は疑い深い俺に夢を見させてくれるほど優しくない。

 

 面接室で俺を迎えたのは、愛想のいい班長だった。

 

「まず秘密保持契約をご確認ください。詳しいお仕事のお話は、そのあとで」

 

「その順番、余計に怖いんですが」

 

「説明を聞いたうえで辞退していただいて構いませんよ」

 

 そう言うので署名してしまった。

 結果として聞かされた業務内容は、俺の想像力の限界を軽々と超えていた。

 

「……つまり、ヒーローに負けるんですか?」

 

「はい。怪人役として」

 

「ヒーローショー?」

 

「いいえ。本物のヒーローです。世間にも、ご本人にも、事前の演出とは知らせません」

 

「それ、ただの事件じゃないですか」

 

「実際の被害を出さないことが絶対条件です。場所も人員もこちらで管理します。一般の方を巻き込むことはありません」

 

 説明を聞くほど、仕事が余計に危なっかしく思えてきた。

 そもそも本物のヒーローを騙す時点で、まともな商売ではない。

 

「何のために、そんなことを?」

 

「ヒーローが活躍する機会をつくるためですよ。彼らが人々を守っているのは事実ですから。私たちは、それが世間に伝わるよう少しお手伝いをするのです」

 

「まるで茶番ですね。マッチポンプという言葉……ご存じですか?」

 

 班長は、どこか楽しそうに微笑んだ。

 

「もちろん。その表現を使わないのが、この仕事の礼儀ですね。誰かを輝かせるって、素晴らしい仕事でしょう?」

 

 初めて、心から感心した。

 人間、後ろめたい仕事を続けていると語彙が豊かになるらしい。

 

 全国には何十人ものヒーローがいる。彼らの活動地域も能力も違う。会社にもそれぞれ担当班があり、俺の配属先が受け持つのは光装士アルカだった。

 

「彼女には、まだ伸びしろがあります」と班長は言った。

 

「うちの会社が勝手に伸ばしていいものなんですかね」

 

「仕事はベテランが教えますので、ご安心ください」

 

 そうして紹介されたのが、隣の部屋から顔を出した先輩だった。

 

「新人? やっと入ったの? よかったあ、最近、負けるの私ばっかりだったから」

 

 その一言で、俺の将来像はだいぶ鮮明になった。

 

          *

 

「……で、そのアルカなんですけど」

 

 居酒屋に戻ると、先輩は二杯目のビールを手にしていた。話の途中で時間が跳んだわけじゃない。俺が少し考え込んでいる隙に飲み終えただけだ。

 

「何よ、気になるの? 担当ヒーローだものねえ」

 

「決め台詞、毎回あれなんですか」

 

「毎回あれ。二十六にもなって『希望の光』よ。大勢に見られながら。ほんと、よくやるわ」

 

「ほんとに……」

 

「でしょ?」

 

「いや、先輩も怪人の格好で三回転してるんですよね」

 

「こっちは仕事なの!」

 

「向こうだって仕事ですよ」

 

「……それもそうね」

 

 先輩は枝豆の殻を皿へ落とし、しばらく黙って考えた。

 

「でも、現役を長く続けるのは大変よ。戦闘の負担もあるし、若い子も次々出てくる。特に女性ヒーローなんて、実績だけじゃなく見た目や人気まで勝手に評価されるんだから」

 

「詳しいですね」

 

「仕事相手だもの。研究くらいするわよ」

 

 そう言って得意げに笑ったあと、先輩の顔から急に勢いが消えた。

 

「……それに比べて私なんて、三十四にもなって怪人よ。結婚相手もいないし、恋人もいないし。休みの日に研究するのが負け方って、どうなのかしらね」

 

「そこまで自分で掘り下げなくても」

 

「うるさい! いいの、私はこの仕事が好きなんだから!」

 

「急に立ち直りましたね」

 

「好きな仕事と将来の不安は別問題なのよ」

 

 先輩がジョッキを掲げる。強いのか弱いのかよく分からない人だ。

 

「ほら、次はあんたの番よ。期待してるからね」

 

「期待しないでください。俺、採用されただけでまだ何も教わってないんですけど」

 

「大丈夫。仕事は現場で覚えるものよ」

 

「昭和の職場ですか、ここ」

 

「ちょっと前まで無職だった人が、働き方に注文つけないの」

 

「それはそうですけど!」

 

 先輩は笑った。

 俺も、つられて少し笑ってしまった。

 少なくとも給料と先輩の人柄については、求人票に嘘はなかったようだ。

 

 

          *

 

 翌日の昼、俺は商店街で転がってきたミカンを拾った。

 

「あっ、すみません!」

 

 年配の女性が落とした買い物袋から、野菜や缶詰が飛び出している。その前にしゃがんだ若い女が、両腕いっぱいに荷物を抱えていた。

 

「こちらの缶詰も……いえ、先に野菜を……」

 

 彼女は片手に大根、反対の腕に菓子袋と缶詰を抱えている。そのまま地面のミカンへ手を伸ばした。

 

 無理だろ。

 見ているだけで分かる。

 

「あの、手伝いましょうか?」

 

「いえ、大丈夫です。私一人で……」

 

 そう言いながら、彼女の腕から缶詰が滑り落ちた。

 

「……全然大丈夫じゃないでしょう」

 

「す、すみません」

 

「袋、持ちますよ。そっちに詰めてください」

 

「ですが、あなたにまでご迷惑を……」

 

「もう手伝ってるんで、今さらですよ」

 

 若い女が俺を見上げた。

 地味なカーディガンにまとめ髪。二十代半ばくらいだろうか。妙に背筋がよくて、助けに入っているのに困っている人と同じくらい必死な顔をしていた。

 

「その前に、持ってる物を袋へ戻しません?」

 

「……あっ。そうですね。その方が早いです」

 

「今気づいたんですか?」

 

「申し訳ありません。全部拾おうと思ってしまって」

 

 真面目に間抜けという、ちょっと珍しい種類の人間だった。

 俺が袋の口を持つと、彼女は残った品物を手際よく詰めていった。何だ。落ち着けば普通にできるじゃないか。

 

「本当にありがとうねえ。二人とも助かったわ」

 

 年配の女性が去ると、若い女は深く頭を下げた。

 

「あなたがいてくださって助かりました」

 

「ミカン拾っただけですよ」

 

「私一人では、もっと時間がかかったと思います」

 

「そもそも一人で全部やろうとするからでしょう。人の荷物で筋トレしなくてもいいのに」

 

「……そうですね。次からは気をつけます」

 

 本気で反省されてしまった。

 皮肉が通じないと、言ったこちらが悪者みたいだ。

 

「責めたかったわけじゃないんですよ。まあ、その、無理なときは人を呼んだらいいんじゃないですか」

 

「はい。……覚えておきます」

 

 彼女は律儀にうなずいた。

 俺は手を振って歩きだす。

 

(変な女だったな)

 

 何でも一人で背負って、限界になってから人に助けを求める。

 俺にはできない生き方だ。というか、ああいう人はきっと損をする。

 それでも、悪い感じはしなかった。

 

          *

 

「先輩、オリエンテーションとかOJTってないんですか?」

 

「あるわよ。ほら、そこにあるじゃない」

 

 先輩が指さしたのは、会議室の隅に積んであるゴム製の瓦礫だった。

 

「……ゴミですか?」

 

「失礼ね。緩衝材よ。倒れ方の練習に使うの。あと、OJTは今日から」

 

「それ初めに言ってくださいよ! ていうか、倒れる方を先に教えるんですか?」

 

「勝つ技を教えられても困るでしょ。うちの仕事、勝ったら失敗なのよ」

 

 先輩は動きやすいジャージ姿で、緩衝材の上へごろんと転がった。

 ただ転がっただけなのに、首と背中をかばってきれいに衝撃を逃がしている。

 

「こう。次に、相手の力が入った方向へ身体を預ける。無理に逆らうと余計に怪我するからね」

 

「すごい技術なのに用途が悲しいですね」

 

「お金になる技術は全部えらいのよ。さ、やってみて」

 

 やってみた。

 背中から妙な音がした。

 

「いったあ!」

 

「あはは! そうそう、その声はいいわね。もっと腹から出して」

 

「痛いから出てるだけです!」

 

 一時間後、俺の背中は不名誉な達成感に包まれていた。

 

 休憩中、先輩は安全服の留め具を確かめながら言った。

 

「悪役って、ただ強そうに見えればいいと思う?」

 

「先輩みたいに格好よく吹き飛べれば、合格じゃないんですか」

 

「それも大事。でもね、いい悪役は、ヒーローが何を守って、何に勝ったのかをちゃんと見せなきゃ」

 

 先輩は指を一本立てる。

 

「いい悪役っていうのはね、ヒーローが助けたいと思える人を、ちゃんと残してやるものなのよ」

 

「……助けたい人を用意するってことですか?」

 

「そう。ただし、全員ちゃんと帰ってもらう。本物の被害者は作らない。ここだけは絶対」

 

 不思議だった。

 仕事のやり方を話すとき、先輩は負ける話ばかりする。なのに、負けることを少しも恥ずかしがっていない。

 

「でも、ヒーローは知らないんですよね。俺たちのこと」

 

「知らないわ。だからこそ、本気で助けようとする顔が見られるのよ」

 

「それって、相手を騙してることの言い訳じゃないですか」

 

「……そうね。そこは綺麗な仕事じゃない。言い訳かもしれないわ」

 

 先輩は否定しなかった。

 

「でも、アルカが本当に助けた人まで偽物になるわけじゃないでしょ。あの子が自分の力で誰かを守れるなら、その足場になるのも悪くないと思ってる」

 

 俺は何とも答えられなかった。

 

「そういえば、さっき変な人に会ったんですよ」

 

 話を変えると、先輩は嬉しそうに身を乗り出した。

 

「変な人? ……あっ、もしかして気になる女の子でもできた?」

 

「そこで身を乗り出さないでください。落とし物を拾ってた人です。自分で全部抱え込んで、こっちから手伝うまで頼ろうとしなかったんですよ」

 

「あら、いい子じゃない」

 

「いい子なんですかね。絶対損するタイプですよ」

 

「それで、あんたは?」

 

「手伝いましたよ。足元に転がってきたんで」

 

「ふうん」

 

「何ですか、その顔」

 

「いい悪役になれるわよ、あんた」

 

「それ、褒め言葉に聞こえないんですが」

 

「そのうち分かるわ」

 

 先輩は満足そうに頷いた。

 俺にはまだ、その理由が分からなかった。

 

          *

 

 初仕事は、翌日の午後だった。

 

 場所は取り壊し前の配送所。看板から資材、倉庫の一角に至るまで、すべて会社が用意した小道具だという。警備員役の人が二人、こちらへ向かって親指を立てた。

 

「うちの担当はアルカだけですからね。怖がらせてもいい相手は分かってるでしょ?」

 

 通信越しの先輩は、少しだけ声が厳しかった。

 

「一般の人には近づかない。仕込みの人にも、本気で怪我をさせない。ですよね」

 

「そう。ちゃんと聞いてたじゃない」

 

 支給された衣装は、黒いフードと半面のマスク。そこに肩の装甲がついた、いかにも怪人の手下といった格好だった。

 鏡を見たときは笑いそうになったが、現場に立つと笑えない。

 

『目標、接近。始めてください』

 

 空の向こうに青い光が走る。

 光装士アルカ。

 

 あのニュースの人が、本当に目の前にいる。

 

『台詞よ、台詞!』

 

 先輩の声が耳元で弾んだ。

 

「ふはははは! 来たな、正義の番犬!」

 

 声が裏返った。

 

「……番犬、ですか?」

 

 アルカが空中で一瞬止まった。

 

「貴様のような偽善者に、この俺を裁く資格などない!」

 

「……」

 

 アルカは一瞬、言葉に詰まった。偽善者という言葉の意味を目の前の俺と結びつけられずにいるようだった。

 

「……お話は聞きます。ですから、まず警備の方から手を離してください」

 

 分かっている。分かっているとも。

 あの警備員は会社の人間で、俺が抱えている工具箱も空っぽだ。脚本に沿っていけば誰も怪我をしない。

 

 そのとき、予定どおり吊ってあった軽量の看板が傾いた。

 警備員役の一人が大げさに声を上げる。

 

「危ない!」

 

 俺は反射的に男の腕を引いた。

 次の瞬間、看板の前にアルカの光盾が開く。軽い衝撃音がして、仕込みの板が床へ落ちた。

 

「……え?」

 

 アルカがこちらを見た。

 俺は男の腕を掴んだままだった。

 

「ち、違うぞ! 貴様などに先を越されては困るのだ! こいつは俺の獲物だからな!」

 

『平くん、台詞が違う! 台詞が!』

 

 先輩が笑いをこらえている。

 

 アルカは一拍置いてから、拳に光を集めた。

 

「……でしたら、その方を離してください!」

 

 あとは予定どおりだった。

 光撃が俺の胸を捉え、安全装備が衝撃を逃がす。俺は指定された緩衝材へ盛大に転がった。

 

(……痛い)

 

 天井がぐるぐる回る。

 

(先輩、よくあんなに派手に三回転できたな……!)

 

 立ち上がるアルカの光装甲が、一瞬だけざらついた。

 同時に、配送所の照明がふっと暗くなる。

 

『平さん、聞こえますか?』

 

 通信機に班長の声が割り込んだ。

 

「……はい。何とか」

 

『結構です。撤収を優先してください』

 

「了解です」

 

『それと、最後の照明演出。なかなか見事でしたよ』

 

「……照明?」

 

『詳しい話は戻ってから伺いましょう』

 

 話が通じない。

 

 煙幕の中で裏口へ逃げると、先輩が迎えてくれた。

 

「お疲れ。まずまずだったわね」

 

「途中で台詞が飛びました」

 

「知ってる。あそこ、私すごく笑ったもの」

 

「笑わないでくださいよ」

 

「でも、警備員を庇ったのはよかったわ」

 

「仕込みの人でしょう? 看板だって柔らかいし」

 

「それでもよ。……ただ、悪かったわね。あの看板、もう少し安全にできたはずなのに」

 

「先輩が謝ることじゃないでしょう」

 

「そうだけど。あんたが動いてくれたおかげで、誰も怪我しなかったんだから。仕込みを担当した連中には文句言っておかないとね」

 

 先輩は俺の肩を軽く叩いた。

 

「ただね、最後の停電は気になるわ。私のときもあったのよね、あれ」

 

「班長は俺のアドリブだと思ってますけど」

 

「あんたに照明を落とす技術があったら、怪人なんてやってないで電気屋になるわよ」

 

「正論がひどい」

 

「まあ、こっちでも確認する。今日はちゃんと休んで」

 

 先輩は腕を組み、建物の向こうの青い光を眺めた。

 そこで初めて、少しだけ難しい顔をした。

 

 だが次の瞬間には、いつもの調子で振り向いた。

 

「はい、初勝利ならぬ初敗北、おめでとう!」

 

「先輩、どんな顔して喜べばいいんですか、それ」

 

「笑っておきなさい。ヒーローに負けて帰ってこられたんだから」

 

「……これで時給八千円か」

 

 口に出してみると、改めて妙な仕事だと思う。ついさっきまで怪人を演じていたのに、今はただのバイト帰りだ。

 

「どう? 悪くないでしょ」

 

「楽ではなかったですよ。台詞は飛ぶし、思ったより痛いし、何もしてないのに褒められるし」

 

「でも、ちゃんと帰ってこられた」

 

 先輩は俺の返事を待たず、満足そうに笑った。

 

「それが一番。あんたが無事で、お客さんも無事。いい仕事だったわね」

 

 そう言われると、案外悪い気はしなかった。

 俺は初めて、負ける仕事にちょっとだけ誇りを感じたのかもしれない。

 

 

          *

 

 初仕事から数日が過ぎた。

 俺は会社の狭い事務所で先輩と二人、前回の映像を見直していた。

 

「ここの倒れ方、悪くないわ。ほら、腕をつかずに肩から転がれてる」

 

「自分の悲鳴を何回も聞かされるの、結構きついんですけど」

 

「じゃあ自分の格好いいところを探しなさいよ」

 

「……ないんですか?」

 

「あはは、探すところから仕事ね!」

 

 映像の中の俺は、実に情けなかった。

 それでも警備員役を庇った瞬間だけ、我ながら少しだけ素早く動けていた。

 

「あそこ、体が勝手に動いたんです」

 

「それでいいじゃない。台本ってのはね、事故が起きたときに人を置いて逃げるためにあるんじゃないの」

 

「本当の事故は起こさないはずでしょう」

 

「起こさないようにするの。でも、絶対なんてないから備えるのよ」

 

 そう言うと、先輩はタブレットを閉じた。

 

「ところで次の仕事、来たわよ」

 

「やっと怪人らしい仕事ですか?」

 

「爆弾を置いてくるの」

 

「……一回目と二回目の難易度設定、おかしくありません?」

 

「大丈夫、偽物だから。あんたに本物を渡すほど、うちの会社も信用してないわよ」

 

「それはそれでどうなんですか」

 

 先輩は笑ったが、配られた資料を確認すると少しだけ眉を寄せた。

 

「旧観測棟? ……研究棟がすぐ向こうじゃない」

 

「まずい場所なんです?」

 

「工事中の旧棟は管理会社の協力が取れてる。でも、向こうの研究棟は普通に稼働してるでしょう。仕事の線引き、ちゃんと確認しといた方がいいわね」

 

「先輩が確認してくれるんですか?」

 

「あんたが確認するの。あんたの現場でしょ?」

 

「教育担当の仕事、投げましたね」

 

「育ててるのよ。自立心を」

 

 便利な言葉だな、自立心。

 

          *

 

 会議室で班長が差し出したのは、黒いアタッシュケースだった。

 

「……これが、爆弾ですか?」

 

「模擬品です。表示窓と警告音は動きますが、危険な機能はありません」

 

「この見た目、いかにもすぎません?」

 

「相手に脅威を認識していただく必要がありますから」

 

「その『相手』は騙すヒーローのことですよね」

 

「もちろん。ですが、一般の方を不安にさせることはありません。今回使う旧観測棟は閉鎖され、立ち入りを制限してあります」

 

 資料には、街外れの橋のたもとにある建物が描かれていた。

 街の外れにある旧観測棟。すでに閉鎖され、今は管理会社の倉庫代わりに使われている。川の向こうでは新型エネルギー装置の研究施設が動いているらしい。

 

「先輩が、研究棟が近いのを気にしてました」

 

「もっともな懸念です。我々が協力を得ているのは旧棟だけ。研究棟の業務には干渉しません」

 

「だったら、わざわざそこでやらなくても」

 

「ヒーローが危険を未然に防ぐ姿は、人々に安心感を与えます。今回は無人施設の安全確保という形です」

 

「安心感をつくるために、わざわざ不安をつくるんですか」

 

「緊張と緩和ですよ、平さん。笑いと同じで、不安があるからこそ安心を実感できる。難しく考えすぎです」

 

 そう言われると、俺が難しいことを言っているような気がしてくる。

 この会社に来てから、そういう瞬間が増えた。

 

「念のため、管理番号を確認してください。黄色い識別帯が付いています」

 

 確かにケースの側面には黄色い帯と、細かな数字が刻まれている。

 

「これで入れ替わったりしないわけですね」

 

「入れ替わるはずがないでしょう」

 

 その言い方が妙に自信満々で、俺はそれ以上何も言わなかった。

 

「それと今回、教育担当の方は同行しません。前回の映像を見る限り、一人でも十分でしょう」

 

「俺、まだ一回しかやってないんですが」

 

「だからこそ、次は一人で経験を積んでいただきます。自立心も大切ですから」

 

(……自立心?)

 

 まさか先輩のあの台詞、この人の受け売りじゃないだろうな。俺は二人の教育方針にそこはかとない不安を覚えた。

 

 支給された衣装は、前回とは違う形の黒いコートと仮面だった。ただし、肩の装甲だけは少し立派になっている。

 

「これ、昇格ですか?」

 

「前回の安全装備を点検に出しているので、予備の衣装です」

 

「夢がないなあ」

 

「悪役に夢を見すぎですよ。それに、毎回同じ衣装では同一犯だと分かりやすすぎるでしょう」

 

 そう言う班長に、悪役の夢を売っている自覚があるのかどうかは分からなかった。

 

          *

 

 夕方の旧観測棟に人影はなかった。

 立ち入り禁止の札が揺れ、建物の内部には仮設の照明が灯っている。管理会社の人間はすでに引き上げていた。

 

 俺は指定された階段脇に黒いケースを置いた。

 

『平さん、設置できましたか?』

 

「できました。黄色い帯も、番号もあります」

 

『結構です。予定した位置へ移動して、合図を待ってください』

 

 俺は屋上へ続く階段を上がった。

 そこからは研究棟の窓が見える。白い作業灯が煌々とついている。奥の門には搬送用のトラックが一台停まっていた。

 

(こっちは空っぽでも、向こうは残業中か)

 

 階段の下で、何かが動いたような気がした。

 管理会社の人だろうか。

 

「誰かいるんですか?」

 

 返事はない。

 俺は手すりから身を乗り出したが、階段の影は薄暗かった。

 

『平さん、勝手な移動はしないでください。目標、接近中です』

 

 通信の声に、俺は肩をすくめた。

 大丈夫だ。今日も先輩に言われたとおり、誰も傷つけずに負けるだけ。それが終われば今日の分の時給が入る。

 

 空の向こうで、青い光が弧を描いた。

 

 光装士アルカ。

 

 この前も会ったのに、近くで見るとやはり息を呑む。真っすぐ背を伸ばした姿がどうしようもなく眩しい。

 

 俺より若いくせに、希望だの正義だのを堂々と名乗っている。

 そのうち誰もが彼女の言葉を信じるようになるのだろう。俺なんかは、昨日まで履歴書の空欄に悩んでいたというのに。

 

(……ま、俺は俺の仕事だ)

 

 通信機が鳴った。

 

『開始してください』

 

 俺は階段を降り、屋上へ続く踊り場に立った。

 

「ふははは! 待ちかねたぞ、光装士アルカ!」

 

「……その声。以前、配送所にいた方ですか?」

 

「ほう、覚えていたか。光栄に思え!」

 

 しまった。否定するべきだったか。仮面も衣装も違うのに、声だけで見抜くとは。

 

「人を脅かすことを、どうして繰り返すんです?」

 

「正義の味方に言われる筋合いはない! 貴様らの独善には、もううんざりなのだ!」

 

 アルカは少し困ったように首を傾げた。

 

「……申し訳ありません。以前も、同じことでお話ししましたか? あのときも逃げられてしまいましたし……」

 

(そこ、真面目に考えるところなのかよ!)

 

「そ、そういうところだ! 貴様らはいつも正しいことばかり並べて、悪党の言い分を聞こうともしない!」

 

「聞いています。ですから、まずそのケースを置いてください。まだ周辺の安全確認が済んでいません」

 

 妙に落ち着いた声だった。

 俺の演技が下手なのか、彼女がとびきり真面目なのか。恐らく両方だろう。

 

「貴様に何が分かる! 人々が笑っていれば、それだけで平和だとでも思っているのか!」

 

 これは台本にない台詞だった。

 言ってから、しまったと思った。

 

 目の前のヒーローが羨ましかった。

 彼女は自分の手で誰かを助けられる。俺はそんな彼女に殴られて、給料をもらう。

 それが少しだけ、面白くなかった。

 

「……笑っている人ばかりではないと思います」

 

 アルカは、俺の予想と違う返事をした。

 

「それでも、私にできることがあります。だから、ここへ来ました」

 

 ああ、そうかよ。

 正しすぎて腹が立つ。

 なのに少し格好いいと思ってしまった自分には、もっと腹が立った。

 

「ならば来い! この俺の恐ろしさを思い知るがいい!」

 

 アルカが光盾を広げる。

 彼女の背後に、旧棟の非常口が見えた。通行止めの柵の向こうに人はいない。

 

 予定どおりだ。

 俺は警告音だけ鳴る模擬ケースへ視線を投げ、両腕を広げた。

 アルカの拳に光が集まる。

 

(あ、これ、先輩が三回転したやつだ)

 

「待て、いや待つな! 俺の――」

 

 光撃。

 

 安全装備が衝撃を吸収し、俺は決められた緩衝材の上へ吹き飛んだ。

 今回は腕をつかずに転がれた。先輩に褒めてもらえそうだ。

 

(……二回目も、やっぱり痛い)

 

 俺は床へ倒れ、煙幕の合図を待った。

 

 そのとき、明かりが消えた。

 

 旧観測棟だけじゃない。

 川向こうの研究棟の照明が、一斉に落ちた。

 

「……え?」

 

 アルカの左腕に残っていた光盾が、砂嵐のように揺れた。

 

『素晴らしい! 平さん、今の照明は見事ですよ!』

 

 班長が通信機の向こうで興奮している。

 

「俺、何もしてませんよ」

 

『またまた。研究棟まで巻き込んだと見せる大胆な演出、見事な現場判断です』

 

「演出じゃないですって! 向こうは普通に仕事してるはずでしょう!」

 

『え? ……確認します。ひとまず撤収を』

 

 通信が途切れた。

 

 まずい。

 嫌な予感がする。

 

 研究棟の方から、ガラスの割れる音がした。

 続いて、警報の音。白い作業服の男が建物の外へよろめき出てくる。

 

 その後ろから、黒い服を着た別の男が現れた。

 肩には、研究棟で使っていそうな頑丈な運搬ケース。

 作業員が追いつこうとすると、黒い男は振り向きざまに腕を振った。

 鈍い音がした。

 作業員が倒れ、立てかけてあった資材が崩れる。

 

(……え?)

 

 俺は動けなかった。

 

 これも仕込みなのか。

 研究棟で働いているように見えた作業員も黒い男も、別の担当が用意した役者なのか。

 

「あの、別班の方ですか……?」

 

 黒い男がこちらを見た。

 口元には何の感情もなかった。

 

「まだいたのか。偽物が」

 

 ぞっとした。

 

 男は、俺が何者か知っている。

 しかも、先輩のように冗談めかして言ったわけじゃない。

 

「止まりなさい!」

 

 アルカの声がした。

 その場の空気が、ようやく変わった。

 

 

          *

 

「研究棟で何をしたんです? そのケースを置いて、倒れた方から離れてください!」

 

 アルカは黒い男へ向き直った。

 俺が一瞬前まで相手にしていたヒーローの声とは、まるで違う。

 

「さすがに早いな。もう少し、あのケースに構っていると思ったが」

 

「……ケース?」

 

 男は俺たちの足元を見た。

 さっきまで模擬ケースを置いていた、階段の陰だ。

 

「光装士アルカ。あんたの戦い方は、よく見せてもらったよ」

 

 男が腕の銀色の機器を操作する。

 階段脇のケースから、低い音が響いた。

 

 アルカの光盾が消えた。

 

「……え?」

 

 装甲に走っていた青い線もひとつ、またひとつと暗くなる。

 彼女は拳を握り直した。光は戻らない。

 

 黒い男が踏み込み、強化された腕を振り抜く。

 

 鈍い衝撃音。

 アルカの身体が壁に叩きつけられた。

 

「アルカ!」

 

 叫びそうになって、声が喉に引っかかった。

 彼女は壁に手をつき、膝を立てようとしていた。破れた装甲の隙間から、頬に赤いものが流れる。

 

 血だ。

 

 ヒーローが血を流している。

 そんな当たり前のことに、俺は初めて気づいた気がした。

 

「光がなければ、ただの人間だな」

 

 黒い男が笑う。

 

「……あなたが、私の装備を?」

 

「何度も実演してくれたからな。盾の出し方も、光の集まり方も。あんなに親切に見せてくれるとは思わなかったよ」

 

 アルカの肩がぴくりと震えた。

 

 先輩の事件。

 俺の初仕事。

 あの一瞬の照明の乱れ。

 

 俺たちが作った舞台は、アルカの活躍を世間に見せるためのものだった。

 だが、こいつには別の用途があった。

 

「あんたらの偽物の事件は便利だったよ。こちらの試験に気づきもしないで、毎回ヒーローを呼び出してくれた」

 

 男は俺に目を向けた。

 

「今度はその騒ぎを目くらましに、研究棟の警備まで乱せた。礼を言うよ」

 

 頭の中が一瞬、真っ白になった。

 

 俺が運んだ偽物の爆弾。

 会社が用意した人払い。

 アルカを呼ぶための偽の脅迫状。

 

 どれも、こいつの仕事を手伝う結果になったのだ。

 

「……ふざけんなよ」

 

 俺がそう言うと、男は楽しそうに首を傾げた。

 

「何か不満か? 人を騙して飯を食ってる奴に、言われたくはないな」

 

 言い返せなかった。

 卑怯な仕事だとは、初めから分かっていたからだ。

 

「さて、仕事は済んだ。あとは帰るだけだ」

 

 男は盗んだ運搬ケースを抱え直し、橋へ続く道へ向かった。

 アルカは壁に手をついて立ち上がろうとする。光盾は出ない。男の背を追おうとして、膝が折れた。

 

「追ってくるなよ。光がなければ、あんたもただの人間だ」

 

 男は振り返りもしなかった。

 アルカは立ち上がろうとする。怖いのだろう。肩が震えていた。

 

 俺には倒れる場所も逃げ道も用意されていた。彼女には何もない。

 次にあの強化された腕を受けたら、本当に死ぬかもしれない。

 

 ……俺は?

 

 仕事はもう終わった。裏の道には会社の車が待っている。逃げればいい。

 

「……助けて」

 

 小さな声が聞こえた。

 研究棟の搬入口で、作業服の男が崩れた資材に足を挟まれていた。さっき犯人に突き飛ばされた人だ。旧観測棟は無人でも研究棟まで無人なわけじゃない。

 

「誰か……」

 

 先輩の声が、妙にはっきりと思い出された。

 

『本物の被害者は作らない。ここだけは絶対』

 

 そして今、俺たちが用意した舞台を利用されて本物の被害者が出ている。

 

「……くそったれ。今日は残業代、出ねえんだぞ」

 

 俺は走った。

 

 搬入口の資材に手をかける。重い。何でこんな物を積み上げているんだ。手を滑らせ、指先を擦りむいた。

 

「おい! 意識あるか!」

 

「あ、足が……」

 

「分かってる! 今どかすから、ちょっとだけ待ってろ!」

 

 声が裏返った。怪人の威厳なんて、最初からなかった。

 それでも必死に資材をずらす。硬い板の下に、ようやく隙間ができた。

 

 背後で足音がした。

 

「……何をしているんですか」

 

 アルカだった。壁に打ちつけられた肩を押さえ、ふらつきながら歩いてくる。

 

「見て分かんねえのか。人助けだよ」

 

「私も、手伝います」

 

 彼女が資材へ手を伸ばす。だが、指先に力が入らないらしい。さっきの一撃で腕も傷めている。

 

「待て。あんたまでこっちに来るな」

 

「ですが、この方を置いては……」

 

「置いてかねえよ。こっちは俺がやる!」

 

 俺は資材に肩を押しつけた。

 

「だから、あいつを追え! 全部一人でやろうとするな!」

 

 アルカの動きが止まった。

 

「……全部、一人で」

 

 商店街で聞いたのと似たような言葉だと、彼女も思ったのかもしれない。俺には分からない。

 

「俺は怪人だぞ。こんな格好してても、人一人くらい助けられる。……たぶん!」

 

 最後の一言が余計だった。

 

 アルカは俺と負傷者を交互に見た。やがて、ためらいがちに頷いた。

 

「……お願いします。その方を、助けてください」

 

「任せろ。あんたはあんたの仕事をしろ!」

 

 彼女は一度だけ頭を下げ、橋へ向かって走り出した。

 数歩進むうちに、腕の青い線がかすかに灯る。さらに旧棟から離れると光が戻ってきた。

 

「……場所で変わる?」

 

 アルカが振り返る。俺も階段の陰を見た。

 俺が置いたはずのケースがある。だが、黄色い識別帯がない。管理番号もない。

 

「おい、あれ……俺の持ってきたケースじゃない!」

 

 いつの間にかすり替えられていたのだ。犯人は旧棟の階段脇に妨害装置を置き、アルカがそこで戦うよう仕向けた。装置は電源につながれ、旧棟の周囲にしか効果が届かないらしい。

 

「そこから離れろ! そいつの近くじゃ光が消える!」

 

 アルカが小さく頷いた。

 

「……ありがとうございます。もう、同じ手にはかかりません」

 

 彼女は橋へ向かった。俺は資材を少しずつずらし、作業員の足を引き抜いた。

 何とか建物の陰まで運んで救急車を呼ぶ。通信機からは、先輩が俺の名を何度も呼んでいた。

 

『平くん! 返事して! 撤収しなさい、今すぐ!』

 

「……すみません。もうちょっとだけ」

 

『何が起きてるの!』

 

「本物の怪我人です。今、救助してます」

 

 向こうが一瞬黙った。

 

『……分かった。救急の手配はこっちでもする。絶対に無茶しないで』

 

「了解。先輩、俺……」

 

 言いかけて、やめた。

 橋の方から青い光が見えたからだ。

 

          *

 

 橋へ続く道は、旧観測棟の前を通って川へ下りていく。

 黒い男が抱えたケースの中身は知らない。だが、あれが盗品で橋を渡るのが逃走経路だということは分かった。

 

「待ちなさい!」

 

 アルカの声が響く。

 

 彼女は男の進路に立ちふさがった。

 ただし、今度は階段の陰にある黒いケースのそばではない。橋へ続く道路の先。少し離れたところだ。

 

 光装甲が戻っていた。

 

「……なるほど。気づいたか」

 

 男の声に、初めて苛立ちが混じった。

 

「あなたの仕掛けを、全部理解したわけではありません」

 

 アルカは傷ついた腕を上げた。

 

「ですが、ここから先へ行かせるつもりはありません」

 

 青い光が道路いっぱいに広がる。

 光盾だ。

 これでは車も人も通れない。

 

「いつまで持つかな。あんたの装備、さっきは随分あっけなかったぞ」

 

 男は笑い、わざと旧観測棟の方へ一歩下がった。

 旧観測棟の妨害装置の範囲へ、アルカを引き戻そうとしている。

 

 だが、アルカは追わなかった。

 

「こちらへ来てください」

 

 ひどく平静な声だった。

 

「逃げるなら、私の前を通るしかありません」

 

 俺は思わず笑いそうになった。

 あの真面目なヒーローが、敵を挑発している。

 しかも、ただの挑発ではない。自分に有利な場所を相手に選ばせようとしているのだ。

 

 橋の向こうから、警報を聞きつけた車両のサイレンが近づいてきた。

 男が舌打ちする。

 時間をかければ逃げ道が塞がる。今すぐこちらへ進むか、盗品を捨てて引き返すか。

 

「……ヒーロー様も、随分と意地が悪いな」

 

「あなたにだけは、言われたくありません」

 

 アルカが答えた。

 ちょっとだけ、嬉しくなった。

 

 男が走り出す。

 銀色の装備がうなり、強化された腕が振り抜かれた。

 

 アルカは動かなかった。

 いや、一瞬だけ肩が強張った。

 さっき壁へ叩きつけられた記憶が、きっと彼女の中に残っている。

 

 それでも今度は、足が動いた。

 

 光盾を正面へ出すふりをして、体を横へ逃がす。男の拳が空を切った。

 アルカは相手の腕を掴み、青い光を一点に集める。

 

「くそっ、離せ!」

 

 男は強引に腕を振ろうとした。

 だが橋へ抜ける道は光盾が塞いでいる。そこから逃げるには、まずアルカをどかすしかない。

 

「ここから先には――」

 

 アルカの声が途切れた。

 俺は息を呑んだ。

 

 彼女の目の前で、さっきの強化された拳がもう一度上がる。

 怖いはずだ。

 怖くないわけがない。

 

 アルカは歯を食いしばり、顔を上げた。

 

「――通しません!」

 

 光撃。

 

 青白い光が、男の腕の装備を砕いた。

 勢いを失った拳が止まり、男は体勢を崩す。続く一撃が胸元の装甲を撃ち抜き、彼を路面へ転がした。

 

 盗まれたケースが、地面を滑る。

 アルカはそれを踏み越え、男の手首に残った制御端末を押さえた。

 

「もう、終わりです」

 

 男は立ち上がろうとしたが、すでに腕が動かなかった。

 

 旧観測棟の方では、まだ低い音が続いている。だがここまで離れれば光装甲には影響しない。

 

 俺は遠くからその様子を見て、思わず座り込んだ。

 

「……勝ちやがった」

 

 胸の奥から、笑いがこみ上げる。

 

「ああ、くそ。やっぱり強えな、あいつ」

 

 たぶん俺は、最初からあの人に憧れていた。

 銀色の装甲にも、派手な光撃にも。

 それを素直に認めるのが、少し癪だっただけで。

 

 旧観測棟の方から続いていた低い音は、いつの間にか止んでいた。

 警察と救急の車両が到着し、作業員は担架に乗せられた。妨害装置については警察が周囲を封鎖して調べることになったらしい。

 

 アルカが戻ってきた。肩で息をしている。銀色の装甲は傷だらけだし、頬の血も拭えていない。

 

「……負傷した方は?」

 

「救急車に乗った。意識はある。……あんたは?」

 

「私も、大丈夫です」

 

 そう言って、少しだけ笑った。

 

 何だよ、それ。

 こんな目に遭って、それでも最初に人の心配かよ。

 

 ……ああ、そうか。

 だから俺は、あんたたちみたいなヒーローに憧れたんだ。

 

 アルカが近づいてきた。

 

「あの……」

 

「ふん。何を勘違いしている、正義の味方!」

 

 俺は慌てて立ち上がった。

 マスクの中の顔がどんな状態なのか、自分でも分からない。

 

「貴様を助けたつもりはない! 俺の目の前で勝手に人が死なれては、寝覚めが悪いだけだ!」

 

 ひどい理屈だった。

 だがここまで来て、急に素直な人間になれるわけがない。

 

 アルカは少し驚いた顔をした。

 

「……そうですか。でも、助けていただきました」

 

 律儀に頭を下げようとする。

 その仕草に、妙な既視感があった。

 

「おい、怪人に礼なんか言うなよ。調子が狂うだろ」

 

「それでも、お礼を言わなければ」

 

「……ほんと、変な奴だな」

 

 銀色の仮面の向こうで、彼女が小さく笑う。

 どこかで聞いたような、真面目すぎる声だった。

 

(……いや、まさかな)

 

 商店街で出会った女性の顔が、なぜか頭をよぎった。

 俺はその考えを追い払う。

 

「覚えておけ、アルカ! 次こそは、貴様を――」

 

 言いかけて、詰まった。

 

 倒す?

 滅ぼす?

 今さら何を言っても、格好がつきそうにない。

 

「……次は、もっと上手く負けてやる!」

 

 最悪の捨て台詞が出た。

 

 アルカはきょとんとして、それから声を上げて笑った。

 

「……負けるつもりで、戦っていたんですか?」

 

「ち、違う! 言葉の綾だ!」

 

「ふふっ。では、次も負けていただきますね」

 

「……言うようになったじゃねえか」

 

 聞こえないようにつぶやいて、俺は背を向けた。

 足が震えている。今にも座り込んでしまいたい。

 先輩ならもっと格好よく去れただろう。

 

 だがまあ、俺はまだ新人なのだ。

 ここは大目に見てほしい。

 

 俺は今日、怪人役として二度目の敗北を経験した。

 そのついでに、誰からも頼まれていないことを一つした。

 

 先輩の言う『いい負け方』だったかどうかは分からない。

 でも、あの人が立ち上がるまでの時間くらいは、稼げたのかもしれなかった。

 

 

          *

 

 事件のあと、会社には調査が入った。

 

 研究棟を襲った男は、新型エネルギー装置を盗み出して売るつもりだったらしい。工事業者の出入りや警備の予定をあらかじめ調べ、俺たちの偽の事件に便乗したのだという。

 

 もちろん偽物の事件を計画していたのが誰なのかも調べられた。

 会社の秘密は、思っていたより秘密ではなかったらしい。

 

 班長は疲れた顔で説明した。

 

「想定外の第三者による犯罪です。我々が意図した事態ではありません」

 

「そうでしょうね」

 

 俺も、それは分かっている。

 先輩は本物の被害者を出さないようにしていた。会社だって、初めから誰かを傷つけたいわけではなかったはずだ。

 

「しかし、結果は最悪でした。お怪我をされた方もいますし、しばらく業務は停止です」

 

「……だったら、ちょうどいいです」

 

 俺は契約書を机に置いた。

 

「辞めます」

 

 班長が顔を上げる。

 

「残念ですが、事情が事情ですからね。理由をお聞きしても?」

 

「先輩が言ってたんですよ。本物の被害者だけは作るなって」

 

「我々が作ったわけではありません。あれは外部の犯罪者による事件です」

 

「そうですね。直接やったのは、あいつです」

 

 俺は頷いた。

 

「でも、俺たちが用意した舞台を利用されたのも本当でしょう。アルカの戦い方まで、あいつに研究させちまった」

 

 班長は黙った。

 

「俺、最初はこの仕事、馬鹿らしいと思ってました。でも先輩から教わって、ちょっとだけ好きになれたんです」

 

「でしたら、なおさら……」

 

「だから辞めます。続けてたら、先輩の言ってたことまで嘘にしそうで」

 

 言ってから、少し恥ずかしくなった。

 ついこの間まで家賃のために飛び込んだ仕事に、何を偉そうに語っているんだか。

 

「……分かりました。手続きはこちらで進めます」

 

「ありがとうございます。あと、給料なんですけど」

 

「……はい?」

 

「働いた分は、ちゃんと支払ってくださいね。こっちは命がけだったんで」

 

 班長はそこで初めて、ちょっとだけ本当に笑った。

 

          *

 

 最後の祝敗会は、いつもの居酒屋で開かれた。

 主催者は先輩。出席者は俺と先輩、今回も以上二名。

 

「かんぱーい! 生還祝い、退職祝い、それから祝敗会!」

 

「まとめすぎですよ。めでたいのかどうかも分かりませんし」

 

「生きて帰ったんだから、めでたいに決まってるじゃない」

 

「……それは、まあ」

 

 先輩はジョッキを置き、しばらく俺の顔を眺めた。

 

「ニュースにならなかったね、あんたの人助け」

 

「そりゃそうですよ。俺、怪人ですもん」

 

「ちょっとぐらい褒めてもらってもよかったのに」

 

「ヒーローが無事なら、それでいいじゃないですか。悪役の手柄なんて出されても困りますよ」

 

 自分で言って、少し驚いた。

 昔なら絶対に言わなかったと思う。

 

「……変わったわね、あんた」

 

「そうですかね」

 

「最初に会ったとき、時給の話しかしなかったのに」

 

「今も気にしてますよ。次の仕事、だいぶ安くなるんですから」

 

「あはは、それは残念!」

 

 先輩が笑った。

 いつもの笑い方だった。

 

「先輩は、これからどうするんです?」

 

「さあね。演技の仕事でも探そうかな。見てのとおり、派手に負けるのは得意だし」

 

「履歴書に『全国ニュース出演、怪人役として三回転』って書くんですか」

 

「いいじゃない。結構な実績でしょ」

 

「前科と間違われそうですよ」

 

「それは困るわねえ」

 

 先輩は笑い、それから少しだけ声を落とした。

 

「ねえ。あのとき、どうして助けに行ったの?」

 

「……何となくですよ」

 

「そんな理由で?」

 

「倒れてる人がいたんです。見ちゃったから」

 

 先輩は黙った。

 俺も、別に続きを言うつもりはなかった。

 

「……そっか」

 

 先輩は、ふっと笑った。

 

「いい悪役になったわね、平くん」

 

「もう辞めたんですけど」

 

「それでもよ」

 

 その言葉を最後に、先輩は俺のグラスへ酒を注いだ。

 

「ほーらほらっ、祝敗なんだからもっと飲みなさい!」

 

「先輩、それ一杯目から言ってません?」

 

「次が最後の祝敗会かもしれないでしょ。今のうちに祝っとくの!」

 

 俺は笑って、グラスを持ち上げた。

 この人はたぶん、何を始めても同じように笑うのだろう。

 

 その夜の酒は、前より少しだけうまかった。

 

          *

 

 二か月後。

 

 俺は新しい職場へ向かう途中、駅の売店で足を止めた。

 頭上のテレビには、見慣れた銀色の姿が映っている。

 

『光装士アルカ、河川敷での救助活動を指揮。消防・警備隊との連携により、取り残された人々を無事に保護しました』

 

 今度は誰かが用意した舞台じゃない。

 実際に起きた事故だ。

 

 テレビのアルカは、救助を終えた隊員たちへ何度も頭を下げていた。

 

『皆さんが力を貸してくださったおかげです。私一人では、助けられなかったと思います』

 

 少しぎこちない言い方だった。

 でも、以前のように一人で何もかも引き受けようとはしていないらしい。

 

「……へえ」

 

 俺は小さく笑った。

 

「ちゃんと格好よくなってんじゃねえか」

 

 画面の向こうで、彼女は子供にせがまれて例の決めポーズを取る。

 

『闇を切り裂く希望の光! 光装士アルカ、ここに参上!』

 

 ああ、もう。

 そこだけは変わらないのか。

 

 俺は売店を離れた。

 

 次の仕事は時給八千円じゃない。危険手当もない。人に褒められるようなことも、たぶん少ない。

 それでも悪くないと思っている。

 

 改札の手前で、前を歩く男のポケットから切符が落ちた。

 

「あの、落としましたよ」

 

 俺は拾い上げて声をかけた。

 男は振り返り、何度も頭を下げる。大げさだと思ったが、別に嫌な気はしなかった。

 

 俺はヒーローじゃない。

 もう、怪人でもない。

 

 ただ、目の前に落ちていたものくらいは拾える。

 

 それでいい。

 少なくとも今日のところは。


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