あの鐘の音が聞こえるか 作:もこもこ
本当にありがとうございます。
どこまで続けられるかは自信ないです。
主人公の名前は イサム にしました。
六分街の路地裏。ビデオ屋「Random Play」の裏口がガタッと乱暴に開かれた。
「ただいまー……っと。いやぁ、今日は一段と冷えるな!」
いつもと変わらない陽気な声。だが、足元はおぼつかなく、カウンターへ向かう足取りはひどく重い。
身の丈を超える大剣を壁に立てかけ、フードを下ろした青年――イサムの姿を見た瞬間、アキラとリンは息を呑んだ。
首元から腕にかけて這う青いエーテル結晶が、かつてないほど不気味な脈動を打っている。新雪のように真っ白な髪とその肌は透けるように蒼白だった。
「イサム……! あんた、その身体……!」
リンが血相を変えて救急キットを引っ張り出す。アキラも慌ててカウンターを飛び出し、彼の身体を支えて丸椅子に座らせた。
「おっと、サンキュー。平気平気、ちょっとホロウの奥で吸い込みすぎただけだって。あー、痛てて……激しい筋肉痛みたいなもんだよ」
「嘘をつかないで! さっき送られてきたバイタルデータ、異常なんてもんじゃないわ。エーテルの蓄積量が普通の致死量をとうに超えてる……こんな無茶を続けたら、あんたの命は……!」
少し涙を浮かべるリンの言葉に、イサムはきょとんとした顔をした後、呆れたように笑い出した。
「だから、いつも言ってるだろ? 俺の命に別状はないって。この結晶も白髪も、ただの副作用みたいなもんでさ。痛みはあるけど、寿命が縮んだりするわけじゃないんだってば、たぶん」
本心からの、嘘偽りのない言葉だった。
実際、イサムの特異体質は『他者のエーテル侵食を肩代わりし、疑似火炎に変換する』という理外の代物であり、そのプロセスで全身を焼くような激痛や外見の激変(白髪化・結晶化)こそ伴うものの、細胞自体が死滅したり寿命が削られたりするようなことは一切ない。ある意味で、彼は高濃度エーテルに対して無敵に近い生存能力を持っていた。
だが――悲しいかな、彼のその「陽気すぎる性格」が、ここでは完全に裏目に出ていた。
「……もう、強がらなくていいんだよ、イサム」
アキラが、痛ましいものを見るような、ひどく悲痛な瞳で彼を見つめていた。
「え?」
「僕たちには、隠さなくていい。君が誰かを救うために、ずっと笑って自分の命を削っていることくらい、一番近くで見てきた僕たちには分かってるから」
「いや、だから命は削ってないって! 本当に! 心臓とかめっちゃ元気だから!」
「分かってるわ……イサム」
リンまでもが、ポロポロと涙をこぼしながら、彼の背中を優しく撫で始めた。
「痛いんでしょ? 苦しいんでしょ? 命を燃やして、そうやっていつも平気なフリをして……っ。私たちでよければ、いくらでも弱音を吐いていいんだからね」
「待て待て待て! 違う、話を聞いてくれパエトーン! 痛いのは本当だけど、寿命の話はマジで誤解だ! 俺は健康そのもの――いてっ! ちょ、背中の結晶触ると痛い!」
必死に弁明するイサムだったが、彼が普段から痛みを隠して「平気だ」とおどけてみせる性格であることを二人は熟知している。
ゆえに、彼の『命に別状はない』という真実の言葉すらも、『周囲に心配をかけまいとする、彼なりの優しくて哀しい嘘』として完全に脳内変換されてしまっていた。
(……ダメだこりゃ。俺の信用度、変な方向に振り切れてるな)
イサムは内心で深いため息をついた。
本当のことを言っているのに、周囲からは勝手に「悲劇のヒーロー」として祀り上げられ、勝手に涙を流される。雅の前に出た時もそうだ。「あの夜のガキは死んだ」というのは純粋に『こんな白髪の化け物になっちまったから、輝くお前の隣には行けない』という物理的・精神的な意味も含んでいたのだが、おそらく彼女も『己の命が長くないから遠ざけたのだ』と壮絶な勘違いをしているに違いない。
「ま、いいか……」
誤解を解くのは諦め、イサムはアキラが出してくれた甘いホットミルクを両手で包み込んだ。じんわりとした温かさが、冷え切った身体と結晶の痛みを少しだけ和らげてくれる。
「いつも悪いな、二人とも。……ナビだけじゃなく、こうして場所まで提供してもらってさ」
ミルクを飲みながら、忙しなくタオルや薬を用意してくれる兄妹の背中を見つめる。
新エリー都の裏社会において「伝説」と謳われるプロキシ『パエトーン』。
彼らとこうして、互いの素顔を知り、冗談を言い合い、時には命を預け合うような関係になったのは、思えばいつからだっただろうか。
マグカップの湯気越しに見つめる景色が、ふと、あの日のホロウの暗闇へと思い出そうとした。
* * *
新エリー都の喧騒から遠く離れた、星見一族の本邸。
深い緑に囲まれた広大な敷地の奥に位置する伝統的な日本家屋には、冷たい雨が瓦を打つ音と、時折鳴る鹿威し(ししおどし)の高く澄んだ音だけが響いていた。
仄暗い和室の中、微かな香が漂う空間で、星見雅は静かに正座をしていた。
漆黒の特注軍服に身を包んだ「対ホロウ特別行動課 第6課 課長」としての顔ではなく、そこにあるのは、一人の娘としての、そして過去に取り残された幼馴染としての顔だった。
彼女の正面には、上座に座る恰幅の良い父親と、その隣で静かにお茶を淹れる美しい母親の姿がある。
「――夜分遅くにすまない、父上、母上。どうしても、今夜のうちに報告しておかなければならないことができた」
雅のただならぬ気配に、父親は読んでいた分厚い書物を置き、母親は急須を傾ける手をピタリと止めた。
「どうした、雅。お前がそこまで切羽詰まった顔をするなど、珍しいな」
「……ホロウで、何かあったのですか?」
両親の静かな問いかけに、雅は膝の上で固く、白くなるほど拳を握りしめた。
脳裏に焼き付いて離れない、あの新雪のように真っ白に染まった髪。首元に群生していた痛々しい青いエーテル結晶。そして、あの日と変わらない、可憐な鈴の音。
「……イサムが、生きていた」
その名前が和室に落ちた瞬間、空気が凍りついたように止まった。
母親の瞳が限界まで見開き、父親の太い眉が微かに震える。二人は、雅が口にした名前の意味を、瞬時に、そして痛烈に理解していた。
旧都陥落の夜、この家族を――母親の命を絶望的なエーテル侵食から救い出し、そのまま轟音と共に燃え盛る闇の中へと消えていった、あの底抜けに明るかった少年のことを。
「インターノットの裏社会で噂になっている、無所属のホロウレイダー……『晩鐘のハサン』。あれが、イサムだった。今日、未登録ホロウの最深部で剣を交え、私は確かにこの目で確認した」
「生きて……あの子が、生きていたのですね……!」
母親の声が震えていた。彼女は自身の首元――かつて、致死量のエーテルに侵食され、あわや化け物に成り果てる寸前だったなめらかな肌を、無意識に強く押さえた。
あの日、イサムがすべての侵食を吸い出してくれたおかげで、彼女の身体には傷一つ、結晶の欠片一つ残っていない。しかし、それがどれほどの代償を伴う奇跡だったのかを、彼女は誰よりも理解していた。
「雅。その……イサムの様子はどうだった? 元気だったか? 怪我はしていなかったか?」
矢継ぎ早に問いかける母親の顔には、安堵と、長年抱え続けてきた深すぎる自責の念が入り混じっていた。
雅は痛ましげに目を伏せ、奥歯を噛み締めながら絞り出すように答えた。
「……髪が、雪のように真っ白になっていた。首や腕の皮膚を破り、痛々しいエーテル結晶が這っていた。
おそらくではあるが……あいつは、他人のエーテル侵食を自らの身に引き受け、それを『燃料』として大剣を振るっている。あの夜からずっと……母上を救ったあの日からずっと、たった一人で、激痛に耐えながら戦い続けているのだ」
「ああ……なんという……私の代わりに、あの子が……」
母親は両手で顔を覆い、堪えきれずに嗚咽を漏らした。
自分の命と、娘たちの未来を守るために、あの心優しい少年は自ら「呪い」を被り、光の当たる場所から姿を消したのだ。生命の色を失い、痛みに耐えながら孤独にホロウを彷徨う彼の姿を想像し、母親の肩が小刻みに震える。
沈痛な空気が流れる中、それまで黙って話を聞いていた父親が、低く落ち着いた声で口を開いた。
「……なぜ、彼が我々の前に姿を現さなかったのか。それは、己の異能がこの新エリー都において、どれほど危険視されるかを彼自身が理解していたからだろうな」
父親の言葉に、雅は弾かれたように顔を上げた。
「他者のエーテル侵食を吸収し、己の力に変換する。……もしそんな人間が存在すると治安局や新エリー都の上層部、あるいは裏社会に知れ渡れば、彼は二度と人間としての扱いを受けられない。無限の生体浄化器か、究極の実験動物として、一生涯をモルモットとして監禁されることになる。だからこそ、彼は『死んだ』ことにして、我々から遠ざかったのだ。……お前たちを、そして星見という家を、そのドロドロとした渦中に巻き込まないためにな」
「……あいつも、同じようなことを言っていた。『あの夜のガキは死んだ。自分はただの幽霊だ』と。……だが、嘘だ! あいつの大剣の太刀筋は、母上に教わったあの頃のまま……一切の無駄がない、守るための剣だった。胸には、私が昔渡したお守りを、今も大切に隠し持っていたのだぞ!」
雅の語気が強くなる。冷静沈着な第6課課長としての仮面が剥がれ落ち、ただ純粋に幼馴染を救いたいと願う、等身大の少女の悲痛な叫びだった。
「父上、母上。私は……イサムを、あんな冷たい暗闇に一人で放っておくことはできない。どうすればいい。どうすれば、あいつをこちら側に引き戻せる?」
雅の真摯で切実な問いかけに、和室には再び深い沈黙が落ちた。
雨音が庭の木々を激しく打つ中、星見家の三人は「彼のために何ができるか」を必死に思考し始めた。
最初に口を開いたのは、涙を拭い、顔を上げた母親だった。
「……雅。イサムの剣がどれほど荒々しくとも、私の教えを失っていなかったというのなら、あの子の心はまだ完全にホロウの闇には飲まれていません。彼を人間として繋ぎ止めているのは、間違いなくあなたとの記憶です」
母親は、かつて太陽の降り注ぐ道場で、自分の身の丈に合わない木刀を一生懸命に振るっていたイサムの姿を思い出すように、優しく目を細めた。
「あの子は昔から、底抜けに明るくて……自分が傷つくことにはひどく無頓着で、誰かを守るためなら平気で無茶をする子でした。言葉で『帰ってきなさい』と言っても、絶対に頷かないでしょう。自分が化け物扱いされることで、あなたや星見の名に泥を塗ることを極端に恐れているはずですから」
「……ならば、力ずくで連れ帰るしかないと?」
「力ずくはいけませんよ、雅。刀を交えることにはなるでしょうが、あなたが斬るべきは彼の肉体ではなく、彼が背負い込んでしまった『孤独』と『強がり』です。……あの子の剣を真っ向から受け止め、あなたが彼より強いのだと、もう彼一人にすべてを背負わせる必要はないのだと、その身に教え込みなさい。それが、共に剣を学んだあなたにしかできない、あの子への答えです」
母親の力強い言葉に、雅は深く頷いた。そうだ。何度逃げられようと、追い詰めて、その大剣ごと彼の強がりを叩き落としてやればいいのだ。
「だが、身柄を確保した後の問題があるな」
父親が腕を組み、現実的な課題を口にする。
「彼を公の場に出すわけにはいかない。彼の身体に蓄積された致死量のエーテルは、いつ暴走してもおかしくない爆弾と同じ扱いを受けるだろう。第6課の権限を使ったとしても、公的な医療機関に引き渡せば、必ず上層部の監査が入る」
「では、父上……見殺しにしろと言うのですか!」
「早とちりをするな、雅。……誰が、我が家の恩人を見捨てると言った」
父親の眼光が、新エリー都の政財界に太いパイプを持つ『星見家当主』としての鋭い光を帯びた。
「表の機関が使えないなら、裏を使えばいい。星見の財力と人脈を総動員し、新エリー都の最高峰のエーテル研究者と医療設備を、極秘裏に一箇所に集める。非公式の私的医療チームを結成し、彼のエーテル結晶化を食い止める手段を全力で研究させるのだ」
「父上……!」
「彼の能力のメカニズムを解明し、体内のエーテルを安全に排出、あるいは中和する術を見つけ出す。莫大な資金がかかるだろうが、彼が救ってくれた命の重さに比べれば安いものだ。それまでの彼の隠れ家とパトロンの役割は、この私が責任を持って引き受けよう。……幸い、うちの庭は広すぎるからな。離れの一つや二つ、誰にも知られずに改築することなど容易い」
父親はそう言って、微かに口元を緩めた。
それは、星見という一族が、その持てるすべての権力と財力を躊躇なく投げ打って、一人の青年を世界から庇い立てるという途方もない宣言だった。
「雅。お前は第6課の権限をギリギリまで使い、『晩鐘のハサン』に関する治安局の捜査情報をコントロールしろ。他の課や治安局の連中が彼にたどり着く前に、お前が彼を先回りして保護するのだ」
「……承知した。私の権限の及ぶ限り、奴の痕跡はすべて私が揉み消す」
雅の目に、はっきりとした決意の光が宿った。
もはや彼女は、暗闇の中で途方に暮れる少女ではなかった。背後には、同じ覚悟を決めた強大な家族がいる。
母親が、そっと雅の手を握った。
「イサムは、私の命を救ってくれた。今度は私たちが、あの子の命と居場所を作る番です。……真っ白になってしまったという髪も、少しずつ時間をかければ、また元の色に戻るかもしれません。美味しいものをたくさん食べさせて、温かい布団で、ゆっくりと休ませてあげましょう」
「……ああ。そうだな、母上」
雅は、母親の温かい手を強く握り返した。
窓の外の雨は、まだ降り続いている。
イサムは今頃、この冷たい雨の中で、激痛に耐えながら孤独に歩いているのだろうか。胸元の鈴を鳴らしながら、寿命が削られるわけではないからと、誰にも理解されないまま強がって笑っているのだろうか。
(もう、お前を一人にはしない。……絶対にだ)
「いつでも抜けるぞ、と言ったはずだ」
雅はふっと立ち上がり、決意に満ちた瞳で夜の闇を見据えた。
「今度会った時は……その大剣ごと、お前の背負うすべてを叩き斬ってやる。待っていろ、イサム」
重低音の鐘の音に打ち勝つために。
雅は腰の刀にそっと手を添え、静かに、だが確かな熱を帯びた声で、まだ見ぬ再会への誓いを立てた。
パエトーンの二人との話は明日出します。
このあとどうするか…