騎士兎さん、毒娘の過剰摂取にはご注意を 作:たそ@ハーメルン
――数年前。
雨林の夕闇に、泥と血の匂いが重く沈んでいた。
湿った地面へ頬を押しつけたまま、ローエンは途切れ途切れに息を吐く。
噛まれた傷から入り込んだ毒は、すでに全身へ回りきっていて、指先はおろか、腕も脚も、もう命令に応えない。
息を吸うたびに肺の奥から冷えが広がり、その冷たさが、体温を一滴ずつ、確実に汲み出していった。
傷はあるのに、痛みが遠い。
痛みのほうが先に、身体から出ていってしまった。
それが一番まずい兆候だと、分かっている。
傷そのものはそれほど深くない。
殺しにきているのは、毒のほうだ。
死ぬ時ってのは、もっと派手なもんだと思っていた。
実際は、ずいぶん静かだ。
身体の端から順番に、自分のものではなくなっていく。
(……ふざけんな)
泥の中に、噛まれてすぐに呷った、自作の解毒薬の空の小瓶が転がっている。
効かなかったのか、それとも調合が甘くて、毒の勢いに追いつかなかったのか。
確かめる手立ては、もうない。
少し離れた泥の中に、短剣が落ちている。
その隣で、短弓が真ん中から折れていた。
距離にすれば三歩もない。
けれどその三歩は、今のローエンにとって、雨林の端から端までと同じ長さをしていた。
それでも、魔物が消えていった暗がりから、目だけは逸らさなかった。
(まだ終わってねぇ……こんなところで、終わってたまるかよ……ッ)
その時、血と泥と腐葉土ばかりで塗り潰されていた世界へ、異質な風が滑り込んだ。
煮詰めた薬草の濃い匂いと根の苦味、焦げた樹脂。
自分の調合台に並べたことのある匂いが二つ三つ、残りは知らない。
その奥から、場違いなほど甘い花の香りが漂ってきた。
腐臭の底へ垂らされた蜜のような、不謹慎な甘さだった。
「あらぁ」
頭上から、間の抜けた高い声が降ってきた。
霞んだ視界の端で、ローエンはその出どころを追った。
夕日を背負って、人影が立っている。
血が目に入りすぎたのか、逆光のせいか、顔はおろか輪郭さえ溶けてしまって、二つに結った髪らしきものが揺れているのが、辛うじて分かるだけだった。
その揺らぎの奥で、金と青緑の光がちかちかと瞬いている。
「ひどい顔。もうすぐ死んじゃいそうねぇ」
心配の色など、欠片も混じっていない。
道端で珍しい虫でも見つけたような、屈託のない声だった。
蹴り飛ばしてやりたいのに、身体はぴくりとも応えない。
仕方なく、目だけで睨み上げる。
女が屈み込み、こちらを覗き込む気配がした。
「……へぇ」
ほんの短い間があった。
「そんな目をするのねぇ」
何が可笑しい。
言い返すより先に、女は懐へ手を入れていた。
かちゃかちゃと、硝子が触れ合うような音がする。
「坊や、苦しいでしょう。今から、とてもよく効くお薬をあげるわ」
坊や、だと。
肚の底で何かが冷たく跳ねたが、それを口にする力は残っていない。
女は、小さな容器へ液体や粉末を次々と落としていく。
死にかけの人間を前にしているとは思えない落ち着きだ。
まるで菓子でも焼くような軽やかさで、容器の中に濁った液体が出来上がった。
「ただし、これはすっごく苦いから。頑張って耐えなさいねぇ」
顎を掴まれた。
黒い革手袋の指が舌を押さえつけ、血の味が口いっぱいに広がる。
細い指のくせに、力加減には一切の遠慮がなかった。
無理やりこじ開けられた口へ、液体と粉末の混じったものが、喉の奥まで注ぎ込まれる。
抗う術もなく、他人の指に口を開かされ、命を流し込まれる。
「げほ……ッ」
「雨林に慣れてない人が、一人でこんなところに来るなんて。ちょっとは反省しなさいな」
直後、舌から喉へ、喉から胃へと、順に火が落ちた。
苦味などという生易しいものではない。
声も出ないまま胃がひっくり返り、心臓が一度、大きく跳ねた。
毒が身体の端から凍らせていくのが死だとするなら、この女の薬は、生きたまま内側から焼かれる生だった。
「さあ。生きるか死ぬかは、あなたしだい♪」
軽い足音が遠ざかっていく。
泥を噛み、白く飛びかける意識にしがみついていると、痛みが走るたびに、死んでいた指先へ感覚が戻ってくるのが分かった。
小指から順に、握れなかった指が泥を掻く。
「……ハッ」
笑ったのか、呻いたのか、自分でも分からない。
凍てつく毒と燃える薬が、ひとつの身体を奪い合っている。
どちらにも容赦がない。
まともな解毒薬とは思えなかった。
だが、効いている。
毒を盛る側には、何度も回った。
盛られる側の理屈も、頭では分かっているつもりだった。
分かっていたのは理屈だけで、身体は何ひとつ知らなかったらしい。
(あいつ、本物の実力者じゃねぇか)
もし、こんな薬が他にもあるなら。
こんな薬を、その場でいくらでも調合できるなら。
痛みとは別のものが、肚の底に灯った。
飢えに似た、ひどく行儀の悪い熱だった。
意識が落ち、次に目を開けた時、木々の隙間に月があった。
身体はまだ焼けていて、傷は脈打つように痛んでいる。
痛みを噛みしめながら、息を吸う。
悪くない。
湿った土と血の先、夜露の向こうに、甘い匂いがあった。
まだいる。
姿は見えず、足音もしないのに、風が動くたび、花の甘さが僅かに鼻先を掠める。
見えない誰かが闇の縁に腰を下ろして、こちらの呼吸を数えているような気がした。
ただの見物か。
それとも、死ぬかどうかを確かめる実験のつもりか。
看取り手にしては、ずいぶん悪趣味だ。
(気になるなら、好きなだけ見てりゃいい)
意識は沈み、また浮かぶ。
血の匂いに引かれて獣が寄ってきてもおかしくない夜だった。
それなのに、藪を分ける音は、一度も聞こえなかった。
何度目の目覚めか、もう分からない。
いつしかローエンは、意識が途切れかけるたびに、無意識に息を吸っていた。
甘い匂いがある。
なら、まだ夜は終わっていない。
まだ死ぬ時じゃない。
他人の気配を目印に、息をしている。
腹が立った。
それでも、息を吸った。
使えるものは使う。
腹が立つうちは、まだ生きている。
何度でも、そうやって意識を引き戻した。
*
やがて、暗闇が薄まっていった。
朝の光が木々の向こうから滲み、雨林を覆う霧を白く浮かび上がらせる。
身体を焼いていた熱は、いつの間にか引いていた。
腕に力を込めると、肘が地面から離れる。
膝を立てると、噛まれた傷が鋭く疼いて、視界が一度、真っ白に染まった。
それでも、立った。
足元は揺れ、身体は重く、頭もまだ鈍い。
だが、毒の痺れは消えていた。
「ハッ」
乾いた笑いが漏れる。
まったく、とんでもねぇもんを飲ませやがって。
その時、一晩中風の中に居座っていた甘い匂いが、ふっと遠のいた。
振り返ると、朝靄の向こう、大木の枝に、女が腰掛けていた。
朝日を背負っているせいで顔は影に沈み、霧と枝葉の間に紫色の髪だけが淡く揺れている。
女は、立ち上がったローエンをじっと見下ろしていた。
何を思ったのか、女は小さく首を傾げた。
風に乗って、ふふ、と笑うような声が届いた気がする。
確かめる前に、女はくるりと背を向けていた。
黒い布が翻り、枝から幹へ、幹から地面へと、音もなく降りていく。
そのまま朝靄の向こうへ歩み去り、紫色が、森に溶けた。
追いかけることはしなかった。
今の身体で雨林を走り回るほど、馬鹿じゃない。
ローエンは短剣を拾い、泥を払って鞘へ戻した。
折れた短弓は、少し考えてから腰の後ろに差した。
口の中には、まだ薬の苦味がこびりついている。
舌を動かすだけで、昨夜の激痛が焼き印のように蘇った。
「……クソまず」
だが、効いた。
洒落にならないくらいに。
あの手際は、相当場数を踏んだ薬師のものだ。
あの量は偶然か、それともこの身体が耐えられるぎりぎりの線を、あの一瞬で見切って入れたのか。
もう一度飲んだら、今度はどこまで意識を保てるのか。
(これは、使える)
それに、命の借りができた。
借りっぱなしにしておく趣味はない。
顔も、名前も知らない。
覚えているのは、苦すぎる薬と、人を食ったような声。
それから、あの甘い花の匂い。
(あの女に、もう一度会う)
モンドへ戻るのは癪だった。
懐の冒険者協会の登録証は泥で固まっている。
戻った先に待つのは、あまりに退屈な依頼板だ。
ここへ飛び出してきたのも、元はといえばその退屈のせいだった。
だが、人を探すなら、情報が集まる場所は結局あそこしかない。
奥歯で、舌に残った苦味を噛み潰す。
口の端が、勝手に吊り上がっていた。
ローエンは、朝の雨林へ足を踏み出した。
舌の苦味は、いつの間にか薄れていた。
森を抜けてもなお、甘い花の匂いだけは、鼻の奥から消えなかった。