騎士兎さん、毒娘の過剰摂取にはご注意を 作:たそ@ハーメルン
いつか、どこかの二人のお話。
ウサギさんは、ハーブがお好き
「今日の仕込みには、オマケがあるのよぉ♪」
そう言って、ヴィシュカは笑った。
次の瞬間、ローエンの視界いっぱいに紫が広がる。
唇が触れた。
薬包紙が肌をかすめるような、乾いて軽い感触だった。
それだけで終わるかと思ったが、今度は舌先がするりと滑り込んでくる。
ぬるい熱が、何かを塗り残すようにゆっくりと動いて、離れた。
「おい何……っ、うぐ」
話すより先に、喉がひくりと引きつった。
舌の奥を鋭い辛みが刺し、追いかけるように、薬草を煮詰めたような苦味が広がっていく。
可愛げの欠片もない不意打ちだ。
「……お前な」
「ふふっ」
ヴィシュカは口元を指先で隠し、愉快そうに目を細めている。
「驚いた?」
「まーた口ん中に仕込んできたのかよ。反則負けにすんぞ」
「あら。仕込みは全部把握しておきたいんでしょう?」
さっきまで自分が使っていた理屈を返されて、ローエンは押し黙るしかない。
ヴィシュカはますますしたり顔だ。
「……んで、何が入ってやがる」
「ひみつ♪」
「毒か?」
「さあ?」
「薬売りが成分表示を怠るなよ。職務怠慢か?」
「使用は自己責任で、って言ってるでしょう」
ヴィシュカはころころと笑う。
ローエンは舌先で唇を舐めた。
まだ苦い。
目の前の女はこれで満足したらしい。
もう勝負は終わったとでも思っている。
「じゃあ」
一歩、距離を詰める。
「今度は俺の番だな」
「え?」
ヴィシュカの笑顔が止まった。
彼女が身を引くより早く、その腰に腕を回して、細い首筋に顔を寄せる。
薬草の下に沈んだ甘い匂いが、鼻腔を通ってじくじくと脳を焼く。
「……何よぉ」
声だけは、いつも通りだ。
白い肌に透けた血管が、どくどくと脈打っている。
「噛むぞ」
ローエンは横目でヴィシュカを見た。
彼女はぱちぱちと瞬きをしている。
ひどく当たり前のことを聞かれたような顔だ。
「そんなの、いちいち予告すること?」
本当に、こいつは。
「なぁに?」
「別に」
目前の肌に、犬歯を立てる。
柔らかな皮膚が歯先に押され、少しだけ形を変えた。
「……んっ」
ヴィシュカが息を詰めた。
それでも彼女は退かない。
肩に置かれた細い指にも、力は入らない。
ローエンは静かに唇を離した。
白い首に、薄い赤が一点浮かんでいる。
「……終わり?」
「は?」
「思ったより大したことなかったわねぇ」
ヴィシュカが小首を傾げて、また笑う。
せっかく止めてやったのに。
「――言ったな」
「ちょ……っ」
再び細い身体を抱き寄せ、先ほどと同じ場所に遠慮なく歯を沈めた。
ヴィシュカの身体が大きく跳ねる。
柔らかかった皮膚が、食い破られまいと抵抗を返してくる。
「いっ、たぁ……っ!」
すぐ耳元で声が弾けた。
肩をぱし、と叩かれ、ローエンは顔を上げる。
「痛いじゃないのよぉ……!」
「弱いっつったのはお前だろ」
「限度ってものがあるでしょう!?」
ヴィシュカの首筋には、今度こそはっきりと自分の歯痕が残っていた。
白の上に浮かんだ赤は、妙に目につく。
ヴィシュカはその痕を指先でそっとなぞり、じわじわと眉間に皺を寄せていく。
「残ってる」
「ちゃんと噛んだからな」
「分かってるわよぉ!」
今度は肩を両手で掴まれ、ガクガクと揺さぶられる。
「どうするのよこれ! 見えちゃうじゃない!」
「今夜はもう出かけねぇんだから関係ねぇだろ」
「そういう問題じゃなくてぇ!」
ヴィシュカは眉を吊り上げ、いかにも「怒っています」という顔をしている。
だが、暗器にも、毒にも、手を伸ばさない。
喉の奥が、勝手に渇いていく。
「……何笑ってるのよ」
「笑ってねぇよ」
「笑ってるわ」
「気のせいだろ」
「本っ当にもう……っ」
文句を言いながら、ヴィシュカはまだローエンの肩に手を置いたままだった。
――なんて、清純な頃もあったもんだ。
ローエンは居間の椅子に腰かけたまま、ぼんやりと思い返す。
遠くで小鳥がちゅんちゅんと鳴いている。
今日はよく晴れているらしい。
「ローエン……!」
「なんだよ」
「見えるところには付けないでって、いつも言ってるでしょう!?」
ヴィシュカが着替えを抱えたまま、姿見の前で悲鳴じみた声を上げている。
最近の朝は、いつもこうやって大騒ぎだ。
「あっちもこっちも噛み痕だらけよ、このケダモノ……!」
「誰かさんがもっともっとってねだるから、サービスしてやったんだろうが」
枕が飛んできた。
確かに、昨晩は散々甘やかして彼女がずいぶん素直になった頃に、しれっと言質を取った自覚はある。
だから、一発くらいはちゃんと顔面で受け止めることにした。
枕がぼふ、と間抜けな音を立てて鼻先にぶつかり、そのまま床へ落っこちる。
痛くもかゆくもない。
「ねえ、ちゃんと隠れてる? どこも見えてない?」
ヴィシュカが忙しなく自分の身体を見回し始めた。
襟元を引っ張りながらくるりと背を向け、見えもしない背中を確認しようと身体を捻っている。
「後ろも見えてない?」
「見えてねぇよ」
「ほんと?」
「ホントだホント」
普段の衣装に身を包んだヴィシュカからは、もう昨夜の気配など綺麗さっぱり消えている。
その下に何がいくつ残っていようと、誰にも分からない。
――ただ一か所。
まだ手袋に隠されていない、左手の薬指。
その付け根にだけ、小さな赤い痕がある。
「見えてねぇって。お嬢さんは隠すのが上手だからなァ」
「誰のせいよ、バカ!」
「ハハハッ。……うおっ」
また枕が飛んできた。
一発はさっき甘んじて受けてやったので、今度は避ける。
可哀想に、二つ目の枕は、ローエンの横を虚しく通過し、背後の壁にぶつかってころりと床へ転がった。
仕方ないので、最初投げられた枕と一緒に拾いあげて、テーブルの上に置いておく。
ベッドに戻すのは、帰ってきてからでもいいだろう。
「……お待たせ」
ようやく支度を終えたヴィシュカが、頬を膨らませてこちらへやってくる。
歩きながら、最後に残っていた黒手袋へ、白い指を通している。
小指、薬指。
その付け根に残っていた淡い赤も、するりと布の下へ消えた。
そこにいるのは紛れもなく、陽光の中を歩く“薬売りのお嬢さん”だ。
「……ハハッ」
「今度はなによ」
「何でもねぇよ」
「朝から変な子ねぇ」
「お前がそれを言うか」
ローエンは椅子から立ち上がり、その黒い手を取った。
指同士が自然と絡む。
「ほら、行くぞ」
扉を開ける。
足元に伸びた影の輪郭は、差し込む朝日に溶かされていった。